
故 三井利夫先生(1926~2024)
「三井ですが,難波君,片岡君,ちょっと4階まで.」
在学中,毎週のようにかかってきた教授室への呼び出し電話である.当時の三井研は研究室・実験室が1階と2階にあり,教授室は4階にあった.呼び出しの理由は,研究進捗状況の報告,議論,論文の添削,仕事の依頼,時には叱責と多岐にわたる.4階に駆け上がってドアの前に立つと速まった鼓動の大きさにいっそう緊張が増し,一息して心を落ち着かせてからノックしたものだった.三井先生は学問に対して常に真摯で厳格であった.議論においてもあいまいなことは一切許してもらえず,厳しく問い詰められた.研究室ゼミでの輪読では,Vainshtein, B. K. “Diffraction of X-rays by Chain Molecules” (1966)1),Hosemann, R. and Bagchi, S. N. “Direct Analysis of Diffraction by Matter” (1962)2),Cowley, J. M. “Diffraction Physics” (1975)3)などを,それぞれ1年以上かけて読んだ.特にVainshteinの書は4行進むのに3週間かけたことも(図1).数式の物理的意味やその導出を徹底的に理解できるまで議論を尽くした.妥協は一切許されなかった.これらの書,特にVainshteinは,その後の我々の研究のバックボーンを築く基礎となっている.その厳格さのあまり,今ならパワハラ・アカハラとされてしまいそうな発言も多々.「それ,ダメね.」と何回聞いたことだろう.何日にもわたって1対1で議論していただくこともあった.だが長時間にわたる議論・指導の後は理解度が格段に深まった.翻って自分が教授になった時,ここまで丁寧で厳密な指導ができていたか考えると忸怩たるものがある.

Vainshteinの教科書.
一方で,季節の良い春秋に京都などへ散策に出かけた研究室の遠足(図2)や海洋生物試料採取と称した夏の海水浴旅行(図3)などでは,優しい笑顔で楽しそうに皆と話をされる一人の研究者であった.遠泳がお得意で海岸沿いに長い距離を泳いでおられた姿が記憶にある.先生が北大の学生だった時,ボート部のために流体力学に基づきオールを設計したら北大が初めて優勝したのよと,笑みをたたえて話してくださったのも海水浴の宿での飲み会であった.

1973年春 仁和寺(京都)へ散策.左,研究室のメンバーと一緒に,右端が三井先生.右,三井先生のアップ.

1978年夏 白兎海岸(鳥取)にて海水浴.前列右から2人目が三井先生,後列左端が難波,右から3人目が片岡.
ただ,その真面目なご性格は際立っていて,卒業研究に初めて女子学生が配属された時など,「年頃のお嬢さんと男子学生を二人きりで暗室に閉じこもらせて大丈夫でしょうかね?」と真顔で聞くような,本当にナイーブな一面もあった.
三井先生は,強誘電体物理学の大家で物理学への造詣が深かったから,生物物理学の研究課題を物理学の演習問題と捉えているように思えることもあった.若くして強誘電体ロッシェル塩の相転移の実験観察と理論構築で優れた研究4)をされた先生は現象論に強く,晩年の筋収縮の理論にもその片鱗が伺える.一分子測定で得られた結果に基づき,ポテンシャル曲面に収縮中に数個の極小領域が現れるモデルを提唱された5)が,その後に難波がクライオ電子顕微鏡解析で解いたミオシン頭部結合アクチン繊維の構造から,複数個の弱い相互作用部位と強い相互作用部位とが一方向に出現することが明らかになり6),このモデルの裏付けになったことは先生に頼もしく思っていただいたかも知れない.晩年の三井先生は論文をお書きになるたび,我々のところにも原稿を送ってくださり意見を求められた.難波は専門が近いこともあっていつも何か意見を返し,先生はその意見も尊重して論文を修正しておられたようである.一方,片岡には難解であるとともに「美しくない」と思えたのでコメントは控え,現象論の大事さはわかりました,とお返事するのが関の山であったが.ただ「生物は揺らぎを利用して機能している」という表現は生物が第二種の永久機関であると述べているようにも受け取れるので好ましいとは思えません,ともお返事に書いた.その後に先生の物性研究の論文にこのことが書かれていて,初めて意見が一致したと思ったのは卒業後50年も経てのことだった.
学生時代に褒められた記憶はほとんどないが,学位取得就職後,先生の紫膜の相転移の論文7)のレビューが片岡のところに回ってきた.熟読の後,いくつか指摘をして戻したのだが,論文の採択前に学会で先生にお会いした時,「論文を投稿したのだがレフリーが実に好意的で,自分たちの気づかなかった点まで指摘してくれてとても良い仕上がりになった.」と親しくお話ししてくださった.「先生,それ私です.」と伝えることもできず,もし私がレフリーだと知ったらどんな顔をされるだろうと思ったりもしたが,間接的にせよ褒められたのはこの時が初めてだったので,よく覚えている.
先生にはシンクロトロン放射光の生物物理学応用にも強い思い入れがあった.その有効性に早くから着目して生物構造研究専用ビームラインの建設を多方面に働きかけられた.予備実験として田無市(西東京市)にあった東京大学原子核研究所の電子シンクロトロンに東大物性研が設置した放射光分光器を借用し,日本大学と宮城教育大学の研究グループとともに,ふた夏約2ヶ月にわたって進められた軟X線回折実験のお手伝いをしたのは,学生時代の難波の良い想い出である.超高真空をどう作るかとても勉強になった.つくばのKEKに建設されたフォトンファクトリー(PF)には,蛋白質結晶構造解析用のビームラインに加え,筋肉回折計と蛋白質溶液散乱測定装置の2本の生物研究専用ビームラインが設置された.関西地区への放射光施設建設にも尽力されSPring-8の実現に至った.中性子構造生物学の重要性にも着目されてKENSやJRR-3に生物研究が採択されるよう糸口を切り開かれた.先生が若いころ,米国留学中にBrookhaven National Laboratoyで中性子散乱実験を行っておられたことが,中性子の重要性に着目するきっかけになっていたのであろう8)(図4).このように物性物理学研究者の間に生物学研究の重要性を認めさせた貢献は大きい.そのために文部省の科学研究費補助金にて研究班を作られ,箱根などで開催された班会議に我々も連れて行っていただいた.江橋節郎先生と親しくお酒を飲み,松山容子主演の時代劇がたいそうお好きなことなど聞かせていただいたのもこういう機会があったからこそである.PFの建設が決まった際には先生が我々二人に高価なシャンパンを買ってくるよう指示され,嬉しそうに音頭を取られて研究室全員で盛大に乾杯したことを懐かしく思い出す.その後,片岡は放射光と中性子を,難波は放射光を研究に駆使することになる.これも先生の薫陶によるものである.

米国留学中の若き日の三井先生.ご遺族に提供いただいた写真.
生物物理「学」の可能性を真剣に考察されていたことも印象に残る.神経興奮のHodgkin-Huxley方程式の厳密解から神経線維の様々な性質を予言(これにかかわる三井vs松本論争は極めて興味深い)したこと,また生物系をTuring機械で表現することにより一つの基本方程式で生物機能を記述できることを示し,生物現象をはっきりした数学的骨組みの上で議論する道を開かれたことが特筆される.Turing機械に関する研究は,筋収縮と同様に晩年まで思索を深められていた.神経興奮やTuring機械を通した生物物理学の可能性に関しては,著書「生物物理学序説」9)に詳しい.なお,共著者の一人,中西健二氏は三井先生の教え子であるが,学生時代に病を得て夭折された.先生が定年退官される時,「教え子を亡くしたことが教官人生で一番つらかった」と述懐されていたのを思い出す.厳格で,褒めることも感情表現もお上手ではなかったために学生には畏怖されていたが,いつも学生のことを心にかけていてくださったのだろうと今になって思う.ご冥福を祈りたい.