生物物理
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生命現象理解へ向けたリピドミクス技術開発
時吉 花菜子竹内 愛美竹田 浩章津川 裕司
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2025 年 65 巻 5 号 p. 266-269

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Abstract

生物が持つ脂質多様性を明らかにする技術としてリピドミクスがある.我々は脂質多様性の生物学を切り開くため,前処理,クロマトグラフィー,質量分析,そしてインフォマティクスの技術開発を行っており,本稿にて最新の研究を紹介する.

1.  はじめに

生命活動を維持する上で必須の代謝物である脂質は,細胞膜の構成成分,エネルギー貯蔵物質,そしてシグナル伝達という三大機能を有する生体分子である.ヒトのような多細胞生物に含まれる脂質代謝物の種類は多様であり,国際的なデータベースであるLIPID MAPSには49,500種以上の脂質構造が登録されている1).リピドミクスは,生体内の脂質総体(リピドーム)を網羅的に捉える解析技術であり,基礎生物学から医学研究に至る幅広い分野で頻用されるようになってきた.その中でもノンターゲットリピドミクスと呼ばれる技術は,質量分析で検出されるすべてのイオンをアンバイアスに解析することで,新規脂質構造の発見や得られた代謝変動情報から新たな仮説を生成することができるため,多くの研究者が使用している.また近年,複合脂質中の二重結合位置やグリセロリン脂質におけるアシル基位置異性体の識別を行う構造リピドミクス(structural lipidomics)の手法開発も盛んに行われている.本総説では,我々がこれまで開発してきたノンターゲットリピドミクスおよび構造リピドミクスに関する研究成果を紹介する.

2.  従来のノンターゲットリピドミクスの問題点

ノンターゲットリピドミクスには,液体クロマトグラフィータンデム質量分析(LC/MS/MS)が頻用される.我々の研究グループは,分析技術の開発に加えて取得したデータから脂質情報を抽出するデータ解析プログラム(MS-DIAL, Mass Spectrometry–Data Independent AnaLysis)の開発も同時に行っている.これにより,動物・微生物・植物から5千種類を超える脂質代謝物の存在を明らかにしてきた2)-4).またノンターゲットリピドミクスは基礎生物学だけでなく,大規模な追跡研究(コホート)におけるバイオマーカー探索にも利用されており,中でも,心血管イベント診断に資するセラミドプロファイリングの有用性が報告されている5)

しかしながら,これまでのリピドミクスは1検体あたりポジティブイオンモードとネガティブイオンモード合わせて約1時間の分析時間を必要とすることが多く,コホートを行うためにはよりハイスループットな分析手法の確立が求められる.また分析の高速化は,日間誤差を抑制でき,代謝物アノテーションやデータ統合時の精度を向上させることに繋がる.一方,最適線速度域で流速を上げると理論段数が上がり,ピーク幅が狭くなる.つまり,頻用されるdata dependent MS/MS acquisition(DDA)を用いた際のMS/MS取得効率はデータポイント数の減少に伴い大幅に低下する.その問題を解決する1つの手法としてMS/MS取得時のプリカーサー選択幅を広げたdata independent acquisition(DIA)があるが,異性体以外にも共溶出した化合物のスペクトルが混在し,データ解析が複雑化することが課題である6)図1).

図1

分析時間の短縮に伴う技術課題.1検体あたり(A)合計1時間,(B)合計20分の分析時間を必要とする計測系におけるピーク幅と,DDAを用いた場合のMS/MS取得効率の違い.

3.  高速リピドミクスに資するHybrid MS法の開発

そこで我々は,MS/MS取得率は低いが着目代謝物由来のMS/MSが得られるDDAと,網羅的にMS/MSが取得できるが様々な分子量(通常は25 Da前後)を持った共溶出代謝物の混合スペクトルが得られるDIAの2つの手法を組み合わせることで高速リピドミクスを行うHybrid MS法を考案した(図27).Hybrid MS法では,日内誤差のモニタリングのため通常利用されるquality control(QC)サンプルにはDIA,生物試料分析にはDDAを適用する.QCでは各生物試料の等量混合液が用いられるため,全サンプルの代謝物が含まれることになる.我々はQCのDIA分析において(1)プリカーサー選択幅を30 Da以下に設定し,(2)5回以上のQC分析により測定対象脂質の分子量範囲(通常100~1250 Da)のMS/MS情報を取得し,(3)1ピークあたり10から20のデータポイントを取得するという制約条件のもと分析条件の最適化を行った.本研究ではDIA分析を5回実行し,各DIA分析において30 Daのプリカーサー選択幅で210 Da範囲を走査する条件を設定した.また得られたDDAとDIAデータの統合解析が可能なアルゴリズムをMS-DIALに実装した.

図2

Hybrid MS法の計測・データ解析戦略.(A)すべての生体試料の混合液をQCサンプルとして用いる.QCサンプルの計測にはDIAを利用し,高速化によって不足するMS/MSスペクトルの情報を補って取得する.一方,生体試料にはDDA法を利用して構造解析を行う.(B)複数回のDIAによるQC計測において,プリカーサー範囲を個別に設定した.

開発した手法を臨床研究で頻繁に用いられる血漿と糞便試料に適用した.分析時間を1検体あたり20分に設定した高速LCにおいてDDAのみを用いた場合は268種(血漿)と320種(糞便)の脂質代謝物がアノテーションされた一方,DDA/DIAを用いたHybrid MS法では468種(血漿)と679種(糞便)の脂質分子を捉えることができた.また,1時間を要する従来法と高速LC法で取得された脂質分子の存在量を比較したところ定量値に大きな違いは見られなかった.さらに,従来法で取得される脂質発現情報のうちの95%以上が短時間LC/MSで取得可能であることもわかった.本手法により従来法の3分の1の時間で脂質代謝物情報が得られるようになり,大規模なヒトコホート研究においても利用可能な分析化学技術として期待できる.

4.  電子励起解離を用いたリピドミクス

脂質分析で一般的に用いられる衝突誘起解離(collision induced dissociation: CID)はイオン化した分子に窒素やアルゴンなどの不活性ガスと衝突させて断片化する開裂方法であり,グリセロールなどの基本骨格や極性頭部,構成脂肪酸の組成(炭素や二重結合の数)を決定することができるが,CIDでは脂肪酸側鎖の結合位置(グリセロール骨格のSN位置)や二重結合位置(C=C位置)を解析することは困難である.

一方,脂肪酸の結合位置や二重結合位置の違いによって生体膜物性・酵素反応性・生理活性の違いが生じることから,構造異性体を見極めるリピドミクス(構造リピドミクス)を志向したフラグメンテーション技術が開発されている.例えば電子励起解離(electron activated dissociation: EAD)では一定のエネルギーを持つ電子ビームを照射することで化合物を開裂させる.脂質では骨格や極性頭部に加え,ホモリシスにより炭素間共有結合位置での開裂が観測される(図3).これらの部分構造情報を紐解くことで,リン脂質の脂肪酸結合位置やセラミドの水酸基結合位置,脂肪酸ヒドロキシ化脂肪酸の脂肪酸結合位置を解析することができる8).こうした定性フラグメントに加え,フラグメント効率に依存した定量的な情報も構造解析に有効である.例えば,二重結合の前後では電子の非局在化によって安定構造をとるアリルラジカルの生成および二重結合からγ位の水素原子の転移(マクラファティ転位)によりフラグメント効率が上昇するため,C=C位置の診断イオンに役立つ9).また,ナトリウム付加イオンでの検出も構造解析に有効である.ナトリウムは電荷密度が高く,付加位置が特定のヘテロ原子に限定される.特に糖脂質では環構造が開裂することでグルコースやガラクトースの識別が可能になる9)

図3

CIDとEAD の原理比較.EADでは化合物に含まれる炭素間共有結合を開裂することで詳細な構造を解析することができるが,CID では結合エネルギーの弱い箇所で開裂するため,部分的な構造しか特徴づけることができない.

EADにおける反応時間は100ミリ秒程度と短く,CIDと同程度のサイクルタイムで運用可能であるため,ノンターゲット分析に対しても有効な手法である.そこで,MS-DIALにEADのスペクトルライブラリを搭載し,膨大で煩雑なMS/MS情報を自動で高精度に解析するための解析基盤を構築した10).EADでは脂質構造の全容がマススペクトルとして反映されるため,クロマトグラフィーにおける構造異性体の分離精製が必要不可欠であるが,従来よりも詳細な構造情報を付与したノンターゲット解析が可能となった.

5.  高深度構造リピドミクスに資する前処理精製法

LC/MSで検出可能な濃度域は,オンカラムで数十から数千fmol程度である.一方,生体試料にはより幅広い濃度域で脂質が存在しており,依然として検出下限域を下回る脂質が数多く存在する.検出化合物数を底上げした高深度化やEAD MS/MSによる構造解析を推進するためには,装置の汚染やマトリクス効果に留意し,低強度の分子を選択的に濃縮する必要がある.

そこで,モノリスシリカ表層にチタニアやジルコニアがコーティングされたMonoSpin Phospholipid(GL Sciences)を用いた固相精製法を開発した.この固相カラムでは,シリカゲルに特有の静電的相互作用に加え,金属酸化物による配位結合によって化合物が保持される.誘電率の低いクロロホルムでは,疎水性の高い中性脂質が選択的に溶出される.メタノールでは脂肪酸代謝物や糖脂質が溶出されるが,さらにギ酸を添加してカルボキシル基やヒドロキシ基に競合させることで回収率が上昇する.リン酸基を持つリン脂質は金属酸化物と配位結合するが,ルイス塩基として働くアンモニアを添加することで競合させることができる.このように,脂質の溶解性や溶出力を最適化することで,中性脂質,糖脂質や脂肪酸代謝物,リン脂質を順に溶出させ,選択的に濃縮することができた(図411).本手法で使用する添加剤はいずれも揮発性であるため,濃縮後の除去が容易である.精製前に脂質クラスごとに内部標準物質を添加することで回収率の補正が可能であり,将来的なコホート研究への応用も期待される.

図4

段階的な脂質固相精製.静電的相互作用と金属配位結合の2次元的な分離を活用し,糖脂質とリン脂質の分画に成功した.

6.  EAD MS/MSと固相精製法による微量脂質構造解析

固相精製とノンターゲット分析を組み合わせることで,豊富な脂質種を除去し低濃度域に存在する脂質を濃縮して探索することができる.前述の脂質極性依存的な固相精製と,疎水性相互作用を持つC18担体を用いたアシル基依存的な固相精製を組み合わせ,視機能維持に重要なvery-long-chain polyunsaturated fatty acid(VLC-PUFA)含有ホスファチジルコリン(VLC-PUFA PC)を選択的に分画した.マウス眼球からVLC-PUFA PC画分を濃縮し,ノンターゲットリピドミクスに供することで,618種類の脂質を検出した.そのうち250種はCID MS/MSでは識別できない構造情報を付加することができた.特にVLC-PUFA PCでは,二重結合を6個含むオメガ3脂肪酸(32:6n-3,34:6n-3など)がSN1位置に結合していた(図510).VLC-PUFAのカルボキシル基末端はパルミチン酸のような飽和脂肪酸様構造を持つため,我々はVLC-PUFAをリン脂質に取り込む活性を示す酵素を探索する上で,多価不飽和脂肪酸を基質として好む酵素ではなく,飽和脂肪酸を基質として好む酵素に着目した.グリセロリン脂質のSN1に脂肪酸を導入する活性を持つglycerol 3-phosphate acyltransferase(GPAT)に着目し,無細胞系によるリコンビナントタンパク質を用いて検証すると,パルミチン酸と同様にVLC-PUFA PCがGPATにより生成されることがわかった.本結果は,視細胞においてVLC-PUFAがリン脂質のSN1に濃縮される仕組みの分子機序としてGPATが関与する可能性を示唆するものである10).固相精製とEAD MS/MSを組み合わせた構造解析は,脂質の機能やそれを維持するための代謝性質を解明する上で重要な技術である.

図5

マウス眼球ホスファチジルコリンの構造解析.EAD MS/MSによりn-3 VLC-PUFAがSN1位置に結合していることが明らかになった.

7.  おわりに

本稿では近年のリピドミクス技術進歩の例として,大規模ノンターゲット分析に資する高速LC/MS系,高深度構造リピドミクスに向けたEAD MS/MSや固相精製法を紹介した.今後,これらの技術の併用化が進むと,より多検体で深く脂質構造を読み解くことができるようになり,代謝や疾患に潜む生物学的メカニズムの理解に貢献することが期待される.

文献
Biographies

時吉花菜子(ときよし かなこ)

東京農工大学大学院生命工学専攻修士1年

竹内愛美(たけうち まなみ)

東京農工大学大学院生命工学専攻修士2年

竹田浩章(たけだ ひろあき)

産業技術総合研究所研究員

津川裕司(つがわ ひろし)

東京農工大学大学院工学府教授

 
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