生物物理
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談話室
キャリアデザイン談話室(32) 生物と物理,コウモリのような立場の私
石島 秋彦
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2025 年 65 巻 6 号 p. 334-336

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はじめに

キャリアデザインの執筆依頼,ということで改めて自分の研究人生を振り返ってみた.定年まであともう少しということもありちょうどいいのかもしれない.

改めて振り返ってみて,なんで自分は大学で働くことになったのか,不思議である.子供のころから特段優秀であったわけではなく,生命現象に興味があり,研究者になりたかったわけではない.ただ,プラモデル作りは父親の影響から小・中と熱中したことが,装置作りなどに影響したのかもしれない(エアブラシまで買っちゃった).ただ,なんとなく,チャンスが回ってきた方向に進んだら今のポジションがあっただけなのかもしれない.

チャンス1:中学受験

真面目に中学受験を志している人と違って,私は小6の秋に,なぜか受験しようと思い立った.その一つは,母親からの“良い成績だったらお小遣いを上げる”の一言だったかもしれない.しかも都内の超!進学校を3校受験して,見事すべて不合格(一緒に受けた小学校の友人は各学校に一人ずつ合格していた).今思えば,無謀な挑戦である.しかし,その時の蓄積のおかげで中1はまあまあの成績だった.

チャンス2:高校受験

中1の貯金も中2で早くもなくなり,成績は中の上レベル.高校受験は都立(学区制)と私立の大学付属,滑り止めの私立.なんと,滑り止めの私立に落ちた.一緒に受けた友人は合格.しかし,ダメと思っていた本命の私立になんと受かってしまった.その高校の入試の作文の課題は難しく,過去には,「めがね」,「美醜」などだったが私の時は「スポーツ」,中学時代は卓球部だったので,ラッキーだった.

しかし,さすが進学校,みんな優秀,英語もドイツ語もついていけない,現国に至っては「舞姫」を1年かけて講義を行うという独自性……しかし,物理は先生方の独自のテキストで面白かった.その時(多分アルバイトで),岡野先生(多分,当時量子力学の並木研に所属していたのでは? その後徳山大学学長らしい)の講義を受け,物理学に興味をもった.

チャンス3:大学進学

付属高校だったので,高校を卒業できればそのまま大学に進学.今思えば,大学受験をしていなかったために,英単語能力の不足がいまだに影響している.大学での学部を選ぶことになったが,当時はなぜか電子物理,建築が人気で,私は悩んだ末,物理を選んだ.これがある意味誤算で,高校の時に比べて深い深い物理学であり,ハミルトニアンですでにつまづいた……周りは同じ高校からはトップクラスの同級生,受験した学生は,東大と併願している人ばかり.結局,バイトと映画(その当時は試写会や,名画座巡り)に明け暮れる学生生活だった…物理学科の先生には,その後テレビで有名になった大槻先生(火の玉?),統計学で有名な斎藤信彦先生などおられたが,授業の記憶がほとんどない……

チャンス4:研究室配属,大学院進学

4年生の卒研配属の時期となり,またいろいろ悩んだが,最もやさしそう(これも勘違いだったが)な生物系の研究室を選ぶことになった.当時は実験系2研究室,理論系2研究室あり,当然ながら実験系を選び,2研究室の中から石渡研究室を選択した.ここからモーターたんぱく質とかかわり,40年以上かかわることになる.研究室では樋口さん(ちょうど入れ替わりに慈恵医大に行かれた)の後任という形で筋繊維の張力測定を行った.卒研はともかく,当時は大学院に行くつもりもなく(大学院試験に合格する確率はほぼ0),就職しようと思っていたら,推薦入試というシステムがあり,2/5以上の順位の成績なら面接のみで受験できるということを知った.事務で調べたら,なんと44人中18位(数字を間違えてるかもしれない),2/5は17.6位まで.事務に聞いたら……しょうがないですね(切り上げ),と! 迷わず面接を受け,無事大学院に入学できました.大学院に行ってもふらふらした生活は続き,なんとか生物物理学会(1985,北大)で口頭発表まではいけました.その当時の予稿集はなんと手書き原稿でした.まだやっとPCが導入された時代,PC-9801が主流でした.論文はワードスターに,タイプライターを接続していた時代.私は,PC-8001mkII,を買いました.これでN88-Basicでちょっとしたプログラムを書いたこともありました.

チャンス5:就職

一般的な大学の教員は,大学院進学→ポスドク・海外留学→助教・講師→准教授→教授,という道筋であるが,私の場合,博士課程は全く考えず就職活動へ.生物物理とは全く関係のない,趣味の車メーカーを希望.ここでまた不思議なご縁が.当時はバブル真っ盛りで企業も余裕があったので,基礎研究,とくにバイオテクノロジーに手を出していた.入社した会社も同様に基礎研究に手を出した.会社は動くものを作る,生物で動くものは筋肉,そんな情報を就職活動中に知り,これも何かのご縁かと感じ,無事入社した.1年間という長い研修(工場9ヶ月,販売店)後,研究所に配属,学生時代と同じ筋肉の研究を続けたが,社内の研究ではなかなか先に進めず,当時社内のボスが阪大柳田先生と知り合い,ということでちょくちょく阪大に出張.ついには2年間大阪に留学となった.

チャンス6:柳田研究室

生まれてはじめての関西,大阪.東京の人間である自分にとっては周りがすべてやくざに思える異次元状態,でも豊中は大阪の郊外であり,大阪色はそれほど濃くなかった.でも石橋の飲み屋でおかみさんから,“あんたの関東弁嫌いや!”と言われたり……

柳田研はちょうど柳田先生が教授になった時期であり,ちょうど引っ越しの最中,なので,私の最初の仕事は引っ越しの手伝い.柳田研では光学顕微鏡を使って,ガラスマイクロニードルで蛍光アクチンフィラメントを操作して,引っ張ったり,張力を測ったり,という研究を行った.柳田研での有名な仕事に,ガラスマイクロニードルによる蛍光アクチンフィラメントの顕微操作があったが,有名なNatureの筆頭著者である岸野さんはすでに卒業していて,ほかの学生も博士課程に行く予定がなかったので,私が取り組むことに.ここで幼少期のプラモデルの腕が生かされ,細いガラス棒を短くして,時間分解能を上げたり,ニードルの先端にニッケル粒子を取り付け,二分割フォトダイオードでのコントラストを上げたり,倒立顕微鏡の上に正立システムを取り付けたり,結構楽しく過ごさせてもらった.当時は顕微鏡の光学の原理も全く知らず,単に余っていた鏡筒を倒立顕微鏡の上にねじ止めしただけだったが,結構うまく投影することができた.その結果,良い論文1)も出すことができ,論博,ながら学位までいただけることになった.

チャンス7:ERATO時代

2年の契約が3年となりそろそろ会社に戻ることになったが,柳田先生がERATOをスタートすることになり会社を説得して,さらに4年半留学を延長させてもらうことになった.ERATOの時代は,樋口,船津,徳永,原田,武藤,岩根,入佐先生らという今思うとなかなかのメンバーで研究を続けることができた.

ERATO時代もガラスニードルを用いた研究を行っていたが,ERATO内ではイメージング班と計測班にぼんやり分かれており,さらに時代はガラスニードルからレーザートラップに移っていった.レーザートラップを用いたアクトミオシンの力学計測を田中裕人さん(通信総研)と行ってきた.その当時,船津さんが1分子イメージングシステムを開発し,さらに徳永さんが蛍光ATPを合成し,蛍光イメージングと力学計測の同時計測システムが立ち上がった.当時はたしか樋口さんが中心でキネシンの同時計測にトライしていたが,蛍光ATPとキネシンにアフィニティが低く,低濃度ATPでは相互作用が見られず,急遽ミオシン班である私が同時計測のご指名を受けた.そこで小嶋寛明さん(通信総研)と一緒にクリーンルームに閉じこもりひたすら計測を行った.なんとか良い結果2)を出し,ERATOでの成果となった.これも自分で構築していない,1分子イメージング・レーザートラップ系での成果であり,ラッキーであった.

チャンス8:名古屋大学時代

あっという間に4年半が過ぎ,ERATOも終了.会社に戻る時期になったが,そのころバブルは崩壊.会社も金にならない基礎研究は縮小し,会社に戻っても同じ研究を続けることが困難になってきた.その時,名古屋大学から助教授(今でいうと准教授)のお誘いがあり,12年間過ごした(といっても7年半は外だったが)会社を辞職し,またまた未開の地である名古屋に行くこととなった.人生はじめての大学教員という立場,今までは教育も外部資金の心配も何もない人生から一変.そもそも,“科研費”って何? という状況だったから.

当時は,予算もない,講義資料もない,さらには,有名な先生のもとで働いた人のあるあるだが,どう自立するか,が大きな課題であった.しかし,幸いなことに,道向こうの理学部には宝谷先生がおり,講義資料をいただくことができた(当時はOHP).さらに,本間先生というべん毛モーターの専門家がおり,同じモーターつながり,ということでバクテリアべん毛モーターの回転計測に手を出すことになった.幸い,木村さん(浜松ホトニクス),曽和さん(法政大学)と一緒に仕事をすることができ,Richard Berry(オックスフォード)の協力もあって,論文3)-5)を書くことができた.まあ,この時もイギリスから,メールが来て,“計測方法でうちの学生の寄与も大きいのでFirst Authorをうちの学生にしてくれないか”,と言われて,慌ててイギリスに飛び,なんとかFirst Authorが二人,曽和さんを筆頭,その代わり,CorrespondingをRichardに譲る,などつたない英語でなんとか乗り越えた…

助教授という立場で研究を行ったが,当時のボスら(八田先生,美宅先生)は,自由に研究をさせていただいた.感謝である.しかし,工学部応用物理学科ということもあり,周りはがちがちの物理・数学の人ばかり…… 一度ソフトマターで有名な土井正男先生と話すことがあり,“二項分布も知らないの”と冷たい目で見られたことを今でも覚えている.

チャンス9:東北大学時代

9年間名古屋大学に在籍し,後縁あって,東北大学多元物質科学研究所に教授としていくことができた.これまた人生初の東北,仙台.はじめて自分のラボをもつことになり,大阪時代の学生だった井上さん(シグマ光機),福岡さん(大阪大学)とともに研究を進めることができた.隣の研究室は齋藤正男先生(阪大基礎工H研)であり,いろいろと助けてもらった.それなりに予算も確保でき,研究環境も良かったが,研究所あるあるで,学生が来ない.2年に一人ぐらいのペース.今思うと結構よい学生に恵まれたが,東北大学で9年間研究を続けたのち,もう少し学生にかかわりたいということで,現在の大阪大学に至ることになる.

こうやって自分の人生を振り返ってみると,“これがしたい!”,と進んだわけではなく,その都度転がっていたチャンスをいただいてきた人生かもしれない.真面目に目的をもって研究者を目指す人にとっては,何の参考にもならないかもしれないし,これといった学問体系にいるわけでもない.そういう意味でも,「生物物理学」は私にはとてもあっている融合学問分野である.物理の世界では,“いやいや私は生物なもんでマックスウェルの法則なんて知らないんです”,生物の世界では,“いやいや私は物理なもんで,RNAなんてわからないです”,とコウモリのように生き延びてきたのかもしれない.もちろん,その間すべてが順風満帆というわけではなく,第二期大阪時代には,阪神・淡路大震災を経験し,東北大時代には東日本大震災を経験し,第三期大阪時代には大阪府北部地震を経験するなど,いろいろなことがあったが……

ふらふらと過ごしてきた,そういう私でも,徐々にいろいろな人からの刺激を受け,「ランベルト・ベールの法則」が理解できたり,「分光・吸光」ができたりして,学生に,「なんで北極の氷が青く見えるか知っている? 教えてあげない,自分で調べな」などとほざいていた.しかし,だんだん自分の脳の容量がいっぱいになったと感じ,“知りえたものは,吐き出さないと,新しい知識が入ってこない”ことを実感し,自分のHP6)に自分の脳に組み込まれた情報をすべて吐き出すことにした.20年近く更新し続けており,結構な量になってきた.系統だっていないし,いろいろミスもあるかもしれないが…あと2年で定年,さて,大学のHPも定年とともに閉鎖だし,どうしよう……

文献
Biographies

石島秋彦(いしじま あきひこ)

大阪大学大学院生命機能研究科教授

 
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