明るい場所から暗闇は見えない.すでに照らされた領域をいくら丹念に観察しても,そこには既知のものしかない.科学的な発見とは,必然的に暗闇の中を歩くことである(※).私は生物物理学会に入会して25年になる.四半世紀のあいだ,どうやって研究してきたかと問われれば,暗闇の中を歩いてきたのだと思う.ストーリーはいつも後から来た.先に暗闇があり,歩いた末に出口を見つけ,振り返って初めて全体が見える.
まず,暗闇への扉がどこにあるかが問題になる.どこかに扉があるはずなのに,見つからない.暗闇は向こうから来ない.じっと待っていても,扉は現れない.扉が現れるのは,とりあえず手を動かした先だ.何らかの実験や計算を行い,予想外の結果が出たとき―「なんだこれは?」と立ち止まる,あの瞬間に扉が開く.しかし厄介なことに,扉が目の前に現れても,それを暗闇への扉だと気づかないことがある.予想外のデータをノイズとして見過ごしてしまえば,扉はそのまま消える.ここには研究者としての嗅覚のようなものが必要な気がする.丁寧に観察する経験の蓄積で身につくのかもしれないし,ぼんやり考えている時間の長さが育てるのかもしれない.いずれにせよ,何かがささやくのだ.
次に,その扉の先に踏み込めるかどうかが問題である.扉を見つけることと,扉の向こうに足を踏み入れることは全く別の行為だ.「なんだこれは?」の先には暗闇が広がっている.どこに向かえばいいのかもわからない.引き返して明るい場所に戻れば,不安は消える.それでも,不安を抱えたまま一歩を踏み出せるかどうか.
そして何より難しいのは,暗闇の中を歩き続けられるかどうかである.踏み込んだ直後は,不安とともにワクワクがある.未知に触れた興奮が足を前に動かしてくれる.しかし何日も歩いていると,ワクワクは擦り切れていく.不安の方がまさり,自分がどこを歩いているのかもわからなくなる.半泣きになりながら,それでも歩いている.これは我慢だろうか.おそらく違う.我慢なら,いつか耐えられなくなって足が止まる.自分の中には,すべてのピースが揃う瞬間が必ずあるという,根拠のない確信がある.その執着だけが,暗闇の中で足を動かし続ける力になる.
そして,あるとき手が出口の扉に触れる.しかし鍵が合わない.持っている鍵を次々に試すが,どれも回らない.根拠のない確信に過ぎなかったのか.扉はたしかにそこにあるのに,開かない.鍵を削り,形を変え,何度も差し込み直す.どれだけ時が経っただろうか,あるとき,かちりと音がする.光が差し込み,ばらばらだったピースが噛み合い,すべてが一枚の絵になる.あぁ,これだったのか.恍惚と言ってもいい.それは「そこにたしかにある」という静かな確信でもある.自分が作り出したのではない.見つけたのだ.最初からそこにあったものを.私だけではたどり着けなかったことを.
(※)生物物理Vol. 57 No. 2(2017年)に掲載された巻頭言の一文に引かれ,書き始めました.