生物を研究するモチベーションには,生命の不思議,つまり,生物はなぜうまくできているのかという問題意識がある.分子生物学や生物物理学は物理的・機械論的な原理で生物を理解しようと生まれたはずだが,最近の分子生物学では,ある物質・構造は生物のある機能のために存在するという,いわば目的論的な説明も目立つように思う.それには研究費獲得のために一般人にもわかりやすい説明をするという理由もあろうが,研究者自身がそもそも生物のもつ合目的性を研究の駆動力としているからかもしれない.ことによると,目的論の何が問題なのかと考える研究者もいるかもしれない.
1970年に書かれたジャック・モノーの著作『偶然と必然』1)は,大いに反響を呼び,ベストセラーとなった(二重括弧は書名を表す).今やモノーの名を知らない若い研究者も多いかもしれないが,オペロン説の提唱者として1965年にノーベル賞を受賞したフランスの生物学者である.その内容の一般的な理解としては,「遺伝子の突然変異がもたらす偶然的な事象がもとになって,生命のしくみが必然的なものとして生まれてくる」というくらいだろうか.だが,話はそれほど簡単ではなく,筆者はこの書物の再解釈に取り組んできた(『40年後の「偶然と必然」』2)など).モノーは生物の「目的」をprojet(英語のprojectに相当するが,後述するように別の意味もある)と表現し,それを「生きること」と述べていた1),2).
モノーは分子生物学の礎を築いた一人であるが,科学的研究と哲学的理念とを一体化し,科学者の社会的責任に結びつけて考えようとした.生命は機械論的に理解できるものなのか,生命の合目的性は何に起因するのかといった哲学的な問題を社会的な問題に結びつけるモノーの論理は,コロナ禍を経て,社会と科学の関係が再構築されようとしている今日にも通じるテーマ3)である.本稿では,モノーの思索を紹介しつつ,現代にも通じる目的論の問題を提示したい.
これらの言葉がでてくるよく知られた一節は,『偶然と必然』の巻頭に引用されたデモクリトスの言葉とされるものである.「宇宙に存在するものすべては,偶然と必然の果実である」1).実は,これはデモクリトスの言葉ではない.しかしモノーはこの言葉を1967年にも使っていた.偶然と必然が対等に世界の事象を形成することになるが,これは,Guthrieによるギリシア哲学史4)で説明されたデモクリトスの説に基づいていると思われる2).
ただ,別の初期ギリシア哲学史の本5)には,デモクリトスの考えとして,原子のランダムな運動の結果,渦巻きが生じ,その中に宇宙が形成されることが必然的だと書かれている.1959年にモノーが書いたメモにも関連した記載がある6).それによれば,科学は目的論を否定すべきであって,ラクトースオペロンで誘導される酵素がもつ合目的的に見える構造と機能は,予め意図された設計によるのではなく,それぞれの分子が必要な相互作用をしているだけという.その場合,「なぜ」と問うのではなく,「何から」とだけ尋ねるべきであり,それは偶然(システムの個別の成分の寄せ集め)からということになる.こうして,モノーは,生命は偶然が必然となったものと考えた.
もう少しオペロン説に即して説明しよう.オペロン説が論文となったのは1960年以降のこと7),8)であるが,1959年は,ちょうどその準備の時期にあたり,Buc6)によれば,おそらくオペロン説を表現するために「偶然と必然」という言葉が作られたものと考えられる.つまり,ラクトースオペロンでは,オペロンを制御するラクトース(今では,異性化してできるアロラクトースがリプレッサーに結合することが知られている)と,オペロンの産物であるβガラクトシダーゼの基質となるラクトースが化学的には同じだが,これらのラクトースは異なるタンパク質に結合するもので,両者は本質的には無関係である.これをモノーは偶然と考えたとBuc6)は述べている.これは後に『偶然と必然』において「無根拠性」gratuitéといわれているものに相当するが,今でいうモジュラー性を表していたと考えられる2).要素の組み合わせ方は多様であるが,うまく働く組み合わせが選択されたことを指して,偶然から必然が生まれたと考えたようである.
これは,2番目に紹介したデモクリトスの説には合致するが,最初の引用とは異なる.時間的な順序としては,偶然から必然が生まれるという1960年頃の考えから,両者が一緒に世界を作るという1970年頃の考えへと,モノー自身が考えを変えたようである.
残念なことに,『偶然と必然』の多くの読者は,「偶然」を突然変異が生み出すDNA配列の多様性と捉えていた2).しかし,モノーの意図としては,偶然はモジュラー性を意味していた.つまり,モノーがその本を書いた理由は,オペロンのような生存の目的に適った適応的なシステムがなぜ存在するのかが,機械論的に理解できるようになったことを示すためであり,このことを指して,偶然から必然が生まれたと表現したのである.
その場合,必然というのであれば,それは,適応的なシステムが進化の結果として生じたからであろう.そのシステムがうまく機能しなければ,細胞の生存が成り立たず,うまく機能するように進化が起きるという意味でなら,必然的といえる.これを目的論と区別して,目的律téléonomieと呼ぶ2).本来なら,選択には環境の寄与が必須で,適応すべき環境そのものが目的ともみなされるはずなのだが,モノー自身は環境の役割には触れていない.
このことは実際に検証されており,遺伝子を操作することにより適応特性を逆にしたオペロンを作ると,そのままでは生存できないはずだが,リプレッサーに変異を入れていくと,結合特性が逆転したものができて,うまく適応できるようになる9).つまり,適応的なシステムが存在することは必然となる.現在では,コンピュータシミュレーションや進化実験などでも新たな形質が創発する結果が得られるので,偶然から必然が生まれるという意味も納得しやすくなっている.
生命の合目的性が偶然から必然的に生まれるという考えから一歩進めて,モノーは人間についても考えた.もともと人間がこの世に存在するのは偶然的なことであるが,これからは,科学的な客観性の倫理を選択することが人類の必然であると考えたのである1).はじめに紹介した「目的」に相当するprojetというフランス語には,「自ら将来を選択する」という,モノーも影響を受けた実存の概念も含まれていた.モノーはここでも偶然から必然が生まれると考えた.科学を客観的なものとみなし,それが人間の行動をしばる倫理にもなるという考え方は荒唐無稽に見えるかもしれないが,コンピュータに依存する現代社会を予見したものとも思える.人工知能(AI)が有用な反面,それが出す答を盲信してしまう人々も多いという現代社会が,科学的客観性を採用した結果といえるのだろうか.コロナ禍のときのように,科学が疑いの目で見られることも多くなり,今日,科学を客観的と思う人は少ないかもしれない3).しかし,合理的に設計した未来を目指すべきだと考える人もいるだろう.この場合,科学的知識に裏付けられた技術を採用することを「客観性の倫理」と表現できるのだろうか.技術という点では,AIの利用ばかりでなく,遺伝子や未分化細胞が実際に治療に利用されることが現実的となった今,これは人類の選択として,必然的なことなのだろうか.日々の研究をちょっと脇において,こうした問題について考えることも科学に関わる者の役目かもしれない.
佐藤直樹(さとう なおき)
東京大学名誉教授