日本物理学会誌
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最近の研究から
電子の電気双極子モーメント測定のための相対論的量子化学理論の開発
阿部 穣里
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2016 年 71 巻 8 号 p. 547-551

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抄録

ビッグバン理論によると宇宙誕生時には,高密度のエネルギー状態から粒子と反粒子が同数生成したと考えられている.しかしながら,現在の宇宙は粒子からなる物質のみでほぼ形成されており,どこかで粒子と反粒子の数が非対称になったと考えざるを得ない.粒子・反粒子数が非対称になるための必要条件として,荷電共役変換Cと空間反転Pを同時に行うCP変換に対する対称性の破れ(CPの破れ)が挙げられる.CP対称性破れは,小林–益川理論(標準理論)にも組み込まれており,K0中間子,B0中間子崩壊実験においても確認されている.しかしながら標準理論や既存の観測結果から推測されるCP対称性の破れの効果は非常に小さく,現宇宙の物質優勢のシナリオを定量的には説明できない.したがって標準理論とは異なるCPの破れを含む新しい理論や,その証拠となる物理量の観測に興味が持たれており,その一つの候補として素粒子の電気双極子モーメント(Electric Dipole Moment: EDM)の観測が挙げられる.

素粒子に非ゼロのEDMが存在すると仮定すると,EDMは粒子のスピン軸に沿って定義される(左図参照).EDMがスピン軸に平行と仮定し,この状態に時間反転操作を行うと,スピンの向きは反転する.一方EDMは電荷×距離の次元を持つため,時間反転の影響を受けない.時間反転操作前後を比較すると,EDMの向きがスピン軸から測って真逆になるため,T反転操作で物理描像が変化している.つまりEDMを非ゼロの値で観測できれば,T対称性の破れが観測されることになる.また,CPT定理を仮定すると,T反転はCP反転と等価であることから,EDMの観測はCP対称性破れの観測を示す.EDMの観測としては中性子,陽子,電子などの素粒子やそれらの複合粒子に対して幅広く試みられているが,核スピンゼロの常磁性原子や分子においては,電子に起因するEDMに絞って観測することができる.

ただし,直接1電子のEDMが測定できるのではなく,電子EDM(de)と周囲の電場との相互作用エネルギーが観測量となる.また,この電場に相当する量(分子においては特に有効電場Eeffと呼ばれ,分子内の核や電子が作る電場に起因する)は,相対論的量子力学に基づく電子状態理論からのみ計算可能である.したがってこの研究は,“原子・分子の電子状態理論”,“原子分子分光”,および“素粒子理論”の3つの異なるフィールドの共同研究で成り立っている.

分子を対象とした実験は原子に比べて歴史が浅く,これまで報告された有効電場を求める理論研究は,多くの近似を含んでいた.そこで我々は,4成分ディラック法を基にした一体レベルで厳密な相対論法を用い,また,電子状態理論の金字塔とされる結合クラスター(Coupled Cluster: CC)法に基づいた有効電場計算プログラムを開発した.本手法をYbF分子に対して適用し,有効電場を23.1 GV/cmとして決定した.さらに,有効電場が大きいほど実験感度も向上するため,大きな有効電場を持つ分子を探して提言している.

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