2017 年 72 巻 7 号 p. 503-508
銀河団は数100もの銀河からなる,ダークマターの重力に支配された巨大な系であり,宇宙初期のさまざまな条件がその中に仕込まれているため,銀河団の進化の過程を知ることは,宇宙全体の構造進化,化学進化,熱的進化を正しく理解する上で欠くことができない.X線撮像観測により,銀河団の進化の過程は決して静かなものではなく,特にペルセウス座銀河団中心部では巨大楕円銀河NGC 1275がジェットとして大量のエネルギーを銀河団に放出しているらしい様子も見えてきた.しかし,ガスがどれほどの速度の乱流状態にあるのか,その一部が集団運動している場合,速度構造はどうなのかなどの情報はほとんど得られてこなかった.電波や可視光で行われてきたように,ガスの運動を知るためには分光観測が必要であるが,X線領域では分光そのものの技術的な難しさが問題であった.
X線の新たな分光手段としてマイクロカロリメータが開発されてきた.この検出器は約5 eV(FWHM)という高いエネルギー分解能を実現し,これまで使われてきたCCDの30倍ほどに性能を上げる.その検出原理は,X線が入射することによる素子のわずかな温度上昇を抵抗変化として読み出すことにある.エネルギー分解能は素子内のフォノン数のゆらぎで決まるが,極低温ではフォノンのエネルギーが1 meV程度にすぎないことが高い分解能につながる.一方,マイクロカロリメータを動作させるには50 mKという極低温が要求され,そのための冷却システムを衛星に搭載することには並大抵でない難しさがある.
「ひとみ」衛星は,X線分光によりガスの運動を測定するとともに,硬X線から軟ガンマ線を高感度で観測することで,熱化の過程と非熱的な粒子へ行くエネルギーとを統一的に解明することを目指し,8年もの歳月をかけ国際協力によって開発された.2016年2月17日のH-IIAロケットによる打ち上げ後,観測装置の立ち上げがほぼ完了した3月26日に通信異常となり,最終的に機能回復を断念するに至ってしまった.しかしペルセウス座銀河団は最も長時間観測され,我々が「ひとみ」に期待していたような驚くべきデータをもたらしてくれた.銀河団を満たす約4,000万度の高温プラズマから鉄のK輝線スペクトルをとらえ,それを共鳴線,禁制線などの異なる量子状態間の遷移に分解し,各輝線の幅も10 eVもの高い精度で分解することに成功した.
ペルセウス座銀河団に対して,中心の電波銀河NGC 1275の近くを除き,中心から15万光年の範囲の高温ガスについて,輝線の形をガウス関数で合わせた.検出器のエネルギー分解能(FWHMで4.9 eV),鉄イオンの熱運動の視線速度(同じく約4 eV)を差し引いた結果,ガスの乱流速度の視線成分は164±10 km s-1(誤差は90%信頼範囲で1.65σに相当)という値が得られた.乱流による圧力は,ガスの熱力学的な圧力の約4%にすぎないことになる.また中心の電波銀河NGC 1275の近傍でも,乱流の視線速度は187±13 km s-1とあまり大きな値を示さないことがわかった.
このように,ペルセウス座銀河団の中心領域ではガスの乱流が極めて低いレベルに留まっていることがわかり,電波銀河のジェットがどのように高温ガスの加熱へエネルギーを伝えるのかについて新たな問題を提起した.