日本物理学会誌
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最近の研究から
有機半導体のフォノン分散
若林 裕助濱田 幾太郎筒井 智嗣
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2023 年 78 巻 3 号 p. 135-139

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抄録

格子振動は固体の最も基本的な性質の一つであり,比熱や金属の電気抵抗の主たる要因である.これを量子化したフォノンは単に教科書的な話題に収まるものではなく,電子との相互作用を通して超伝導をはじめとする様々な現象を引き起こす,近代的な研究のあちこちに現れる重要な概念である.

教科書的な扱いでは,フォノンは原子がバネで繋がったモデルで説明される.しかしすべての物質がこの見方でよく近似されるわけではない.分子性結晶はその代表例で,異方的な構成要素,すなわち分子が,弱い分子間の相互作用で繋がっている.理論的には固体中での弱い分子間相互作用を精度良く記述することは容易ではなく,実験的にフォノンを観測することで分子間の相互作用に対する多くの知見が得られると期待される.このような観点から分子性結晶のフォノンは興味深い測定対象である.

フォノンが分子性結晶の物性にどう影響するかも重要な問題である.弱い分子間の相互作用のために熱振動の振幅が大きくなることを考えると,より硬い無機物質とは異なる,フォノンの影響が強い物性があるべきだろう.

分子性結晶の中での電子の振る舞いは,異方的な分子軌道が,隣接した分子間での軌道の重なりの大きさに応じたとび移り積分をもつ形で理解される.そのため,多くの物質で構造と電子的な性質が強く関連していることが知られている.格子振動に注目すると,個々の分子の変形(分子内振動)によって分子軌道のエネルギーを変える効果と,分子間の距離や角度が変わること(分子間振動)によってとび移り積分が変わる効果が定性的にも予期される.定量的な計算も行われ,例えば中性分子のみからなる分子性結晶(有機半導体)の中には高い移動度を示すものがあり,それらの電気伝導にはフォノンが強く関与すると信じられている.これは無機半導体との伝導機構の違いを端的に示す特徴である.しかしながら有機半導体のフォノン分散を直接観測した例はほとんど無く,近代的な高移動度有機半導体に関する測定例は皆無であった.そこで我々は,最もよく研究されている代表的な高移動度有機半導体であるルブレン(C42H28)のフォノン分散測定を試みた.

分子性結晶のフォノンを測定するには,いくつかの困難がある.数百本のブランチの存在のほか,フォノン分散の測定法で最も長い歴史をもつ中性子の非弾性散乱を利用するためには物性にしばしば影響が出てしまう重水素置換が必要であること,1 cm3程度の試料体積を要することが挙げられる.我々はこの困難を,放射光による非弾性X線散乱法を活用することで回避した.X線を用いるため重水素化は不要で,厚さ0.1 mmの結晶で充分な信号強度が得られる.ブランチを判別するために,密度汎関数理論による固有振動モードの計算と,実験室X線装置による熱散漫散乱の測定を活用し,特定のブランチの情報が得やすい測定条件を求めた.これにより,すべての音響モードと,それに繋がる数本の光学モードの分散測定に成功した.この測定の中で,短波長の格子振動で期待される分子内振動と分子間振動の混成が単位胞の10倍程度の波長でも既に生じている可能性を示唆する結果を得た.

この測定によって,分子性結晶のフォノン分散,ひいては分子間力を実験的に計測できることを示した.今後,本質的にフォノンが重要な役割をする現象を正しく記述するため,分子性結晶のフォノン分散測定が広く行われるようになると期待する.

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