2013 年 18 巻 2 号 p. 109-110
本特集では、まず、わが国の代表的な森林を構成する樹木について、近年の分子生物学の情報によりどのようなことが見えてきたのかを、森林総合研究所の津村義彦氏に「日本列島の樹木の遺伝的なりたちと保全」と題して全体的なレビューをお願いした。これまで、わが国の人工林は、ほとんど針葉樹のみを対象としてきており、そのため地域性を考慮した苗木の移動制限などの育種法が作られているが、広葉樹についてはまだ確立していなかった。近年は、広葉樹類についても遺伝的な解析が進んできていることから、温帯林の代表する落葉広葉樹類について、名古屋大学の戸丸信弘氏に「日本に広域分布する落葉広葉樹における遺伝的多様性と集団遺伝構造」と題して執筆していただくことにした。針葉樹類については、陶山佳久(東北大学)と津村義彦(森林総研)に「針葉樹の遺伝的多様性」と題して執筆していただいた。日本の西部地域に分布しているシイ・カシなどの照葉樹林と呼ばれる、常緑広葉樹については,これまであまり研究が進んでいなかった。今回、斬新な手法によりブレークスルーした研究の最前線を、首都大学東京の青木京子・村上哲明両氏に「照葉樹林の遺伝的多様性と分布変遷:植食性昆虫の分子情報も利用して」と題して書きおろしていただいた。
希少種の問題としては,希少種を保全する上で重要な,遺伝構造や地域性などについて、森林総合研究所の金指あや子氏と吉丸博志に「日本における希少樹種の現状と保全」と題したレビューをお願いした。また、京都大学の井鷺裕司氏には,残存個体すべてのジェノタイピングにより、より有効な保全を行うことを目指して、「全個体遺伝子型解析による絶滅危惧植物の保全」と題して最近の成果を報告してもらった。この2編は、環境省地球環境保全等試験研究および環境省環境研究総合推進費の研究成果にもとづいている。
続いて,森林に生息する動物の代表として、ほ乳類について、山形大学の玉手英利氏に「遺伝的多様性から見えてくる日本の哺乳類相:過去・現在・未来」と題してレビューをお願いした。わが国のほ乳類は、大陸と同じ亜種も多いが、日本固有種もいる。生物地理学では重要な研究材料であったが、さらに分子生物学的手法により、新しく見えてきたほ乳類の過去現在未来が興味深く解説されている。
最後に、森林昆虫をとりあげる。森林の生物として昆虫類は欠かせないものであるが、あまりにも膨大な種類がおり、また様々な遺伝的多様性についての仕事があるため,それだけで特集がいくつも組めてしまうほどである。そこで、今回は、特に樹木と密接なかかわりをもつ昆虫類についての最近の研究を、森林総合研究所の加賀谷悦子氏に「森に棲む昆虫の分子生態:森・虫・ひとの関わり」題して報告してもらった。これは、マツノマダラカミキリやカシノナガキクイムシなど、近年わが国で重大な被害をもたらしている害虫の問題を、分子生物学的手法と加害樹木との相互関係から被害がどのように広がっていったのかについて、推定したものである。常緑広葉樹をめぐる青木氏の研究が、樹木の分散課程を推定するために昆虫を用いたのとは、ちょうど裏側の形となっている。植物研究者と昆虫研究者がそれぞれ逆の方向から進んで,同じところに行き着いたというところであろうか。
今回は,琉球列島の問題などはとりあげなかったし、森林と遺伝的多様性に関しては、まだまだ多くの興味深い研究があるわけであるが、残念ながらすべてを網羅することは不可能であろう。
遺伝解析技術は、次世代シーケンサーが出現して、飛躍的にその処理能力が増し、少し昔ならば躊躇してできなかったことでも、今後は比較的安価で容易にできるようになる。遺伝情報は,長い時間をかけて,それぞれの種の中に蓄積されてきた記録ともいえる。それらを解析することにより、過去を再現することも可能となってきている。それらの成果がわが国の生物多様性の保全や持続的利用に欠かせない技術と情報になっていくことは、間違いないであろう。
一方で,この特集から、生きものは常に流動的であり、ダイナミックに変動しながら生存していることが見えてくる。そして、今や人為的な影響が無視できないほど日本列島の彩りを乱してきている。外来種問題は,言ってみれば、美しい彩りに醜いシミを作るようなものである。日本列島を彩っている、生きものたちの多様性の綾錦が、今後どのようになっていくのか、どのように保全したらいいのかを考えていくためにも、その時点ごとの状況を的確に把握し、時間の経過と自然の移ろいを記録していくことが重要なのである。