智山学報
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Akutobhayāと青目釈『中論』をめぐる諸問題
安井 光洋
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キーワード: Akutobhayā, 無畏論, 青目
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2016 年 65 巻 p. 0343-0360

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抄録

    Akutobhayā(ABh)と青目釈『中論』(『青目註』)はどちらもNāgārjuna の主著Mūlamadhyamakakārikā(MMK)の注釈書である。ABh はチベット語訳のみが現存しており、『青目註』は鳩摩羅什による漢訳のみが伝わっている。この両者は互いに共通した記述が多く見られることで知られる。また、羅什の弟子僧叡による『青目註』の序文では、羅什が『青目註』を漢訳する際、その内容に加筆・修正を施したことが記されている1)。そのため、漢訳以前の『青目註』はABh により近似していた可能性も考えられる。
 このような関係性を持つ両者を比較する際にもっとも大きな問題となるのが、羅什による修正箇所の特定方法である。ABh と『青目註』には共通した内容も多く見受けられるが、その一方で互いに異なった解釈を示している例も少なくない。しかし、そのような相違点が必ずしもすべて羅什による修正ではなく、原典の時点ですでに相違していた可能性も考えられる。
 よって本稿においては『青目註』に見られる、ある特徴的な漢訳方法をきっかけとして、ABh との解釈の相違について論じてみたい。その特徴的な漢訳方法とは「偈を分割しない」というものである。MMK ではいずれの偈も4 つの句(pāda)で構成されており、ABh をはじめ多くのMMK 注釈書ではこの偈を途中で区切り、その間に注釈を挟むという形式が頻繁に用いられている。
 しかし、『青目註』では偈が途中で分割されるという例は一つもなく、いずれも偈全体を挙げてから注釈を施すか、もしくはまったく注釈をしないという形式になっている。そのため、ABh が偈を分割して注釈を施している場合、同じ偈に対する注釈であっても『青目註』では記述が異なっている。つまり、ABh が偈を分割して注釈することが、両者の相違を生む一つのきっかけとなっているのである。
 約450あるMMK の偈の中で、ABhでは50 以上の偈が分割して注釈されている。そして、前述の通りそれらの偈に対する注釈はすべてABh と『青目註』で記述が異なっており、それによって両者の間で大きく異なった解釈が生じているという例も存在する。
 偈を分割するというこの手法が数あるMMK 注釈書の中で広く一般的に用いられているものである以上、ABh との類似が目立つ『青目註』のみが原典の時点ですでにこの手法を一貫して省いていたとは考えにくい。
 以上の点からこの手法が『青目註』において採用されていないのには羅什による意図が反映されていると考えられる。それはつまり、原典では分割されていた偈が漢訳の時点で羅什によって再度まとめられるという「編集」が行われていたということになる。そして、その際には当該偈の注釈部分についても、一つにまとめられた偈に沿うよう新たな解釈が加えられている可能性が高い。よって今回はそれに該当するものとして第6章および第13章から例を挙げ、ABhと『青目註』の解釈の相違について検討していく。

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2016 智山学報
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