智山学報
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65 巻
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  • ーその試論的論考ー
    河波 昌
    2016 年 65 巻 p. 1-14
    発行日: 2016年
    公開日: 2019/02/22
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        仏教は智慧と慈悲との宗教である。両者は相互に不可分に交渉しながら知慧論は智慧論として、慈悲論は慈悲論として限りなく深められていった。
     智慧論も釈尊の正覚の事実の上に展開せられてゆくことになり、それはやがて顕教における四智として、また密教における五智論として展開せられていった。四智とはいわゆる大円鏡智、平等性智、妙観察智、成所作智の四であり、密教における五智はこれら顕教の四智を統合する法界体性智を加えて智の体系を構成する。この五智は金剛界曼荼羅の立場において展開される。
     大円鏡智は四智、五智を貫いてその根幹をなすものと考えられる。
     大円鏡智を含めて四智等の成立は名義的ないし概念的にはインド大乗仏教史の展開においても比較的後期に成立した『仏地経』 Buddhabhūmisūtraにおいて初めて登場する。(玄奘訳『仏説仏地経』大正十六巻所収)。
     一般に四智論は唯識思想の立場において論じられる場合が殆どであるが、四智論自体は恐らくそれとは無関係に、そして唯識関係に対しては先行する形で成立していたことが考えられる。『仏地経』には唯識思想の展開がまだ考えられず、むしろそれ自体として成立している。とはいえ瑜伽唯識を実践する人たちにとって、かかる提示された四智はそのまま実践の目標となってゆくのであり、それがやがていわゆる「転識得智論」(『成唯識論』等)として展開されてゆくことになる。
     もちろん四智論等は唯識関係にとって重要であることはいうまでもないが、『仏地経』の展開にもみられるように四智論はむしろ、それ自体として独立に考えられるべきであろう。
     本論は四智論、中でも「大円鏡智」自体をその生成、成立において考えようと試みるものである。その際、左のような成立の背景ないし展望が考えられる。本論はそれらを左記のような章において考えようと試みるものである。
     第一章 釈尊における大円鏡智成立の原型
     第二章 『仏地経』以前の先行経典における大円鏡智思想の展開
     第三章 大円鏡智成立の風土論的背景
     第四章 東西文化の出会いを背景として成立した無限円 (大円鏡智)
     第五章 近代における大円鏡智論の展開ー山崎弁栄の場合

    以下はその論考である。
  • 福田 亮成
    2016 年 65 巻 p. 15-30
    発行日: 2016年
    公開日: 2019/02/22
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        ここに取上げた日秀の『印可内証』は、先師亮教和尚の書架に以前より蔵せられていたものであった。この写本をいったいどのようにして所蔵することになったのかは師より聞くことはなかった。師は事相に興味を有し、特に事相に関しては祥細な小型カードをたくさん残しており、声明の知識も豊富であった。恐らくそのような興味の一端が本写本入手の動機だったのであろう。
     ここで本写本の体裁について記しておこう。全体は八頁ほどのもので、外題に「印可内証」。内題は「印可内証」。下に、日秀法印記之とある。五紙、仮綴じ、竪帳である。そして、サイズは縦24センチ、横17センチ。諸紙は10行22字前後である。そして、末尾に、
      享保十六辛亥季拯月六日夜更豊山於槙樹軒書写之畢 信州
      尊応
    とある。享保十六年は、西紀1731年、江戸幕府八代将軍吉宗(1684ー1751)の時代である。
  • 平井 宥慶
    2016 年 65 巻 p. 31-48
    発行日: 2016年
    公開日: 2019/02/22
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  • 田中 純男(海量)
    2016 年 65 巻 p. 49-62
    発行日: 2016年
    公開日: 2019/02/22
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        仏滅直後の仏教教団のあり方を考えてみたい。釈尊は紀元前383年に入滅し、アショーカ王が前268年に即位したという説に拠るならば、この115年間という時代が考察の対象となる。したがって、仏滅直後とは、ここでは滅後100年頃までとしておきたい。
     この100年という時間の隔りにおける教団の歴史的変遷をさまざまな角度から検討することが必要となろうが、先にアショーカ王時代の仏教について、特に舎利信仰に着目して考察したが、そこでその時代すでに舎利信仰が何らかの形をとって存在していたことを見た(1)。本稿ではさらに、舎利信仰が発生してくると思われる歴史的、地理的環境を探るために、アショーカ王の時代より少し遡り、やや詳しい検討を加えてみたい。確たる資料が乏しいため、断片的情報を繫ぎあわせての推測ともなりかねないが、あくまで事実と考えられる事柄を中心に考察することにしたい。
  • 那須 政玄
    2016 年 65 巻 p. 63-76
    発行日: 2016年
    公開日: 2019/02/22
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        哲学と宗教の決定的な違いは、哲学は単なる学問であるのに対して、宗教はその教理をもって社会の中で人々を「救済」するということにある。それ以外には、両者に決定的な相違があるわけではない。哲学と宗教との違いは、宗教人にとっては自らの場の確保のために決定的なことである。この違いは宗教人の哲学に対する宗教の優位の指標であり、あるいはまた宗教人の哲学に対する偏見を示すものでもある。哲学的でありつつも社会性をもたざるを得ない宗教は、哲学に対して決定的な弱点をもってもいるし、またそのことが哲学に対する優位をもってもいる。宗教は自らの孤高にとどまることを許されないのである。もし宗教が孤高に留まるならば、それは宗教ではなく哲学である。
  • 西村 実則
    2016 年 65 巻 p. 77-82
    発行日: 2016年
    公開日: 2019/02/22
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        インド文献で摩耶夫人にふれるものは少ないわけではない。仏伝文学はむろん、阿含経典、アビダルマ論書、『華厳経』などに見ることができる。しかし摩耶夫人が述べたことばを記したものは数少ない。そうしたなかで仏伝文学に位置づけられる『仏本行経』にはブッダと摩耶夫人との対話がみられ、わずかながらも夫人の言葉を認めることができる。『仏本行経』の作者は不詳であるが、ブッダの誕生から入滅まで三十一章から成り、馬鳴作『仏所行讃』と同じく全編詩で構成されている。中国で劉宋年間(376ー449)に宝雲によって訳された。宝雲は伝(1)によると、涼州出身で、中央アジアのコータン、さらにインドを歴訪し、サンスクリットをも体得した仏者である。建康の西北に近い山寺、六合山でこの経典を訳出した。宝雲にはこの経典以外に、仏陀跋陀羅との共訳である『無量寿経』や『華厳経』(六十巻本)がある。
     一見すると平易な漢文にみえるが、決してそうではない。その第二十一章「昇忉利宮為母説法品」の現代語訳を試みてみよう。
  • ー災害における言葉ー
    白石 凌海
    2016 年 65 巻 p. 83-102
    発行日: 2016年
    公開日: 2019/02/22
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        「津波は天罰」
     このように発言したのは、東京都の石原慎太郎知事(当時)である。
     東日本大震災の発生は平成23年(2011)3月11日。その3日後、蓮舫節電啓発担当相から節電への協力要請を東京都内で受けた後、記者団に語った、その主旨である。
     翌日の毎日新聞(3月15日付け)は、三段抜きで「石原氏〈津波は天罰〉」を見出しに掲げ、取材の記者は「〈天罰〉と表現したことが被災者や国民の神経を逆なでするのは確実だ」と批評し、発言の重要性を指摘した。都知事とて、出し抜けに「津波は天罰」と語ったのではなく、かかる発言に至るにはそれなりの道筋がある。しかしそれは背後に追いやられ、ことさら「津波は天罰」だけが注目されたのである。
     同日(15日)、石原知事は先の発言を謝罪し、撤回した。
     読売新聞(3月16日付け)の報道する見出しは小さく、「〈天罰〉発言を都知事が撤回〈深くおわび〉」とある。同紙はまた「都によると、この発言に対してメールや電話による意見や抗議が殺到していた………」と伝えている。
     記者団を前に公言した、その言葉を翌日には「深くおわび」して「撤回」するとはいかなる事態なのか。同席した記者が、聞く者の「神経を逆なでするのは確実」と危惧したように、事実、抗議が殺到した。だからひとまず謝罪したのであろうか。
     いずれにしても以後、続報が紙面に表れることなく、一件落着したようである。

     一方、しばらくするとどこからともなく、次の言葉が巷に浮上してきた。
      「しかし 災難に逢(あう)時節には 災難に逢(あう)がよく候
      死ぬる時節には 死ぬがよく候 是(これ)ハこれ 災難をのがるゝ妙法にて候」
     越後の良寛の言葉である。
     ここで災難とは文政11年(1828)に発生した地震であるから、こちらは二百年ほど前に残された言葉が、今日、人々に思い出され流布したのである。

     大災害に襲われ、それこそ様ざまな言葉が出現、飛び交った。あるものはすでに衰退するも、あるものは現在なお生気を失っていない。
     本論は「災害における言葉」に関心を寄せ、仏教的観点から言葉が如何なる働きをなしているのか、すなわち転法輪との関係を論究する試みである。
  • 武内 孝善
    2016 年 65 巻 p. 103-126
    発行日: 2016年
    公開日: 2019/02/22
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        去る平成27年1月14日に開催していただいた最終講義の席で、高野山大学密教文化研究所から刊行されている『定本弘法大師全集』(以下、『定本全集』と略称す)について、改訂作業を継続しておこなうべきことの必要性を、つぎのように申しあげた。

    ①『定本全集』に深くかかわった者として、最後に一言申しておきたい。それは、『定本全集』を高く評価して下さる方がおられるのも事実であるけれども、本当に「定本」と称することができるか、と問われたとき、私は躊躇してしまう、と正直に申しておきたい。
    ②なぜか。それは「定本」と称するに値する手続き・編纂過程を踏まえて完成したものではない、と考えるからである。あの時点では、最善の方法がとられたともみなすことができるけれども、より完成度の高い、本当に『定本全集』と称するに値するものにするためには、今一度、手を加えるべきである、と考える。
    ③『定本全集』を編纂したときの基本は、古写本を博捜し、蒐集した写本のなかで最善本を底本として翻刻し、それに校合本との語句の異同・相違を註記する、というものであった。確かに、これらの作業をおこなうだけでも大変なことではあったけれども。
    ④では、どこに問題があるのか。それは、語句の校異は記しているけれども、空海が書いた時点ではどの語句であったのか、オリジナルな形はどれか、といった、一つ一つの語句を吟味し確定する作業がなされていないことである。この本文の確定作業には、一つには教理・教学の広い知識・視野を踏まえた内容上からの検討が、いま一つは漢文の文法上からの検討が必要となろう。
    ⑤このように考えると、一人の人間がおこなうことは不可能に近く、チームを組んで検討し確定する作業を進める方が、よりよい成果があがるであろう。そうすると、ここにいう『定本全集』の改訂作業は、密教文化研究所でやっていただきたい、いな、やるべき責務があるのではないか。
    「定本」という呼称に相応しい、より完成度の高い「全集」との観点にたったとき、『定本全集』所収の『遺告25ヶ条』(以下、『御遺告』と略称す)の本文には、いくつか気になる点のあることが判明した(1)。『御遺告』には、活字本が『定本全集』をふくめて3本あるけれども、『定本全集』が信頼できないとなると、われわれは信憑性の高い『御遺告』原文に接することができなくなってしまうのである。
     ともあれ、『定本全集』所収の『御遺告』についての若干の疑義を記すとともに、最善本の刊行についての私案をのべてみたい。
  • ー弘法大師の思想への接点を求めてー
    本多 隆仁
    2016 年 65 巻 p. 127-140
    発行日: 2016年
    公開日: 2019/02/22
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        釈摩訶衍論(以下、釈論)に体相用の三大が説かれていることは周知の如くである。三大は大乗起信論(以下、起信論)に説かれ、釈論が起信論の注釈書であることを思えば、釈論に三大が説示されていることは当然である。
     ただ起信論所説の三大と釈論所説の三大は同じ意味をもつとはいえない。釈論には釈論独自の三大の捉え方がある。心の真如に体相用の三大を釈論は認めている(1)。釈論の三十二法門を検討することで、心の真如に体相用の三大があることがわかる(2)。すなわち三十二法門と三大とは深く関わっている。
     三十二法門は不二摩訶衍法と対比できる内容である(3)。そして三十二法門も不二摩訶衍法も釈論の特徴的解釈の一つである。ここでいう特徴的解釈とは起信論の代表的な注釈書等には見られない考え方、そして用語のことである。
     釈論の思想を体系的に捉えることは難解である。釈論の立義分解釈にはそれを解く鍵があると考えている。当然、釈論の特徴的解釈は釈論の思想を捉えるのに重要な示唆を与えるものと思っている。
     そこで釈論の三大を検討して、釈論の思想の一端に迫っていき、そして釈論所説の体相用の三大から釈論の構想を考えてみたい。
     釈論は起信論の注釈書である。したがって釈論の三大を検討するにあたっては、もちろん起信論の三大を検討しなければならない。体相用の三大の初出は起信論であるので、起信論の思想体系の三大の意味を探るのは重要であると考えられる。特には起信論の衆生心、心真如、心生滅、三大の関連を検討し、釈論の三大を起信論の体系に戻し解釈して、釈論の三大の意味を探ることにする。釈論は起信論の体系に不満をもち、釈論の思想の一端を特徴に表現していると考えるからである。
     さらには釈論の体相用の三大についての考察は、弘法大師空海が即身成仏義において体相用の三大を即身の論理展開に利用している点を思えば、本稿が即身成仏思想、さらには弘法大師の思想解明の一端にも繫がっていくことになるであろう。本稿でその為の重要な視点が得られればと思う。
  • 苫米地 誠一
    2016 年 65 巻 p. 141-158
    発行日: 2016年
    公開日: 2019/02/22
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        奈良・平安期の日本仏教界における諸宗兼学は、大きく分けて「制度的な問題としての兼学」と「重層的(包摂的)な兼修という事態」とが存在する、と考える(実質的には鎌倉期まで含まれるが、室町期以降については、現在の筆者には把握できていないので、今は取り上げない。ただし「制度的な兼学」が機能しなくなっていたとしても「重層的(包摂的)な兼修という事態」は近世末まで継続していたと思われる)。ここでいう「制度的な兼学」とは、太政官符などによって知られる朝廷の律令制度(格)上の問題として規定される諸「宗」を兼学することである。しかし一方では、それとは異なる形で諸「宗」を重層的(包摂的)に位置づけた諸宗の兼学・兼修という事態が存在する。この問題については「宗」の語の意味を含めて、まだ十分な議論・認識がなされていないと思われる。この問題については、筆者も以前に少しく述べたことがあり(1)、また堀内規之氏(2)も触れておられるが、今回はそれらを踏まえた上で些か再考したい。
     ところで日本史学では、仏教が日本に伝えられた当初に「三論衆」「法相衆」と呼ばれていたものが、後に「三論宗」「法相宗」に変ったと説明されることがある。これは「宗」と「衆」とが同じ意味であることを前提とする。しかしこのような説明は、日本の史料の中のみで作られた理解であり、仏教が中国から伝えられたことや、当時の中国仏教界で「宗」の語がどのような意味であったのか、という問題を無視した議論と言えよう。或いは当時の日本人が、新しく伝えられた中国仏教について、その教理についても、教団的在り方についても、全く理解できなかったと言うのであろうか。少なくとも中国仏教において「宗」は教の意味であり、衆徒を意味する用法は見いだせない。即ち「三論衆」「法相衆」とは「三論宗(を修学する)の衆徒」「法相宗(を修学する)の衆徒」の意味、その省略形であり、そのことは当時の日本においても十分に了解されていたと考える。
     既に田中久夫氏(3)は鎌倉時代の仏教を区別するに当り「鎌倉時代に天台宗といえば、天台の教学を意味し、教団の意ではない。それゆえに、天台宗・真言宗などと呼び、教団史的に区別するのは実態に相応しない」として「現実に存在したのは、南都北嶺と真言密教の教団(寺院)と地方におけるそれらの末寺である」と指摘しておられる。もっとも南都(東大寺・興福寺)は真言宗僧が顕教諸宗を兼学する寺院となっており、決して南都と真言密教の教団(寺院)とを区別することは出来ない。どちらにしても諸宗の兼学は奈良時代の南都仏教に固有の問題ではない。平安時代から江戸時代に至るまで、以下に論ずる「制度的な兼学」と「重層的(包摂的)な兼修」の問題は別にして、諸宗の兼学・兼修は、全ての僧尼にとって日常的なものであった。そもそも「宗」が教理・信仰の意味であることを前提として、初めてこの諸宗の兼学・兼修ということが理解できる、と考える。
     「宗」を人(衆=教団)と見る理解は、明治時代に西洋的法概念が導入され、そこで定められた宗教法人法によって規定された宗派教団に対する現代的常識によって成立した理解であろう。明治期以降の宗派教団は「法人」の概念によって、夫々に独立した組織(宗教法人)を形成し、その教団名として「宗」の語を冠した。このことが古代における「宗」概念にも影響を及ぼし、何ら反省されることなく適用されてきたのであろう。しかし江戸期以前の日本仏教界では、そのような概念も組織も存在しなかった。存在したのは「宗」を同じくする者の寺院の本末関係であり、本寺が末寺を支配する、その関係が「宗」を同じくするが故に「宗=教団」が存在するように見えるのかも知れない。しかし「出家得度の儀礼に拠って入門する教団」という意味において「教団」というものを捉える時、その「教団」は四方僧伽としての出家教団でしかありえない。中国・日本において「宗」の相違は問題とはされず、同じ四分律による授戒が行われてきた。たとえ叡山の大乗戒壇が允許され、大乗菩薩戒(金剛宝戒)によって大僧(比丘)に成ることが認められたとしても、四分律か菩薩戒か、の相違によって「宗」が異なることにはならなかった。則ち「宗」毎に別箇の教団が存在する訳ではない。インド仏教において、部派によって異なる律を受持し、授戒が行われたとしても、全国を遊行した彼等は、同じ精舎に同宿し、同じ托鉢の食事を分け合っている。ただ夏安居の終りに行われる自恣のみは、同じ部派の者同士が、精舎内の別々の場所に集まって行ったとされる。これは受持している律の本文・内容が部派によって異なるからではあるが、それ以外の場面において、部派の相違が「教団」的な相違を示すことはない。それは同じ「四方僧伽という教団」内の派閥的・学派的相違に過ぎないからであろう。確かに日本では、沙弥(尼)戒・具足戒の受戒制度が崩れ、その意味では正しい四方僧伽への加入が成立し得ていないという問題が存在するかもしれない。それにしても朝廷によって補任される僧官(僧綱)は、諸宗の相違を越えて僧尼全体を統制する機関であった。僧綱位が後に名誉職化して僧綱組織の実体が無くなり、仏教界における権威(又は単なる名誉)としての機能しか持たなくなったとしても、その補任に「宗」の相違を問うことはない。
  • ー埼玉県指定重要文化財眞観寺聖観音立像を例にー
    櫻庭 祐介
    2016 年 65 巻 p. 159-174
    発行日: 2016年
    公開日: 2019/02/22
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        眞観寺は埼玉県行田市小見に所在する新義真言宗の寺院で、小見眞観寺古墳を背にして建っている。宝暦元年(1751)に当時の住職秀亨によって書かれた『小見郷眞観寺縁起』によれば、東北の蝦夷の鎮圧に活躍した坂上田村麻呂が開創したという言い伝えがあることが述べられている。
     本報告で取り上げる聖観音像(写真1、2、3、4)は山門を入って正面に建つ観音堂に安置され、60年に一度、午年に開扉される秘仏である。今年の7月31日、眞観寺御住職中村重継師のご厚意により聖観音像の調査をする機会を得たので、奈良美術研究所が所有するⅩ線CTスキャナーを使用して得たデータをもとに、平安時代後期の仏像の作品中極めて特異な一木正中割り矧ぎ技法の様相について述べたい。
  • ー『辯顕密二教論』を起因としてー
    中村 本然
    2016 年 65 巻 p. 175-194
    発行日: 2016年
    公開日: 2019/02/22
    ジャーナル オープンアクセス
        真言宗の開祖弘法大師空海(774ー835、後は空海と略す)は、『辯顕密二教論』(後は二教論と略す)を著して、当時の仏教界に真言密教という新たなる教理を問うことになる。『二教論』において空海は、『金剛頂瑜伽金剛薩埵五秘密修行念誦儀軌』をはじめとする五経三論を所依として思想的構築を試みている(1)。
     この度の論考では冒頭部分に散見する「楞伽法仏説法の文、智度性身妙色の句の如きに至りては、胸臆に馳せて文を会し、自宗に駆りて義を取る。惜しいかな、古賢醍醐を嘗めざること(2)」の一文に注目し、中でも『大智度論』が明示する教説に関する空海の思想的な取り扱いに焦点を当てることにしたい。
     筆者は既に「楞伽法仏説法の文」とある『入楞伽経』の法仏説法説と『釈摩訶衍論』の教説とを比較検証することにより、空海の法身説法説の思想的な変遷について論及している(3)。
     本報告では『大智度論』の教説の特徴について、前の拙論と同様に『釈摩訶衍論』を視野に入れた検討を行ってみたいと考えている。『大智度論』に関しては『大毘盧遮那経疏』を通じて、密教経典を象徴する『大毘盧遮那成仏神変加持経』をより詳細に釈するに際して重要な役割を果たした論であることを承知している。
  • ーとくに二教一論八箇の証文を中心にー
    大塚 伸夫
    2016 年 65 巻 p. 195-208
    発行日: 2016年
    公開日: 2019/02/22
    ジャーナル オープンアクセス
        近年の画期的な研究の一つといえる勝又俊教氏によれば(1)、弘法大師が『即身成仏義』を著したのが六大思想を導入し始めたころであると特定して、伝統的な説(弘仁10年前後の成立)に対し異を唱え、同書の成立年代を弘仁末から天長初年(823―24)ころと推測している。筆者も勝又説の手法と成立年代説に同意するものであるが、その後の先行研究においては勝又説に批判的な研究もある(2)。ただ、こうした歴史的な成立問題を議論するのも大事であるが、本稿では空海が密教経軌を取り上げて密教の成仏に言及する箇所に注目し、『即身成仏義』自体の構成について考察してみたいのである。というのも、空海が入唐求法より帰朝し、『御請来目録』を奉進してから『即身成仏義』を著すにいたる過程で、空海自身の成仏に関する密教経軌への解説内容が変遷しているように思えるからである。端的にいえば、入唐より帰朝後間もない当初は単純な速疾成仏の強調に過ぎなかったものが、弘仁8(817)年ころを契機に、密教の成仏に関する解説の中に筆者のいう「心的成仏(仏智)」と「身的成仏(仏身)」の両面を強調するようになってきた傾向が認められるからなのである。本稿では、こうした空海の密教経軌に対する解説の変遷を確認することによって、『即身成仏義』に関する史的なアプローチというより、空海の密教経軌に関する解説特徴から見えてくる『即身成仏義』の構造的な問題を検討してみたいのである。
  • 北尾 隆心
    2016 年 65 巻 p. 209-224
    発行日: 2016年
    公開日: 2019/02/22
    ジャーナル オープンアクセス
        弘法大師空海(774~835)が入唐して恵果阿闍梨(746~805)より胎蔵と金剛界との両部の密教を授かったことは空海の『請来目録』に掲載されており、有名なことである。
     本論では、この恵果の密教を空海はどのようにみておられたのか、ということを中心に論じることとする。
  • ー大村西崖著『密教発達志』訳注研究(五)ー
    元山 公寿
    2016 年 65 巻 p. 225-242
    発行日: 2016年
    公開日: 2019/02/22
    ジャーナル オープンアクセス
        本研究は、大村西崖(1868~1927)によって著された『密教発達志』を書き下して、現代の研究成果を参考にしながら、詳細な注記を加えることを目的としている。本論文は、昨年までに発表したものの(1)続編で、第一章の「教の興りより隋に至るまで」の第35節「仏陀跋陀羅の訳経」の第10項「兜率天」(底本の73頁)より、第38節「東晋の失訳経」の第九項「即事而真」(底本の90頁)までである。
     大村は、この中で、さまざまなインドの神々の論究を通して、インドの宗教文化と仏教とが、相互に影響を及ぼし合っていた様子を、漢訳文献にとどまらず、おそらくは『マハーバーラタ』やプラーナ文献などのインド文献の情報をもとに描き出している。このことは、河口の、大村の研究が漢訳文献のみに基づいているという批判(2)は当たらないように思われる。しかし、大村が実際にサンスクリットの文献を利用していたとは考えにくいことから、こうした言及は、おそらくは西洋での研究成果を参考にした分析であったであろう。こうしてインドの宗教文化が仏教の中に取り入れられていった姿を明らかにした上で、大村は、密教の発生が世俗を仏教に引き入れるための「古徳済世の大慈悲」であるという。この見解は、栂尾(3)や松長(4)なども同調しており、権田も「此の段、稍々密教の意を得ると雖も、若し密教を以て古徳大慈作成と為さば、即事而真、当相即道の義に契わざるにあらざるなき歟(5)」と、疑問を呈しながら、ほぼ同意している。
     以下に、訳注に当たっての凡例を記す。
    凡例
    1、大村西崖著『密教発達志』(国書刊行会、1972覆刻)を底本とした。
    2、旧漢字は、当用漢字に改めた。
    3、書き下すに当たって、可能な限り、大村の返り点にしたがい、適宜、段落分けをした。
    4、大村による割り注は( )で示した。
    5、経典名や著作名には『 』を、引用文には「 」を附した。
    6、人名には、可能な限り{ }によって生没年、国王の場合は在位を補い、インド名が附されていない場合には、そのインド名を補った。
    7、地名に関しても、可能な限り{ }によってインド名、及び現在の地名を補った。
    8、年号に関しても、{ }によって西暦年を補った。
  • 小笠原 弘道
    2016 年 65 巻 p. 243-258
    発行日: 2016年
    公開日: 2019/02/22
    ジャーナル オープンアクセス
        大幢信海(1783ー1856 以下、信海と略記)は、近世後期、智積院、根来寺などで活躍し、嘉永3年(1850)9月、智積院第三十七世能化に就任した学匠である。
     稿者は、以前、智山書庫所蔵の聖教、とくにその筆写本の奥書から、いつごろ、誰による写本がどのぐらい収められているのか整理分析し、それをもとに近世智積院の修学状況について考察したことがある(1)。その際、聖教筆写本の点数を調べると、信海写本が元瑜(1756ー1826 江戸円福寺住職)のものとほぼ同数で最も多く、ついで隆瑜(1773ー1850 智積院第三十三世)、海応(1771ー1833 智積院第三十二世)など歴代能化の筆写本の多いことが判明した。
     ところで、この信海について、林田光禅師(2) は、
    第三十七世信海僧正は俱舍唯識を海応能化に学び、両一乗を経歴上人に承け、元瑜弘基龍肝の諸徳に従って野沢諸流を受く。文政六年初めて俱舎を講じ命名京洛に高し、同九年請によりて大仏養源院に唯識述記を講ずるや、諸宗の所化集るもの三百有余人、同十一年義林章を講ずるや聴衆堂に溢る、天保五年紀州公の請によりて根来に移るや、先づ四方を勧発して楼門を建て楼上に羅漢及び仁王尊等を安置す、即ち現存の根来大門是なり、此間に於て山内及和歌山に在って俱舍唯識を講じその名南紀に高し、世に海応信海の両哲を以て智山に於ける俱舍の双璧と称す。
    と、海応と共に俱舎論に精通した著名な学匠であったと評している。しかし、このように著名な学僧で、数多くの聖教を筆写し、しかも能化に就任しているにもかかわらず、その事績についてはあまり明らかにされていない(もっとも、これは、近世後期のほとんどの学僧にいえることであるが)。
     そこで、本稿では、唯一の伝記である体応記『信海大和上年譜』(以下、『年譜』と略記(3))に見られる得度から能化就任までのいくつかの記事を取り上げ、それらについて智積院所蔵の聖教、次第、記録などにより考察、検証しながら、断片的ではあるが信海の事績(とくに学僧としての活動)をできうる限り明らかにしてみようと思う。
  • 早川 道雄
    2016 年 65 巻 p. 259-274
    発行日: 2016年
    公開日: 2019/02/22
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        『釈摩訶衍論』(以下釈論と呼称する)の巻第二は、『大乗起信論』(以下起信論と呼称する)の解釈分冒頭における一心二門の記述を主な解釈の対象としている。その略説分において釈論は、起信論の真如門を高く評価すると同時に、厳重な制限付けを行ってもいる。それはおそらく真如門を軽視するということではなく、大乗仏教思想の粋である真如門をさらに凌ぐ真理である不二摩訶衍法の存在が想定されているからである。釈論にとって不二摩訶衍法は、それ以前の既成の真理概念を全て相対化する、新たな転法輪のごときものであったと筆者は推測する。そしてこの推測を前提とする時、釈論の幾つかの難解な記述の解釈が可能になると思われる。本論は具体的な事例に即してこの解釈を展開するものである。
  • 小林 靖典
    2016 年 65 巻 p. 275-294
    発行日: 2016年
    公開日: 2019/02/22
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        真言宗には、新義古義を問うことなく「一乗経劫(1)」なる算題があり、その内容は、一乗教、すなわち天台と華厳は三祇遠劫を経て成仏(経劫)するのか、それとも頓証成仏(不経劫)なのかを論ずるものである。『密教大辞典』の「イチジョウキョウゴウ 一乗経劫」の項目には、「新古を通じて学者多くは経劫論者なれども、まゝ不経劫を唱ふる者無きに非ず」と述べて、学匠の立論において相違があったことが知られ、〈経劫論者〉〈不経劫論者〉〈調和説〉のそれぞれに立つ代表的な学匠を挙げている。その中で中性院頼瑜(1226~1304)だけが、初期では経劫説に立ち、晩年では不経劫説に立つとして、その生涯において経劫説から不経劫説へと変遷したことが記述されている(2)。しかし、本当にそのような変遷があったのか、筆者は疑問に思うところである。何故なら、頼瑜は自身の著作を完成させるまでに、最初の稿が成ってから、時を経て改めて再治や加点を施すのであり、その段階で、自身における一乗の経劫と不経劫との齟齬が生じているのであれば、どちらか一方に統一したはずであるから。
     そこで本稿では、本当に頼瑜において経劫説から不経劫説への変遷があったのかを今一度確認すること、そして、もし変遷がなかったのであれば、頼瑜は経劫と不経劫とのどちらの立場であったのかを、明らかにすることを目的とするものである。
  • ー浄土に「還る・帰る」という表現をめぐってー
    曽根 宣雄
    2016 年 65 巻 p. 295-304
    発行日: 2016年
    公開日: 2019/02/22
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        そもそも浄土に「還る・帰る」という表現は、浄土から来たということを前提にしないと成立しないものである。平成21年3月21日には、勧学会より「往生浄土の解釈について」という答申が出されそこには、
    浄土宗としては、往生の後に成仏するということが絶対であるため、「浄土(極楽)に(へ)帰る(還る)」という表現を用いることを不可といたします(1) 。
    と記されている。浄土宗の立場は、勧学会の答申以外のものではあり得ず、ことさらに論ずるべきことはないといえよう。その後、平成26年に大本山百万遍知恩寺布教師会の主催で、この問題を改めて考える研修会が開催され、その際に筆者も講師の一人として参加させていただいた(2) 。本論では、法然上人(以下、祖師の敬称を略す)の「還る・帰る」の使用例を整理し、この問題について考察してみたい。
  • 田中 悠文
    2016 年 65 巻 p. 305-320
    発行日: 2016年
    公開日: 2019/02/22
    ジャーナル オープンアクセス
        智山では、本山の月次の御影供や報恩講の導師の修法をはじめ、各寺院における多様な法会や自行の場合においても、他の尊法にくらべて『不動法』所修の頻度がきわめて高いことが指摘されている(*平成27年3月28日、総本山智積院改訂発行『不動法』巻末の智山講伝所布施浄慧上座阿遮梨のあとがき参照)。

     本稿では、智山本『不動法』の特色の内、次第の体裁、「十九布字観」加用の根拠、「散念誦」の五大明王列次の異同、ならびに同次第の本山における所用例について考証する。
  • 堀内 規之
    2016 年 65 巻 p. 321-336
    発行日: 2016年
    公開日: 2019/02/22
    ジャーナル オープンアクセス
        『大正新脩大蔵経』図像部に、撰者不詳として『九会秘要抄』と題される著作が脩られている。これまで、『九会秘要抄』の撰者について論じられることはなかった。筆者が、済暹教学を研究するのに当たって、海恵撰述による『密宗要决鈔』を精査したところ、『密宗要决鈔』に済暹の撰述書として「九会秘要抄」と題される著作が海恵によって引用されていた。この小論では、両者の比較検討を中心に撰者の特定、さらには『九会秘要抄』の内容について、些か論じてみたい。
  • ー教舜記『胎蔵界口傳抄』三巻を中心にー
    布施 浄明
    2016 年 65 巻 p. 337-358
    発行日: 2016年
    公開日: 2019/02/22
    ジャーナル オープンアクセス
        さて、本論文集にて「転法輪」をテーマとされましたが、事相上この語彙を拾っていくと、先ず、「転法輪法」が挙げられる。これは、調伏法の一つで、転法輪菩薩を本尊とし、怨敵を摧破することを目的とする。転じて国家安穏の為に修される秘法である。摧魔怨敵法、摧一切魔怨法とも称される秘法である。
     また、『胎蔵界念誦次第』や『引導法』などに転法輪印明があるが、これは、説法の義である。仏の説法により衆生の煩悩を払拭する為にこの印言を結誦する。胎蔵法では、釈尊の八相成道にそって展開されるが、その目標は釈尊の説法を聞いて修行し、釈尊と同じ状態(悟り)になることである。行位で見れば、果である金剛界曼荼羅の法を修し、金剛で堅固な世界(智)を獲得し、因位曼荼羅である胎蔵法を修し、佛果獲得の第一原因である佛性の存在を所依とし展開され、両部不二を成就することにより、自利利他の行を満足するのである。したがって真言行者が志すのは、自己を見つめ自心も成仏の可能性を秘めていることを確認することから大日如来の究極の智慧を獲得し、それを説法することが使命となろう。行法の中でも再三にわたり三業を清浄にする場面があるが、その中でも両部の法では最初にある護身法、その後に金剛界では浄三業、佛部心三昧耶、蓮華部心三昧耶、金剛部心三昧耶、後被甲、胎蔵界では、入佛三昧耶、法界生、九方便、転法輪印、擐金剛甲印と改めて護身法次第が組み込まれている。
     そこで本論では、特に胎蔵界念誦次第を焦点にして、幸心流憲深口決である教舜記『胎蔵界口傳抄』三巻を翻刻しながら、その中でも「転法輪印」を焦点とし、憲深の口伝を検証し、胎蔵界行法におけると転法輪の位置づけを考察したいと思う。尚、本文中では憲深の御口と教舜の質問を区別して表記した。( )は割り注を表す。
  • 小峰 智行
    2016 年 65 巻 p. 359-374
    発行日: 2016年
    公開日: 2019/02/22
    ジャーナル オープンアクセス
        真言声明の伝承や記譜法の分析をする上でしばしば問題になる理論として「反音」がある。四種類あるとされるこの「反音」については、『魚山蠆芥集』として幾つかの版が知られる真言声明の譜本の巻末にも、「四種反音図」が記されており、これらは転調や移調について示したものとして今日理解されている。確かに広い意味での転調・移調ということであるなら異論はないが、近年の多くの研究者はこれを特に16世紀のヨーロッパに端を発する基礎的な和声学、機能和声の論理や用語で説明しようとする傾向があるように思える。そもそも声明は単旋律無伴奏ユニゾンであり、和声法の概念が無い。もちろん、西洋音楽の楽典で用いられる用語や理論を適用して、声明の理論を考察することは大変有効である。しかし、それらを声明の音楽理論に正しく適用するためには、現在我々が一般的に聞いたり演奏したりしている現代の音楽のほとんどが、和声の機能によって調性が確定される音楽であり、我々は自然とその論理に支配されているということを意識する必要があると考えている。
     そもそも音楽とは理論ありきのものではなく、音楽理論はその理解や分析、整理、伝承、そして普及などのために後から発展したものである。それは言語が意志伝達の手段として必然的に発生し、後に文字や文法によって整えられてきたという事実と同様である。そのような意味で楽譜とは言語における文字であり、音楽理論は文法であるともいえる。そしてそれらは言語、あるいは音楽が同じ様式を保ちながら普及する上で不可欠である。しかし、言語がそうであるように、音楽もまた日々変化している。従って、例えば中古日本語の文法と現代国語文法が異なるように、声明に必ずしも現代の音楽理論をそのまま適用することはできないのである。
     我が国における声明は奈良時代に始まり平安時代に発達したとされている。当時の中国ではすでに音楽理論が整えられ、7世紀に始まる遣隋使の派遣以降、楽曲や楽人と共に日本に輸入されていくこととなる。我が国においては、701年の大宝律令制定時には雅楽寮が設置され、組織的な音楽・舞踊の教習・演奏が行われるようになり、これが雅楽の起源となったことはよく知られている。一方、この時代のヨーロッパではグレゴリオ聖歌が普及し、記譜され、そして教会旋法が整えられた。アジアでもヨーロッパでもこの時代の音楽はモノフォニーかその変種であり、音楽理論も音律・音階・旋法に関するものである。従って声明の音楽理論もまた、そのような視点から考察する必要がある。
     筆者は拙稿「四智梵語の反音(1)」で、声明における「反音」について「旋法の変化」あるいは「旋法の移動」という表現を用いて考察を試みた。しかし調査や知識の不足のため、多くの課題を残した。本稿はこれを補うとともに、主に旋法の視点から声明の音楽理論を考察するものである。それにあたって、基礎的な音楽理論と旋法論について述べなければならないが、これらは一般的な楽典に加え、音楽学者である東川清一氏による旋法論や分析のための方法論を参考にしていることを一言添えておきたい。
  • ー光明真言をかたちにー
    粕谷 隆宣
    2016 年 65 巻 p. 375-388
    発行日: 2016年
    公開日: 2019/02/22
    ジャーナル オープンアクセス
        寺院は全国におよそ75,000(1)あるという。コンビニよりもはるかに多いその数は、しばしば「次世代の新しい教化」の有力インフラとして、語られることがあったと思う。
     葬式仏教と揶揄されるがごとく、教化活動を行っていないとの批判やお布施(金銭)の問題、散骨、直葬、家族葬等々、昨今は次から次へと寺院に関する問題が浮上している。その中で七万五千という「その数」は魅力的であり、有効に活用していく方法が種々考えられてきた。寺院危機や僧侶不信が叫ばれて久しい現在、寺院自体が何か新しい方策のもと、自ら救世主となる道を模索するためである。
     しかし、この希望的観測とは真逆に「寺が消えてゆく」時代が間近に迫っているのかも知れない。
     2015年5月に発刊された『寺院消滅ー失われる「地方」と「宗教」ー』(鵜飼秀徳著 日経BP社)は、2ヶ月後の7月時点ですでに四刷。この種の書籍では異例の部数といえるだろう。この状況は世間(寺院側も含まれる)が、まさに「寺が消えてゆく」ことを実感しつつある証左と受けとることもできる。
     「25年後、高野山真言宗では40%の寺院が消滅する」(同上書、163頁)。この衝撃的なデータは、今後、仏教界がきわめて厳しい時代を迎えることを象徴している。確かに方々で過疎化の問題が取りあげられ、それに伴って寺院運営も厳しくなっていくことは承知していたが、これほどの予測が立てられていたのはショックである。ショックというよりも他人事でない。
     「だからこそ、寺院存続のため有効な教化方法を」と考えるのは極端かも知れない。何より過疎化という社会変動に、仏教界がすべて足並みをそろえるのは不可能だと思う。しかし、こうなっていくと予測されていながら、何も考えず、ただ素知らぬふりをしているというのもいかがなものか。
     そこで、今回は標記のタイトルで、今後の真言宗の教化について考えてみることにする。これを具現化する機会は「いつでも、どこでも、いたるところに、みち溢れている(2)」はずだが、まずは、その前提となる教理基盤をおって、密教精神を共有していきたい
  • ー関西大学図書館蔵『大師河原紀行』(『一日之柴折』)翻刻ー
    高橋 秀城
    2016 年 65 巻 p. 389-400
    発行日: 2016年
    公開日: 2019/02/22
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        ここに翻刻紹介する「大師河原紀行」(写本)は、江戸時代後期の歌人であり僧侶であった白蓉軒桂豁(はくようけんけいけい、1783?~1831。以下、桂豁と略記する)が、文政6年(1823)3月15日に、厄除弘法大師、川崎大師として広く知られる真言宗智山派大本山金剛山金乗院平間寺を参詣した際の紀行文である。
     今回使用した写本には、「大師河原紀行」の他にも「大房村紀行」「深大寺紀行」「雑司谷紀行」「釣上紀行」といった五つの紀行文が収められており、原表紙外題には『一日之柴折』と書名が記されている。
     「大師河原紀行」を含む『一日之柴折』について、『日本古典藉総合目録』には次のようにある。
      統一書名  一日の柴折(ひとひのしおり)
      巻冊  一冊
      分類  紀行
      著者  白蓉軒/桂豁(白蓉軒/桂谿)
      成立年  文政年間
      著作注記  〈般〉大房村紀行・深大寺紀行・雑司谷紀行・大師河原紀行・釣上紀行を収む。
      国書所在  【写】学書言志(手稿本(1) )
     所在に見える「学書言志」とは、中国文学者・書誌学者の長澤規矩也(1902~1980)の書斎号「学書言志軒」を表す(2)。『一日之柴折』には、号であった「静盦(せいあん)」の落款が押されていることから、長澤規矩也の蔵書であったことが分かり、現在は関西大学図書館長澤文庫の一本として所蔵されている。
     「大師河原紀行」は、分量三丁と短い作品ではあるが、江戸時代後期の川崎大師参詣の一端が垣間見える貴重な史料であり、また、これまで未紹介でもあることから、本稿では全文を翻刻紹介する(3)。また「大師河原紀行」には、道すがら詠まれた十九首の和歌も書き留められており、桂豁という旅人についても若干の考察を試みたい。
  • ー智積院蔵『醍醐祖師聞書』を手がかりとしてー
    宇都宮 啓吾
    2016 年 65 巻 p. 453-472
    発行日: 2016年
    公開日: 2019/02/22
    ジャーナル オープンアクセス
    稿者は、前稿(1)において、智積院新文庫蔵『醍醐祖師聞書』(53函8号)について、次の二つの記事を手掛かりとしながら、

    ○頼賢の法華山寺での活動
    (略)遁世ノ間囗ノ/峯堂(法華山寺)ニヲヂ御前ノ三井寺真言師ニ勝月(慶政)上人ノ下ニ居住セリ/サテ峯堂ヲ付屬セムト仰アリケル時峯堂ヲハ出給ヘリ其後律僧ニ成テ高野山一心院ニ居其後安養院ノ/長老ニ請シ入レマイラセテ真言ノ師ニ給ヘリ  (6裏~7表)

    ○頼賢の入宋 遍知院御入滅ノ時此ノ意教上人ニ付テ仰テ云ク我ニ四ノ思アリ遂ニ不成一死ヌヘシ 一ニハ一切經ヲ渡テ下●酉酉ニ置キタシ二ニハ遁世ノ公上ニ隨フ間不叶●死スヘシ 三ニハ法花經ヲ千部自身ヨミタカリシ不叶 四ニハ青龍寺拝見セムト思事不叶頼賢申テ云ク御入滅ノ後一々ニ四ノ御願シトケ申サル其後軈遁世セリ軈入唐シテ五千巻ノ一切經ヲ渡シテ下酉酉ニ經藏ヲ立テ、納也此時意教上人ハ青龍寺拝見歟不見也御入滅後三年ノ内千部經ヨミテ結願アリ四ノ事悉ク皆御入滅後叶給ヘリ(6表~6裏)
    主として、以下の如き四点について指摘した。

    ①智積院新文庫蔵『醍醐祖師聞書』は、従来、奥書の類による確認でしか叶わない、意教情人頼賢の高野山登山前の法華山寺での活動や頼賢入宋の記事を含む新発見の「頼賢伝」資料として位置づけられる。
    ②法華山寺慶政を頼賢の「ヲヂ御前」とする記事から頼賢と慶政との関係の深さが確認できると共に、別の箇所では「意教ノ俗姓ハ日野(ヒノ、)具足也」(5裏)とする記述の存することから、頼賢の出自についても新たな資料が得られる。
    ③②を踏まえるならば、本書が慶政の出自に関わる新資料の提示ともなっていることから、慶政を「九条家」出身とする従来説との関連を考える必要が存し、その意味で、慶政の出自に関する再検討が俟たれる。
    ④本書の「頼賢伝」(頼賢の入宋と法華山寺慶政との関係)は、意教流、特に、東寺地蔵院流覚雄方相承の中において伝えられていたものと考えられる。また、本書が、家原寺聖教の一つであることから、家原寺を拠点とした律家側の資料として文章化されたものと考えられる。

     前稿においては、新たな「頼賢伝」資料の提示を中心とした、本書の紹介に主眼が存したため、本書の成立の背景や本書の記事を手懸かりとした分析には至っておらず、この点に関する検討の必要性を感じる。
     そこで、本稿においては、本書分析の一つとして、本書の成立の〝場〟について考えると共に、本書の記事を手懸かりとした東山と根来寺とを巡る問題についても検討したい。
  • 我妻 龍聲
    2016 年 65 巻 p. 473-500
    発行日: 2016年
    公開日: 2019/02/22
    ジャーナル オープンアクセス
        声明では宮が主音である。声明に限らず邦楽では宮を主音として取り扱う。しかし宮を常に主音として取り扱うのは日本だけの習慣で、中国(志那)では例えば商を主音とすれば商調、羽を主音とすれば羽調といった様に五音すべてが主音になり得る。中国では宮は音階の一構成音であり必ずしも主音という訳ではない。しかし日本では宮調以外の何々調といった場合はすべて主音を宮に置き換えて取り扱う。日本に於いて宮は音階の構成音と言うよりも主音という意味合いが強い。従って声明に於いても宮が主音である事に議論の余地は無いのだが、智山声明に於いて宮は終止音でもなく核音となる働きもなく、主音として働いている形跡が見あたらない。智山声明ではむしろ徴と商が主音として働いていると考えられる。本稿では音の働きから智山声明の旋律と音階の構造を観察してみたい。
  • ー『仏光観次第』を中心としてー
    小宮 俊海
    2016 年 65 巻 p. 501-514
    発行日: 2016年
    公開日: 2019/02/22
    ジャーナル オープンアクセス
        京都栂尾高山寺の中興開山である明恵房高弁(1173~1232)(以下、明恵)は、鎌倉時代前期において華厳教学の興隆に努めたが、自身の実践体系は光明真言信仰の勃興に象徴されるように多分に密教的要素も含まれていた(櫛田良洪[1964])。明恵がその実践に光明真言を重用する理由は、自身の華厳教学と矛盾なくその修養に相応しいものと考えたためである。
     本稿では、明恵の密教観を探求する観点から、その著作にみられる五大願について検討したい。またこれらを通し、合わせて明恵の煩悩観を考察する一助となればと考える。
     通常、金剛界立の密教修法次第において発願として登場する五大願であるが、その成立には顕教で登場する四弘誓願との関係が従来から指摘されている。明恵の五大願においても重要と考えられるためそれらも視野にみていきたい。
  • ー『二教論』に引用される『五教章』の解釈を中心にー
    鈴木 雄太
    2016 年 65 巻 p. 515-532
    発行日: 2016年
    公開日: 2019/02/22
    ジャーナル オープンアクセス
        聖憲(1307~1392)は頼瑜(1226~1304)の加持身説を継承し、新義真言教学を大成させた。そのため、頼瑜と並んで「瑜公・憲公」と尊称されるなど、新義真言宗にとって極めて重要な人物の一人である。しかし、頼瑜に比べ、聖憲に関する研究(1)は少なく、聖憲自身の思想が未だ解明されているとは言い難い。また、真言宗学においては、聖憲は多くの場合、「頼﹅瑜﹅の﹅教理を継承し」「頼﹅瑜﹅の﹅新義真言教学を大成させた」などと紹介され、どうしても頼瑜の継承者という印象に留まってしまう(2)。
     聖憲の代表的な著作に、『大疏百条第三重(以下『大疏第三重(3)』)』がある。これは『大日経疏』に関する頼瑜以降の未整理で膨大な論義の算題をまとめたものである。そのため、この著作から、聖憲が頼瑜の思想をいかにして受け止めたのかを窺い知ることができる。聖憲の学風は基本的には頼瑜の加持身説を継承しており、『大疏第三重』においても加持身説の立場に立つところが大きい。しかしその一方で、頼瑜の思想と異にする部分(4)も見られ、聖憲自身の教理を垣間見ることができる。また、聖憲は真言教学とともに、諸宗の教学も研鑽している。なかでも、久米田寺の盛誉(1273~1351)から華厳教学を学び、『五教章聴抄(以下『聴抄』)』を撰述しており、聖憲の中で華厳教学が重要な位置を占めていたことが窺える。
     さて、聖憲自身の思想を探るためには、あるキーワードを掲げ、それに対する頼瑜と聖憲の言及を比較していくことが一つの方法であろう。空海(774~835)の『弁顕密二教論(以下『二教論』)』には、『華厳五教章(以下『五教章』)』が引用されている。聖憲には『聴抄』が、頼瑜には『二教論指光鈔(以下『指光抄』)』や『二教論愚草』があり、両者はそれぞれの著作の中で『五教章』を註釈している。『二教論』において、『五教章』の引用箇所は華厳宗に対するものであり、そこでは「果分不可説」や「初発心時便成正覚(5)」がキーワードとなっている。
     そこで本稿では、頼瑜と比較しながら、『大疏第三重』や『聴抄』を中心に、聖憲の華厳教学の受容について考察し、聖憲自身の思想の一端を明らかにしたい。
  • 小崎 良行
    2016 年 65 巻 p. 533-552
    発行日: 2016年
    公開日: 2019/02/22
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        『尊勝仏頂脩瑜伽法軌儀』(以後、『尊勝儀軌』『大正蔵』973番)は「三蔵善無畏」や「三蔵善無畏奉詔訳」と記され、善無畏訳として伝わっている。しかし、『大正蔵』における対校本では「三蔵善無畏、弟子喜無畏集」「釈善無畏」とされており、善無畏の撰述として伝わっていた痕跡も見受けられるため、ただちに善無畏訳とも言えない。さらに言えば『開元録』(『大正蔵』2154番)・『貞元録』(『大正蔵』2157番)に記載がないことから善無畏の手によるものということさえ疑わしい。
     『一切経音義』には「開元十年壬戌歳、善無畏三蔵訳出、仏頂尊勝瑜伽念誦法両巻(1)。」と記されており、これによれば『尊勝儀軌』は善無畏訳であり、その訳出は開元10年(722年)である。しかし『一切経音義』のこの記述に関して、先行研究ではその問題が指摘されている(2)。また、『尊勝儀軌』は日本において空海(774~835)・最澄(767~822)による将来ではなく、円仁(794~684)・円行(799~852)・恵運(797~869(3))、さらに宗叡(809~884)の将来である(4)。さらに、『八家秘録』と覚禅(1143~1213~?)の『覚禅鈔(5)』を見ると、「喜畏」や「喜無畏」の名が見られる。これは、先述したように「三蔵善無畏、弟子喜無畏集」と、『尊勝儀軌』にも見られる名である。しかし、善無畏の弟子「喜無畏」なる人物の存在は不確かである(6)。
     ここまで確認したように、『尊勝儀軌』が誰の手に依る物なのか詳らかにできないのが現状である。確実に言えるのは『尊勝儀軌』が『一切経音義』編纂の807年までには成立していたことである。しかし、訳者・撰者を明らかに出来ないとしても、『尊勝儀軌』がどのような性質を持っているのかを明らかにすることはできよう。
     『尊勝儀軌』の巻下の冒頭には「今、金剛頂、大毘盧遮那経並びに釈義十巻、蘇悉地、蘇摩呼、如意輪、七俱胝、瞿醯且怛羅、不空羂索等の経を略して撰集す(7)。」と、記されている。この文は『尊勝儀軌』がこれらの経軌の記事を用いて作製されたことを示している。
     本稿では『尊勝儀軌』の中でも「尊勝真言持誦法則品」(以後、「尊勝持誦法則品」)に注目し、その行法全体を考察していく。「尊勝持誦法則品」行法全体の記述が如何なる経軌を基に作成され、展開されていったのかを考察していくことで『尊勝儀軌』の一特質を明らかにしていくことが本稿の目的である。
     「尊勝持誦法則品」は、その名称からして『大日経』「持誦法則品」との関係が想定される。「尊勝持誦法則品」には、地・水・火・風・空の五輪三摩地に入るための行法が説かれる(8)。その行法全体を概略すれば、次のように分けることが出来よう。

    ㈠姐字観
    ㈡五輪観
    ㈢普通真言
    ㈣三昧耶真言・一切仏心三昧耶印
    ㈤五輪器界観
    ㈥金剛三昧耶真言及び印
    ㈦降三世真言
  • 佐竹 隆信
    2016 年 65 巻 p. 553-602
    発行日: 2016年
    公開日: 2019/02/22
    ジャーナル フリー
        江戸時代後期、御室より安芸国の福王寺が有部律の道場として認められた。上田天瑞氏によれば(1)、その際、福王寺の僧学如(1716~1773)は御室に『真言律行問答』、「福王寺を有部律復興の道場とする願書」、『真言八祖有部受戒問答』の三書を提出したとされる。これらのうち『真言律行問答』、「願書」の二書についてはすでに些かの紹介を行った(2)。残る『真言八祖有部受戒問答』は左の二本の中に收められている。
     1 『小部類集』 (写本) 写年不明 福王寺蔵
     2 『真言律行問答』(謄写本) 昭和九年刊 高野山大学図書館蔵
     1は学如の自筆ではなく転写本と考えられ、いくつかの著作を一冊にまとめたものであるが、他の諸著作については別な機会を待ちたい。また2の高野山大学図書館本は『国書総目録』で活字本とされているが、電子複写された物をみると謄写本であると考えられる。また2の謄写本は前稿でも述べたように(3)、長谷宝秀氏が福王寺所蔵のものを書写し、後に謄写した本であるが、多くの誤脱箇所が確認された。福王寺所蔵本を写したものではあるが、それは1の本ではないと考えられる。
     今現存しているのはこの二本であるが、本書の奥書には(4)
      明和三年十一月於金亀山方丈書獨語
    とある。前述したように御室に三書を奏上したとすれば、他の二書の成立年代から考えると『真言八祖有部受戒問答』は少し遅れて成立したと言えるだろう。しかし、御室に提出したか否かは確実ではない。また本書は『真言律行問答』や「願書」の内容と大きく異なる点はないが、先の二書にはない論述もみられ、学如の主張を読み解く上で重要と思われる。また本書はこれまで二本しか存在が確認されず、広く普及しているとは言い難い。そのため資料として福王寺所蔵本を底本として翻刻を後半に付す。
  • 池田 友美
    2016 年 65 巻 p. 603-618
    発行日: 2016年
    公開日: 2019/02/22
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        空海撰『奉為平城天皇灌頂文(1)』(以下『平城天皇灌頂文』)は、弘仁13年(822)に空海が平城上皇に灌頂を授けた際の表白文とされ、その内容として空海思想において著名な十住心の教判を含むことなどが指摘されており(2)、そのためこれまでも撰述年代や真偽についての議論がなされてきた(3)。また、代々の天皇に対する灌頂という史実の有無等についても幾つかの議論が存在する(4)。
     この文献と多くの共通点を持つ『奉為嵯峨太上太后灌頂文(5)』(以下『嵯峨皇后灌頂文』)は、長谷宝秀編『弘法大師諸弟子全集』巻上に収蔵され、その撰者は檜尾僧都実慧(786?~847)に帰せられている。こちらは書名から知られる通り、嵯峨天皇(786~842、在位:809~823)の皇后である橘嘉智子(786~850)に対し、実慧が灌頂を授けた際の表白文とされる。また『嵯峨皇后灌頂文』には智積院第22世動潮(1709~1795)による天明元年(1781)の刊本が存在し、長谷氏の編集したものにも動潮による注がそのまま収められている。そこで動潮は『嵯峨皇后灌頂文』を実慧の著述であるとし、またその理解は杲宝の言によったことを明かしている(6)。長谷氏もまた『嵯峨皇后灌頂文』は古来空海撰として諸目録に収められてきたが、杲宝の『東宝記』巻四の記述によれば本来は実慧撰であると解説している(7)。このように現在では『平城天皇灌頂文』は空海撰として、『嵯峨皇后灌頂文』は実慧撰としてそれぞれ伝わるが、前述の如く『平城天皇灌頂文』には偽撰等の議論が存在し、空海仮託の書という可能性もある。長谷氏も述べているように古くは『嵯峨皇后灌頂文』も空海撰とされてきた点を踏まえれば、ほぼ同時代を生きた実慧に関しても『嵯峨皇后灌頂文』の撰者とすることには一考の余地があると考える。
     本論文では『平城天皇灌頂文』と『嵯峨皇后灌頂文』との比較を通じて、『嵯峨皇后灌頂文』の成立と、作者等の問題について検討したい。これらの点を中心に、本文を通じてまずはその成立や背景を探ることとし、教理的な面について今は多くは触れない。
  • 笠松 祐紀
    2016 年 65 巻 p. 0373-0384
    発行日: 2016年
    公開日: 2019/02/22
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        『現観荘厳論光明 般若波羅蜜釈』(Abhisamayālamkārālokā prajñāpāramitāvyākhyā)は、八世紀頃のハリバドラ(Haribhadra)による著作である。これは『二万五千頌般若経』(Pañcavimśatisāhasrikā prajñāpāramitā)の註釈書である『現観荘厳論』(Abhisamayālamkāra)の註釈書である。
     しかしながら、『現観荘厳論光明』は、『現観荘厳論』に対して註釈を行う際に、ただ註釈を施すのではなく、『八千頌般若経』(Astasāhasrikā prajñāpāramitā)を逐一引用して註釈を行うという珍しい形をとっている。
     また、今回取り上げる順決択分とは、『現観荘厳論』における修行の階梯の一つであり、凡夫から聖者へと移行する直前の段階にあたる。具体的には、煖(usmagata)・頂(mūrdhan or mūrdhāna)・忍(ksānti)・世第一法(laukikāgradharma)という四つの位から成っており、四善根位とも呼ばれる1)。この順決択分を取り上げた理由は、この修行階梯が思想的特徴の表れる部分とされているからである。例えば、唯識派は順決択分を、所取の無から能取の無への階梯であるとしている2) 。よって、『現観荘厳論光明』の研究においても、追究する意義があると考えた。
     したがって、本稿では『現観荘厳論光明』における順決択分の特徴を、説一切有部における順決択分との比較を通して考察したい3)。なお、順決択分は『現観荘厳論』の第一章から第三章のいずれにも見られるが、紙幅の都合上、今回は仏の智慧である一切種智性を取り上げた第一章の、煖位と頂位について言及する。独覚の智慧である道種智性に関する第二章、声聞の智慧である一切智性に関する第三章は、共に第一章を基準にしているため、第一章に着手するのが適切であると考えた。
     『現観荘厳論光明』は全体の和訳が出版されておらず、順決択分の部分についても、現在和訳が公表されていない。本稿は和訳の存在しない部分に対して、和訳を提示するという意義もあると思われる。
  • 松本 亮太
    2016 年 65 巻 p. 0361-0372
    発行日: 2016年
    公開日: 2019/02/22
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        仏駄跋陀羅訳の『華厳経』を構成する一品に「宝王如来性起品」(以下『性起経』1) )がある。本品は、もともと独立した経典として成立していたものが、後に『華厳経』の中に組み込まれたものである。『華厳経』の一品を構成するふさわしく、華厳を貫く思想が具わっている。そして、「如来蔵思想2) 」や、中国における「華厳教学」を始めとして、後の仏教思想に大きな影響を与えたことでも知られた品である。本研究では特に『性起経』と如来蔵思想との関連性について考察をおこなった。殊に、高崎[1974]による研究成果3) が、本分野に関して重要な資料を提供している。
  • 安井 光洋
    2016 年 65 巻 p. 0343-0360
    発行日: 2016年
    公開日: 2019/02/22
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        Akutobhayā(ABh)と青目釈『中論』(『青目註』)はどちらもNāgārjuna の主著Mūlamadhyamakakārikā(MMK)の注釈書である。ABh はチベット語訳のみが現存しており、『青目註』は鳩摩羅什による漢訳のみが伝わっている。この両者は互いに共通した記述が多く見られることで知られる。また、羅什の弟子僧叡による『青目註』の序文では、羅什が『青目註』を漢訳する際、その内容に加筆・修正を施したことが記されている1)。そのため、漢訳以前の『青目註』はABh により近似していた可能性も考えられる。
     このような関係性を持つ両者を比較する際にもっとも大きな問題となるのが、羅什による修正箇所の特定方法である。ABh と『青目註』には共通した内容も多く見受けられるが、その一方で互いに異なった解釈を示している例も少なくない。しかし、そのような相違点が必ずしもすべて羅什による修正ではなく、原典の時点ですでに相違していた可能性も考えられる。
     よって本稿においては『青目註』に見られる、ある特徴的な漢訳方法をきっかけとして、ABh との解釈の相違について論じてみたい。その特徴的な漢訳方法とは「偈を分割しない」というものである。MMK ではいずれの偈も4 つの句(pāda)で構成されており、ABh をはじめ多くのMMK 注釈書ではこの偈を途中で区切り、その間に注釈を挟むという形式が頻繁に用いられている。
     しかし、『青目註』では偈が途中で分割されるという例は一つもなく、いずれも偈全体を挙げてから注釈を施すか、もしくはまったく注釈をしないという形式になっている。そのため、ABh が偈を分割して注釈を施している場合、同じ偈に対する注釈であっても『青目註』では記述が異なっている。つまり、ABh が偈を分割して注釈することが、両者の相違を生む一つのきっかけとなっているのである。
     約450あるMMK の偈の中で、ABhでは50 以上の偈が分割して注釈されている。そして、前述の通りそれらの偈に対する注釈はすべてABh と『青目註』で記述が異なっており、それによって両者の間で大きく異なった解釈が生じているという例も存在する。
     偈を分割するというこの手法が数あるMMK 注釈書の中で広く一般的に用いられているものである以上、ABh との類似が目立つ『青目註』のみが原典の時点ですでにこの手法を一貫して省いていたとは考えにくい。
     以上の点からこの手法が『青目註』において採用されていないのには羅什による意図が反映されていると考えられる。それはつまり、原典では分割されていた偈が漢訳の時点で羅什によって再度まとめられるという「編集」が行われていたということになる。そして、その際には当該偈の注釈部分についても、一つにまとめられた偈に沿うよう新たな解釈が加えられている可能性が高い。よって今回はそれに該当するものとして第6章および第13章から例を挙げ、ABhと『青目註』の解釈の相違について検討していく。
  • ーA Critical Edition of the Vajrad ̇ ākatantra Chapter 19
    Tsunehiko SUGIKI
    2016 年 65 巻 p. 0283-0342
    発行日: 2016年
    公開日: 2019/02/22
    ジャーナル オープンアクセス
    本稿は,10世紀頃編纂のインド密教経典『ヴァジュラダーカ・タントラ』(Vajraḋākatantra)第19章「全てのブータとグラハを生じる成就法」のサンスクリット語校訂テキスト(ならびにその補助資料として同章のチベット語校訂テキスト)を,同章の内容分析とともに,提供するものである.同章は,世間的な神々の曼荼羅と,その神々の成就法を内容とする.後期密教の修行の目的を出世間的な「解脱」(moksa, mukti)と世間的な「享楽」(bhoga, bhukti)に分類することがあるが,同章は後者の一例である.
  • 佐々木 大樹
    2016 年 65 巻 p. 0263-0282
    発行日: 2016年
    公開日: 2019/02/22
    ジャーナル オープンアクセス
        初期密教における重要な尊格として、変化観音・金剛手等とならび、仏頂尊の名を挙げることができる1)。仏頂尊は、釈尊が具えた三十二相のうち、頂上肉髻相を尊格化したものと考えられている。仏頂尊は、七世紀頃に初めて文献上に登場した初期密教を代表する仏尊であり、以後の経軌、例えば『大日経』『金剛頂経』等に継承されていった。仏頂系の経軌は、共通して組織的な儀礼(特に灌頂)をもち、また部族(kula)の概念を導入する等、両部大経に与えた影響も大きいと評されている2)
     仏頂尊は、数多くの密教経軌に登場し、その名称・種類は様々であるが3)、その中でも諸仏頂を総べるものとして頂点に君臨したのが一字金輪である。またその一字金輪の真言「ノウマクサマンダボダナン ボロン」(namahsamantabuddhānāṁ bhrūṁ)は、絶大な力を有する呪句とされ、真言宗では主に修法・法要の成就を促す目的で読誦されることが多い。本稿では便宜上、一字金輪の真言を「ボロン呪」と呼ぶこととしたい。
  • 川﨑 一洋(一洸)
    2016 年 65 巻 p. 0249-0262
    発行日: 2016年
    公開日: 2019/02/22
    ジャーナル オープンアクセス
        纔発心転法輪菩薩(Sahacittotpādadharmacakrapravartin / Sahacittotpāditadharmacakrapravartin)は、『理趣経』系の八大菩薩(金剛手・観自在・虚空蔵・金剛拳・文殊・纔発心転法輪・虚空庫・摧一切魔)のうちの一尊であり、『理趣経』や『真実摂経』(『初会金剛頂経』)に登場する。その名は、「心(思い)が起こるや否や法輪を転ずる者」を意味する。この菩薩の漢訳尊名は訳者や経典によって区々であり、密教経軌においてはしばしば金剛輪菩薩とも呼ばれるが、本稿では一貫して、「転法輪菩薩」という略称を用いることにしたい。
     転法輪菩薩の、密教以前の大乗経典における尊格史については、すでに谷川泰教氏による詳細な研究がある1)。『ラリタヴィスタラ』に語られる仏伝では、成道の後に説法を躊躇する釈尊に対し、まず諸天による勧請(広義の梵天勧請)があり、続いて菩薩たちによる勧請があり、最後に転法輪菩薩が現れて、過去仏たちに代々受け継がれてきた輪宝を釈尊に奉献することによって、初転法輪が現実のものとなる。
     また、『大品般若経』とその註釈である『大智度論』、あるいは『阿闍世王経』や『華手経』などでも、釈尊の初転法輪と関連して転法輪菩薩に触れられている。
     本稿では、大乗経典を対象とした谷川氏の研究を承けて、密教経軌において言及される転法輪菩薩を俯瞰し、尊容や曼荼羅を中心に、その展開の様子を窺ってみたい。
  • 山本 匠一郎
    2016 年 65 巻 p. 0235-0248
    発行日: 2016年
    公開日: 2019/02/22
    ジャーナル オープンアクセス
        仏教成立時、古代インドの思想界は百家争鳴の状況であった。当時、バラモンを頂点とするヴェーダの宗教が権威的な学問勢力を保ちつつ、六派哲学をはじめ、さまざまな宗教が存在した。釈尊が悟った法は、他の諸宗教の主張とは異なる、まったく独自な教えであったが、当初、釈尊は自らが悟った真理を人びとに説くことを躊躇したとされる。梵天の勧請を受けて、人びとの状況を観察し、初めて説法を決意したと仏伝は告げるが、何ゆえに転法輪に際して梵天勧請という設定を必要としたものであろうか。説法には教化者と被教化者とがいる。教化に際しては、被教化者の動態の方にさまざまな問題があるがゆえに、教化のレベルと条件を設定する必要がある。梵天勧請という挿話は、被教化者を教化に向けて対象化させ、自ら教化を要請するための設定を、神話として示したものであろう。仏の教えは、本来は万人にとっての救いであるはずだが、その教えはそもそもの最初の段階から、万人に対して説かれたものではなく、教化されるべき対象を選んでいる。すなわち転法輪の対象には、種々の段階と条件がある。
     仏教成立後、仏説に対する異説・反論は仏教思想の内外周辺につねに存在してきた。仏教のナラティブは、基本的に外部を志向しているといってよい。外教の諸見解を網羅的に紹介することを目的とした論書『異部宗輪論』などは、当時の仏教者が基本的に対論者を念頭に置きつつ、異論を反照として自説の正統性を立論しようとしていたことを窺うことができる。こうした対論者の存在は、聖典において明示されていないけれども、つねに経論の制作者たちの念頭にあったものと思われる。話法には、自説の立場、語り手の位置へのこだわりがあるが、それは同時に他説の立場、聞き手の位置を明確にさせ、ストーリーの輪郭を浮き彫りにしてくれる。ときに仏教のテクストは、仏教思想内外の異説の蒐集と反論に終始しているようにさえ見えることがあるが、基本的に聖典の話法は、異説の提示によって自説の立場を明らかにしようとする手法をとるものなのである。そしてその異説・対論の内容は時代の変遷とともに少しずつ変わっていく。
     『大日経』自らが主張する自己の立場は一貫として大乗仏教である。諸大乗経論は有部・阿毘達磨の教説を前提として成立しているが、大乗であるかぎり、声聞・縁覚の批判、阿毘達磨教学との相克を前提としている。そしてもちろん、仏教内の諸思想のみならず、外教の学説も提示される。たとえば『大日経』「住心品」では、さまざまなアートマン学説や外道の見解が挙げられている。ここでは『大日経』がその法輪を、いったい誰に向けて、どのような内容の教えを説いているのか、転法輪の対象と内容の諸類型を考察してみたい。
  • 阿部 貴子
    2016 年 65 巻 p. 0219-0234
    発行日: 2016年
    公開日: 2019/02/22
    ジャーナル オープンアクセス
        筆者はこれまで『瑜伽師地論』「声聞地」(以下『声聞地』)の著作背景を探るため、特にその中心的な瞑想法である五停心観を諸経論と比較しつつ考察してきた。五停心観とは、ヨーガ熟達者が入門者に指導する瞑想法のことで、貪rāga・瞋dvesa・癡moha・慢māna・尋思vitarka を行うものが修すべき、不浄観aśubhā・慈愍観maitrī・縁性縁起観idampratyayatāpratītyasamutpāda・界分別観dhātuprabheda・入出息念ānāpānasmrti のことである。すでに他の観法については考察したので、本稿では慈愍観について取りあげたい。
     「慈しみ」は『経集Suttanipāta』の『慈経Mettasutta』に説かれ、部派仏教から大乗仏教そして密教に至るまで、最も重視されてきた教義の一つである。現代においても仏教者の心得や生きかたの指針として世界中から注目されている。
     では『声聞地』が慈しみの瞑想maitrī(以下、慈愍観)をどのように示しているだろうか。諸経論と比較しながらその特徴を挙げてみたい。
  • 竹内 照公
    2016 年 65 巻 p. 0205-0218
    発行日: 2016年
    公開日: 2019/02/22
    ジャーナル オープンアクセス
        寺院活動の一つとして「社会に向けた活動」があるが、真言宗智山派は、教師がどのように「社会に向けた活動」に取り組むべきかを統一的に定めているわけではなく、それぞれの教師が自らの取り組みを決めている。
     「社会に向けた活動」への意欲や、重視されている活動を明らかにすることは、真言宗智山派の「社会に向けた活動」の基本的なデータとして必要になる。真言宗智山派では、昭和50年度より5年ごとに『真言宗智山派総合調査』を行っており、直近では、平成22年度に8回目の調査が行われた(1)。その結果は、真言宗智山派宗務庁によって『真言宗智山派の現状と課題』と題する報告書にまとめられている。「社会についての活動」については、「第3章 寺院活動の現状と問題点 第1節 寺院の諸活動とその意義」の中の「1社会活動・ボランティア活動」にまとめられている(2)
     それによると、29.5%の教師が社会活動やボランティア活動をしていると回答しており、平成12年の15.7%から2倍に増加していると報告されている。また、74.2%の教師が「檀信徒のみならず、社会に向けた活動をしていくべき」と回答している。
     さらに、「活動していくべき」と回答した者が、「社会に向けた活動」として重要だと思うものとして「その他」を含めた10項目から3項目を選択する形式の設問に対する回答結果では、「生活の悩み相談(カウンセリング)」、「子供たちの情操教育」、「世代間の交流」に続いて「介護や死の看取りなどの高齢者のケア」は第4位であった。檀信徒への調査では、「生活の悩み相談(カウンセリング)」、「世代間の交流」に続いて、「介護や死の看取りなどの高齢者のケア」が第3位になっている。
     『真言宗智山派の現状と課題』は、「介護や死の看取りなどの高齢者のケア」を重要と思う教師が26.3%であったのに対し、檀信徒は38.2%が重要と回答している点を問題視し、「大きなズレがでた項目」であると指摘している。「特に死の看取りなどは教師に密接に関わってくる問題」として、警鐘をならしている(3)。平成22年の国勢調査で65歳以上の人口が23.0%を占め、その後も高齢者の増加が続いている我が国にとって、高齢者のケアは大きな問題である。「介護や死の看取りなどの高齢者のケア」にみられた「大きなズレ」について、ズレがどのような教師に生じているのかを明らかにする必要があり、必要に応じた適切な働きかけをするべきである。
     そこで、平成22年実施『真言宗智山派総合調査』の個票を二次的に解析し、「檀信徒のみならず、社会に向けた活動をしていくべき」と回答した教師としなかった教師の属性などの項目の違いおよび「介護や死の看取りなどの高齢者のケア」を重要と思うと回答した教師と回答しなかった教師の属性などの項目の違いを検討を行った。
  • Samvaragrahanadividhi の Preliminary Edition および試訳ー
    種村 隆元
    2016 年 65 巻 p. 0177-0204
    発行日: 2016年
    公開日: 2019/02/22
    ジャーナル オープンアクセス
        Padmaśrīmitra著Mandalopāyikāは,後期インド密教における儀礼の規定を伝える,貴重なサンスクリット語一次文献の1つである*1.筆者はかつてこの文献の最終章であるAntasthitikarmoddeśa(「臨終時の儀礼の説示」)のサンスクリット語テキストのpreliminary editionならびに試訳を発表したが(種村2012b),今回本論文では,第1章であるSamvaragrahanādividhi(「律儀の摂受等の規定」)のサンスクリット語テキストのpreliminary editionならびに試訳を提示する.preliminary editionならびに試訳に先立ち,種村2012a,2012bで紙幅の関係で提示できなかったMandalopāyikā全体のシノプシスを以下に示すことにする.
  • 米澤 嘉康
    2016 年 65 巻 p. 0165-0176
    発行日: 2016年
    公開日: 2019/02/22
    ジャーナル オープンアクセス
        仏伝の記述において、五比丘に対する初転法輪の直前に、異教徒であるウパカとの邂逅エピソードが挿入されている。本稿は、特にパーリ『律蔵』「大品」において、そのエピソードにどのような意義があるかを明らかにすることを目的とする。そのエピソードついては、ウパカに対して釈尊の説得が失敗した、と解釈される場合が多い1)。すなわち、釈尊自身も順風満帆な伝道活動を送っていたのではないのであるから、仏教教団の出家者たちも失敗に落胆することなく、伝道活動に従事せよというメッセージが含まれているというものである。
     このエピソード自体は、仏伝資料の成立と発展という観点では、決して最古層に属するプロットではないようである2)。であるならば、初転法輪の直前に、あえて失敗例としてのエピソードを挿入したという解釈を見直す必要があるのではないか? そこで、本稿では、このウパカとの邂逅エピソードが初転法輪の直前に置かれているというその意義について、テキスト編纂の意図に顧慮しながら、検討することとしたい。
     本稿の概要は以下のとおりである。まず、パーリ『律蔵』「大品」における、ウパカとの邂逅エピソード直前までのプロット構成を確認する。そして、当該パーリ語テキストならびに『南伝』の和訳を引用し、その内容について検討する。さらに、ウパカとの邂逅エピソードが他のテキストでは、どのように取り扱われているかを概観しつつ、パーリ『律蔵』「大品」との差異等を指摘する。そして、最後に、ウパカとの邂逅エピソードの意義について、私見を述べることとする。
  • rNal ḣ byor bshi ldanを中心に
    桜井 宗信
    2016 年 65 巻 p. 0149-0164
    発行日: 2016年
    公開日: 2019/02/22
    ジャーナル オープンアクセス
        Tsoṅ kha paと並びチベット仏教世界を代表する顕密兼修の大学僧Bu ston Rin chen grub(1290〜1364; 以下Bu ston)は、多数のタントラの方軌を学び膨大な文献を著しており、Cakrasam vara に関しても〈Lūyīpāda 流〉以下著名な5種の流儀の相承が伝えられ1)、現行「Bu ston 全書」に16書が収められている。
     筆者は現在、Sa chen Kun dgahsñiṅ poに始まる「Sa skya派五祖」よりTsoṅkha pa に到るチベット人諸師の著した〈Lūyīpāda 流〉関連諸文献の整理と解析を進めており、その中にはSa skya 派の教学に多くを負っていたBu ston の諸書も含まれている。
     既に他所で触れた通り、彼は〈Lūyīpāda 流〉の方軌を7系統において受け継いでおり2) 、それを通じて由来の異なる計4種の解釈を学んだと考えられるが、いわゆる〈六十二尊曼荼羅〉に随った灌頂を授かり、また同流の中心典籍であるCakrasamvarābhisamaya(以下CSA)の理解や実修に関わるインド・チベット諸師の解説を伝授されて纏めた著作の一つが
     dPal ḣKhor lo sdom pahi sgrub thabs rNal ḣbyor bshi ldan shes bya ba
     [Toh 蔵外5046]
     (吉祥なるCakrasamvaraの成就法「具四瑜伽」というもの;以下PGN)
    である。
     本書はその奥書によれば「甲午歳心宿月の白分第13日(rgyal bahi lo snron gyi zla bahi dkar pohi phyogs kyi tshes bcu gsum; 24b1-2)」の完成であり、彼の活動期間を勘案すれば西暦1354年の新暦4月28日頃に相当する。章分けを示す文言、及び科門(synopsis)に相当する表現を有さず、散文を中心とした本論部分に帰敬偈、廻向偈、及び散文による短い付言を以て構成されている。
     Bu ston は、「Cakrasamvara の成就法を詳細に明らかに解説した(hKhor lo sdom pahi sgrub pahi thabs // rgyas par gsal bar phye ba; 24a6)」このPGNの内容が、「真実を成就させる方便(de ñid sgrub par byed pahi thabs; 1b2)」であり「新発意が実修を楽にできるよう組み立てられたもの(las daṅ po pas ñams su blaṅ bde bar bsgrigs pa; 24b1)」であって、「*Lūyīpāda の成就法に対するインド撰述諸註釈、及びタントラ註、賢学成就者達がお作りになったウパデーシャ、上師達のウパデーシャ通り(Lū i pahi sgrub thabs kyi rGya gar gyi ḣgrel pa rnams daṅ / rgyud kyi ḣgrel pa / mkhas grub rnams kyis mdsad pahi man ṅ ag / bla ma rnams kyi man ṅ ag bshin; 25a7-b1)」であると述べている。
     即ち、ここで提示された“Lūyīpāda によるCakrasamvara の成就法(=CSA)”に基づく実修法が、4人の師から相承した7種の系統の何れか一つの仕方に偏倚しておらず、彼が学び得た多様な解釈を勘案綜合した結果であることが示唆されていることになる。
     本稿ではこのような点も踏まえながら、PGN の示すCakrasamvara に関わる観想法を中心とした儀礼次第の枠組みと特徴の一端を明らかにして、チベットにおける〈Lūyīpāda 流〉伝承の解明に向けた一助としたい。
  • ー主にグリーフワークの視点からー
    鈴木 晋怜
    2016 年 65 巻 p. 0137-0148
    発行日: 2016年
    公開日: 2019/02/22
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        人類は太古の昔より死を看取り、死者への葬り儀式を行ってきた。しかし、現代において人の死を取り巻く環境は大きく変化してきている。特に我が国においては、平均寿命の伸長、核家族化の進展に伴い、20代、30代という若年層が身内の死を身近に経験することが少なくなり、50代、60代になって初めて親の死を経験するという人が増えている。また、図1で示すように、1951年には自宅で死を迎える人の割合は82.5%だったのに対し、2012年ではわずか12.8%となり、逆に2012年では病院で死を迎える人が78.6%と、ほとんどその割合が逆転している1)。現代において、高齢者の人生の終末は施設に入り、そしてほとんどの場合、最後は病院で死を迎えるということになる。したがって、家族が身内の死にゆく様をリアルに感じる機会がなく、死は隠され、なじみのないものになっている。さらには長寿社会の到来は、長生きすることは当然という風潮を生み、それ以外の死、たとえば事故や災害による死や若年齢での突然死などは、殊更に不幸でショッキングなものというレッテルを貼られてしまう。
  • ー新教化概論(檀信徒の信仰育成に向けて)ー
    片野 真省
    2016 年 65 巻 p. 0123-0136
    発行日: 2016年
    公開日: 2019/02/22
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        もう30年以上前のことだが、1990年にアメリカのアカデミー賞で9部門を独占した映画に「アマデウス」がある。御存じの方も多いだろう。アマデウスとはご承知のとおり、ヴォルフガンク・アマデウス・モーツアルトの生涯を綴った作品である。プーシキンの「モーツアルトとサリエリ」を題材に脚本・映画化したもので、初めにブロードウエイで舞台上演されたものが映画化された。モーツアルトを描いたこの作品の主人公は、モーツアルトではなく彼と対比されるサリエリである。この映画には「神の名の元にすべては平等か?」という問いかけが基底に流れている。つまり「秀でた才能が、誰にでも平等に与えられはしない。それが現実。」ということでもある。この作品は、モーツアルトが周囲に暴言を吐き、酒に溺れ、父の面影に怯え、レクイエムを書きあげながら死に到り共同墓地に粗雑に葬られる。そんなショッキングなシーンが続く。そしてラストには、自殺しきれずに生きながらえたサリエリが施設で「全ての凡庸なるものに幸あれ」と呟き、微かな笑みを浮かべてエンドロールを迎える。
     神とは何か? 信仰とは? そして、人間は天才と凡庸に分かつのか? このように、我々が日々の暮らしで当たり前に抱く問いかけを、この映画は投げかけてくる。生まれによって差別されるのではなく、行為によって差別される。そんなことは分かっていても、我々凡庸なる者は、時に自らの運命を嘆き、その非力さ故に幾度となくあきらめを余儀なくされる。この社会はそんなキレイゴトを飲み込んで、いつも惨たらしい現実を我々に突き付けてくる。しかし、そうして突き付けられた現実に、唯々諾々と流されてしまうなら、我々は自らの凡庸さを受け容れるしかないのである。現実を前にして、登る坂道は向かい風でも、この坂を登らなければ、その向こうにあるまだ見ぬ風景を目にすることは叶わない。その先には真っ青な空が拡がり、雲が浮かび流れ、ひょっとしたら彼方に虹が見えるかもしれない。自身の内にある可能性を見出すにはこの坂を登らなければならない。この坂とは何か? 我々にとっては、百千萬劫にも遭いおうこと難き教え、つまり仏の教えである。
     我々は真言宗の寺院に生まれ、または何かしらの縁で今この寺院と関わりあった。遭うこと難き寺院とご縁が結ばれ、それが真言宗の寺院であるという運命は、その寺院のご本尊さまのおはからい以外何物でもないだろう。その得難き縁は、釈尊から連なり、宗祖弘法大師と中興興教大師の尊くも篤き想いを汲むものである。それを「選ばれた者」と受け止めるか「単なる偶然の賜物」と受け止めるのか……。しかし、我々仏教徒、真言行者はもはや前者に身を置くこと以外に選択肢はないはずである。「良く保つ」との言葉を口にした瞬間に、真言密教の世界に生きることは運命づけられた。釈尊から両祖大師へと連なるこの教え。寺院に赤々と灯されてきた法灯を絶やすことなく、次の世代へ、未来へ受け継ぐために身を粉にして励むこと。そうして与えられた場が寺院である。我々自身はあくまで凡庸なる者かもしれない。しかし、遭い難き教えを受け継ぐ運命に出会った以上、その教えを担う役割を我々はこの時代に課せられた。それを喜びと感じ、寺院において法悦を檀信徒とともに味わうすべての凡庸なるもの。そのあり方、一側面を考察するのが本論の試みである。アマデウスの映画の最後にモーツアルトのピアノコンチェルト40番第2楽章「ロマンス」が流れる中、サリエリが浮かべる笑み。その意味をここで考えてみたい。
  • ー金毘羅由来説再考ー
    水野 善文
    2016 年 65 巻 p. 0103-0122
    発行日: 2016年
    公開日: 2019/02/22
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        日本における金毘羅信仰については、讃岐象頭山(現在の金刀比羅宮)を中心に江戸中期以降に拡大したこと[守屋:303]をはじめ、他の神仏の信仰と関連する点もふくめ、変遷の歴史について様々な観点から多くの研究がなされている[近藤1987、守屋1987、大森2003など]。
     金毘羅が異国の神の名であること、もしくは、ながくそう解釈されてきたことは、あらためて念をおすまでもない。はやくに黒川道祐が「讃岐金毘羅は天竺神にて、摩多羅神の類也」(『遠碧軒記』上一)といい、松浦静山も「いつしか竺神の名を借り用ひしにや」(『甲子夜話』巻四六)と指摘していたように、古代インドの神話にあらわれるバラモンの神Kumbhiraに遡源するというのが、古来の通説である。クムビィラもしくはクビラとは、ガンジス川にすむ鰐を神格化して信仰の対象としたものだという説明も、相応に流布されている。[守屋:303]
    とあるように、金毘羅の原語はサンスクリットのクンビーラ(Kumbhīra)であるとされる。ここでは、日本における金毘羅信仰史には全く触れず、クンビーラに関して、その故地であるインドの諸文献のみを資料として整理することを目的とする。結果として、若干、通説に修正をくわえることになるかもしれない。
     なお、本論は、筆者が本務校において指導した香川県琴平町出身の学生による卒業論文1)に啓発されているが、結果的には、全く内容が異なるものとなった。
     先に引用した守屋の紹介にあるとおり、江戸初期の医師であり歴史学者でもあった黒川道祐(1623-1691)がすでに「讃岐金毘羅は、天竺神にて摩多羅神の類也2)」 [黒川:32]と述べ、これに発したか否か定かではないが、今日にいたるまでの通説は、少なくとも江戸初期には存在していたことになる。比較的最近も、
     まず金刀比羅だが、その名はインドの古代語であり、仏教経典を書き記したサンスクリット語の「クンビーラ(kumbhīra)」の音写語で、ガンジス川の大河に住む鼻の長い鰐を神格化した水神である。観音菩薩に供奉する二十八部衆の一尊であり、『大般若経』を守護する十六善神にも数えられる。またこのクンビーラは「宮毘羅」とも表記され、薬師如来に仕える十二神将の筆頭格である「宮毘羅大将」とも同一神である。[舩田2011: 125]([羽床1995][宮元1988: 88][西岡2000: 126]もほぼ同様に紹介している。)
    とある。
  • ー社会教化の実践の事例からー
    佐藤 雅彦
    2016 年 65 巻 p. 089-102
    発行日: 2016年
    公開日: 2019/02/22
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        「社会教化」とは何か、どのような内容を指し示すのか、これらの地盤固めは、小山典勇先生らによって議論の上で積み重ねられてきた1)。総じていえば社会教化には、現実の社会に生じている問題と仏教がどのように関わっていくかという、理念や指針、方法論が求められていることは言うまでもない。筆者は、そこにいくつかのテキストが認められると考える。その代表とされるものは、いうまでもなく仏教経典だろう。しかしそれに並んで重要と考えられるのは「ひとびとの声」だ。無論、声の確かめ方は文章や、直接、聴覚に届いた声、多様にある。つまり心の表現としての「声」に耳を傾ける、注意を払うことは、何が仏教に求められているか、何が問題とされているのか聴き取る姿勢であり、経典にみえるブッダの教えと、その声を結ぶ役割を担うことこそ、教化者のつとめといえるのではないだろうか。
     多くの仏教研究は、仏教経典やその思想を扱うことが主たる領域を占めてきた。しかしそれぞれの時代において、その各々の時代を生きることを「現代」として考えるとき、「ひとびとの声」を聴きとろうという努力や、社会の声に耳を傾ける努力をしなければ、我々は、仏教を学んでいても、仏教を実践するものとはいえないのではないだろうか。言い換えれば、社会教化は、社会に生きる人々の声を聴き、その声に仏教の立場から応えようとする作業の蓄積ともいうことができるのではないだろうか。
     すでにさまざまな人文研究においては、「声を聴く」という方法論は、その対象となる当事者や関係する人々に「語り」(narrative)という行為を通して、広く用いられている。筆者は長年、「こころのケア・ボランティア」として末期がん患者や、さまざまな疾患にある患者の病床を訪問し、多様な患者の「語り」から学ばせていただいてきた2)。本稿ではそこから得られたことと仏教が、どのように関わっていくかということを、問題意識として述べてみたい。これらの作業は、具体的な、もしくは実践的な社会教化の事例と位置付けられると考える。
  • 金本 拓士, 伊藤 堯貫
    2016 年 65 巻 p. 061-088
    発行日: 2016年
    公開日: 2019/02/22
    ジャーナル オープンアクセス
        本論文は、これまで、『智山学報』等の学術雑誌に発表してきた(1)、平成七年度智山勧学会奨励研究(共同研究部門)「『蕤呬耶経』(Sarvamandalasāmānyavidhinā Guhyatantra)のチベットテキスト翻訳研究」の成果の一つとして、『蕤呬耶経』の最終章「補闕品第十一」の蔵・漢訳の校訂テキストならびにその現代語拭訳を付けて提出するものである。
  • ー『大乗起信論』の解釈をめぐってー
    下田 正弘
    2016 年 65 巻 p. 051-060
    発行日: 2016年
    公開日: 2019/02/22
    ジャーナル オープンアクセス
        イスラム思想研究の泰斗、井筒俊彦は、さまざまな言語で記された古典一次文献の精読を根拠として得られた広く深い知見をもって東西思想の比較研究を進めた。その結果、東洋思想、あるいはむしろ非西洋近代思想には「共時論的構造」があることを看取し、その代表的事例として大乗仏教思想を論じた。遺作となった『意識の形而上学』における『大乗起信論』理解には、言語を媒介としつつ意識と存在を照らし出す思想の構造がみごとに示されている。
     井筒が明かす「東洋思想」には、「西洋思想」の歴史において一貫した課題でありつづけた「時間」の問題が表立っては登場せず、存在をめぐる思索の運動があくまで「空間」的に表出されている点が目をひく。この空間は、だが、もとより外的空間ではなく言語空間であり、井筒自身はそうした表現は取っていないものの、言語の存在自体を可能ならしめる「場」を隠喩的に表現したものにほかならない。
     ここで注目すべき点は、こうした特性をもつ「東洋思想」を理解する井筒には、言語が仮象であることが自覚され、したがってここにいう言語空間あるいは場は、仮象の空間であり場であると、明瞭に意識されている点である。「形而上学の究極において言語はその機能を失う」のである。だが、じつは言語の機能のこの限界点が照射されるからこそ、その限界領域において意識と存在の問題が言語によって生産的に構成されている瞬間が浮き彫りとなる。限界点はたんなる終点ではなく、未知の可能性出現の起点であり、両者の起滅が同時に明らかになる地点である。
     井筒の思想構築の特質は、テクスト内の言説の展開に忠実にしたがいつつ、限られた数の鍵概念に考察の焦点を合わせ、それらが相互に反発、融合しながら、思想体系のダイナミズムを構成してゆくさまを再現する手法にある。ミクロなレベルの精緻な読みから開始され、語の意味の微妙な震動をとらえつつ、それらがしだいに螺旋的に次元を上昇し、やがて大きな安定的思想構造に帰着する運動を辿る思索は、余人の追随を許さぬ鋭敏な言語感覚によって支えられている。
     概念の卓越した分析をなす井筒の研究に足りないものがあるとすれば、分析が概念を超えて、文やテクスト全体への広がりにまで及ばない点にある。そのため、著者性や読者性といったテクスト論は「東洋思想」の射程に入ってこない。それは言語のもつ行為遂行論的側面への配慮の不足であり、場合によっては社会性、歴史性、倫理性の欠如につながる可能性もある。
     (注:本論は日本宗教学会第74回学術大会(2015.9.6創価大学)で発表した内容の英文版である。そのため本要旨は『宗教研究』第89巻別冊(2016.3発刊予定)所収の要旨と重なりがある)
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