明治期に原田庄左衛門によって経営された出版社の博文堂は、東海散士の『佳人之奇遇』などを発刊したことで知られるが、明治20年代には業績が下降して1901(明治34)年に一旦廃業届を提出する。しかし、1908(明治41)年頃より庄左衛門の次男である油谷達が、大阪においてコロタイプなどを用いて高品質な古書画や古美術を出版する会社として再興し、中国の代表的な文化財の複製にも携わり、全国的にも再び知られるようになる。しかし、廃業から再興をまでの時期にあたる1902(明治35)年から1908年までの間においても写真や絵葉書に関する出版に携わっていたことは断片的に知られているものの、その活動の概要や、経営者が油谷達に交代し大阪に拠点を移転した時期などは詳らかではない。それに対して、近年原田家の子孫宅から発見された同社の控簿や発行された写真によって博文堂の1902年から1908年の活動の内容が明らかになりつつある。さらに控簿からは、博文堂が庄左衛門の弟で写真師でもある小川一眞の写真館の近隣に拠点を設け、小川と関連する写真を多数出版していることが判明し、小川が博文堂の再興に大きく関わっていることが明らかになった。本論では博文堂の1902年から1908年までの活動の経緯を、写真師小川一眞との関わりの中で詳らかにすることで、明治後期における写真出版事業の一端を明らかにする。