安部公房原作、勅使河原宏監督という協働形式で映画化された「失踪三部作」の中で、仮面を通じて妻との関係回復を試みる男の仮面劇である『他人の顔』(1966)と、失踪者を探すうちに自分自身が失踪者となる探偵を描く『燃えつきた地図』(1968)の二作では、主人公「ぼく」の同一性の危機は、他者の「彼」との分身関係において浮上してくる。本稿は、分身モチーフを共有するこの二作において、勅使河原がいかに顔の同一性以外の視覚コードを通じて、分身表象を構築したかについて考察した。
まず、『他人の顔』に見られる顔の癒着性を、顔を失った「ぼく」と医者の主体/客体の境界線の曖昧化に結びつけて論じた。そのうえで、仮面をつける施術エピソードに対する鏡像段階理論の有効性を確認しつつ、二人の関係性を自我・鏡像という次元へ還元した。
続いて、小説『燃えつきた地図』における双眼鏡のモチーフと映画における望遠レンズに親和性を見いだし、カメラ視点は映像に現前しない失踪者の視点であるという仮説を立てた。その仮説に基き、映画では探偵と失踪者の視線の二重化という潜在的な構造を通路として、二人の融合に到達することを指摘した。
本稿は、原作と照らし合わせながら、この二作に見られる分身表象から、「ぼく」と「彼」=もう一人の「ぼく」という開放的な分身の図式を抽出し、視覚装置としての映画における分身表象の可能性を検討した。
抄録全体を表示