韓国において在日朝鮮人は同じ民族でありながらも本国の人々とは一線を画す存在として認識されてきた。新聞、漫画、映画などのメディアに表れた在日朝鮮人のステレオタイプはこのことをよく示している。ところがそもそも在日朝鮮人がこのように宙ぶらりんの状態を強いられ、「表象の重荷」を負わされてきたのはなぜだろうか。その答えを探るべく、本稿では在日朝鮮人が映画に登場するまでの空白の期間中に量産された朝鮮戦争映画に見られる変化を調査し、その上で在日朝鮮人が登場する最初期の作品『望郷』(金洙容、1966年)を分析する。
1960年代の戦争映画は「国連軍の不可視化」、「死の国民化」を通して朝鮮戦争の記憶を国民国家の起源に関する神話に変換することで、休戦ラインを国境とする限られたものとしての国民を想像させた。在日朝鮮人は朝鮮半島が排他的な国境線によって区切られ、分断体制が固着化するなかで韓国映画に登場した。北朝鮮帰国事業を題材として取り上げた『望郷』には在日朝鮮人が国境を越える越境的な存在として登場する。ところが反共のフィルターがかかり、コロニアルからポストコロニアルへの歴史性が捨象されることで、在日朝鮮人は敵としての北朝鮮を前景化する過剰冷戦の論理に取り込まれる。以上の分析を通して、韓国映画における在日朝鮮人の表象に植民地期から朝鮮戦争後に至る韓国の近現代史の桎梏が集約されていることを明らかにする。
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