本稿の目的は,明治期以降の軽井沢が欧米人に由来する避暑地として形成されるのと同時期に,療養地としても意味づけられていく過程を明らかにすることである.1881年以降,陸軍高崎兵営を中心に多数の脚気患者が軽井沢へ転地療養し,症状の改善や死亡率の低下が報告されると,その「効果」は陸軍で共有されるようになった.日露戦争期には脚気以外の疾病や負傷にも対応する傷病兵転地療養所が置かれた.他方,1886年のコレラ流行時の海軍において軽井沢は「無病地」と認識され,退避先の候補地であった.軍人のほか民間人や女工も脚気療養に訪れた一方で,他の慢性疾患の療養地としても宣伝されていく.大正期には「療養地軽井沢」を象徴していた脚気に代わって結核の療養が台頭し,療養地の意味づけは多様化する.近代軽井沢の形成は,たんに欧米人による避暑地の発見を契機とするのみならず,健康と場所をめぐる相互作用のなかで進行したと解することができる.