ジェンダー史学
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論文
ベ平連と女たち
――結成期の長崎ベ平連を中心に――
港 那央
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2022 年 18 巻 p. 47-61

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抄録

「ベトナムに平和を!」市民連合(以下、ベ平連1 )は、1965年のアメリカによる北ベトナム爆撃に対する抗議運動が世界的興隆を見せるなかで、同年4月に日本で誕生したベトナム反戦市民運動体である(油井 2019、2, 95-105頁)。ベ平連は「個人原理」と呼ばれる方針により、個人の自発性を尊重し、運動内部にはピラミッド型組織に見られるような上下関係をつくらなかった。非暴力を原則とし、会員制度や幹部を設けず、誰でもベ平連を名乗り運動を始めることができた(小熊2009b、312頁 ; 平井 2020、85-86頁 ; 吉川 2011、64-68頁)。以上の運動スタイルが一因となり、最初に結成された東京のベ平連が1974年に解散するまでに、日本各地で数百ものベ平連が誕生した。これらは地域ベ平連と呼ばれる。

本稿は、地域ベ平連の一つである、1968年1月末に長崎県長崎市で結成された長崎ベ平連に焦点を当て、長崎ベ平連結成期の中心人物の語りを通して、その人物の運動参加経緯を明らかにしながら、運動のジェンダー化過程を分析することを目的とする。

本論に入る前に、先行研究を以下の三点から検討し本稿の課題を示したい。まず、平井一臣(2005)は、それまで主に明らかにされてきたのは東京のベ平連の運動であるため、資料収集やインタビュー調査を行い、地域特性に留意しながら、各地の地域ベ平連の動向を検討したうえで、ベ平連の運動全体を再検討する必要があることを主張した。先行研究の地域的偏向の背景には、語り、記録し、保存し/されえた手記や回顧録が東京のベ平連の「知識人」によるものが多かったことがある。

次に、松井隆志(2016)は、東京のベ平連の中心メンバーはほぼ男性であり「そこに時代の限界もあった」(12頁)と注釈にて言及した。つまり、従来のベ平連研究は「東京」の「知識人」の語りを中心に評価してきたと同時に、「男性」の語りを中心とした分析だったのである。これを踏まえて先行する地域ベ平連研究を見ると、黒川伊織(2015)・平井(2005)はそれぞれベ平連こうべ、金沢ベ平連の運動内部でセクシズム告発の動きがあったことに注目している。しかし、両者は各地域ベ平連が向き合う課題の変容・展開を示す複数の例のうちの一つとして挙げているため、告発の経緯や、運動においてセクシズムがなぜ、いかに稼働していたのかを詳細には明らかにしていない。

最後に、阿部小涼(2020)は、東京のベ平連のデモの常連でもあった新宿ベ平連の古屋能子が残したさまざまなテクストから、特に「八月沖縄闘争」をめぐって「ベ平連」の運動内外から向けられるセクシズムに抵抗し、記録に残されないと思われる女性たちの闘争を自らが記録しようとも努めた古屋の姿を掘り起こした。「ベ平連」に参加した女性論客や書き手は一定数いたにもかかわらず、その省察が十分になされていないことを指摘し、それらをジェンダー・トラブルとして再読することの重要性を提起したのである。まさに古屋が記録しようと努めたような、そもそも記録されることのなかった無名の女性の闘争、自ら書き残すことのできなかった、あるいは聞き手の不在により語りえなかった無名の女性の思想や行動が、オーラル・ヒストリーの蓄積をともなう地域ベ平連研究によって掘り起こされる可能性を示唆している。

本稿は、これらの先行研究では十分に明らかにされてこなかった「地域」「無名性」「女性」に着目し、長崎ベ平連結成期の中心的人物であったK.T. のオーラル・ヒストリーを中心に運動におけるジェンダー化された運動当事者と記録の問題に焦点を当てる。長崎ベ平連結成期の資料は極めて少なく2、特にK.T. が運動に中心的に関わったことを示すもの3 は、警察による尾行や複数回にわたる実家への訪問などといった嫌がらせを受けてK.T. が資料の保存を断念した4 ため、ほとんど残されていない。資料分析はオーラル・ヒストリーに大きく限定されるものの、運動参加当事者・周辺の運動参加当事者へのインタビュー調査5 の実施と、結成期の長崎ベ平連に関わる周辺組織・人びとの記録や報道の分析を行いながら、運動や記録にジェンダーがどのように働きかけたのかを検討したい。

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© 2022 本論文著者
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