ジェンダー史学
Online ISSN : 1884-9385
Print ISSN : 1880-4357
ISSN-L : 1880-4357
最新号
選択された号の論文の5件中1~5を表示しています
論文
  • ――グローバル・ヒストリーの一断面としての分析――
    並河 葉子
    2023 年 19 巻 p. 5-20
    発行日: 2023/10/13
    公開日: 2024/10/13
    ジャーナル フリー

    グローバル・ヒストリーとジェンダー史はどのように接合させ得るだろうか。あるいは、グローバル・ヒストリーにジェンダーの視点を取り入れることで、どのような歴史の実相があらたに見えてくるだろうか。ここでは、18世紀末から19世紀にかけて、つまりヨーロッパ側で反奴隷制運動が本格化し始めた時代のイギリス領西インドの奴隷制プランテーションにおける奴隷たちの暮らしの変化を「ジェンダー」を分析概念として読み解き、グローバル・ヒストリーとの接点を具体的に考えてみたい。

    大西洋奴隷貿易はいうまでもなく地域横断的な労働力移動であり、ブラック・ディアスポラの起点となった。イギリスはこの奴隷貿易を他国に先駆けて1807年に廃止し、続いて1833年に奴隷解放した後、国際的な奴隷貿易及び奴隷制廃止に向けて活動した。結果として、19世紀の間に「奴隷制は不自由であり非人道的である」との道徳規範が世界化し、「奴隷貿易」や「奴隷制」が世界から表向きはほぼ姿を消すことになり、奴隷にかわって新たに「自由な」契約労働者のグローバルな移動を生むことになった。この事実だけでも、近代世界における大西洋奴隷貿易や奴隷制がグローバルヒストリーとして語るにふさわしいテーマであることは言うまでもない。それでは、ここにジェンダーの視点を取り入れると何が見えるだろうか。

    これまで奴隷貿易や奴隷制についてはジェンダーレスに語られることが多かった。しかし、近年公開が相次いでいる奴隷貿易や奴隷制プランテーション関連のオンライン・データベースは、奴隷貿易によってアフリカ各地から大西洋を越えてアメリカ地域に移送されていた人びとの中に成人男性だけではなく、女性や子どもたちが相当数含まれていたことを明らかにしている。

    1780年代からイギリスやフランス、スペインの西インド植民地では、奴隷制改善によってより人道的な奴隷制を目指す動きがみられたが、そこで講じられた具体策のほとんどは女性や子どもたちに向けられたものであった。ここでは、1780年代から1830年代までのイギリス領西インド植民地をとりあげる。この間、イギリス領では奴隷制改善の時代を経て奴隷が解放されることになる。不自由な奴隷から自由人への移行は、奴隷たち、とくに女性や子どもたちの生きる環境にどのような変化をもたらしたのだろう。また、その背景には何があったのだろう。奴隷制の在り方は時代とともに変化していったが、そこにはグローバルな環境に対応しようとしたプランターや植民地当局の姿勢が反映されているだけでなく、奴隷たち自身の生存戦略も垣間見える。以下では、イギリス領西インド植民地で奴隷制が改善から廃止へと変化した18世紀末から19世紀半ば、奴隷から自由人へと移行するプロセスを所有者たちと奴隷自身がそれぞれどのように受け止めたのか、女性たちの「生きること」と「働くこと」の関係性に注目しながら考えてみたい。

  • 嶽本 新奈
    2023 年 19 巻 p. 21-34
    発行日: 2023/10/13
    公開日: 2024/10/13
    ジャーナル フリー

    グローバル・ヒストリーにジェンダーの分析視座を組み入れたとき、どのような叙述が可能となり、どのような歴史的状況を浮かび上がらせることができるのだろうか。本稿ではこの疑問を念頭に、グローバル・ヒストリーと海を渡って性売買を経済的営為としていた「からゆきさん」を接続させてみたい。

    まずは「からゆきさん」を簡単に説明しておきたい。「からゆきさん」とは、日本の開国以降に海外へ渡り、渡航先で性売買を経済的営為としていた女性たちを意味する。元は九州北西部の方言であり、漢字で「唐行きさん」と表記するように、「唐(から)」へ「行く」人を指した言葉だった。「唐」は当時の中国だが、厳密な国としての中国ではなく、海の向こうの国々を総じて「唐」と呼んでいたようである。当初は外国へ〈出稼ぎ〉1 に行った人々のことを男女の区別なく「からゆきさん」と呼んでいたが、次第に〈出稼ぎ〉先が娼館やそれに類する料理店ばかりとなり、いつしか「からゆきさん」といえば、海外で性売買をしていた女性を指す言葉となっていったという(森崎 1976、18-19)。

    「からゆきさん」の出身地としては長崎県の島原半島と熊本県の天草がよく知られている。これは島原の口之津に石炭積み出しのための国際船も停泊できる口之津港があり、ここから女性たちが石炭とともに密航で送り出されていたからである。この港は海を挟んで天草ともまた近い場所にあった。本稿で扱う、ある「からゆきさん」もこの港からシンガポールへ渡ったひとりである。

    この海外へ〈出稼ぎ〉に行った「からゆきさん」とグローバル・ヒストリーの接点を考える際には、アン・ローラ・ストーラーの研究が参考になると思われる。周知のように、ストーラーは植民地期のオランダ領東インドでの植民者と現地人との「親密な関係」について考察した研究者である。「性を考えること、つまり誰が誰といつどこで関係するかを考えることは、支配のミクロな次元に近づくことなのであり、同時に植民地主義のマクロな政治学についてわれわれが知っていると考えていることの再考を意味する」とストーラーは述べている(ストーラー 2010、22)。

    植民地における植民者と被植民者との「親密な関係」や「誰が誰といつどこで関係するかを考えること」を促すストーラーの問題提起は、「からゆきさん」を考察する際にも重要な示唆として受け止められるべきである。もちろん厳密にいえば「からゆきさん」は被植民者ではなく、貧困ゆえに〈出稼ぎ〉に出た女性たちではある。しかし、これまでの「からゆきさん」への問題関心は、渡航先で性売買をしていた/させられていたことが重視され、娼館内部やそこを出てからの女性たちの経験というものにそこまで関心は払われてこなかった。ましてや「親密な関係」についてはこれまでほとんど考察されてこなかったといってよいだろう。非対称的な権力関係が厳然と存在する渦中で、性売買という形で性を搾取された女性たちの問題を考察することはもちろん重要だが、ストーラーの提起を踏まえるならば、「からゆきさん」が誰とどのような関係をもったのかという「親密な関係」についても考察を深める必要があるということになるだろう。

    その手がかりとして本稿では、ある「からゆきさん」の語りを取り上げる。島原からシンガポールに渡航し、娼館に勤めた後にイギリス人男性に身請けされたという彼女の個人的な経験からどのような風景が見えてくるのか考えてみたい。

  • ――満洲からの帰還者の事例を通じたエイジェンシー概念の再検討――
    山本 めゆ
    2023 年 19 巻 p. 35-50
    発行日: 2023/10/13
    公開日: 2024/10/13
    ジャーナル フリー

    戦争や植民地支配とそれに関連した暴力は、多くのジェンダー史学者の関心を集めてきた領域のひとつである。そこでは、男性は兵役、女性は銃後といった二元的な分業が近代国家の創出と軌を一にして確立されたことや、組織的な戦闘行為と男らしさとの結びつきがいかに可変的であるかなどが強調されてきた。女性たちの従軍はとりわけ反植民地闘争において顕著で、18~19世紀の西アフリカのダホメ王国では女性は軍隊の中核を担い、1890年代にフランスが侵攻した際にも戦闘に従事しているほか、20世紀後半のジンバブエ独立戦争では女性が民族解放軍の戦闘員の4分の1を占め、部隊を指揮することも少なくなかった(弓削 2021; Wiesner-Hanks 2022)。これらは西欧中心主義的なジェンダー史の相対化に貢献しうる事例として、今後いっそう検討が進められていくだろう。

    同時に、軍事的侵攻や占領といった被抑圧状況に置かれた地域ではしばしばジェンダー二極化が観察されてきたことから、それらについての研究も蓄積されてきた。女性の身体は「軍需品」や「戦利品」となり、敵兵による性的攻撃の「防波堤」にもなり、女性たち自身も生きのびるために性的な取引を強いられる。自集団の防衛や治安維持のために利用されたとしても、女性に性を差しだすことを要求しながら貞操義務を課す家父長制のもとでは、被害者の方が白眼視されるという倒錯も起きる。

    それらを論じるうえで大きな課題となるのは、圧倒的な被抑圧状況に置かれた性暴力被害者の姿をいかに記述するかという問題である。彼女たちは自身の意思で行為する余地がなかったとみなすか、それとも極限状況において発揮されたささやかな抵抗や生き延びたこと自体にそれを認めるのか。リスペクタブルな性規範から逸脱するような言動が見えかくれするとき、それらをささいなノイズとして除斥するか、ノイズにこそ照準するのか。大多数の被害者たちがその過去を記憶の底に沈めたまま生涯を閉じるなか、まれに沈黙を破る人びとが現れるが、そのような例外をもたらすのは主体なのか構造なのか。ここでは被害者となった人びとの尊厳を守り、名誉を回復するための努力とともに、自己/主体/エイジェンシーをいかに理解するかが問われることになる。

    この問いをグローバルに拓いたとき、われわれは西欧的な人間観に基づいた記述そのものを見直し、再考する必要に迫られる。人類学者のクリフォード・ギアツが、主体を自律的で境界を備えた存在とみなす理解は西欧という一地方で普及した人間観にすぎないと喝破したのは、すでに半世紀も前のことだ。「個人とは、境界をもつ唯一無二の存在であり、ある程度統合された動機的・認知的な系であり、ひとつのまとまりをなす意識・感情・判断・行為の動的源泉であって、他の系にも、また背景となる社会や自然に対置されるものとする西欧的な人間観は、どれほど根強いものに思われようとも、世界の文化という文脈においてはひとつの特殊な考えにすぎない」(Geertz 1979, 59)

    近年、日本の戦時性暴力研究をめぐる議論においても、自己/主体/エイジェンシー理解がたびたび焦点となっている。本稿ではその蓄積を踏まえつつ、西欧近代的な主体理解とは異なる理解のあり方を模索してみたい。

    注目するのは、満蒙開拓団の一員として岐阜県加茂郡黒川村(現・白川町)から送りだされた黒川分村開拓団(以後、黒川開拓団)と、その女性たちである。後述するように、敗戦によって支配集団の座から転落した黒川開拓団の人びとは団を守るためとしてソ連軍の将校を「接待」し、その 一環として女性を供出した。2010年代後半からは、女性たち数名がルポルタージュ、テレビドキュメンタリー、新聞報道などにも頻繁に登場し、「接待」経験について語ってきた。彼女たちは、日本の戦時性暴力の被害者のうち唯一本名で取材を受け、一般聴衆を前に講演を行ってきた人びとということになる。そのような意味で例外的な存在である女性たちが、現在のような語り継ぎを行うようになるまでの経緯を検討することは、先述の課題を解きほぐす作業の一助となるだろう。

    構成は以下の通りである。第2節では、性暴力被害者の自己/主体/エイジェンシーがいかに論じられてきたかを概観するために、「自決を神聖化するフレーム」「『性奴隷制』フレーム」「『抑圧史観からの解放』を強調するフレーム」という3つのフレームを示す。第3節では、黒川開拓団の概要と敗戦から「接待」までを短く描出する。第4節では、前節までの整理を踏まえ、黒川遺族会と女性たちの戦後を、①「乙女の碑」建立、②「乙女」たちの紐帯維持、③満蒙開拓平和記念館(長野県下伊那郡)での講演という場面に注目しながら描き、彼女たちの道のりが周囲との協応の産物であったと主張していく。なお、「接待」被害者のうち佐藤ハルエと安江善子は満蒙開拓平和記念館で講演を行ったことから、本稿では実名で記述する。

  • ――アメリカ合衆国における産科麻酔の導入をめぐって――
    天野 由莉
    2023 年 19 巻 p. 51-62
    発行日: 2023/10/13
    公開日: 2024/10/13
    ジャーナル フリー

    1846年の晩秋、ボストンのマサチューセッツ総合病院において、医療の歴史を塗り替える重大な発明がなされた。エーテルの鎮痛効果に注目した歯科医の提案により、はじめての無痛の外科手術が実現したのである。この知らせは瞬く間に大西洋を横断した。1847年にはエディンバラ大学で産科を担当していたJ.Y. シンプソン(James Young Simpson)が、出産においてエーテル、のちにクロロフォルムを麻酔として使用し、そのメリットと安全性を主張した。産科麻酔の必要性や安全性については、医師たちの間でその後も長く論争が交わされ、ある意味では現在に至るまで、出産の痛みに対して医師がどう働きかけるべきか議論は続けられていると言えるだろう。しかし、出産の苦しみを逃れようと願う女性の切実な思いに動かされるように、産科麻酔は19 世紀中頃以降、大西洋の両岸で広く用いられ、産婆に代わって産科医が支持されるようになる大きな要因の一つとなった(Wolf, 2009)。

    本論文は、産科麻酔が導入された当時の医師の記録を検討し、当時の医師が女性の痛みの問題や、それに対処する自らの役割についてどのように語っていたか分析するものである。具体的には、アメリカ合衆国(以下、アメリカ)において産科麻酔の普及に尽力した産科医、W. チャニング(Walter Channing)1 の記録を中心に、麻酔が導入された当時の医師と女性の関係を読み解いていく。特に、男性産科医が出産における女性の主体性を侵食していくとされる時代において、女性の苦しみに寄り添う共感のジェスチャーが、男性医師にとって重要な意味をもっていたことに注目したい。

    チャニングが活躍した19世紀の前半は、アメリカにおいて男性産科医の存在が受け入れられていった時代と重なる。特に都市部の中・上流階級の女性たちが、出産の苦しみや恐怖、リスクから逃れるために、産婆が持たない専門知識や技術を持つとされた男性医師を出産に立ち合わせるようになった。当時の医師はこうした変化を「医療の専門化」の過程として歓迎し、積極的に推し進めたが、実際には当時の産科学は「不確かな学問」(Kass 1995, 203) に過ぎず、出産の安全性を向上させることにはほとんど寄与しなかった。伝統的に、女性たちは出産を自然のプロセスとみなしていたが、当時の医師は出産を病理的プロセスとみなし、道具などを用いて積極的に介入する傾向にあった。当時の記録を精査した歴史家たちは、産婆に比べて介入主義的で経験の乏しい男性医師が、むしろ母子を危険に晒していた実態を明らかにしている(e.g., Ulrich 1989)。

    18世紀から19世紀にかけて、それまで女性同士の助け合いの中で行われてきた出産に男性医師 が直接介入するようになったことについては、これまでも多くの歴史家が論じてきた。特に1970年代以降、第二波フェミニズムの薫陶を受けた歴史家たちが、男性医師が産婆から権威を剥奪し、出産における女性の主体性を侵食していった過程を批判的に描き出した(e.g., Wertz 1977; Bogdan はじめに1978; Dye 1980; Ulrich 1990)。これらの歴史家は、女性たちが書き残した資料を丁寧に読み込み、男性医師の台頭によって女性たちが自分自身の身体に関する知識や自己決定権から疎外されていった側面に光を当てた。これらの研究成果を、アメリカにおいて産科医という職業集団が台頭していくより大きな歴史の流れの中に位置付けると、19世紀を通して男性医師が女性の身体や精神を徐々に支配していったプロセスが明らかになる。女性を生来的に弱く繊細な存在として位置付ける19世紀のジェンダー観を裏付けるように、当時の医師は男女の身体的差異を強調し、女性の不安定な心身を正常に保つために、医師が積極的に介入していく必要性を主張した(Haller and Haller 1974; Barker-Benfield 1976; McGregor 1998)。麻酔の使用や殺菌手術法が普及した19 世紀の後半には、女性の心身の不調に対する治療法として、卵巣や子宮の摘出手術など、大胆な外科的介入が行われるようになった(Framton 2018)。一方で、「女性らしい」繊細さの埒外に位置付けられた黒人女性や貧しい移民女性は、しばしば医師による実験的治療の対象となり、産科分野の発展に望まぬ貢献を強いられることとなった(Cooper Owens 2017)。

    このように、19世紀を通じて男性医師が女性の心身に対する支配を強化していった側面に光が当てられてきた一方で、当時の産科医が書き残した診療記録や日記を精査した歴史家たちは、彼らが専門家として地位を確立したいと願いながらも、思うように出産のプロセスや結果をコントロールできない現実に苦しめられ、試行錯誤していた実態を明らかにしている(Leavitt 1986; Stowe 1990; Kass 1995)。また、これらの研究は19世紀の出産の多くが、依然女性たちの親密な集まりの 中で行われ、産科医はしばしば産婦や介添えの女性たちと意見を擦り合わせながら仕事をしていたことを指摘している。歴史家のA. キャスは、当時の産科医が実際の臨床においては、歴史家たちが主張してきたようには権威主義的に振る舞うことができず、むしろ女性たちの苦しみを和らげるために真摯に努力していたことを指摘している(Kass 1995)。これらの研究は、少なくとも白人の中・上流階級の女性たちに焦点を絞った場合、産科医と産婦の関係が単純な上下関係ではなく、時に相互の信頼に基づく複雑な協力関係によって成り立っていた可能性を示唆している。

    これらの先行研究2 を踏まえ、本論文では19 世紀を通して強化されていく男性医師と女性患者とのジェンダー化された権力関係を前提に、医師が語る女性の痛みに対する共感のジェスチャーの意味や作用を、批判的に読み解いていきたい。後に見るように、チャニングら産科麻酔の普及に尽力した医師たちは、症例報告の中でしばしば直接話法を用いて女性たち自身に痛みや苦しみを語らせ、現場の切迫感を伝えている。同時に、女性たちの苦しみに真摯に寄り添い、それを取り除くために力を尽くそうとする自らの心情や行動を仔細に描写している。彼らが語る内容を無色透明の真実として受け取ることはできないが、同時に彼らの語りの特徴を無視することも適切ではない。近年感情史の分野で指摘されてきたように、個人の感情は、各自の内面で生じる「本質的」反応であると同時に、社会的に「構築」されるものでもあり、その「真実性」を問うことには歴史学的にはほとんど意味がないと言えよう。より重要なのは、特定の歴史的文脈の中で、その人物ないし集団が選んだ感情表現がどのように作用し、権力や秩序を形成していくかという問題である。近年医学史の分野でも、感情史の流れを汲んだ新しい研究が蓄積されつつあり、特に患者の痛みや苦しみについて医師が書き残した内容を、こうした視点から再検討する試みが行われている。例えば、 A.アーノルド= フォスターやM. ブラウンといった歴史家は、19世紀の外科医が書き記した患者の 痛みに対する共感のジェスチャーを、当時の外科医の社会的地位や医学的権威をめぐるポリティクスの中に位置付けて批判的に検討している(e.g. Arnold-Foster 2021; Brown 2022)。本稿は、こうした研究の手法を参照しつつ、チャニングや彼と同時代の医師たちが語る共感のジェスチャーの作用を分析したい。特に、彼らが女性の痛みに寄り添い、その苦しみを取り除こうと力を尽くす自らの心情や行動について語りながら、男性産科医の存在意義や彼らによる介入の正当性を強調するナラティブを構築していることを明らかにしていく。

海外の新潮流
  • ――ロシア帝国・ソ連ジェンダー史の研究動向――
    畠山 禎
    2023 年 19 巻 p. 75-85
    発行日: 2023/10/13
    公開日: 2024/10/13
    ジャーナル フリー

    ロシア帝国やソ連邦に関する女性史・ジェンダー史研究は、これまで欧米の研究者が牽引役となって進められてきた。ごく大まかに言うならば、1960~70年代より女性運動史研究が開始され、つづいて女性史や家族史が研究の中心となり、90年代後半以降はジェンダー史研究が本格化している。欧米などで確立した研究方法を採り入れて、欧米やロシアの研究者が事例研究を深化させ、着実に成果を蓄積してきた。現在は、女性史から男性史やグローバル史へと研究を展開させていくことが課題となっている。

    この地域の歴史研究全般に当てはまることであるが、1991年のソ連邦崩壊が女性史・ジェンダー史の研究環境を大きく好転させた。『20世紀ロシア・ソ連の女性史・ジェンダー史ハンドブック』の編者でソ連女性史を専門とするイリッチは、その状況をつぎのように要約している。第一に、一次史料へのアクセスが容易になった。欧米の研究者がロシアや旧ソ連邦構成国のアーカイヴで調査を行うようになった。現地住民を対象とする調査も可能になった。第二に、ロシアなどで研究者の養成、テーマの選択、成果公開における自由度が高まった。欧米の研究者とロシアの若手研究者との共同研究が実現した。若手とくに女性の研究者が女性史やジェンダー史を研究テーマに選択し、成果を英語に翻訳して発表するようになった(Ilic 2018, 2)。

    現在では女性史・ジェンダー史研究のテーマ、利用する史料、方法は多様化している。イリッチ編のハンドブックは31篇の論文を所収し、それらのテーマは書誌・自伝研究、ロシア・ソ連の芸術様式や通信・プロパガンダの視覚的文化的分析、日常・非日常生活の別側面を発掘した社会文化研究、「女らしさ」「男らしさ」構築の理解や解説に貢献する文学研究、ソ連時代のセクシュアリティとソ連後のその変化、女性の労働生活と平等への闘争、ジェンダーを分析するための情報源としてのユーモアや風刺、法令とマスメディアの報道、オンラインでの公開討論からうかがえる女性の生活における機会と選択の構造、などからなる(Ilic 2018, 2–5)。

    ソ連邦崩壊後、ジェンダー研究の拠点がロシアやウクライナなどの各地に開設された。欧米で培われた研究理論が、ジェンダー史研究の第一人者であるプシュカリョーヴァらによって紹介された。現在では欧米の大学や研究機関で研究活動に従事するロシア人も珍しくない。ムラヴィヨーヴァ、ノーヴィコヴァ編『ロシア女性史――研究領域の(再)構築』(Muravyeva, Novikova 2014)はセクシュアリティ、労働・経済とジェンダーなどをテーマとする論文集で、ロシアなど旧ソ連出身者によるジェンダー史研究の一到達点を示している。

    ただ、ロシアで女性史・ジェンダー史研究者が置かれている立場は決して良好ではない。ムラヴィヨーヴァとノーヴィコヴァによれば、ロシアの学術コミュニティや社会ではリベラル思想に対するバックラッシュが起きていて、学術的な観念としてのジェンダーやフェミニズムが伝統的な価値観の支持者から攻撃を受けているという。プシュカリョーヴァはロシアの研究潮流において女性史・ジェンダー史は依然としてマージナルな存在だと述べ、アカデミズムが新しい研究方法を却下し、女性に関する研究に「フェミニストの介入」というレッテルを貼る現状を批判する。そして、このような望ましくない状況において地方大学の研究センターが女性史研究を前進させ、歴史学の講座に女性関連のテーマを組み入れていることを高く評価する(Muravyeva, Novikova 2014, xvi, xx)。欧米の非営利組織がロシアの市民社会への移行を支援するにあたり、学問領域としてのジェ ンダー研究の確立や女性組織の創設を前面に出したことも、このバックラッシュの一因であろう。

    よく知られているように、プーチン大統領は統治を強化するための手段としてハイパー・マスキュリニティを戦略的に利用し(Wood 2016)、伝統的な価値観を擁護している。2012年、プーチンは外国エージェントの役割を果たす非営利組織の活動を規制する法に署名した。翌2013年には有害情報から未成年者を保護する法律を改正し、実質的に同性愛関係の宣伝行為を禁止した。2015年には、望ましくない活動を行った外国非営利組織の刑罰について定めている。これらの法律が人権団体の活動を制限しているだけでなく、ジェンダー研究にも間接的な影響を与えている。第一次世界大戦とロシア革命における女性とジェンダーに関する論集の編者であるリンデンマイヤーとストックデイルは、「非伝統的」な性的アイデンティティや性的指向に関わる問題に対しプーチン時代の公式ロシア文化が公然たる敵意を示しているがゆえに、多くの研究者がこのトピックに取り組むことをためらい、セクシュアリティを担当する執筆者を加えることができなかった、と内実を打ち明けている(Lindenmeyr, Stockdale 2022, 10)。

    本稿では、近年とくにソ連時代についての研究が顕著に進展していること、また帝政期の女性史・家族史の研究動向についてすでに別稿で論じていることから(畠山 2012; 畠山2019)、ソ連時代を中心に紹介していく。まず第1 節では、ロシア帝国の専制政治体制のもとでの女性の社会的地位や役割を論じた著作をとりあげる。つづいて第2 節では、ロシア革命期のフェミニズムを再評価する動きについて説明する。第3節では、スターリン体制下の辺境における社会主義建設と女性、強制収容所における女性の日常生活を論じた研究を紹介する。第4節では、戦後ソ連における女性の日常生活やこれと対応関係にあった「男らしさ」の再構築について検討する。

feedback
Top