ロシア帝国やソ連邦に関する女性史・ジェンダー史研究は、これまで欧米の研究者が牽引役となって進められてきた。ごく大まかに言うならば、1960~70年代より女性運動史研究が開始され、つづいて女性史や家族史が研究の中心となり、90年代後半以降はジェンダー史研究が本格化している。欧米などで確立した研究方法を採り入れて、欧米やロシアの研究者が事例研究を深化させ、着実に成果を蓄積してきた。現在は、女性史から男性史やグローバル史へと研究を展開させていくことが課題となっている。
この地域の歴史研究全般に当てはまることであるが、1991年のソ連邦崩壊が女性史・ジェンダー史の研究環境を大きく好転させた。『20世紀ロシア・ソ連の女性史・ジェンダー史ハンドブック』の編者でソ連女性史を専門とするイリッチは、その状況をつぎのように要約している。第一に、一次史料へのアクセスが容易になった。欧米の研究者がロシアや旧ソ連邦構成国のアーカイヴで調査を行うようになった。現地住民を対象とする調査も可能になった。第二に、ロシアなどで研究者の養成、テーマの選択、成果公開における自由度が高まった。欧米の研究者とロシアの若手研究者との共同研究が実現した。若手とくに女性の研究者が女性史やジェンダー史を研究テーマに選択し、成果を英語に翻訳して発表するようになった(Ilic 2018, 2)。
現在では女性史・ジェンダー史研究のテーマ、利用する史料、方法は多様化している。イリッチ編のハンドブックは31篇の論文を所収し、それらのテーマは書誌・自伝研究、ロシア・ソ連の芸術様式や通信・プロパガンダの視覚的文化的分析、日常・非日常生活の別側面を発掘した社会文化研究、「女らしさ」「男らしさ」構築の理解や解説に貢献する文学研究、ソ連時代のセクシュアリティとソ連後のその変化、女性の労働生活と平等への闘争、ジェンダーを分析するための情報源としてのユーモアや風刺、法令とマスメディアの報道、オンラインでの公開討論からうかがえる女性の生活における機会と選択の構造、などからなる(Ilic 2018, 2–5)。
ソ連邦崩壊後、ジェンダー研究の拠点がロシアやウクライナなどの各地に開設された。欧米で培われた研究理論が、ジェンダー史研究の第一人者であるプシュカリョーヴァらによって紹介された。現在では欧米の大学や研究機関で研究活動に従事するロシア人も珍しくない。ムラヴィヨーヴァ、ノーヴィコヴァ編『ロシア女性史――研究領域の(再)構築』(Muravyeva, Novikova 2014)はセクシュアリティ、労働・経済とジェンダーなどをテーマとする論文集で、ロシアなど旧ソ連出身者によるジェンダー史研究の一到達点を示している。
ただ、ロシアで女性史・ジェンダー史研究者が置かれている立場は決して良好ではない。ムラヴィヨーヴァとノーヴィコヴァによれば、ロシアの学術コミュニティや社会ではリベラル思想に対するバックラッシュが起きていて、学術的な観念としてのジェンダーやフェミニズムが伝統的な価値観の支持者から攻撃を受けているという。プシュカリョーヴァはロシアの研究潮流において女性史・ジェンダー史は依然としてマージナルな存在だと述べ、アカデミズムが新しい研究方法を却下し、女性に関する研究に「フェミニストの介入」というレッテルを貼る現状を批判する。そして、このような望ましくない状況において地方大学の研究センターが女性史研究を前進させ、歴史学の講座に女性関連のテーマを組み入れていることを高く評価する(Muravyeva, Novikova 2014, xvi, xx)。欧米の非営利組織がロシアの市民社会への移行を支援するにあたり、学問領域としてのジェ ンダー研究の確立や女性組織の創設を前面に出したことも、このバックラッシュの一因であろう。
よく知られているように、プーチン大統領は統治を強化するための手段としてハイパー・マスキュリニティを戦略的に利用し(Wood 2016)、伝統的な価値観を擁護している。2012年、プーチンは外国エージェントの役割を果たす非営利組織の活動を規制する法に署名した。翌2013年には有害情報から未成年者を保護する法律を改正し、実質的に同性愛関係の宣伝行為を禁止した。2015年には、望ましくない活動を行った外国非営利組織の刑罰について定めている。これらの法律が人権団体の活動を制限しているだけでなく、ジェンダー研究にも間接的な影響を与えている。第一次世界大戦とロシア革命における女性とジェンダーに関する論集の編者であるリンデンマイヤーとストックデイルは、「非伝統的」な性的アイデンティティや性的指向に関わる問題に対しプーチン時代の公式ロシア文化が公然たる敵意を示しているがゆえに、多くの研究者がこのトピックに取り組むことをためらい、セクシュアリティを担当する執筆者を加えることができなかった、と内実を打ち明けている(Lindenmeyr, Stockdale 2022, 10)。
本稿では、近年とくにソ連時代についての研究が顕著に進展していること、また帝政期の女性史・家族史の研究動向についてすでに別稿で論じていることから(畠山 2012; 畠山2019)、ソ連時代を中心に紹介していく。まず第1 節では、ロシア帝国の専制政治体制のもとでの女性の社会的地位や役割を論じた著作をとりあげる。つづいて第2 節では、ロシア革命期のフェミニズムを再評価する動きについて説明する。第3節では、スターリン体制下の辺境における社会主義建設と女性、強制収容所における女性の日常生活を論じた研究を紹介する。第4節では、戦後ソ連における女性の日常生活やこれと対応関係にあった「男らしさ」の再構築について検討する。
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