2022 年 18 巻 p. 75-85
2022年4月21日、「誰もがありのままに暮らしていける社会」を掲げたレインボーさいたまの会が、「埼玉県LGBTQ 条例案のパブコメが、トランスジェンダーの差別を煽る反対意見で荒れに荒れています」とツイートし、危機感を表明して支援を呼びかけた1 。「埼玉県LGBTQ条例」とは、自民党埼玉支部連合会が公表した「埼玉県性の多様性に係る理解増進に関する条例(仮称)骨子案」を指す。この条例案は「何人も、性的指向又は性自認を理由とする不当な差別的取扱いをしてはならない」という文言を含む15の条文と附則から構成される2 。4月1日にパブリックコメントの募集が開始されると、「トランスヘイトを行う団体等」が条例制定を阻止するために抗議活動を展開したのである。
日本におけるジェンダー主流化は、男女共同参画社会基本法の制定(1999)と全国の自治体による関連条例の制定がセットで進んだが、こうした潮流のなかで保守政権とそれを支持する保守市民によるバックラッシュが展開した。山口智美や斉藤正美、荻上チキらは2012 年に刊行した『社会運動の戸惑い:フェミニズムの「失われた時代」と草の根保守運動』において、いくつかの男女共同参画推進条例をとりあげ、フェミニストと保守市民との間でみられた係争を批判的に考察している。なかでも、2003年12月に制定された宮崎県都城市の「男女共同参画社会づくり条例」は注目に値する。というのも、この条例は「性別又は性的指向にかかわらずすべての人の人権が尊重され」という文言を導入し、自治体として初めて性的マイノリティの人権を掲げた先駆的な事例となった一方で、まさに「性的指向」をめぐって『世界日報』や保守派の市民や議員からの激しい抗議を喚起したのである(斉藤正美・山口智美2012)。
都城市の事例でみられたように、「埼玉県LGBTQ条例案」をめぐっても「保守」を標榜する草の根の市民が抗議運動を推進している3 。しかし本稿で注目したいのは、埼玉県の条例案をめぐって保守派が「性自認」を標的としているという事実である。驚くべきは、保守派と結託して条例案に対する抗議活動を展開しているのが、2018年頃からトランスジェンダー女性に対する攻撃を続けてきた一部のフェミニストや女性団体であるという点だ。一連の抗議では「性的指向」(あるいは同性愛者やバイセクシュアルに対する差別の禁止)が争点となっているのではない。そうではなくて、「性自認」、とりわけトランス女性が潜在的な犯罪者として焦点化され、パブリックコメントが「トランスジェンダーの差別を煽る反対意見で荒れに荒れてい」るというのである。
埼玉県の条例案に反対する保守団体は次のように懸念を表明する(保守の会2022)。
〔条例案は〕「性自認」を「自己の性別についての認識をいう」と定義付けているが、この定義に従えば、自己申告による性別をそのまま認めなければならない。「性自認が女性」という身体的には男性が、女性専用スペース(公衆トイレや公衆浴場、更衣室等々)に堂々と侵入するなどして、女性に不利益をもたらし、社会的混乱を引き起こしかねない。事実、札幌や大阪ではすでにその種の事件が起きている。「女性スペースを守る会」が「設立趣意書」でも訴えているように、「女性トイレがもし身体男性にも開かれるのであれば、個室に引きずりこまれての性暴力被害、個室の盗撮被害の増加や盗聴さらに使用済みの生理用品を見られたり、持ち出されることも増えるでしょう。警戒心が薄く抵抗する力のない女児や、障害のある女性が性暴力被害に遭いやすくなるのでは、という懸念」について、ぜひ真摯に考えていただきたい。
トランス女性がシスジェンダーの「女性に不利益をもたらし、社会的混乱を引き起こしかねない」として両者の間に敵対的関係があるかのように強調するとき、「保守の会」がそれを根拠づけるために「女性スペースを守る会」の主張を引用しているという事実は示唆的である。なによりも、「保守の会」が性的マイノリティの人権を保障する条例案に反対するために、右派の学者や政治家ではなく、「女性の権利を守るために」結成された団体の主張を根拠にしているという点において 4。そして、「女性の権利を守るために」2021年に結成された団体が、SNSをとおしてトランス女 性に対する憎悪や嫌悪の情動を動員してトランス女性とシス女性の間の対立を強調してきたという点においても。実際、本稿を執筆している4月29日現在、条例推進を呼びかけたレインボーさいたまの会の一連のツイートに対しては、フェミニストや「市井の女性」たちによるトランスフォビアを剥き出しにした攻撃が集中している。
近年、性的マイノリティの権利、とりわけ婚姻平等とトランスジェンダーの権利が、米国や欧州、アフリカ、中東、そして東アジアでも大きな政治的争点となっている。2010年代後半に入ると、ジェンダー平等を標的としてきた保守が、トランス女性の排除・排斥を主張するフェミニストと連携して性的マイノリティの運動やコミュニティの分断を煽る動きをみせるようになった。私が専門とする東アジアでは、韓国がこの点において先駆的な事例である。本稿では、このような問題意識から、トランスナショナルに拡散しているトランスフォビアについて、韓国を中心に検討したい。韓国におけるTERF(Trans-Exclusionary Radical Feminist)の言論活動は後述するように日本のフェミニストにも影響を与えているため、日本の状況を理解するためにも韓国の動向を参照する意義はあるだろう。
以下では、韓国や日本や英語圏の先行研究をレビューしつつ、韓国社会のトランス排除言説について考察を進めていく。第二節では、トランス排除言説が2010 年代後半にフェミニストの間で支持を獲得したことを指摘し、その背景を検討する。第三節では、2000年代に発展を遂げたバックラッシュの構成や歴史的背景を確認する。第四節では、TERFと保守の〈連帯〉の背景にある制度化されたトランスフォビアについて、軍隊に焦点を当てて論じる。第五節で、トランスナショナルに広がるトランスフォビアについて議論を整理する。最後に、トランスフォビアとの闘争が、けっしてトランス/クィア・スタディーズだけでなく、フェミニズムやジェンダー・スタディーズにとっても重要な課題であることを主張する。