幕末の開港によって海外市場を得た日本の茶業は生産流通構造の大転換を経験し,各地で大規模茶業経営が企てられた.本研究では,茨城県西部の畑作地帯である猿島台地を事例に,明治期以降の茶業経営の展開に関する検証を通じ,茶業地域としての特性の検討を試みた.
猿島台地では地主層が茶生産の伝統を活かし,林地を開墾して茶園を開設し,大規模な茶業経営に乗り出した.しかしこの大規模経営の大半は,産地間競争の結果, 1910年までに姿を消した.その要因として自然条件の相対的な悪さと地主層の茶に対する執着心の弱さなどがあげられる.その後,茶生産の中心は中小の農家へ移った.彼らは伝習所などにおいて製茶技術を身につけ,地主層が所有していた茶園を小作し,国内向けの茶の生産を行なった.中小の農家の経営はタバコ栽培を中心にした複合的なものであり,茶生産は副次的なものであった.この茶生産の副次性は技術革新を阻害したが,一方で茶生産を存続させた要因にもなった.