背景:左の頭頂葉病変にともない,他の神経心理学的障害によっては説明できない書字の言語的側面の障害,すなわち純粋失書が生じうる。この症状の改善と,書字の運動的側面の変化の関係についての報告はない。症例提示:65歳,男性,右利き。左の縁上回前部,角回上前部,頭頂間溝の一部,半卵円中心後部に高信号を認めた。発症時にみられた軽度の伝導失語は消失し,2ヵ月後には仮名の失書症状のみとなった。発症初期は文字想起障害が中心であったが,文字内の画を続けて書く傾向が強まるにともない症状が改善,ほぼ消失した。書字に関する発話も,想起困難の訴えから,字が出てこないとき,この書き方をすると正しく書けるという報告へと変化した。考察:本症例の純粋失書の改善や文字内の画を続ける書き方の使用の背景に,視運動覚や運動エングラムの利用が関与した可能性を考えた。
Background: Left parietal lobe lesions can result in impairment of the linguistic aspect of writing that cannot be explained by other neuropsychological disorders, namely pure agraphia. However, no reported cases examine the relationship between the improvement of this symptom and changes in the motor aspects of writing. Case presentation: We report a patient with pure agraphia for kana letters after a left parietal lobe infarction. The patient was a 65-year-old, right-handed man. The infarction involved the anterior part of the supramarginal gyrus, the anterior superior part of the angular gyrus, a segment of the intraparietal sulcus, and the posterior part of the centrum semiovale. At disease onset, the patient exhibited mild conduction aphasia;however, two months later, only agraphia for kana persisted. Initially, his writing impairment was characterized by difficulty in recalling kana characters. Over time, the agraphia improved and nearly resolved, coinciding with an increased tendency to continue writing strokes within letters. Correspondingly, his verbal reports evolved from difficulty in recalling kana characters to successfully writing them by continuing strokes within each character when retrieval failed. Conclusions: We hypothesized that the improvement in writing ability and use of continuous strokes within characters may be related to the use of visuokinesis processes and motor engrams.This case may provide insight into a type of dynamic reorganization of writing functions and highlight the importance of motor processes in the recovery from pure kana agraphia.
純粋失書は,その障害を説明できるような他の神経心理学的症状が見出されず,書字神経過程そのものの障害によるとしか考えられない書字の障害と定義される(山鳥 1993)。
上記のような純粋失書の責任病巣としては,はじめ左中前頭回の後部が重視され(Exner 1881),その後も同病巣の報告が続いている(Sakuraiら 1997,Kellerら 2014)。一方,左の上頭頂小葉,縁上回などを中心とする病巣による純粋失書例の報告も相次ぎ(Auerbachら 1981,佐藤ら 1981,Tanakaら 1987,下村ら 1989,豊倉ら 1993,藤井ら 1995,谷口ら 1998),本邦では頭頂葉性純粋失書と呼ばれる。頭頂葉性純粋失書例では障害の程度について,漢字と仮名で明らかな差がない(佐藤ら 1981,豊倉ら 1993,谷口ら 1998),漢字優位(下村ら 1989),仮名優位(Tanakaら 1987,藤井ら 1995)とさまざまな報告がある。しかし,純粋失書の症状の改善と,書字の運動的側面の変化の関係についての報告はない。Sakuraiらは,書字の機構に関し,文字の音韻や形態の心象を介する経路に並行して,視運動覚(visuokinesthetics)や運動エングラムを介する経路を想定するモデルを提案した(Sakuraiら 2007)。
今回,左頭頂葉の脳梗塞後に生じた,仮名にほぼ選択的な純粋失書の症例を経験した。本症例は,書字の改善に伴って,文字内の画の間をつなげて書く傾向が強まり,「行書にすると書ける」との内観を報告した。失書の改善と書き方の変化の背景に視運動覚や運動エングラムを介する経路の利用が関与する可能性を考え,考察を行ったので報告する。
【症例】65歳,男性,右利き(矯正歴なし。左利きの家族歴なし)。大学卒業。高校校長を定年退職後,大学教授として英語関連科目を担当していた。
【発症時の主訴】正しい文字が出てこない。
【既往歴】特になし。
【現病歴】起床後,思った言葉が出てこないことに気づき,字が正しく書けない状態が続いた。当院脳神経外科を受診し,脳梗塞の診断で入院した。第2病日に言語療法を開始した。
【神経放射線学的所見】発症日のMRI拡散強調画像では,左の縁上回前部,角回上前部,頭頂間溝の一部,半卵円中心後部に高信号を認めた(図1)。FLAIR画像では,拡散強調画像で描出された領域に加え,両側大脳半球に,散在する小高信号域と側脳室体部後部周囲の淡い高信号域を認めた。その他に異常所見を認めなかった。

a:拡散強調画像。左の縁上回前部,角回上前部,頭頂間溝の一部,半卵円中心後部に高信号を認めた。b:FLAIR画像。拡散強調画像で描出された領域に加え,両側大脳半球に,散在する小高信号域と,側脳室体部後部周囲の淡い高信号域を認めた。その他に異常所見を認めなかった。
【神経学的所見】特記すべきことなし。
【言語以外の神経心理学的所見】第2病日の言語療法開始時には軽度の観念運動性失行を認めたが,第7病日には消失していた。表1に示したように,数の順唱は正常範囲だが,逆唱は2個で著しい低下があった。また,計算障害を認めた(標準失語症検査(Standard Language Test of Aphasia:SLTA)の結果に後述)。レーヴン色彩マトリックス検査,コース立方体組み合わせテストは正常であった。
WAIS-Ⅲの下位検査の評価点は,単語17,類似17,知識16,理解17,算数15,数唱7(順唱の粗点8(max:16),逆唱の粗点3(max:14)),語音整列11,絵画完成14,積木模様10,行列推理15,符号8,記号探し9,絵画配列10。max:最大値。異常値をアミカケにした。
発症後2ヵ月時点のWAIS-Ⅲ成人知能検査(Wechsler Adult Intelligence Scale-Third Edition:WAIS-Ⅲ)の結果は,全検査IQ,言語性IQ,動作性IQとも正常だった。「言語理解」の群指数が著しく高く,言語性IQと動作性IQの差(言語性IQ>動作性IQ)が大きかったが,群指数には「作動記憶」を含めて,異常なものはなかった。下位検査では,「符号」で枠内に形を正確に描き写す様子が,「記号探し」で正答しているにもかかわらず繰り返し確認する様子がみられ,時間がかかった。そのため他の下位検査と比べれば低い評価点になったが,正常範囲であった。「数唱」における「逆唱」の粗点の低値のみ異常であった。
【言語の所見】第2病日の言語療法開始時,発話は流暢で発語失行もないが,ときに喚語困難と音韻性錯語がみられた。日常会話の理解に支障なく,新聞も内容が理解できた。書字に際しては,漢字でも仮名でも各文字を書き始めるまでに10秒程度の停止が生じ,考え込むことが多かった。しかし,いったん書き始めると,個々の文字には,運筆の滞り,文字の歪み,筆順の誤り,速度低下,努力性などはなかった。書き間違いにはすぐ気づいた。検査としては実施していないが,検査者が偏と旁を構成する要素(例:かねへんにれい,くさかんむりにかず)を口頭で言うと,何という文字(「すず」:鈴,「やぶ」:薮)か正しく述べることができた。写字では,誤りや形態の異常がなかった。
第3~4病日にSLTAを実施した。プロフィールを図2aに実線で示した。音声言語に関して,聴覚理解には問題がなかった。呼称でも(例:とりい→「ふ…とい,とりい」),まんがの説明や音読でも(例:「電車がとっ,ほっ,てっきょうをわたる」),音韻性錯語と自己修正の繰り返し(接近行為)が少数みられた。仮名と漢字の音読に明らかな差はなかった。いずれの課題でも語性錯語はなかった。読字には問題がなかった。一方,書字では,漢字単語で書称,書取とも5/5正答したが,仮名単語で書称が2/5,書取は3/5のみの正答であった。この時点では,漢字では書字前の停止がみられなくなっていた。しかし,仮名では第2病日と同様,10秒程の停止がみられた。以上,ごく軽度の伝導失語と,明らかな仮名の書字障害があるという所見であった。また,SLTAの計算の課題で,繰り下がりのある減算と乗算,除算に誤りがあり,九九の想起に困難があった。

a:標準失語症検査(SLTA)のプロフィール。実線は発症初期,破線は発症2ヵ月後。b:SLTAの全仮名書字(128文字)中の誤反応の種類,例と割合。横軸上段が誤反応の種類。下段がその種類の誤反応の例。バー中の黒部分は自己修正なし,灰色部分は自己修正ありを表す。視認性のため,百分率の上限を20%として示してあることに注意。
患者がSLTAの回答として行った全発話のなかには,接近行為が7ヵ所みられた。回答として行った発話の全音節数は672であったが,そのなかの24音節(3.5%)に誤りがみられた。書字の誤りはほぼ仮名のみに生じ,漢字の誤りは短文の書取で「川」を「山」と書いた1回のみであった。仮名の誤りは全仮名128文字中42文字(33%)にみられた(図2b)。誤反応は,①書けない字の場所に□を書く,②書きかけた誤字を線で消して修正する,③脱字,④五十音表で同じ行にある別の文字を書く,⑤形や手の動きの似た字を書く,⑥濁音符や半濁音符の誤りや欠落,の順で多かった。①の場合,正しく書けた文字と□の数の合計は求められた語の文字数に一致し,語内での□の位置も正しかった。④,⑤の場合も,正字と誤字の合計は求められた語の文字数に一致した。その他の種類の誤りはなかった。
第11病日に自宅に退院し,以後週1回,外来に通院して言語療法を行った。退院後1週間で,板書や音読を必要としない授業形態に変更して教壇に立つようになった。患者はこのころから,録音テープやニュースの書取りを中心とした書字の自主練習を熱心に行い続けた。
発症2ヵ月後からは,口頭言語については生活,就労上の問題がなくなった。SLTAのプロフィールは正常となり(図2a破線),音韻性錯語や接近行為も起こらなかった。しかし,仮名書字困難は,減りはしたものの続いていた。授業では自身が書くと誤るため,学生に板書させた解答を修正するという方法で教えていた。
発症4ヵ月後には,書字の誤りは少なくなり,日常生活上はほぼ差し支えない状態になった。4.5ヵ月後には,板書や手書き書類の作成についても,文字が出てこないときに「行書で書く」ストラテジーを用いることにより,おおむね正しく行えるようになった。その後も書字の誤りの減少は続き,6ヵ月後にはごくまれになった。
2. 書字の評価発症2ヵ月後には,平仮名の書字障害が生活,就労上の主要な問題であったので,平仮名短文,平仮名単語について,以下の検討を行った。
1) 平仮名短文の書取り【方法】スピーチ・リハビリテーション2(西尾 2000)より一部改変し,5~13モーラの2文節文30個(計360字)を,平仮名で書き取るように求めた。
【結果】誤りは15字(4%)に生じた。どの誤りに対しても自己修正があり,最終的には正しい字となった。図3aに誤りの種類と全仮名文字に占める割合(上限20%で表示)を示した。

a:平仮名短文の書取り(計360字)における誤反応の種類と割合。b:書取りと書称における,清音62個,拗音15個,促音10個,撥音16個,濁音20個(計123音)を含む,32単語の音節種ごとの誤りの種類と割合。促音の誤りはみられなかった。図は,視認性のため,百分率の上限を20%として示してあることに注意。
2) 平仮名単語の書取り / 書称
【方法】絵カード2001(鈴木 1993)第1巻より拗音,促音,撥音あるいは濁音を含む2~5モーラの単語32個を選び,平仮名で書取りと書称を行った。書取りでは,検査者が絵カードに記された名称を読み上げ,平仮名で書くように求めた。書称では,絵カードを提示し,描かれたものの名称を平仮名で書くように求めた。これらの単語には,清音62個,拗音15個,促音10個,撥音16個,濁音20個(計123音)が含まれていた。
【結果】上記の123音のうち1回でも誤った文字は書取りで8.1%,書称で8.9%であった。図3bに書取りと書称における,音節種ごとに,誤りの種類と誤りがその音節種の仮名に占める割合(上限20%で表示)を示した。拗音,撥音,濁音で誤りの割合が高かった。どの誤りに対しても1から3回の自己修正があり,最終的には正しい字となった。書称と書取りの成績に明らかな差はなかった。
評価1(平仮名短文の書取り)においても評価2(平仮名単語の書取り / 書称)においても,初期にみられた,書けない箇所に□を書く反応や脱字はなくなった。
3. 書体などの経時変化発症初期から発症1ヵ月後までは漢字,仮名,濁音仮名内の清音文字部分と濁音符の間のいずれも,画同士を続けずに書く書体であり(図4a,b),各仮名の前に長い停止がみられた。発症2ヵ月後には,漢字も平仮名も文字内の画同士を続けて書く傾向がみられるようになり(図4c),各仮名の前の停止は1秒ほどに縮んだ。しかし,清音文字部分と濁音符との間を続けることはなかった。発症4ヵ月後になると,上記の停止はなくなった。漢字,平仮名とも文字内の画同士を続けて書く傾向が顕著となり,濁音符も清音文字部分と続けて書く場合がみられるようになった(図4d)。このころから,拗音,撥音,濁音の誤りもほとんどみられなくなった。文字同士を続けて書くこと,すなわち各文字の最後の画と次の文字の最初の画とをつなげて書くことは,縦書きでも横書きでも,全経過中1度もみられなかった。

縦軸は文字種。最下段にその時期の患者の発言を記した。横軸は発症後の時間。発症後1ヵ月までは文字内の画同士を続けない書き方であったが,発症2ヵ月以降は文字内の画を続ける書き方に変わり,以降その傾向が強まっていった。発症4ヵ月後には,濁音の清音文字部分と濁音符を続ける場合(★印)もみられた。しかし,文字と文字の間を続ける書き方はみられなかった。
4. 仮名書字についての発言の変化
言語療法開始時は「正しい字が出てこない」と訴えた。発症初期は患者自ら読むことはできるが書くことができないことと,問題がほぼ片仮名,平仮名に限ることを訴え,書けない場所に□を書き「ここが出てこない」と述べることが多かった。発症1ヵ月後には,「思い浮かぶもののなかから,音にマッチする字を選ぶのに時間がかかる」と語った。発症2ヵ月後には「まだ誤る。(誤るときは)書くべき文字より先に違う手の動きが出てきて誤るような気がするので,あらかじめ正そうとして時間がかかる」,2.5ヵ月後には「字を思い浮かべなくても,正しい文字の手の動きが無意識に出てくる感じが強くなり,書く速度もアップしている」と語った。発症4ヵ月後には,「字を書くことも普通の速さで行えるようになったが,公の場や板書で時間に追われると,文字が出てこないことがある」と述べ,4.5ヵ月後には「文字が出てこないときに,行書にすると書けるので,そうしている」と述べた。
本症例の書字障害は縁上回病変による純粋失書と考えられる。観念運動性失行は早期に消失した。書字障害を計算障害によって説明することはできない。数の逆唱障害は作動記憶障害の指標にもなり,作動記憶障害は書字に影響しうる。しかし,本症例では,発症2ヵ月のWAIS-Ⅲの作動記憶の群指数は正常で,作動記憶への負荷が逆唱課題より大きいと思われる語音整列の評価点も正常,低下しているのは逆唱の粗点のみであった。したがって,少なくとも発症2ヵ月以降については本症例の書字障害に作動記憶の障害が関与したとは考えにくい。なお,WAIS-Ⅲでは言語性IQが動作性IQよりかなり高かったが,主に言語理解の群指数が著しく高かったためと,動作性IQ算出に使用される「符号」「記号探し」の評価点が正常範囲ではあるが他より低かったことの反映と考えられる。言語理解の群指数が高いのは,学習により向上しうる項目である「単語」「類似」「知識」に関係する能力が,本症例の嗜好や職業の影響で病前から優れていたことによると推察される。「符号」と「記号探し」の評価点が低いのは,回答の正確さを重視して時間を要したことによると推察される。
本症例は,失行性失書ではない。本症例には当初より,運筆の滞り,文字の歪み,筆順の誤り,速度低下,努力性などはなかった。写字に誤りや形態の異常がなかったことも,失行性失書でないことを支持する(河村 1990,石合 1997)。
また,言語に関する他の種類の神経心理学的な症状によっても説明できない。発症初期,本症例には軽度の伝導失語の特徴があった。しかし,SLTAの回答として行った全発話のなかで誤って表出される音韻の割合は,誤って書かれる仮名文字の割合の10分の1ほどで,不釣り合いに少なかった。書字の障害は,伝導失語様の症状がなくなった後も生活上の問題でありつづけた。以上より,本症例の書字障害を失語によるものとして説明することはできないと考える。加えて,読字には障害がなく,失読失書によっても説明できない。
神経解剖学的分類から考えると,本症例は縁上回皮質病変によるタイプと考えられる。本症例の新しい病巣は,拡散強調画像でみられた左の縁上回前部,角回上前部,頭頂間溝の一部,半卵円中心後部と考えられる。櫻井は頭頂葉性病変による失書を病巣の違いの観点から検討し,以下のように整理した(櫻井 2011)。①角回に限局した病巣で漢字の純粋失書をきたす。②角回からその後方の外側後頭回にまで病変が広がってはじめて失読失書となる。③縁上回の皮質・皮質下病変では伝導失語が現れるが,縁上回皮質に病変が限局すると,純粋失書が出現する。この場合,仮名の音韻性錯書がみられることがある。④上頭頂小葉または頭頂間溝周囲の損傷では失行性失書が出現する。本症例にみられた失書は,病初期以外漢字の障害,失読,失行性の要素がなく,音韻性錯書もみられるので,縁上回皮質病変によるタイプに相当する。
発症初期には,困難の中心は文字の想起障害であったと考えられる。わからない文字の箇所に□を書く行為は,問題が文字の想起にあることを如実に表している。発症後1ヵ月の時点でも,想起されるものが音韻と1対1に対応しないことが問題であることをうかがわせる言動がみられた。大槻は,左頭頂葉損傷による純粋失書では,文字想起困難が前景にあると述べており(大槻 2007),上記はこれに一致する。
また本症例では,語内の文字の位置や順序,文字数の知識は利用でき,正しい位置にある個々の平仮名を想起することにのみ問題があった。脱字の誤りを除けば,平仮名の誤りは皆,語のなかのその文字があるべき位置で起こり,誤った字を含めた語の文字数は正しかった。仮名の誤りにおいて,文字数が目標語の音節の数と通常一致することは,既にTanakaらの症例において特徴の1つと指摘されている(Tanakaら 1987)。また,佐藤らの報告,谷口らの報告でも,図に示された書字例からは本症例と同様の特徴がうかがわれる(佐藤ら 1981,谷口ら 1998)。したがって,これらの特徴は,頭頂葉損傷による純粋失書の多くに認められる可能性がある。本症例では,この特徴がほとんど例外のない形で生じうることが示されたことと,正しい位置に正しい数の□を書く反応という明示的な証拠が得られたことが重要と考える。
2. 改善に対する書字運動要因の関与失書の改善に書字運動要因が重要な関与をした可能性がうかがわれる。書字の改善は,文字内の画同士を続ける傾向の強まりと,字を書くときの手の動きについての本人による言及とに併行し,この書き方の効果の自覚的な利用にいたった。発症後2ヵ月以降,文字内の字画を続けて書く傾向がみられるようになった。書字についての発言も,以前の想起困難の訴えとは異なり,運動に関するものとなった。この時期に書字の誤りは,SLTAではみられず,短文の書取でも少なくなるまで改善していた。ただし,音節の表記法が特殊な仮名を中心に誤りを認めた。発症4ヵ月後には,文字内の字画を続けて書く傾向はさらに強まっており,通常あまり行われることがない,清音文字と濁音符を続ける書き方もみられるようになった。書字障害は,特殊な表記の仮名も含めて日常差支えないところまで改善,おもに公的な場や板書で急ぐ必要のある書字に際して現れるようになった。そして4.5ヵ月後には,公の場や板書で仮名が出てこないときに「行書」にすると書けることを,自ら見出して利用していると語った。「行書」は本来,漢字の筆記法の1つで,漢字を構成する画と画の間を続ける書き方を指す(西川 2009)。しかし,ここでは仮名のなかの画同士を続ける書き方を比喩的にこう呼んだものと思われる。図4にも例を示したように,この時期にはすでに,日常や書字練習では字内の画同士を続ける書き方が顕著である。それにもかかわらず「行書にすると書ける」と語った理由は,以下のようになものではないだろうか。公の場での書字や板書では,紛らわしさのないように,画同士を続けないようにする必要がある。そうすると,文字が出てこない場合が生じてしまう。そのときは,出てこない文字だけを画同士を続ける方法で書くと,正しく書ける。
Sakuraiらの書字の二重経路仮説モデルに沿えば(Sakuraiら 2007),本症例の失書は視運動覚や運動エングラムと仮名文字の視覚イメージの間の断絶によって生じ,視運動覚や運動エングラムと運動前野の連絡の強化により改善したのかもしれない。このモデルでは,音韻経路と正書法経路とが想定されている。音韻経路においては単語の音韻情報は一次聴覚野と上側頭回後部から角回と縁上回を経て運動前野に伝わる。正書法経路では単語の表記情報である漢字単語や文字,仮名文字や単語の視覚イメージが側頭葉後下部皮質に保存されている。その情報が角回および隣接する外側後頭回を経由し,文字や単語の視運動覚および運動エングラムが保存されている上頭頂小葉および頭頂間溝領域を経由して運動前野の手の領域に伝わる。また,視運動覚,運動エングラムのある領域と運動前野の間には双方向の連絡がある。本症例は,病初期にはごく軽度の音韻性錯語を示したが,早期に問題がなくなった。したがって,わずかにあった音韻経路の障害は早期に改善したと考えられる。Sakuraiらの図に従えば,角回上前部は視運動覚および運動エングラムのある領域と仮名文字の視覚イメージのある領域の間に位置する(Sakuraiら 2007)。この部位の損傷により,側頭葉後下部や角回,外側後頭回にある仮名文字の視覚イメージが得られず,形態想起を中心とした仮名書字の障害が生じた可能性が考えられる。一方,視運動覚および運動エングラムのある上頭頂小葉には病巣がなく,頭頂間溝領域の多くも保たれていた。また,これらの領域と運動前野との連絡路にも損傷はないようにみえる。先に論じたように失書の改善に対して書字運動要因が重要であるとしたら,これらの領域に残存していた機能が改善に関与したのかもしれない。
書字運動エングラムには,文字内の画を続けないものと,画を続けるものとがあるように思えるが,本症例で画を続けるもののみが利用された理由はなんであろうか。文字内の画を続けると,各文字を構成する画の書字動作がひとまとまりとなり,文字が表す音節と1対1に対応するので,両者の関係が明確になる。濁音節の表記で清音文字部分と濁音符さえも続けて書くにいたったのも,文字同士の間を続けて「草書」のように書くことが決してなかったのも,この考えに合う。文字を書く機能のなかで,その構成要素を続けない書き方と続ける書き方との神経基盤が異なることを示す文献は,日本語では見いだせなかった。しかしアルファベットでは,虚血性脳血管障害に伴い印刷体での書字が筆記体での書字より強く障害された症例(Inglesら 2014)と,筆記体での書字のみが障害された症例(Popescuら 2007)の報告がある。したがって,2種類の書き方の解剖生理学的基礎には部分的な解離が存在する可能性がある。
3. 本研究の限界本研究にはいくつかの限界がある。第1に,文字内の画同士を続ける書き方と続けない書き方での仮名書字の成績の比較を行っていないので,文字内の画同士を続ける書き方が有利であったという客観的な証拠がない。第2に,発症前の書字サンプルを入手できなかったので,回復により以前の書き方に戻っただけであるという可能性を否定する客観的な証拠がない。第3に,時期による症状の比較が,同一の検査に基づいていない。したがって,継時変化の量的な比較を行うことはできないし,質的な違いにも課題の影響を排除しきれない。
今後,類似の症例に対して,書体を指定して誤反応の比較,発症前の書字データの取得,検査法を統一しての継時的な施行などによる検証が行われ,書字の神経基盤についての知見が豊かになることが望まれる。
本症例は第38回日本高次脳機能障害学会学術総会(2014年11月,仙台)にておいて報告した。
本研究は,ヘルシンキ宣言に則り本人に同意を得て行った。また,公表および雑誌投稿に関しても本人に説明し同意を得た。
著者全員に本論文に関連し,開示すべき利益相反状態にある企業,組織,団体はいずれもない。