2007 年 16 巻 p. 85-94
齋藤直子氏の報告は、カベルによるエマソン再解釈との対話をとおして、デューイのプラグマティズムの積極的意味・可能性を構成しなおそうとするものである。だがなぜ、デューイの再読なのか。なぜ、カベルによるエマソン再解釈との対話なのだろうか。この報告の意義を点検するために、私たちはいま一度、齋藤氏によるカベル=エマソン的読みなおしの企てがデューイの終わりなき成長に対する反-反基礎づけ主義の再解釈への応答として提示されていたことに着目しよう。デューイの成長の思想は、単一の固定した最高善、外在的に設定される究極的目的に安住してならないことを教示する。けれども、何に向けての成長か? こうした反-反基礎づけ主義の懸念に応答する道筋を拓くのが、カベル=エマソン的読解である。しかし反-反基礎づけ主義とその不満の核心は、もう少し別のところにあるのではないか。それは基礎への渇望や相対主義への反動というよりも、教育の希望の裏側にひそむ不可逆な悲劇への素朴な不安・恐れである。