人文地理学会大会 研究発表要旨
2009年 人文地理学会大会
セッションID: 110
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第1会場
ライデン大学所蔵シーボルト国絵図の記載内容
―播磨国絵図の場合―
*藤田 裕嗣
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抄録

1.はじめに 本研究の目的は、ライデン大学に所蔵されているシーボルト収集手書き国絵図コレクション21点のうち、播磨国絵図の記載内容を検討し、他の播磨国絵図と比較することで、当該絵図の位置づけを試みる点にある。  なお、本研究は、報告者が共同研究者を務める科学研究費・基盤研究(B)「ライデン大学所蔵シーボルト国絵図の地図史研究」(研究代表者:小野寺淳茨城大学教授)による成果の一部である。 2.シーボルト収集手書き国絵図の概要 ライデン大学で撮影された写真をもとに、メンバーで分担し、分析を進めている。既にその年代推定がほぼ固まった国絵図を挙げると、大和の場合は4寸1里程度の正保図の縮写図(小田匡保による今年8月27日のICHG口頭報告)、石見・佐渡・能登・山城国絵図もまた正保図系統と考えられる。一方、阿波・淡路国絵図は寛文度の国絵図の写本と考えられ、志摩国絵図は寛文・延宝期に幕府へ再提出された国絵図の2分の1程度の縮写図の写本である。 3.研究対象としての播磨国絵図の概要 報告者は、その中で播磨国絵図(シーボルト本を以下_丸1_と表記する)を担当した。杉本他(2009)(『東京大学史料編纂所研究紀要』19)によれば、絵図番号はSer.284、サイズは219×231.5cmである。国立公文書館所蔵の中川忠英旧蔵本(_丸4_)・松平乗命旧蔵本(_丸5_;その明治期におけるラフな写しが_丸6_)、京都府立総合資料館所蔵本(_丸2_)など、国内に現存する近似の国絵図との比較研究を行った。 _丸1_で目立つ最大の特徴は、淡路島が北端だけで南に続かず、独立した島のように描かれる一方で、明石港から延びる砂州のような表現であろう。これは、舟路を書き誤ったと推察される。このうち、後者は、中川本_丸4_等でも認められる。  『国絵図の世界』で示された慶長・正保(_丸3_)・元禄国絵図(_丸7_)について、城下町としての明石と赤穂で位置を合わせ、国境の輪郭と明石郡界をトレースしてみると、北側の因幡・但馬・丹波国との国境は、慶長から正保の間でぐっと北方に延びる一方で、元禄では正保とさほど変わらない位置にある。特に、但馬・丹波国との三国境で北に迫り上がる状況は、慶長と正保とでほぼ同じであることが判る。このうち正保国絵図について小型であることに注目した工藤茂博(2005b)『国絵図の世界』(柏書房)により、古城が描かれていない図像表現や色彩などの特徴から、慶長国絵図との類似性が指摘されている点と呼応しよう。 それらの違いにもかかわらず、明石郡界の相対的位置は殆ど変わらない。そこで、摂津国に接する播磨国南東部は、慶長の折から、比較的正確に知られていた、と考えてよかろう。 4.諸本との比較 まず、京都府立総合資料館本_丸2_は、工藤茂博(2005a)『播磨新宮町史文化財編』では正保国絵図と断定されているが、工藤茂博(2005b)では言及されていない。後者で正保図とされている新宮八幡神社本_丸3_と比較すると、図2で示した国境について若干異なっており、_丸1_とともに、正保国絵図と評価されている_丸4_の中川本との一致度が高い。先に指摘した三国境に特徴的な突出の仕方は、元禄国絵図とされている龍野市立歴史文化資料館本_丸7_のみ異質なのである。  この点、_丸2_を所蔵する京都府立総合資料館の担当者によれば、他の国でも類似した装丁の一連のセットがあり、唯一、年次が明記された信濃国の場合、明治2年となっており、二条城に旧蔵され、京都府に移ったと考えられるそうである。播磨の領主記載によれば、正保当時と考えるのが適当であるが、その担当者は、正保とは断定できず、元禄の可能性も考えている、との由であった。とはいえ、上述した国境線との関係からは、元禄はありえない。領主との関係からも、やはり正保に傾くが、寛文図である可能性も捨て切れない。  以上、正保図~寛文図の間にあると思われる、_丸1_~_丸5_に元禄図の_丸7_を加え、相互に比較した。先に_丸1_について指摘した二つの特徴に加え、郡高目録、各村型内における村高記載、各村毎に領主を示す記号の項目で比較すると、_丸1_に一致する絵図は見当たらず、単純にいずれかの写しとは断定できない。  なお残されている課題を解明するには、高精細写真の撮影とその精査、および熟覧調査が必要であり、その成果は、当日の報告に委ねたい。

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© 2009 人文地理学会
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