人文地理学会大会 研究発表要旨
2009年 人文地理学会大会
セッションID: 105
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第1会場
近世和泉国日根野村周辺における水論
*高橋 清吾
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キーワード: 灌漑水利, 水論, 和泉国, 近世, 景観
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抄録

 本発表では、近世に発生した水論を収束させる際に作成された絵図を用いることで、水論発生後の景観について述べる。  人々が農業を行う際、村々が協力して水源や水利施設について維持管理を行ない、さらに用水の利用規則である水利慣行を執行していた。ところが、水利施設の維持管理や水利慣行の履行を巡って村落間における対立が起きた。これを水論と呼ぶ。  近世の水論に関する研究は、主に文献史学と歴史地理学において行なわれた。文献史学では、近世の水論に対する幕府の見解と水論発生後の関係者の動向が明示された一方、歴史地理学では、河川や用水路の上下流に分かれた村々における水論の発生が、日本各地の河川や溜池の分水問題等から実証された。しかしながら、水論の発生後に、論所がどのような状況にあったのかについても考慮すべきだと考える。そこで、水論を収束させる過程で作成された絵図に描かれる景観から、論所についての検討を行なう。研究対象地としては、和泉国日根野村周辺を事例として、文政3(1820)年に嘉祥寺村と岡本村で発生した水論について記された水論史料と論所について描かれた「岡本村船岡山南西側之図」を取り上げる。  当地における灌漑水源に目を向けると見出川、佐野川、樫井川と、それらの河川から取水する用水路および溜池群が利用され、それぞれの水源には水利慣行が執行されていた。次に、具体的な水論の実態を探るべく、複数の水論史料の解読から水論における争点の整理を進めた。その結果、番水や分水量を巡る問題や河川や溜池に設置された水利施設に関する問題が見られた。この他、鍬などの農器具を使って隣村の用水路を破損させ、自村へと水を奪い取った盗水や、他村の耕地で既に利用された使用済みの用水が、別の村の耕地へと流れ込むことで生じた悪水の問題が確認できた。これらの水論の解決方法については、関係村落間による協議や近隣の村落による調停により、水利慣行の調整や水利施設の維持管理方法の見直しがなされていた。  文政4(1821)年に作成された岡本村と嘉祥寺村の水論に関する史料によると、前年に発生した大雨により岡本村と嘉祥寺村が利用する尾張池の小川筋へと船岡山からの土砂が崩れ落ち、流水の妨げになる被害が発生し、耕地の灌漑に支障をきたした。そのため、船岡山の山裾の川岸に杭木を打つことで土砂を止める工事が嘉祥寺村の手によって実施された。だが、この杭木を施したことで水流が変化し、川堤に危害が及ぶことから撤去を求める抗議が出されたことで水論へと発展した。この水論に対して岸和田藩は、杭木等の撤去と、川堤の内側に拓かれた耕地の埋め戻しを行なった上で、護岸杭の打ち直しを命じた。さらに杭を打ち直す際に行なわれた測量結果が絵図へと記入された。そして川筋における障害物の除去と護岸の工事に当たることで、和談へと至った。先述の当地における水論の特徴に鑑み、嘉祥寺村と岡本村における水論は、堤防の維持管理を巡る水論として位置づけられる。 この水論の際に作成されたのが、先述の岡本村船岡山南西側之図である。図には尾張池と小川筋が描かれる。池には取水口である樋が描かれた他、岡本村と嘉祥寺村の耕地と池の北側に位置する船岡山が見られる。全体に彩色が施され、用水路と池が青色、各村の耕地が塗り分けられている。論所となった小川筋に目を向けると、用水路の両岸に打たれた杭に測量値が記述されている。さらに同じ岸側の杭と用水路を挟む対岸の杭との間を線で結んだ上、それぞれに数値が記される。この他、船岡山には、土砂崩れが発生した三ヶ所の痕跡を山肌の色を変えて示した上、「崩」と書かれた文字も確認できる。  和泉国日根郡嘉祥寺村と岡本村の水論史料と、その翌年に作成された絵図には水論の収束へ向け、関係村落に奉行所を交えて協議が進められた結果が示されていた。絵図には、水論を発生させた要因である土砂崩れの状況が描かれ、その土砂が流れ込んだ小川筋に対して測量による護岸整備が行なわれていたことも判明し、当事者の主張と奉行所の裁定の結果が窺えた。

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