人文地理学会大会 研究発表要旨
2011年 人文地理学会大会
セッションID: 109
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第1会場
戦前期日本の国立公園選定をめぐるポリティクス
*長尾 隼
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抄録

 戦前期日本における国立公園は,1934(昭和9)年および36(昭和11)年に,阿寒,大雪山,十和田,日光,富士箱根,中部山岳,吉野熊野,瀬戸内海,大山,雲仙,阿蘇,霧島の12ヶ所が指定された(1937(昭和12)年には台湾に3ヶ所が指定される)。候補地の決定は,林学・植物学・造園学・地学など様々な分野の専門家を中心に,政治家や実業家らを加えて行われた。彼らの集合的な学知,それに基づく(と想定される)議論によって,国土空間内から「我が国を代表するに足る自然の風景地」が見いだされ,選別され,決定されていったのである。国立公園の成立に関してはこれまでに研究蓄積があるものの,候補地の選定という出来事それ自体は特に問題として扱われておらず,その議論が存在したことが指摘されるにとどまっている。本発表では,風景地の取捨選択に関する議論をあとづけてゆくことで,各々の候補地について展開されたさまざまな論理,あるいはその選定に際して重視された諸要素の相互関係について考察し,戦前期日本の国立公園選定をめぐる様々なポリティクスを明らかにしてゆきたい。  1931に決定された「国立公園ノ選定ニ関スル方針」によれば,その選定にとって最も重視されたのが自然景観の傑出性であった。副次条件としては,土地所有の関係,利用性,配置などの問題をクリアしていることも求められた。この選定方針の作成にあたっては,内務省衛生局嘱託として調査を行っていた田村剛が大きく関わっていた。  国立公園の指定に至るまでに,候補地の選定に関する契機は2度あったと考える。1度目の契機は国立公園の創設に向け具体的な調査が開始された1920年代初頭であり,このとき田村らによって調査が行われた16ヶ所が1923(大正12)年に公表されている。2度目の契機は1932年10月の国立公園候補地決定に際し行われた議論である。この議論は,1923年に公表された16ヶ所をもとに候補地を絞り込んでゆくものであった。本発表では後者の議論を取り扱う。  国立公園候補地の決定に関する議論が行われた「特別委員会」「懇談会」の議事録等を確認したところ,すべての候補地が選定理由通りの解釈によって決定されたわけでないことが明らかになった。吉野熊野に関しては,建国の歴史を示すナショナリスティックな風景であること,あるいは熊野海岸の海の風景こそが「日本」の風景であることが強調された。一方で国際的な観光地としての場所の系譜を有し,すでに施設も完備されている雲仙については,風景地の「利用」の側面が強調されたのであった。大山に至っては,議論の場においては注目されるどころか反対意見が中心であったが,吉野熊野・雲仙の追加という出来事に対応し,「地理的分布」という側面から候補地として決定されるに至ったのである。しかし,正式に公表された選定理由においては,いずれの候補地も自然性によって意味づけられ,価値付けが行われた。様々な議論を経て候補地に決定された風景地には,あまねく「我が国を代表するに足る自然の風景地」という表象が節合されたのである。  また,田村剛自筆原稿「国立公園選定ニ関スル資料」からは,田村らが選定方針に基づいて候補地の順位付けを行っていたこと,しかし議論の場においてはそれも絶対的な権限を維持することができなかった様子を伺うことができる。戦前期日本の国立公園選定は,各々の候補地について異なるポジショナリティから複数の論理が錯綜し,その諸関係はきわめて重層的なものであったことが確認されるのである。

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