比較文学
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論文
THE ROLE OF THE EAST IN THE STORIES OF J.D. SALINGER
マシー フランシス
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1970 年 13 巻 p. 128-112

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抄録

 武田勝彦は、繁尾久との共著になるJ .Dサリンジャーの作品に関するすぐれた研究-『サリンジャーの文学』(文建書房・一九七〇)の序文で、「(彼は)西方の聖典に安住を見出し得ず、東方の歌に安き眠を得ようとした」と書いているが、これは見当ちがいというものではなかろうか。サリンジャーはインド教・道教・仏教(特に禅)から得た東洋的象徴を広く使用してはいるが、彼はアメリカ小説の伝統に深く根をおろしており、彼の用いる象徽がその作品を西洋的にもキリスト教的にもしていることは明らかなのである。

 サリンジャーの作品のほとんどあらゆるもののうちに、二つの衝動-事物の深奥に入りこもうとする求心的衝動と、広く他人に手をさしのべ日常生活で人の義務を遂行しようとする遠心的衝動との間の根本的緊張を見出すことができる。一方論理の世界をこえて超時点、つまり鈴木大拙博士の言う「非論理的範疇」へ引きこもろうとする強い衝動と、日常生活で人の義務を果すため他人とともに個々の人間的立場に連座しようとする衝動がある。サリンジャーの描く人物はすべてこれらの相関的衝動間の平衡を維持しようとする。シーモァグラースはこの平衡を失って失敗し、グラース家の遣族はあらゆる努力をして彼のあとを追わないようにしようとする。

 上述の第一の衝動をサリンジャーは東洋とキリスト教双方の神秘主義の言葉で表わし、第二の衝動をもっぱらキリスト教象徴主義の言葉で表現する。このことは『ゾーイー』においてもっともはっきりする。あるときゾーイーは『イエスの祈り』の使い方が感傷的であるとフラニーを非難した。もし彼女がお祈りをしようとするなら、それはイエスに対して唱えるべきであり、彼女がイエスと混同する「他の五人か十人ばかしの宗教家たち」に対して唱えるべきではないのだ。ゾーイーは、長いことイエスを賛えてから、祈りの目的は「それを唱える人にキリストの意識を与えること」であることを彼女に気づかせてやる。この長い一節のうちで、イエスを仏陀の化身とすることはできないということ、そしてキリストの意識を得ることは人生において人の義務をつくすことと関係がある―つまりキリストにおいて瞑想と行動は調和的平衡に達するということがまったく明瞭になる。

 物語はゾーイーがフラニーにシーモァの『太っちょのォバサマ』を思い出させるときクライマックスに達する。「シーモァの『太っちょのオバサマ』でない人間は一人もどこにもおらんのだ。」『太っちょのオバサマ』こそキリストその人に他ならないのだ。これは、繁尾教授が断言する如く「汎神・汎仏論的人世観」を表わすどころか、正統のキリスト教なのである。キリストは、人はだれでも神の命をうけるべく召されていて、まったく神と一体となるのだから事実「もう一人のキリスト」と称することもできるのだ、と教えるからである。

 したがってサリンジャーは西洋的キリスト教的人世観を護持するために東洋的象徴を使用するのである。サリンジャーは東洋の神秘主義のなかに、彼の想像の中心となる要素を表現する新鮮な象徴を、つまり現代生活の緊張と抑圧のもと単に論理や理性で解明できないところに、それに自らをあわせようとする者にとってはいつまでも新らしく、いつまでも喜びの源泉である神秘がいまでも存在するのだ、ということを発見したのだ。

 しかし東洋の神話は、西洋のそれと較べると、この相関する要素、すなわち他人とかかわること、現世にもどりそこで人の日常の義務を果すことの必要性、を表わす比喩を供給する可能性が少ない。この二番目の要素を表わすために彼は古いキリスト教の象徽を使用したのである。(作品からの引用は『野崎孝訳「フラニーとゾーイー」新潮社 一九六八」による) (佐藤孝己訳)

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