歴史言語学
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梵文『法華経』に見られる動詞bhūの中動態語形
笠松 直
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2022 年 11 巻 p. 1-22

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抄録

 動詞 bhū は本来,能動態で活用する動詞である。RV 以来,ほとんど例外はない。 しかし Saddhp の韻文部分には3 sg. ind. bhavate, 3 sg. opt. bhaveta などいくつかの 中動態語形が存する。こうした中動態語形は同時代の文献である Mahāvastu にも 稀にしか見られない。このような異例とも言える中動態語形はなぜ,どのように 用いられたものであろうか。  結論的には,多数存する bhaveta は BHS bhaveya を,韻律を崩すことなくサンス クリット語形とするため採用された詩的自由形 (poetic license) である。中央アジア 伝本の散文には一部 BHS bhaveya が残存している。これが本来の語形であろう。 韻文中の語形は早期に bhaveta と置換されたと思しく,多くの写本で読みは比較 的揃う。しかし新層のネパール伝本の一部では bhaveta を―韻律に反してまでも ― bhavet と校訂する傾向が看取される。異例な語形であるとの認識があったもの であろう。bhavate も,韻文ウパニシャッドに見られるそれと同様,韻律上の破格 と解釈できる。  2 sg. ipv. bhavasva は原 Saddhp に遡るとはいえない。2 pl. ipv. bhavadhvam ともど も,ギルギット・ネパール祖型段階に遡る語形と見える。その使用意図は,何ら か主語の関心を表現した可能性があるが,二次的な読みと言わざるを得ない。本 来の読みは中央アジア伝本に証される BHS bhavatha ないし Skt. bhavata の如くで あろう。  そもそも中動態の語形は少数で出典箇所も偏り,その活用は生産的でない。総 じて原 Saddhp では,bhū は能動態で活用形を展開したと思しい。仮に中動態の 語形が用いられていたとしても,元来中動態が持っていた機能は失われていたと 思われる。

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