法学ジャーナル
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論説
朝鮮戦争と集団的自衛権
―有事法制における憲法論議を中心として―
江口 直希
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2019 年 2019 巻 96 号 p. 37-177

詳細
Abstract

本稿は集団的自衛権が1945年から今日まで行使されたことがないのか検証することを目的とする。また、本稿は日本を取り巻く国際環境が刻々と変化し、従来の考え方が国際社会において通用しにくくなってきている今日、安全保障環境を憲法解釈というレンズを通して判断することは非常に重要であると考えたことを問題意識としている。

2015年に成立した安全保障関連法案は限定的な集団的自衛権の行使を認めるものであり、国際環境の変化を如実に示すものであった。この法案が審議されている間、国会近辺等では学生団体まで巻き込んだ反対運動が展開され、テレビや新聞もこれを大々的に喧伝した。この時に反対する勢力が口を揃えて言ったのはこれまで1人も戦死者を出していない自衛隊が集団的自衛権の行使容認によって戦死者が出るような組織になってしまうのではないかという危惧であった。

では、これまで、本当に戦後日本は集団的自衛権を一度も行使したことはなかったのであろうか。このことについて研究を始めた際、偶然、朝鮮戦争時に日本が朝鮮海域に「日本特別掃海隊」を派遣していたことを知った。そして、そこでは若い隊員が「戦死」していたのである。

朝鮮戦争はどのような経緯で始まり、どのような経過を辿ったかについて、国際環境や戦局を概観し、当時組織された国連軍がどのような状況にあり、日本の助けを必要としていたかについて考える。

そして、この戦争において日本は自国の領域内外においていかなる協力を行ったのか。占領期であったとはいえ、日本国憲法が施行されて5年経つ日本が行った協力について考える。日本が行った協力には現在の法制ではとても考えられないような協力を行っている場合もあり、これについては政治的判断以上の解釈を行うことは難しい。

その様々な協力を踏まえた上で、現在、日本国憲法下において国防任務にあたっている自衛隊の成立過程と変化してきた憲法解釈についても考え、どのような解釈が時代の変化とともに採られるようになってきたのかを併せて考える。

日本の憲法解釈の変遷に基づいて、PKO協力法、周辺事態法、イラク特措法、そして平和安全法制について、成立の経緯や歴史、当時の国際環境等を勘案し、述べていく。

そして最後に、日本の集団的自衛権行使を限定的ながら認めるという新しい憲法解釈が政治的判断を狭めるものであり、時代に適したものであるのか、そうでないのかについても判断する。

はじめに

平成に入り、日本を取り巻く国際環境はそれまでとは著しく変化した。サイバー・テクノロジーの発達、国家の凋落や勃興、そしてこれまで主体とならなかった宗教対立を基にした非国家主体と国家の戦闘等、日々刻々と変化する中において我が国日本は憲法第9条という平和憲法を戴く国として、先の大戦をどこの国よりも緻密に研究し、いかなる国よりも軍事に精通し、平和を維持していくはずであった1

しかし、我が国は平和憲法の「平和」2文字に固執し、平和の対極と見做されている戦争については知る努力も見えないばかりか、タブー視しているのである。戦争について学ぶといえば、先の大戦について「平和」研究として学ぶ程度であり、現代の戦争については全く何も学ぶ環境が無いまま今に至っている2

孫子の「敵を知り、己を知れば百戦危うからず」という名言を改めて考えてみてはどうだろう。この「敵」は人類共通の敵である戦争であり、「己」とは我々日本人を含む人類である。アメリカ、ロシア、イギリス、フランス、中国等の国々は戦争を避けるために戦争を学び、軍備を拡張している。その中において、我が国日本は世界の中の国家としての役割を果たせているだろうか。

そのことを考えた時、集団的自衛権の問題が世間で脚光を浴び始めた。これまでと同様、軍事が絡むと腫れ物に触ったように反対運動が各地で展開された。しかし、今回問題になったような集団的自衛権は本当にこれまで一度も行使されたことはなかったのだろうか。そう思い至った時、先の大戦後すぐに起こった朝鮮戦争について日本が特別掃海隊を朝鮮海域に派遣していた事実を思い出した。しかも、この作戦行動中に乗組員である中谷坂太郎氏が1名、「戦死」していた。

戦後、誰も殺さず、死ななかった日本、この言葉の裏に隠された日本特別掃海隊及び朝鮮戦争期の日本の協力についてスポットライトを当ててみたい。憲法第9条を通じてだけではなく、これまで積み重ねられてきた各有事法制を取り上げて、考えていければと思う。恐らく、可能なもの、不可能なものが法律毎に出てくるであろうが、現代では到底できないような協力を当時、日本政府が政治的判断として行っていたのも事実なのだ。平和安全法制を戦争法などと呼ぶ前に、何の有事法制も持たないまま、日本特別掃海隊を送り出すことを可能とした政治的判断に一任されてしまうことの恐ろしさというものを考えてほしい。

そして、この日本特別掃海隊の問題は急に発覚したわけではないことも知っておくべきであろう。1950年当時、新聞は朝鮮海域に日本が掃海隊を送ったことを果敢にも記載した。しかし、この占領下における言論分野での英雄的な判断は野党議員の軟弱さによって打ち砕かれた。実際に当時の国会においてこの問題を取り上げる国会議員はいなかったのである。この問題が国会において議論されるのは1952年まで待たなければならない。

本稿ではまず、朝鮮戦争の概要について述べ、それから日本が持つ自衛権観の変遷について触れる。その後に代表的な有事法制についての研究を進め、現在の法制をもって如何様まで1950年当時の協力が可能であったのか、集団的自衛権は本当に行使されていなかったのかについて考えていきたい。

第1章 朝鮮戦争の概要

第1節 占領統治開始前から南北独立まで

朝鮮半島における民族紛争は1943年11月に開催されたカイロ会談によって出されたカイロ宣言によって決定的となっていた。この会談に参加したのはアメリカ大統領フランクリン・デラノ・ルーズベルト、イギリス首相ウィンストン・チャーチル、中国国民党総裁蔣介石であった。この会談で合意されたカイロ宣言は、日本の降伏と、満州・台湾・澎湖諸島の中国への返還と並んで朝鮮の「適宜」独立を謳うものであった3。しかし、この会談の内容は15か月後の1945年2月に開催されたヤルタ会談において、朝鮮半島を「当面の間」連合国の信託統治領とすることで合意がなされ、独立の文字は消え去ってしまっていた4。またこの会談で合意がなされたのは信託統治領とするということのみで、具体的な統治の方式については明確に決定したわけではなかったのである。1945年8月8日、対日開戦に踏み切ったソヴィエト社会主義共和国連邦(以下、「ソ連」と呼ぶ。)は、8月13日には朝鮮北部東海岸に上陸し、東北部を空爆、日本降伏後の8月24日にソ連軍は平壌に進駐した5。その後はアメリカとの合意通り、北緯38度以北を瞬く間に占領、軍政を開始した6。一方、アメリカは日本での本土決戦に備えていたため、朝鮮進出が遅れ、9月8日に仁川に上陸、ソ連と同様、軍政を敷くに至った7。以上で述べた38度線成立の歴史は、当初は単なる日本軍の武装解除を分担する便宜的な線として設定されたものでしかなかったが、アメリカとソ連の対立が激しくなっていくにつれ、分断が固定化されていくことになったことを示している8

大日本帝国によって逼塞させられ、海外に逃れていた抗日勢力は日本の降伏と共にソウルと平壌を中心に帰国し、南北の主導権、ひいては統一の主導権を巡って対立を引き起こすことになる。これら38度線の形成から各抗日勢力の帰国までの事柄は1950年の朝鮮戦争勃発の遠因となってしまう。

朝鮮にはアメリカ軍とソ連軍両軍が軍政を敷いたが、その形態は異なったものであった。

北部を占領したソ連は朝鮮建国準備委員会(以下、「建準」と呼ぶ。)を利用して間接統治方式を採用した。しかし、建準の支部を承認した後、北朝鮮五道行政局に改編してソ連軍政の民政部が指導していくことになる。加えて、朝鮮内部に朝鮮共産党北朝鮮分局を新たに設け、これによって、行政組織の支配と共産党の確立を果たすと、1945年10月14日に金日成を担ぎ出し、「抗日の英雄金日成将軍」というイメージを作り出した。その後、金日成はソ連を最大限利用し、ソ連の庇護の下、自らの権力基盤を固め、政治を執り行うことになる9

一方、南部に進駐したアメリカ軍は建準を解体し、9月11日に在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁(以下、「USAMGIK」と呼ぶ。)による直接統治方式を採用し、大日本帝国支配の象徴であった朝鮮総督府に勤めていた日本人や親日派の朝鮮人を留任させ、実質的には旧日本の統治機構をそのまま継承する形となった。この措置は南朝鮮の人々の不信を生み、それが直接、アメリカ軍の統治に対する不信につながったため国内の混乱に拍車をかけることとなった。占領地内に火種を抱えながら、国際的な米ソ対立を受け、USAMGIKは南朝鮮国内の共産主義勢力への取り締まりを強めた。1946年5月8日に南朝鮮警察が朝鮮共産党本部ビルを捜索し、党員による朝鮮銀行券の大量偽造が発覚したと5月15日に発表した。USAMGIKはこれを機に共産党の非合法化に転じ、9月には朴憲永などの指導者に逮捕状が出たため、朴憲永は北朝鮮臨時人民委員会が樹立されていた北朝鮮に越北し、平壌から南朝鮮労働党(南労党)を指導してUSAMGIKとの抗争を行わせた10

1946年5月から無期限休会となっていた米ソ共同委員会が1947年5月に第二次米ソ共同委員会として再開されたが、同年8月に決裂すると、アメリカはこの問題を解決する場を国際連合(以下、「国連」と呼ぶ。)に変えた。国連総会政治委員会は、南北朝鮮代表の選出のための国連朝鮮委員団の設置と、同委員団の監視の下に普通選挙を実施することを可決した。だが、ソ連支配下の北部は同委員団の入北を拒否したため、国連は南朝鮮だけで総選挙を実施することを決定した11。これに反対する勢力も存在したが、南朝鮮での総選挙は1948年5月10日に行われ、それに続いて憲法制定を行い、初代大統領に李承晩を選出した。1948年8月15日、大韓民国(以下、「韓国」と呼ぶ。)の建国が宣布された。

これを受けて、北朝鮮は1948年7月10日に人民会議において憲法を制定し、8月25日に最高人民会議代議員選挙を実施した。そして、1948年9月9日、朝鮮民主主義人民共和国(以下、「北朝鮮」と呼ぶ。)の建国を宣布し、金日成が首相に就任した12

このようにして現在まで尾を引くことになる南北の分断体制が確定されたと述べてよいだろう13

第2節 南北分断から開戦直前まで

南北に主義主張が異なる国家が誕生したことでそれらの国家の至上命題は相手を崩壊あるいは屈服させて自らの統治下に組み込むこととなった。これが北朝鮮で言う「国土完整」であり、韓国の言う「北進統一」である14

当然、相手の政治体制を破壊するためには武力が必要になるが、韓国も北朝鮮も満足な兵器を持っていなかった。その結果、韓国はアメリカ軍の承認と軍事援助を、北朝鮮はソ連の承認と軍事援助を求めていくことになる。これらの要望に対するアメリカとソ連の対応は真逆なものとなった。北朝鮮側はソ連から大量の武器と弾薬を援助され、承認まで与えられた15。つまり、「国土完整」が、明確な国家目標の一つとなり、政治的権力及び軍事力の確立と強化によって採り得る選択肢の一つとなったのに対して、韓国側はアメリカの承認を得ることはできず、むしろ北進し、北朝鮮と一戦交えてしまうのではないかという危機感をアメリカに与えてしまった。その結果、アメリカからは戦車や航空機等の供与はされず、治安維持のために必要なレベルの兵器しか供与されなかったのである16。韓国にとって「北進統一」は政治的、経済的、社会的に混乱している国民の目を北朝鮮に向けさせるための政治的スローガンに過ぎないものとなってしまっていた。

また、この援助の差は、そのまま国力の差として反映されてしまう。北朝鮮はソ連の庇護の下、軍や治安機関を中心として権力基盤を固め、重工業の発展を重視した経済政策の実施、通貨改革等の諸改革を通じて国力を着実に増大させていた。農業分野についても、急進的な農地改革を行うことにより、農業生産性も向上させ、国内経済は回復基調に乗っていた。一方の韓国は済州島の暴動を筆頭とする国内不安を抱えており、十分な国力の回復は望めない状況であった。また、アメリカからの支援は食料を中心とした消費財が主であって、直接的に韓国国内の経済の回復には寄与しなかった。

1948年末からアメリカ軍が撤退し始め、38度線の警備を韓国軍が引き継ぐと、南北両軍は直接、38度線を挟んで対峙するようになり、両軍の間で国境紛争が頻発して起こるようになった17。この軽微な国境紛争は米等の食料品の略奪のためであったが、同時に北朝鮮軍にとっては韓国軍の戦力の探索、いわゆる武力偵察といった意味合いも帯びていた。

1948年10月から、ソ連軍は随時北朝鮮から撤退していたが、撤退する際に装備品や軍需品を北朝鮮に大量に譲渡していた。この時、北朝鮮軍は約六万もの兵力を有しており、装備はソ連から得た小銃や野砲、戦車、航空機、弾薬等を使用していた。第二次国共内戦で活躍した朝鮮人義勇軍が帰朝すると、軍を新たに再編し、韓国に侵攻する計画を進めるための軍備を整え始めた。1949年3月に金日成はモスクワを訪れ、直接スターリンに侵攻計画を打診したが、スターリンはこれを拒否、韓国からの先制攻撃があった場合にのみこれを認めるとした。その後、1949年8月に平壌に赴任していたシトゥイコフ大使を通じて金日成は同様の打診を行ったが、改めてスターリンはこれを拒否、このことから1949年のソ連は北朝鮮が暴発しないか非常に慎重な姿勢を採っていたことがわかる18

一方、アメリカは共産主義中国の誕生に続いて、ソ連の非協力的態度に不信感を抱いており、東アジアにおける冷戦構造が発展していくにつれて、アジアにおける戦略基地としての日本の地位を評価し、日本を西側陣営に組み入れることを重視するようになった19

1950年の1月30日、スターリンの姿勢が変化する。再度金日成から韓国侵攻を打診されたシトゥイコフ大使は電報でスターリンにこれを報告した。これを知ったスターリンは電報で「私はこの件について金日成を支援する用意ができていることを伝えよ」と事実上承認するような文言を送った。この姿勢の急激な変化について、スターリンは毛沢東に「国際情勢の変化」を挙げて説明した。この国際情勢の変化とは、大きく分けて5つある。①ソ連による原爆開発の成功(1949年8月29日)、②社会主義中国の誕生(1949年10月1日)、③アチソン演説(1950年1月12日)、④中ソ友好同盟相互援助条約の締結(1950年2月14日)、⑤韓国に駐留していたアメリカ軍の撤退(1949年6月29日)、である20。つまり、それまであった核の優位が崩れ去り、第二次国共内戦では不介入の姿勢を示し、自ら防衛線を洋上に引き、前線から退いたアメリカが、友好国同士、武器等を融通し合う体制が出来た共産主義国家群に対して敵対的な行動を採るとは考えなかったのである。

スターリンにとってはアメリカが軍事介入してこないことが大前提であり、問題は中国共産党が金日成から求められた承認にどのように対処するかであった。そして、1950年2月に平壌に派遣していたそれまでの軍事顧問団を交代させ、新たに、主席軍事顧問にワシリエフ中将、総参謀部顧問にポストニコフ少将、総政治部顧問にマルチェンコ少将を任命した。いずれも、独ソ戦を戦い抜いた者達であった21。この軍事顧問団が作成した作戦計画書に則って北朝鮮軍の韓国侵攻計画は作られたのである。この計画は、アメリカは介入せず、韓国国内の南労党や反政府勢力が北朝鮮軍の進行に合わせて暴動をおこし、韓国は国内から瓦解するというものであった。ソ連の軍事顧問団が侵攻計画を作り、朝鮮語に翻訳されている間、金日成と朴憲永はソ連を訪問し、スターリンから最終承認を得ると、5月13日、秘密裏に北京を訪れ、中国共産党の承認も取り付けた。帰国後の6月10日、北朝鮮軍に対して機動演習の名目で38度線に沿って展開するように指令を出し、この命令に従って、6月1日から北朝鮮軍は展開し始めた。こうして6月23日、全軍の配置が完了し、最終的な攻撃開始の指令を待つだけの状態となっていた22

一方、韓国では5月30日に行われた総選挙で、現政権側であった李承晩派は大敗し、政権維持すら難しい状況であった。また、政治体制のみならず、軍制においても、全ての師団長の交代と、部隊の改編によって部隊編成は混乱に陥っており、着任地に到着していない部隊もあった23。さらに、6月11日から出されていた非常警戒令が6月24日の午前0時をもって解除されていたので、ほとんどの部隊が外出や休暇を申請していたのである。加えて、24日の夜にはソウルで陸軍会館の落成式が行われており、ソウルにいた韓国軍の高級幹部やアメリカ軍の顧問団等も参加して深夜まで催されていた。同時に武器や車両は修理のため後方にある武器補給所に集められ、各部隊には装備の3分の2ほどしか残っていなかった。韓国軍は38度線に沿って配備された北朝鮮軍の行動をある程度把握していたが、危機感を持つには至っていなかった。韓国側は北朝鮮が南下してくることはないだろうと考えていたのである。

戦力についてはさらに深刻な隔たりが生じていった。海軍力こそほぼ同等であるが、陸軍、空軍、海兵隊は圧倒的に北朝鮮軍が優勢であった。特に陸軍については、兵力は2倍、野砲は門数で8倍、これに野砲の口径及び射程を考慮すれば、比較にならない程の差であった24。加えて、北朝鮮軍には戦車が配備されていたが、韓国軍にそれはなく、戦車自体、見たことが無い者も多々いたのである。開戦前における南北の戦力差は明らかであった25

第3節 開戦から釜山橋頭保死守まで

1950年6月25日午前4時、北朝鮮軍は38度線全線に亘って一斉攻勢を開始した。北朝鮮軍の狙いはソウルを攻め落とすことであった26。38度線で警戒に当たっていた韓国軍は大隊級の部隊だけであり、極めて薄い防衛線であった。また、北朝鮮軍の奇襲を受け、休暇を取っていた将兵達を呼び戻し、逐次前線に投入していったが、これも部隊の建制27を崩す一因となった。ここからも韓国軍が北朝鮮軍の奇襲攻撃にいかに狼狽していたかが窺える。建制が崩れ始めた韓国軍は北朝鮮軍の猛攻に耐え切れず、撤退を繰り返していた。

前線が大混乱に陥っているのと同様にソウルでも大混乱になっていた。早朝4時の奇襲攻撃であり、前夜には陸軍会館の落成式もあって、軍や政府の首脳達にいち早く連絡をしなければならなかったがなかなか連絡がつかなかった28。ソウルに迫る北朝鮮軍のことを国防部は、13時に初めて公式談話を発表しつつも、全国民には平静を保つように呼び掛けた。この放送が後々起こるソウル陥落時の混乱を巻き起こすことになる。一方、撤退しながらも前線を維持し続けていた第一線の部隊は健闘を続け、劇的に戦線の崩壊を抑えていたのである29

ソウルは僅か3日で陥落し、北朝鮮軍は当然、その後南下を続けるものであると考えられていたが、北朝鮮軍は3日間、進軍を停止した。その理由は、北朝鮮の持っていた韓国侵攻計画は3日以内にソウルを占領さえすれば、南部で人民蜂起が起き、政権転覆が出来ると思っていたからである30。戦術の原則では相手が防衛体制を築き上げる前に行動するのが最良であるとされており、「戦場を離脱する敵を補足殲滅するため、断固として、万難を排し、強固な意思をもって追撃し、指揮官は、眼前の成果に満足し、あるいは疲労のため追撃の実施を躊躇うことを厳に戒めなければならない。」となっており、それを無視した格好となった。その結果、北朝鮮の思惑は外れ、また大前提として考えられていたアメリカ軍の不介入すら、ひっくり返ってしまった今、南部に侵攻を続けていかなければならなくなったのである。

北朝鮮軍の38度線突破を受けて、安全保障理事会は6月25日14時、安全保障理事会決議第82号を採択し、北朝鮮の韓国に対する武力攻撃を平和への侵害であると認定、北朝鮮に対しては戦闘の即時停止、及び38度線以北に武装部隊の撤退を要請した31。また同時に加盟国に対しては国際連合に対する支援提供並びに北朝鮮当局への支援提供を抑止することを要請したのである。しかし、北朝鮮はこの勧告を無視し、攻撃を継続した。

この対応を受け、トルーマン大統領は東京のマッカーサー元帥から韓国軍の現状についての報告や李承晩大統領からの救援要請、在韓国連朝鮮委員団による北朝鮮の攻勢状況等を考慮し、6月27日、アメリカ極東海・空軍に対して38度線以南に侵攻した北朝鮮軍への海空からに限った攻撃を指令した。

同日、指令を受けたアメリカ極東海軍は、第七艦隊の一部を台湾海峡に派遣するとともに、主力をもって朝鮮海域に出動し、逐次来援する各国の艦艇、そして韓国海軍もその指揮下に組み込み、海上封鎖、艦砲射撃、海上輸送、海上掃海等に当たるとともに空母艦載機による制空作戦や空爆を行った32。海上封鎖は、封鎖海域を明確に指定し、北緯37度線以南の韓国沿岸は韓国海軍が、北緯4度以南の東海岸及び北緯39度30分以南の西海岸はアメリカ・イギリスを中心とした各国の艦艇が指定された海域を担当するという形で7月4日から開始された。休戦になるまで分担に基づく海域封鎖は変わることはなかった。

一方、アメリカ極東空軍は、6月28日から朝鮮上空に展開し、航空作戦を実施、北朝鮮空軍を圧倒して38度線以南の制空権を確保した。6月29日に北朝鮮への海・空軍の攻撃が承認されると、同日、B-29爆撃機をもって平壌飛行場を空爆したのをはじめ、7月3日には空母艦載機をもって空爆を開始し、7月18日には朝鮮最大であった元山製油所を攻撃し、製油所と石油製品の製造ラインを破壊した。

このように、朝鮮半島及びその周辺海域では、アメリカ海・空軍、後の国連軍が制海権・制空権を握り、海上及び航空では圧倒的優位な状態で戦いを続けていくことになるが、問題は地上戦であった。

6月27日の23時、安全保障理事会は安全保障理事会決議83号を採択し、北朝鮮の武力侵攻が平和への侵害であるとの認定と38度線以北への撤退要請を重ねて行いながら、国連に対する韓国政府からの平和と安全を回復する即時かつ効果的な措置の要請を受け、新たに国連加盟国が武力攻撃を撃退し、当該地域における国際平和と安全の回復のために韓国への支援に必要と思われる措置を講ずることを勧告した。この安保理決議83号では軍事援助が除外されているのか明確ではなく、それまでに行われたアメリカによる介入の事実上の追認となったのである。6月29日にマッカーサー元帥は韓国を視察し、アメリカ陸軍を投入する必要性をワシントンに打電した。これを受け、トルーマン大統領は6月30日、アメリカ陸軍の投入を発表した。

北朝鮮軍は7月3日、戦車を先頭に漢江を渡河し、韓国軍は防衛ラインを下げ始めた。この時点で蔡参謀総長を解任し、新たに丁少将が参謀総長に任命された。丁参謀総長はこれまでの戦術を改め、アメリカ陸軍が到着するまでの時間を稼ぐために遅滞作戦を採るように方針を転換した33

アメリカ陸軍投入が決定され、逐次韓国に派遣されることになった。その先陣を切ったのが九州に駐屯していた第24師団であった。同師団は2個連隊しか保有していなかったが、朝鮮に派遣され、準備も装備も不十分なまま戦闘に加わった34。緒戦は猛撃を加える北朝鮮軍に押され、後退を繰り返していたが、7月10日に第5空軍の攻撃によって北朝鮮軍は大打撃を受け、以降、夜間に機動部隊は行動するようになる。その結果、アメリカ軍の強固な抵抗と開戦初期の奇襲攻撃から立ち直りつつあった韓国軍の地の利を生かした頑強な抵抗が遅滞作戦と合わさって、北朝鮮軍の進軍速度は相当低下するのである。

7月7日、北朝鮮軍は敵に時間的余裕を与えず、朝鮮南部を押さえるために第三次作戦を開始した35。この作戦開始を受けて、現地の北朝鮮軍では予備の師団を総動員して、進撃を加速させた。相対する国連軍は逐次抵抗しつつ時間を稼ぎ、戦線を縮小する手段で対抗した。ここにきて戦況は北朝鮮の攻勢が守勢を上回り、国連軍が釜山を追い出されるのが早いか、釜山に国連軍の応援が到着するのが早いかという時間との戦いの様相を呈するようになった。事実、7月7日にはイギリスとオーストラリアの海・空軍が応援として参戦していたものの肝心の地上兵力は未だ到着できないような状況であった。

同日、国連安保理は国連安保理決議84号を採択し、これまでの安保理決議に従い軍事力及びその他の支援を拠出するあらゆる加盟国はアメリカによる統一された指示系統の下に部隊や支援を形成することを勧告し、同時に、アメリカに対してそのような部隊の司令官を任命することを要請した36。また、様々な国家が参加している北朝鮮に対する軍事行動において統一された指揮系統にあることを示すために国際連合旗を使用することを承認した(図1)。これを受けて翌7月8日、トルーマン大統領はマッカーサー元帥を国連軍司令官に推薦し、7月10日、正式に承認された。マッカーサー元帥は国連軍司令部を発足させたが、そのほとんどの参謀が極東軍司令部の参謀であった37

図1 戦艦ミズーリに掲げられた国連旗(2016年12月21日 筆者撮影)

地上軍がなかなか到着しないような状況下で、日本で占領政策を行うために進駐していたアメリカ軍は大きな意味を持った。アメリカ軍は、九州に駐屯していた第24師団に続き、7月10日には関西に駐屯していた第25師団が釜山に、また7月18日には関東に駐屯していた第1騎兵師団が送られていったのである。こうすると日本には北日本に駐屯していた第7師団しか残らないことがわかり、マッカーサー元帥は日本国内の治安維持のために7月7日、日本政府に対して警察予備隊創設の書簡を送ることになる38

ここで問題視されたのは国連加盟国ではない韓国軍の処遇であったが、このような状況を察知した李承晩大統領は、7月14日にマッカーサー国連軍司令官に書簡を送り、戦争を勝利に導くための臨時の措置として、韓国軍の指揮権を国連軍司令官に委譲するとしたのである39。この書簡を得て、マッカーサー元帥は韓国軍をそれぞれの国連軍の指揮下に組み込んだ。こうして朝鮮半島で活動する国連軍の指揮系統は統一され、後に送り込まれる各国軍隊も同様にアメリカの陸・海・空軍司令官の下に組み込まれていった40

これ以降も北朝鮮軍の圧倒的な攻勢に苦戦を強いられる国連軍であったが、新たに到着したロケットランチャーによって北朝鮮軍のT-34に対する有用な対戦車兵器が出来たこと、また韓国軍の奮戦等によって徐々に北朝鮮軍に対抗できる素地はでき始めていたのである41

朝鮮戦争初の陣地戦となった釜山橋頭保においては国連軍の作戦環境が極めて良好であり、海上輸送による支援が切れ目なく行われていたことが国連軍に極めて有利に働いた。海上輸送は、主にMSTS(Military Sea Transportation Service)の任務であったが、船舶が不足していたため日本商船管理局(Shipping Control Authority for the Japanese Merchant Marine)統制下の貨物船等を加え、更に日本の船舶を個別にチャーターして、作戦海域である朝鮮海域を跨ぐ形で日本と朝鮮間の海上輸送に任じた。

これ以降、幾度となく北朝鮮軍は強固な防衛線となった釜山橋頭保に突撃を繰り返すが、いずれも退けられ、苦戦を強いられた。8月31日に北朝鮮軍は最後の総攻撃を行い、各戦線を突破、国連軍は突破された戦線の補強のために兵員を割かなければならなくなったが、国連軍は補強兵力をもって陣地の回復を図り、これに成功、北朝鮮軍の攻撃は下火にならざるを得なくなった。

北朝鮮の九月攻勢は、総予備の師団を戦線に組み込んで、その総力を挙げた最後の決戦であった。だが、国連軍による絶対制空権下の作戦は、戦闘力の集中を著しく困難とし、突破する場所を限定すれば国連空軍の攻撃目標となるため、突破箇所を限定せず全戦線で攻撃する形となり、補給や補充が続かない状況で戦力は摩耗し、枯渇してしまっていたと考えられる。つまり、北朝鮮軍にとって九月攻勢は、既に戦力の限界を超えた作戦であったと評価することができるのである。

第4節 釜山橋頭保確保から仁川上陸作戦まで

仁川上陸作戦は、マッカーサー元帥の強い意向を受けて行われた作戦であるが、上陸作戦を実行すること自体が目的ではなかった。マッカーサー元帥はアメリカ陸軍を朝鮮半島に投入した時から、北朝鮮軍の進撃を韓国南部のいずれかの地点で阻止し、新たに編成した部隊を北朝鮮軍の背後に上陸させてスレッジ(鉄床)を作り上げ、現在、守勢に徹している第8軍はスレッジ完成後反撃に転じ、両軍で包囲し、殲滅する、まさしくスレッジの上の北朝鮮軍を叩き潰すという壮大な構想を抱いており、既に国連軍参謀長アーモンド少将に上陸地点の洗い出しを命じていた42

7月上旬にはこの構想を具体化した「ブルー・ハート計画」が策定されていたが、構想上は第1騎兵師団を仁川付近に上陸させるというものであったが、投入兵力であった第1騎兵師団は既にそれまでに投入されていたアメリカ軍と残存する韓国軍では北朝鮮軍の南進を阻止できなかったため、戦線に送り込まれており、7月10日には作戦自体を放棄していた。しかし、マッカーサー元帥は上陸作戦の持つ効果を強く信じていたので、7月23日、アメリカ本土から派遣される臨時海兵旅団と第2師団をもって、仁川、群山、注文津のいずれかの地点に強襲上陸作戦を行うという「クロマイト計画」を新たに立案させた。ところが、釜山橋頭保まで国連軍が追い詰められると、戦線の維持と陣地構築のため、第2師団を筆頭に送り込まれることになり、またしても構想は頓挫することになった。

釜山橋頭保の戦いが国連軍に有利に傾きつつある中の8月12日、マッカーサー元帥は、第1海兵師団の来援の知らせを受け取ると改めて仁川上陸作戦を決行する意思を固め、「クロマイト100-B号計画」を策定した43。そして第1海兵師団と北日本に駐屯していた第7師団、残存する韓国軍の一部を加えて新たに第10軍を編成し、上陸部隊を組織させた。ワシントンの首脳部はこの上陸作戦そのものについては反対ではなかったが、仁川を強襲上陸地とすることには難色を示した。なぜなら、仁川の干満の差は10メートル程度あり、干潮時の入港は幅2キロ、長さ90キロの飛魚水道1本しかなく、もし、この水路において機雷に触雷してしまえば沈没する艦艇によって唯一の水路を塞いでしまい、以降の作戦遂行に多大なる困難を生じさせる恐れがあったからである44

8月23日にコリンズ陸軍参謀総長、シャーマン海軍作戦部長等が出席した東京会談が行われ、同様の疑問点が呈されたが、マッカーサー元帥は自説を譲ることなく強固に主張し続けたため、統合参謀本部側が折れ、8月29日に上陸地点を群山に変更することも考慮されたいとの意見を付しながらも仁川上陸作戦を承認した。これを受け、マッカーサー元帥は8月30日、作戦を下達、9月6日には上陸作戦の決行日を9月15日と定めた。

この仁川上陸作戦にはアメリカ海軍以外にもイギリス、フランス、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、オランダ等の艦艇を含む空母6隻、巡洋艦6隻等総計260隻余りの大艦隊が参加し、これに韓国海軍からは哨戒艦4隻と掃海艇7隻が参加した。この大艦隊に対する北朝鮮海軍は偵察艇数隻で編成された5個の戦隊があり、そのうちの1個戦隊は鎮南浦に、残りは元山にあった45

9月15日午前2時に上陸作戦は決行され、北朝鮮軍の抵抗を退けつつ当初予定していた進軍ラインまで進軍が完了した。市街地に残っていた北朝鮮軍も排除し、9月16日の18時をもって作戦成功が伝えられた。これによって一先ず、朝鮮半島から追い落とされる危険性が低減された国連軍は当初の作戦通り、北朝鮮軍を包囲、各個撃破していったが、38度線を越えて鴨緑江付近まで進撃すると、中国共産党から中国義勇軍が北朝鮮の共産主義政権存続のために送り込まれ、形勢は再び逆転、一進一退の攻防を繰り返すことになった46

その後、ソ連の国連工作等を経て、1953年7月27日午前10時に休戦協定が板門店で締結され、現在に至るのである。

第2章 朝鮮戦争に対する日本の協力活動

第1節 国内の治安面における協力

1950年6月25日に勃発した朝鮮戦争には、アメリカ軍を主力とした国連軍(いわゆる朝鮮国連軍)が参戦したが、この国連軍はアメリカ軍占領下の日本の全面的な協力無しには戦い抜くことはできないものであった47

旧鉄道省の関釜連絡船として引き揚げに活躍した興安丸、金剛丸等や旧国鉄による国連軍兵士輸送、そしてアメリカ海軍貸与のLST(Landing Ship Tankの略、戦車揚陸艦)による人員、物資の補給・輸送もいわゆる後方支援活動であり、実質的には国連軍の活動と極めて一体化したものであった48。また、アメリカ軍基地で働いていた通訳、労働者の中で、日本語の通じる朝鮮で通訳をさせる目的で銃を支給され、直接、戦闘に参加した人もいたようである49

1950年6月26日にはマッカーサー元帥から吉田茂首相に宛てた書簡の中で、日本共産党機関紙『アカハタ』の30日間発行停止を指示した50。また、日本国内での朝鮮戦争開戦後の戦況、アメリカ軍(後に国連軍)の作戦行動、被害状況等についての新聞、雑誌、ラジオ放送での報道は、GHQの検閲を受けた51。1950年7月18日には更に『アカハタ』の無期限発行停止を指令し、ほぼ同時期に新聞・通信・放送関係者から共産党に考えが近い者をあぶり出していく日本版レッド・パージが始まった52

朝鮮戦争に関する報道は、8月3日のGHQ民間情報局長のマスコミ・パージ声明を筆頭に様々な規制を受け、報道機関はアメリカ軍の公式発表や海外通信社特派員の許可された記事の他、各新聞社の社内の検閲指針に基づいた記事を掲載した53

他方、新たに勃発した朝鮮半島での戦争に反対して全日本学生自治連合会総連合(以下、「全学連」と呼ぶ。)の学生や1949年9月8日に団体等規正令により解散指定された在日本朝鮮連盟や日本朝鮮民主青年同盟の朝鮮人、更に1950年6月6日に全中央委員の追放指令を受けた日本共産党系の労働者が反米、反戦、平和運動を展開し、反占領軍行為等で占領軍や警察に逮捕され、軍事裁判にかけられるような状況であった。このような反占領軍、反米運動の取り締まりの法律的根拠は日本国憲法制定後でありながら、効果を持ち続けた、1946年6月21日公布の「連合国占領軍の占領目的に有害な行為に対する処罰等に関する勅令」(いわゆる勅令第311号)であった54。1950年8月15日には治安維持のため、法務府特審局の定員を538名から1200名に増員して、日本共産党や北朝鮮系朝鮮人の反米運動の取り締まりに力を入れた。日本国内もアメリカに合わせるような形で準戦時体制色が色濃くなっていった55

1950年8月19日には外務省情報部が「朝鮮動乱とわれらの立場」を発表し、朝鮮で現に起こっている動乱は自由と平和を基調とする民主主義諸国とその自由と平和を破壊しようと挑戦する共産主義諸国の対立であり、この国際情勢において日本が中立を保ち続けることはあり得ないこと、また、現に日本国内においては既に思想戦が始まっており、日本は完全に朝鮮動乱の渦中にあることを知らしめた56。また、加えて、朝鮮における民主主義のための戦いは日本の民主主義を守るための戦いでもあるとし、この重要性を理解した上で、国連に対する協力を推し進めるのが責任ある政府を持つ日本としての採るべき道であると述べ、全面講和論と中立論を退けた上で、当時進行しつつあった冷戦に対して自由主義陣営の立場から参加することを明確にしたのである57

その後、同年8月31日には全国労働組合連絡協議会(以下、「全労連」と呼ぶ。)本部が反占領軍的行為として解散指令を受け、10月31日には占領目的阻害行為処罰令(ポツダム政令325号)が新たに公布され、11月1日に施行された58。この政令は第1条で「この政令において、『占領目的に有害な行為』とは、連合国最高司令官の日本帝國政府に対する指令の趣旨に反する行為、その指令を施行するために連合国占領軍の軍、軍団又は師団の各司令官の発する命令の趣旨に反する行為及びその指令を履行するために日本国政府の発する法令に違反する行為をいう。」とし、「有害」とはいったい何を指すか等、極めて不明確な文言を含むものであった。これに基づいて、関西地方や中部地方で続発していた朝鮮人が関係する暴力事件を暴力革命の準備行為であり、日本共産党との合作による占領に敵対する行為であるとして検挙及び逮捕が行われた。

1950年10月20日付の『毎日新聞』は、10月24日の国連記念日を前にし、国連協力の趣旨徹底のため全国遊説を行っている佐藤尚武参議院議長が、日本人が個人の資格で国連軍に参加することは憲法に違反するものではない、国連から日本に対して人的資源提供の要請があった場合、日本としては毅然としてこの要請に応じるべきだとする演説を掲載し、憲法第9条に抵触しない抜け道としての義勇兵論を説いた59

朝鮮戦争の勃発と同時にGHQによる占領政策は、反共産主義を一層明確化し、憲法が保障しているはずであった言論の自由や労働運動を弾圧する方向に変化していった。このいわゆる逆コースを歩み始めた日本国内においては、朝鮮戦争に関連する事件が続発し、事件に対する日本人の非難、新聞の批判の論調が高まった。この朝鮮戦争にまつわる事件の増加は在日朝鮮人の一部がやはり北朝鮮の内通者であることを示すこととなり、日本国内での破壊工作を行っていることを示す所作となったのである。このことはGHQ及び日本政府が恐れていた事態であった。

第2節 国会における論戦

国会においては、日本軍が存在しなくなり、憲法第9条を持つ以上、現状行われている日本国内における協力のみで事足りるとする社会党と、それ以上の協力を何とかして行おうとする与党勢力との対立が生じていた60

1950年7月4日には政府閣議において、朝鮮におけるアメリカの軍事行動について行政措置の範囲で協力する方針を決定し、7月11日の自由党議員総会で吉田茂首相は、国連の行動に日本は積極的に協力すべきであるとの所信を表明した。その後の7月14日、第8回国会、施政方針演説の中で吉田茂首相は「……国際連合の今回の措置は、わが人心の安定に益するところ多大であり、またわが人心に影響するところ多大であると考うるのであります。わが国としては、現在積極的にこれに参加するという立場ではありませんが、でき得る範囲においてこれに協力することは、きわめて当然のことと考うるのであります。」と述べ、「朝鮮動乱とわれらの立場」で発表された日本政府の立場を改めて示すものとなった。

また、7月22日には田中耕太郎最高裁判所長官が「日本人は自衛のため国連の義勇軍に参加することは法律的に可能である。」と述べた61。それ以降、義勇兵に関する議論が取り上げられ、7月26日の参議院本会議では、義勇兵の募集が実際に行われているのではないか、との共産党の細川嘉六議員の質問に、吉田茂首相は「義勇兵が現に募集されているという事実はない。」と答弁した。

アメリカにおいて、日本人義勇軍募集法案が提出される等の動きとともに1950年8月5日付の『朝日新聞』は、吉田茂自由党総裁の「朝鮮事件は対岸の火事ではない。われらはあくまでも平和に徹し極東平和の維持増進のために速やかに事態の平静とならんことを念じ、挙国一致進んで国際連合に協力すべきである。わが国における共産分子は最近とくに第五列的本性を暴露しその売国的企図が明白になりつつある。われらは断固これを排撃し赤禍を防ぐために必要な措置を講ずる。」との談話を伝えた62。この見解は、施政方針演説での国連軍への全面的な協力の範囲を大幅に飛び越えた、GHQに代わり、日本政府自らが日本国内における共産革命を阻止するために共産主義者への弾圧を実施するという意思を明確にしたものであった。

その翌日の1950年8月6日付の『朝日新聞』には日本の早期講和と早期国連加盟実現のためには朝鮮戦争への全面的かつ積極的協力が不可欠であると考える佐藤尚武参議院議長談として「国連が日本の安全保障を引き受けてくれるならば講和条約が締結される前でも日本の義勇兵が国連の国際警察軍に参加しても構わない。」との記事を掲載し、より一層、義勇兵についての議論を加速させるかに見えた63。しかし、マグナソン上院議員の日本人義勇軍募集法案に対して意見を求められたマッカーサー元帥は否定的な見解を示したことで風向きは変わった。同年8月10日付の『毎日新聞』は社説「義勇兵問題への回答」の中で、「マッカーサー元帥の回答は、現状に対する深い考慮と、適切な政治性を持つものであって、敬意を表せざるを得ない。」と持ち上げながら、憲法に関する議論についても「この憲法の下にあって日本国民である個人が、義勇兵に参加し得るとの解釈は、よほど大幅に解釈を拡げなくては簡単には出てこないように思われるが、マッカーサー元帥はこれらのむずかしい問題の解釈をひっくるめて平和条約後にのばしてくれた。」として、あたかも解釈を下すのにもGHQの許可が必要であるかのような書き方をしていた。日本の憲法に関する議論がGHQの判断1つでひっくり返ってしまうような書き方であったのではないかと推察される64

レッド・パージが西側陣営に日本を思想的に定着させるための手段であったとするならば、西側陣営に日本を参加させる条件とは共産主義である東側諸国に対抗する手段としての警察予備隊の発足であったということができる。去る7月8日にマッカーサー元帥から警察予備隊の創設指令を受けた吉田茂内閣は8月10日に国会審議を経ずとも公布可能な政令をもって警察予備隊令を公布した65。この警察予備隊の目的は「我が国の平和と秩序を維持し、公共の福祉を保障するのに必要な限度内で、国家地方警察および自治体警察の警察力をおぎなう」ことに置かれていた。警察予備隊令の「わが国の平和と秩序を維持し」という部分を「国の(to maintain peace and order of the country)」とせずに「国内の(within the country)」と表現し、軍隊的な側面を極めて薄くするなどの工夫を凝らした66

1950年10月24日の第3回国連記念日には国連本部から日本国連協会に国連旗が授与され、日本国の総力を挙げての国連協力体制が形成されていった一方で、去る1950年7月8日にマッカーサー元帥の指令により創設された国家警察予備隊7万5000人の朝鮮戦争への派遣問題は、吉田茂首相の明確な否定をもって決着した67。日本人の組織的な義勇軍兵士参加は、利用することを考えてはいないとするマッカーサー元帥の回答、吉田茂首相の国会答弁、李承晩大統領を筆頭とする韓国側の強い反日感情等から判断すると、不可能であったと評することができる。

第3節 朝鮮海域における協力

朝鮮戦争においては、旧日本海軍の艦艇が多数参加し、国連軍の仁川上陸作戦、元山上陸作戦等に協力し、作戦成功に貢献した。この時に派遣されたのは、運輸省や旧海軍の他に、旧内務省、民間船会社が加わり、官、軍、民の出身者からなる混成部隊として発足した海上保安庁の掃海隊であった68

海上保安庁は海上保安庁法第25条「この法律のいかなる規定も海上保安庁又はその職員が軍隊として組織され、訓練され、又は軍隊の機能を営むことを認めるものとこれを解釈してはならない。」という文言を根拠として、使用艦艇は排水量1500トン以下で速力15ノット以下でなければならず、搭載される武装は禁止され、武器としては小銃と拳銃しか携帯が許されていなかった69。朝鮮戦争の勃発後、北朝鮮の攻勢をしのぎ切った国連軍は一大反攻作戦を企図したが、北朝鮮軍は朝鮮各地の主要港に、ソ連軍の援助で約3000個もの磁気機雷を敷設しており、それが、反攻作戦を阻害する要因の一つとなっていたのである70

1950年10月2日、アメリカ海軍参謀副長のアーレイ・バーク少将と面会した海上保安庁長官大久保武雄はその場で、朝鮮戦線における戦況と元山上陸作戦の重要性を説明された上で、朝鮮水域に日本掃海隊の出動を要請された71。この要請に対しては一長官がその場で判断を下せるような案件ではなかったので、一度持ち帰り、大久保武雄長官は吉田茂首相を訪ねると、面会の経緯について説明し、指示を仰いだ。吉田茂首相は極めて難しい問題に直面した。掃海隊の派遣先は戦場であり、国連軍に加担して掃海を行えば、「戦争放棄」を謳った日本国憲法に違反してしまうし、国内だけではなく日本を警戒する共産主義諸国やアジア諸国からの国際的な批判を浴びるのは間違いないであろう。しかし、この要請を拒否すれば、アメリカに不快感を与え、日本の求める講和条約の締結に重大な悪影響を及ぼしてしまうことは間違いがなかった。この判断を求められた吉田茂首相は、「国連軍に協力するのは日本政府の方針である。」と決断して、大久保武雄長官にアーレイ・バーク少将の申し出を受け入れるよう、行政府の長として指示を出した72

1950年10月4日、掃海隊に選ばれた艦艇の全指揮官と艦長を参集させ、指揮官会議を開いた。その冒頭に、掃海隊最高責任者の田村久三本部長からアメリカ海軍側から朝鮮海域で日本掃海隊を使用したいとの申し出があり、日本政府はこれに応じ、派遣される運びとなったことを説明したが、参集者達からは質問が続出した73。結局は、各参集者と乗員を納得させるために「1.占領軍一般命令第1号及び占領軍指令第2号に基づく航路啓開業務の延長と考え、米軍及び日本軍が敷設した機雷の処分とする。2.北緯38度線以南の海域で、戦闘行動が行われていない港湾の掃海とする。3.作業は掃海艇の安全を充分配慮した方法をもって実施する。4.乗員の身分、給与、補償等は、政府にて充分保障する。」との4項目について確約され、田村久三本部長から約束を取り付け、各級指揮官の了承を経た74。これによって日本掃海隊は、アメリカ軍からの指示を待って朝鮮水域へ出動することとなった。

掃海部隊はアメリカ極東海軍司令官C・ターナー・ジョイ中将から運輸省宛に、日本掃海隊の使用に関する旨の指令が出されたとの通知を受け取った。この通知には「1.国連軍最高司令官は、CNFE(Commander Naval Forces, Far East)に対して日本掃海艇20隻、母船1隻、巡視船1隻の朝鮮水域における使用を許可し、これら船舶の使用に必要な命令を発することを許可した。2.朝鮮水域において任務に就く船舶は、万国信号E旗を揚げる。3.朝鮮水域における日本船への補給は、アメリカ海軍が担当する。4.本任務に従事する者は、2倍の給与を支給する。」とあった75。彼らの給料は翌1951年5月に燃料や需品、人件費等の諸費用として2億3698万1294円が、アメリカ政府から海上保安庁に支払われている。

日本掃海隊は第1部隊から第5部隊と試航船「泰昭丸」で編成され、アメリカ掃海部隊指揮官のR・T・スポッフォード大佐から、第7艦隊司令官A・D・ストラブル中将指揮下の第3掃海戦隊(CTG95・6)の6番隊(CTE95・66)に編入され、すぐさま第1と第2に出動命令が下された76。第1掃海隊は3日後に朝鮮半島西部の仁川港外に到着すると、イギリス海軍フリーゲート艦「ホワイト・サンド・ベイ」の監督下で、仁川から海州まで50マイルの掃海を21日間実施することになる。

この特別掃海隊が朝鮮水域に出動した事実は1950年10月9日の東京新聞夕刊で「……日本の沿岸警備艇十二隻が米第七艦隊の指揮下で掃海作業に従事するため朝鮮水域に向け出発した。」と報じられた。この記事を文字通り忠実に読むと日本の沿岸警備艇が他国の戦闘地域に出動したことは、十分理解できる。それにも関わらず野党、マスコミが問題視し、問題提起した形跡は見受けられない。日本国憲法が施行されて4年、国権の最高機関としての地位が認められていた国会に所属する議員としては恥ずかしい限りである。この41年後、1991年、海上自衛隊をペルシャ湾の機雷掃海に派遣することについて、野党などからは、専守防衛という自衛隊の本来の任務を変質しかねないなどの指摘のほか、法改正などの手続き抜きで派遣する手法(「ペルシャ湾における機雷の除去及びその処理の実施に関する海上自衛隊一般命令」(平成3年4月24日海甲般命第18号))に対し、自衛隊法の拡大解釈であるとの猛反発を受けることになる。

また、派遣された特別掃海隊は元山港の湾口付近で数隻の国連軍の駆逐艦が、港湾より奥の陸上を砲撃している付近を通過し、機雷敷設海域へと進んでいった77。この時点で、既に確約されていた4項目が反故にされていたのである。1950年10月12日に行われた掃海作業においてはアメリカ海軍のAM275「パイレート」が触雷、AM277「ブリッジ」が沿岸砲による砲撃と触雷により沈没した。救助作業終了後、日本掃海隊を含むアメリカ掃海隊に掃海中止、撤退命令が下達され、泊地へと引き返した。結局、この日の作戦は掃海艇2隻を喪失し、12名の死者と92名の負傷者を生み、完全な失敗となった78

その後、第2掃海隊は「海域の西半分を米掃海隊で、東半分を日本掃海隊で明十七日より掃海を行え。」という指令を受け、掃海作業を行っていたが、午後3時21分にMS14が触雷、沈没し、掃海中止となった。結果として、松本嘉七艦長以下23名のうち、行方不明者1名、重傷2名、中傷4名、軽傷9名、残りの7名も衝撃によって打撲傷を受けた。この行方不明者1名は中谷坂太郎という司厨員で、21歳の若者であったが、見つかることはなかった79

この事故は10月22日になって、朝日新聞に「……国連軍に協力し朝鮮水域で作業中の日本人による掃海作業は二〇日作業を中止した。一九日、一隻が沈没し死亡十七、八名、行方不明一名の犠牲者を出すに至ったので作業を中止し日本に向け引き返した。」との記事が掲載された。日にちや犠牲者数等間違いが多い記事ではあるが、掃海艇が1隻沈没したという事実は正しく伝えられた。特別掃海艇が朝鮮水域に出動したと報じた新聞記事と同様、共産党を筆頭とする野党やその他、学界からの反応は皆無であった80

1950年10月31日、大久保武雄長官は特別掃海隊の活動に対する政府の意向を確認するため、田村久三総指揮官を伴って首相官邸に出向いた。大久保武雄長官に対して岡崎勝男内閣官房長官は「……掃海作業には、多大のご苦労があると思うが、全力を挙げて掃海作業を実施し、米海軍の要望に沿っていただきたい。日本政府としては、このためにはできるだけの手を打つので、他のことは心配せぬように。」と吉田茂首相からの伝言を述べた81

日本特別掃海隊は10月中旬から12月初旬にかけての2ヵ月間に、元山、鎮南浦、仁川、海州、群山等に、延べ7部隊、掃海艇43隻と巡視船10隻が派遣された。この間、水路327キロと泊地607平方キロを掃海し、27個の機雷を除去したが、MS14とMS30(群山にて座礁、沈没)の2隻を失い、1名の死者と多数の負傷者を出した。掃海隊の任務が解かれた後も掃海終了後の海面の安全確認のために航行する試航船(モルモット船)「泰昭丸」と「桑栄丸」の活動は続けられ、これら2隻の任務が解かれたのは1951年6月30日であった82

この日本特別掃海隊の功績を受けて、1951年3月31日に提示された「対日講和条約」の草案は旧日米安全保障条約とセットではあったが、日本の外務省等が予想していたものよりも遥かに好条件な内容であった83。これによって憲法違反を承知で朝鮮水域という戦闘区域に日本の特別掃海隊を派遣した吉田茂首相の策略は報われたと言ってよいであろう84

1954年になって、産経新聞が改めて朝鮮戦争時に日本の掃海艇1隻が沈没し、日本人1名が亡くなった旨を記事にしたところ、それ以降、国会において社会党や共産党から「朝鮮派兵」の事実を巡って、激しい追及が巻き起こった。吉田茂首相はこの追及をしらを切ってかわしていたが、質疑が苛烈を増し、結果、奥野健一法制局長が「……いわゆるポ勅或いはポ政等によつてやる場合は、超憲法的なものと考えておりまして、これは何人も一応是認されておるのでありますが、現在におきましてはその状態をそのまま継続して行くということになりますと、いわゆる超憲法的な力というものはなくなつて、全く本来の日本憲法に照らして憲法違反であるかどうかということを判断しなければならないことになると思います。……直接平和條約との関係におきまして、平和條約の第十九條のDというのによりまして、占領軍がやつた行為或いは占領軍の指令に基いて日本当局がやつた行為は、すべて承認するということになつておる……過去の問題は勿論承認するのでありますが、その承認する状態を続けるということが條約十九條に則つて来るのであるかどうかということがやや疑問として残るのではないかと思いますが、一般的に考えまして講和後の日本におきましては、若しポ政令、ポ勅のように超憲法的なものは何もないのでありますから、そのすべての法的措置は憲法に合致するかどうかということのみによつて判断すべきではないかというふうに考えます。」と答弁し、追及を回避した85

第3章 憲法解釈から見た「自衛権論」

これ以降は、日本政府の憲法解釈を基にして論を進めていきたい。政府の憲法解釈を中心に考えるのは、憲法第9条に関して裁判所が殆ど判例を積み重ねてきていないという特異な状況下にあり、現に憲法第9条の運用は政府解釈を基本として憲法の運用がなされているからである。

自衛隊発足後の1954年12月22日に政府統一見解によって、自衛力論は定式化されたと言ってよい。同時に、極めて、不都合な点もある。制憲議会における吉田茂首相の自衛権否認的答弁と自衛力論の間には、「その説明ぶりの言葉は若干の変遷がございますけれども、そこに流るる基本的な考え方というものに憲法解釈の変更を伴うような変更はない。」と政府によって説明されている86

日本政府がこれまで採ってきた平和主義解釈は国内の防衛体制が旧軍の武装解除から自衛隊に変化するに伴って、変化してきた。学説においては、本条の下でも自衛権は否定されていないとする「自衛権留保」説と本条の下では自衛権は放棄されたとする「自衛権放棄」説に大きく分けることができる。また、憲法がその保持を禁じている「戦力」については1951年以来喧々諤々とした議論が行われてきているが、当初示されていた「戦力」観は「憲法第九條に申しまする戰力というのは、陸海空軍、これに匹敵するような戰争途行手段としての力を意味するのでございます。その判定は、結局それが国際社会の通念に照らしまして現代職における有効な戰争遂行手段たる力を持つかどうかということによつて、きめられるべきでありまして、これを一概に論定することは困難であると存ずるのであります。」との近代遂行能力説であった87。1951年以前には確固とした「戦力」観は無かったものと推測することができる88。その主たるものとして1非武装平和主義論、2警察力を超える実力論、3近代戦争遂行能力論、4自衛のための必要最小限度の実力論を挙げることができる。以下、概観していきたい。

第1節 非武装平和主義論

日本の憲法解釈について概観するためには制憲議会における政府の考えを踏まえておく必要がある89。制憲議会において吉田茂首相は「自衞權に付ての御尋ねであります、戰爭抛棄に關する本案の規定は、直接には自衞權を否定はして居りませぬが、第九條第二項に於て一切の軍備と國の交戰權を認めない結果、自衞權の發動としての戰爭も、又交戰權も抛棄したものであります、從來近年の戰爭は多く自衞權の名に於て戰はれたのであります、滿洲事變然り、大東亜戰爭亦然りであります……。」90とし、28日には「戰爭抛棄に關する憲法草案の條項に於きまして、國家正當防衞權に依る戰爭は正當なりとせらるるやうであるが、私は斯くの如きことを認むることが有害であると思ふのであります(拍手)近年の戰爭は多くは國家防衞權の名に於て行はれたることは顯著なる事實であります、故に正當防衞權を認むることが偶偶戰爭を誘發する所以であると思ふのであります、又交戰權抛棄に關する草案の條項の期する所は、國際平和團體の樹立にあるのであります、國際平和團體の樹立に依つて、凡ゆる侵略を目的とする戰爭を防止しようとするのであります、併しながら正當防衞に依る戰爭が若しありとするならば、其の前提に於て侵略を目的とする戰爭を目的とした國があることを前提としなければならぬのであります、故に正當防衞、國家の防衞權に依る戰爭を認むると云ふことは、偶々戰爭を誘發する有害な考へであるのみならず、若し平和團體が、國際團體が樹立された場合に於きましては、正當防衞權を認むると云ふことそれ自身が有害であると思ふのであります、御意見の如きは有害無益の議論と私は考へます(拍手)」と「國家正當防衞權」に否定的な発言を行ったが、7月4日にそもそも自衛と侵略の定義分けをすることが有害であると言おうとしたと修正を行った91。後に修正を受けた発言にも自衛権否定論が潜在している。この時に示された自衛権否定的な政府の立場は、政府の憲法解釈の原点として現在まで繰り返し様々な議論の場で取り上げられてきた92

この自衛権論議が再び盛り上がってくるのは1949年後半から1950年にかけてである93。1949年以降、東西冷戦が顕在化し、ヨーロッパのみならずアジアにおいても共産主義陣営が伸張してきたことを受け、自由主義陣営の一員として、また共産主義陣営に対する防波堤として、日本の再建を図る必要性をアメリカが感じ、早期講和を考え始めたことが議論再浮上の背景にあると考えられる94

1949年11月9日に民主自由党の佐々木盛雄議員が憲法9条は「第九條の規定は、攻撃的な戰争はもとよりのことであるが、日本が侵畧された場合の自衞権をも放棄したものであるかどうかという私の質疑に対しまして、川村政務次官はあいまいな御答弁ではありましたが、西村條約局長とともに、とにかく自衞権の発動たる戰争をも放棄したものであると解釈する旨の答弁があつたのであります。しかし……芦田均氏の著書の『新憲法解釈』というのによりますと、『第九條の規定が戰争と武力行使と武力による威嚇を放棄したことは、国際紛争の解決手段たる場合であつて、これを実際の場合に適用すれば、侵畧戰争ということになる。従つて自衞のための戰争と武力行使はこの條項によつて放棄されたのではない。又侵畧に対して制裁を加へる場合の戰争もこの條文の適用以外である。』ということを明確にされておるのであります。そこで、この芦田氏の立場が、今申しましたように、新憲法審議とその成立を担当した責任者であり、この新憲法の趣旨徹底をするための普及会の会長であつたという特殊なる立場から推しまして、單にこれを芦田さんの個人的な見解とのみ解釈することはできないと私は考えるのでありますが、この点をどういうふうに政府はお考えになつておりますか。これは今後とも対日講和の進行途上におきまして私は必ず大きな問題として浮び上つて来る点であろうと考えますので、この際これに対する解釈を明確にしていただきたいと存じます。」と質問した95。この質問に対して川村松助外務政務次官は、「政府といたしましても、あらゆる御意見を総合いたしまして判断した結果、自衞権、自衞戰争は放棄したものと、こう考えております。」と答えた96。また、西村熊雄外務省条約局長が「憲法第九條第一項は、国際紛争を解決する手段としての戰争と武力行使はこれを放棄しておりまして、直接には自衞戰争には触れておりません。しかし第二項で一切の軍備と国の交戰権を認めておりません結果、自衞のための戰争も放棄したものと了解いたします。自衞権の行使が戰争または武力の行使、こういう形をとる場合、わが国は原因のいかんを問わず、すべての戰争または武力行使を放棄しておりますから、そういう形式をとる自衞権はないものと解します。しかし急迫した不正の危害が現に起つておる場合、かような火急の場合、やむを得ずこれを実力をもつて排除することをも否定したものとは考えません。」と付け加えた97

1949年11月19日に衆議院外務委員会において、労働者農民党の玉井祐吉委員が、「……日本の方から自衞権を発動して、このまま侵害を除くという行動をする場合には、われわれがただぶらぶら出かけて行つて、そういう騒擾を追放することができないのですと、どうしてもかなりよく武装した警官とか、あるいは軍隊というものが必要そうになつて来ると思うのですが、この意味において先ほど例をお引きになつた自衞権の形、これは一例でありますので、今後もそういう形があるという予想では決してないと思いますが、その問題とからんで、軍隊もしくは相当によく武装した警官を必要とするだろうという御想像でおられるかどうか、この点について御質問いたしたいと思います。」98と質問したのに対して、西村熊雄政府委員は「その点につきましては、私前回の答弁ではつきり申し上げましたように、日本としては戦争または武力行使の形式をとる自衞権の発動は考えられないと答弁した通りであります。」99と答えた。続いて、玉井祐吉委員は「今のお話のようでありますと、戦争もしくは武力による形における自衞権の発動は考えられないと仰せられるわけですが、そうすると残りはどのような自衞権があるか。」100と質問し、西村熊雄政府委員は「日本の現状におきましては、警察力以外にないと考えます。」101と答えた。これらの答弁によって、「武力によらない自衛権」論という奇妙な論理が成立する可能性が生まれたのである102

1949年11月21日には衆議院外務委員会において日本共産党の野坂参三委員の「……第九條のあの條項の解釈で……あの憲法が改正されたときの委員会でもいろいろ問題があつて、今の吉田総理及び金森国務大臣の方から、あの九條の解釈は自衞権がないようにも言われたし、また解釈の仕方ではあるようにも思われる。……芦田氏が、その後……九條の解釈は、政府としても自衞権を日本は持つと解釈してもよろしいし、自分もそういうふうに解釈するという意味のことをはつきりと発表されております。……あの九條には自衞権を日本が持つことができるというふうに解釈するか、あるいはしないのであるか、この点をひとつお伺いいたします。」103との質問に対して吉田茂首相は「日本は戰争を放棄し、軍備を放棄したのであるから、武力によらざる自衞権はある、外交その他の手段でもつて国家を自衞する、守るという権利はむろんあると思います。」104と述べた。また、野坂参三委員は「武力によらない自衞権というものは、日本はあるというふうにお考えなつたことと私は了解いたします。……カナダのカロライン号事件のようなことをお引きになつて、ああした意味の自然発生的な自衞権はあるというふうに御解釈になりましたが、吉田総理もやはりそういうふうな解釈ですか。」105と質問を続け、吉田茂首相は「……カロライン号のごとき事件が起つたそのときに考えます。」106と日本の持つ自衛権について確固たるものが無いということを露呈させてしまった。この吉田茂首相の答弁によって「武力によらない自衛権論」が政府解釈の初陣を飾ることになったのである。

そもそもこの非武装中立論はGHQの意向を忠実に反映されたと言われているが、実はそうではなく、マッカーサー・ノートの内容を知っていた吉田茂首相がGHQの意を汲んで答弁したものではないかとの研究もある。この吉田茂首相の考え引いてはマッカーサー元帥の考えを明確に否定するような風潮は当時の国会には存在せず、下手をすると自らまでGHQの公職追放者に該当してしまうのではないかと戦々恐々とする国会議員が多かったのである107

憲法制定はこのような状況下で行われたため押し付け憲法論が唱えられるのである。特にマッカーサー・ノートのⅡでは「War as a sovereign right of the nation is abolished. Japan renounces it as an instrumentality for settling its disputes and even for preserving its own security. It relies upon the higher ideals which are now stirring the world for its defense and its protection. No Japanese Army, Navy, or Air Force will ever be authorized and no rights of belligerency will ever be conferred upon any Japanese force.(国家の主権的権利としての戦争を放棄する。日本は、紛争解決のための手段としての戦争、および自己の安全を保持するための手段としてのそれをも、放棄する。日本はその防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想に委ねるいかなる日本陸海空軍も決して許されないし、いかなる交戦権も日本軍には決して与えられない)」108となっているものが、「自己の安全を保持するための手段としての」の部分がケーディス少佐の「自己の安全を保持することまで放棄するとは常識的に考えられない。」という考えに基づいて削除されていたことを吉田茂首相は知らなかったのである。このような経緯によって日本の憲法解釈の先陣を切った非武装中立論であったが、解釈の前提から多くの疑義を孕むものとなってしまったのである109

その後にGHQから出された案(いわゆるマッカーサー案)に記載されていた「other war potential」の語句を忠実に解釈する立場である潜在的能力説が展開された。この説とは憲法9条は軍備のみならず飛行場や港湾施設、航空機や船舶、この製造工場等はもちろん、警察力のような人的組織等もまた戦力に該当していると考える立場であるが、現在では少数説にとどまっている110。この説が貫徹されてしまえば、日本は自立どころか農林水産業にまで影響が出てしまうのである。これでは現代社会における生活が不可能になり、正しく現代文明とは隔絶された「戦前以前の」生活となってしまう。

以上、分類すれば非武装中立論に分類されるであろう学説、政府解釈を取り上げてみた。次節では日本が拙いながらも自らの防衛について考え始めた段階で登場してきた学説や政府解釈を取り上げてみたいと思う。

第2節 警察力を超える実力論

この学説は、国家がその固有の権利として持っている「自衛権」自体を放棄することはあり得ないとしても、2項がその保持を禁じている「戦力」とは通常、「軍隊」もしくは「軍備」と呼称されている「目的及び実体の両面から見て、対外的軍事行動のために設けられている人的組織力と物的装備力」と有事の際これに転用可能な実力部隊のことを指しており、対内的治安維持を目的とする警察力を超える実力を持つことは憲法に違反しているとするものである。この考え方は、戦争放棄に関して「全面放棄」説を採る多数説の説くところであり、「自衛力」を含む警察力を超える実力は、一切その保持が禁止されていると解釈するものであるから、まさに「真正の『武力なき自衛権』」説とも呼ばれている。

この考えに基づくと、「自衛権」は武力に頼らない方法を行使する、すなわち1.外交交渉のチャンネルを使い、侵害を未然に回避する。2.警察力による侵害の排除を行う。3.民衆が武器を持って対抗する群民蜂起等、被占領地域の非協力状態による抵抗を行う。以上の方法によって行使せられるべきものであるとされる。

この考えは非常に危険なものであると同時に、大きな矛盾を抱えている。まず、1の外交交渉については、それはそもそも「交渉」であり、「自衛権」の行使とは見なされていないことが挙げられる。このような外交交渉までを「自衛権」の行使に含めると解釈してしまえば、むしろ、いたずらに「自衛権」概念が拡張され、法的に広すぎるがために漠然としてしまうのではないかと危惧されるのである。

また、2の警察力を使用した排除については、本来、国内の治安維持の目的を持つ警察力であったとしても、国外からの不正侵害排除のための任務を帯び、権限を与えられると、それはすなわち、国の下にある「不正規の軍隊」として交戦権を持ったと見なされるであろう。法律の観点から見ても「戦力」や「軍事力」であるとの誹りを免れることはできず、当初掲げていた「武力なき自衛権」とは言えなくなるのではないだろうか。

3の群民蜂起についてはその蜂起自体が国家の意思に基づかないものである限りは、国家固有の「自衛権」の行使とは言えないのではないだろうか。しかし、厳格に憲法9条を解釈すると、「……陸海空軍その他の戦力、陸海空軍というのは装備編成された組織体をいって、それを例示にあげておるのでございますから、その他の戦力ということも今お言葉にありましたように、装備編成を持つ組織体という風に考えるのが当然の解釈であろうと存じます。」と編成の主体やどこに属する組織体であるのか明確ではない111。また、戦闘員とみなされる条件の中には①公然と武器を携行、②戦争法の遵守という2条件を満たす群民蜂起の構成員が含まれることになっており、結局、群民蜂起と言っても、軍隊による敵対行動と同一視されて、排除されることが予定できるのである112

平和的な手段としての群民蜂起を考えることもできるが、それは国家の明示的な戦争行為に比して平和的というだけであって、第二次世界大戦末期のポーランドにおける国内軍の死傷者数を知れば本当に平和的であるかどうかは疑問を抱くところである。

日本の自衛権、ひいては憲法の解釈において大きな転換点となったのが、1950年6月25日に火蓋が切られた朝鮮戦争である。その後、1950年7月8日にマッカーサー元帥から吉田茂首相に宛てて「……私は日本政府に対し、七五、〇〇〇人の国家警察予備隊の創設と海上保安庁定員の八、〇〇〇名増加に必要な措置をとることを許可する。……これらの措置の技術面については、従来通り、総司令部の各部課が勧告と援助を行なうであろう。」という書簡が送られた113。これに基づいて後に日本の防衛を担うことになる警察予備隊が誕生したのである。この警察予備隊の誕生は政治的、防衛的には非常に喜ばしいことであったが、日本国憲法においては予期しない重大な疑義をもたらすものとなってしまった114

そもそも、この理論が登場したのは警察予備隊が発足してからである。1950年7月29日に衆議院本会議において自由党の佐瀬昌三議員が「第一点は……政府としては、この予備隊の必要性をいかに御認識なされておるか……最近基礎産業や交通権関の破壞その他集団的凶悪犯罪の激増、謀略宣伝等の跋扈等、従来の警察力をもつてしたのでは不十分なるがため、その強化策として日本政府は本予備隊の創設の必要を認むるものであるかどうか、この点をまずお伺いいたしたい……第二点は、……わが国は、憲法第九條に基き戰争権を放棄し、戰力保持を否定したのでありまする以上、本予備隊の目的、性格はおのずから定まるところがなければならない……わが憲法は日本の生存権を放棄せず、従つて戰力の行使以外の方法による自衛権を認めるものである以上、本予備隊の任務、活動に期待すべきことまことに大なるものがあるのであります115。……本予備隊を国際警察軍ないし義勇軍として海外に派遣するがごとき事態の発生が将来予想せられるものかどうかという点でございます。さらにまた、将来わが国が国際連合による集団的安全保障を求める場合、わが国の国連への参加、協力義務の遂行には、かかる予備隊を必要とし、かつこれをもつて足るものとお考えになられるかどうかという点でございます。……警察予備隊を編成し、警察行政組織の拡大化をはかるには、よろしく国会の審議に付して、設置法をもつてすべしとする国民的要望、まことに切なるものがあるのであります。……もし政府において、マツカーサー元帥より予備隊設置をオーソライズされたとするならば、それは従来の一般警察十二万五千の制限を解除し、その上の増加を認めたる趣旨であつて、それを国内的にいかなる方法で受入れ、かつこれをいかなる方法において実現するかは、政府の自由と責任とにおいて決定すべき問題であり、そこに憲法上は当然法律によるべきが妥当であると一応推測さるべきものであります。……このことは、警察予備隊に対する責任が一切をあげてわが政府にあるかいなか、その帰属を決定する上においてきわめて重大なる問題であると思惟する次第であります。さらに大橋法務総裁に対してお尋ねいたしたい……その第一点は、本警察予備隊は、その体系上、またその職分上、一般警察とはいかなる関係にあるかという点であります。……第三点は、本予備隊があくまで警察である限り、その軍隊化は阻止されねばなりません。……本予備隊をもつて軍国主義的国家に移行するがごときことを阻止するはもちろん、警察国家に転化するがごときことは、絶対にこれを阻止すべきが当然であります。そこで、これら阻止の具体的対策をいかに考慮されておるか、その構想を承りたいのであります。」と質問を行った116

これに対して吉田茂首相は「現在の警察組織がはたして十分治安の維持の目的を達し得るかどうかということは、われわれ政府としては非常に懸念になりまして、爾来警察をどう再組織するかということは、われわが絶えず心配をし、深甚なる注意をもつて考えておつたところ……去る六月二十五日……朝鮮において突然北鮮軍が三十八度線を侵入して治安を乱した。こういう事態を考えてみますると、日本においても、かくのごとき事態がいつ生じないともわからないのであります。ゆえに、さらに警察を強化する必要を感じたのであります。また爾来鉄道その他において不祥なる事件が頻出しておるのであります、ますます警察強化の必要を感ずるのであります。……その目的は何か、これは全然治安維持であります。秩序を維持するためであります。その目的以外には何ら出ないのであります。これが、あるいは国連加入の條件であるとか、用意であるとか、あるいは再軍備の目的であるとかいうようなことは、全然含んでおらないのであります。現在の状態において、いかにして現在の日本の治安を維持するかというところに、全然その主要な目的があるのであります。従つて、その性格は軍隊ではないのであります。また軍隊によつていわゆる国際紛争を解決するというのは軍隊の目的としての一つでありますが、この警察予備隊によつて国際紛争を解決する手段とは全然いたさない考であります。」と答弁した117

続いて岡崎勝男内閣官房長官は「第一点は、……政府としては、これはポツダム政令で組織しようと考えておる次第であります。その理由といたしましては、先般御承知のマツカーサー元帥の書簡が総理大臣のもとに参つたのでありまして、政府は、このマツカーサー元帥の書簡に基いてこの警察を組織せんとするものであります。なお第二問といたしまして、……この警察の設置に関しましては、司令部といわば共同作業をいたしまして、政府と司令部の間に密接なる協議の上にこれをやつております。なおつけ加えますると、この書簡の中に、最後の点にありますように、司令部側は本警察につきましてはあらゆる援助を與えると書いてあります。このあらゆる援助を與えるという点は事実でありまして、政府としては各種の援助を司令部側から得ておりまして、ただいま、せつかく準備中でございます。」と答弁を行った118

また大橋武夫法務総裁は「警察予備隊の創設は、……国家地方警察及び自治体警察等のこの制度の根幹を動かすものではなく、單にこれらの警察力の欠陷を補う目的をもつて設置せられるものであります。……この予備隊……の運用におきましては、国家地方警察及び自治体警察と緊密なる協力を保ちますると同時に、その間無用なる重複的な活動を避けるために注意が拂われなければならない……予備隊の設置の目的及び民主主義国家におきまする警察たるところの性格というものを明らかにいたしまして一般国民諸君並びに将来の隊員がこの予備隊について誤解を生ずることの余地なからしむるということが、まず第一に考えるべき点であろうと存ずるのであります。次に幹部及び隊員の選考にあたりましては、民主主義国家における警察に真にふさわしい人物を選択してこれを採用し、かつこの趣旨に基いて訓練を行つて行く、これによつて私どもは十分に御心配のごとき事項を避け得るものと考えておる次第でございます。」と答弁した119

これらの答弁からは①警察予備隊は第1条にその目的として掲げられた「わが国の平和と秩序を維持し、公共の福祉を保障するのに必要な限度内で、国家地方警察及び自治体警察の警察力を補うため警察予備隊を設け、その組織等に関し規定することを目的とする」ことを目的とする旨、改めて表明したこと、②警察予備隊の隊員の身分はあくまで「警察官」であって、行いうる職務も「警察の任務の範囲に限られる」とされたこと、の2点が読み取れる。

この当時の答弁を素直に読み取れば、警察予備隊はあくまで警察官の業務を補完する存在であって、到底、他国による侵略が起こった場合、防衛の任に当たることはできないと理解できる。しかし、岡崎勝男内閣官房長官が答弁の中で述べていた「各種の援助」について、本当に警察の任に当たることだけを考えて装備編成がなされていたのか非常に怪しい部分もある。

実際、それからしばらく経った1950年9月11日の参議院内閣委員会において大橋武夫法務総裁は「現在の段階におきましては、差当り小型小銃、これが装備されるものと考えてお」るとしながらも、「装備の点につきましては、理論的には国内治安のために必要ならば如何なる装備も許さるべきである。これが我々の理論上の考え方であります。」とし、「こういう意味において、或いは高射砲のようなものが必要……だと仮定しまするならば、それはそういうものも、警察予備隊だからそういうものはいけないということはあり得ないだろう。必要ならばそういうものも装備しなければならない。又機銃或いはそれ以上の火砲というものにつきましても、これは理論上、警察予備隊だからそういうものはいけないというのでなく、国内治安の上においてどうしても必要であるということならば、そういうものも許さるべきである。又それが許されたからと言つて、これを装備の点から見て、これは軍隊ではないかというのは当らない……。」と述べていたのである120

この時に得られていた司令部側からの「援助」とは当初はカービン銃とそれに対応した弾薬であったが、後に1950年11月末の中国介入によりコンスタブラリーを目的に考えられていた装備が重軍備化を推し進められ、399台の軽戦車と105ミリ砲が装備に加わることになったのである121

第3節 近代戦争遂行能力説

この説は保安隊・警備隊が発足した当初に示された政府の統一見解であり、その後、保安隊・警備隊が発展解消する形で発足した自衛隊においても政府見解として維持された考え方である。この説も憲法第9条が自衛権の存在を否定するものではないことを前提としており、2項がその保持を禁止している「戦力」とは、「近代戦争遂行能力に役立つ程度の装備、編成を備えるもの」と定義し、保安隊等が持つ「装備編成は決して近代戦を有効に遂行し得る程度のものではないから」この意味においての戦力には当たらないとされたのである。

この考え方は長らくの間支持されてきたものであり、1951年11月15日、大橋武夫法務総裁は「……国外から何か不法なる侵略があつた場合に、国内治安のために備えられたところの警察予備隊がこれに対抗して治安維持に当ることがあり得るか……国外の侵略に対しまして、治安上国内で準備をいたしておりまするあらゆる実力機関というものを発動するのは、これは当然のことであると考えまして、この点は自衛上の措置として当然である……併しながら、国外からの不法侵略に対しまして、国内治安のために備えられた実力を直接に行使するということは、これは私はその事自体が戰争行為であるとは考えない……これが戰力であるというためには、戰争を遂行するに足るだけの力を持つておるということが必要ではないかと思うのであります。現在予備隊の持つておりまする力は、国内治安を維持するための最小限度の力でありまして、近代戰を遂行するだけの十分なる力を持つておるとは考えておりません。」と述べており、ここにおいて「近代戦」という基準概念が誕生したのである122

1952年1月30日、木村篤太郎法務総裁は「憲法第九条の陸海空軍その他の戦力という、この意味いかんに私は帰着するのではなかろうかと考えております。そこで、戦力と申しまするのは、いわゆる戦争を遂行し得る有力なる兵力、こう解すべきだと思います。戦争遂行に適当なる兵力であります。そこで御承知の通り、近代戦においては、いわゆるジエツト機、ジエツト爆撃機あるいは原子兵器というようなものが整備されまして、これが戦争遂行の有力なる武器として使用されておるのであります。……現在警察予備隊が装備されておる力というものは、きわめて微々たるものでありまして、戦争遂行の何らの能力なしと私は解するのであります。従つてかような装備は再軍備になるものではないので、憲法改正の必要はない……。」との見方を示し、同時に、「この際に日本がかような有効なる戦争遂行の能力を持つということになりますれば、これは憲法を改正せなければならぬと考えております。」とも示した123

1952年1月31日に吉田茂首相が「……日本の治安状況、あるいは国外の状況等によりまして、防衛隊を新たに考えたいと思つて、ただいま研究中であります。」と答え、警察予備隊を改編して、新たな組織を創設する構想を打ち出した124

そして、1952年11月25日、内閣法制局は以下の通り、「戦力」に関する見解を示した。

「(一)憲法第九条第二項は、侵略の目的たると自衛の目的たるを問わず、「戦力」の保持を禁止している。

(二)右にいう「戦力」とは、近代戦争遂行に役立つ程度の装備、編成を具えるものをいう。

(三)戦力の基準は、その国のおかれた時間的空間的環境で、具体的に判断せねばならない。

(四)陸海空軍とは、戦争目的のために装備編成された組織体をいい、「その他の戦力」とは、本来は戦争目的を有せずとも、実質的にこれに役立ちうる実力を備えたものをいう。

(五)「戦力」とは人的物的に組織された総合力である。したがって単なる兵器そのものは「戦力」の構成要素ではあるが、「戦力」そのものではない。兵器製造工場のごときも、無論同様である。

(六)憲法第九条第二項にいう「保持」とは、いうまでもなくわが国が保持の主体たることを示す。米国駐留軍は、わが国を守るために米国の保持する軍隊であるから、憲法第九条の関するところではない。

(七)「戦力」にいたらざる程度の実力を保持し、これを直接侵略防衛の用に供することは、違憲ではない。このことは有事の際、国警の部隊が防衛にあたるのと理論上同一である。

(八)保安隊および警備隊は「戦力」ではない125。これらは保安庁法第四条に明らかなごとく、『わが国の平和と秩序を維持し、人命及び財産を保護するため、特別の必要がある場合において行動する部隊』であり、その本質は警察上の組織である。したがって戦争を目的として組織されたものではないから、軍隊でないことは明らかである。また客観的にこれを見ても、保安隊の装備編成は決して近代戦を有効に遂行しうる程度のものではないから、憲法上の「戦力」にはがい当しない。」

内閣法制局の「戦力」解釈に続いて、1952年11月29日、木村篤太郎保安庁長官が「……われわれの戦力というものは、いわゆる近代戦を遂行し得る能力と考えております。一体憲法において規定されておるのは、いわゆる国際法上の戦争であります。国権の発動たる戦争及び武力による威嚇、あるいは武力の行使は国際紛争を解決する手段としてはこれは行使してはならぬ、これは永久に放棄する、これが大前提であります。いわゆる侵略戦争をとめようというのが、私は憲法第九条の大眼目であろうと考えております。従いまして、日本が自衛力はこれを保持することは何ら禁止されておるわけではありません。従いましてこのいわゆる侵略戦争を禁止する一つの方法として、第二項において戦力を保持してはならぬ、こう考えているのであります。その戦力はこの大きな前提から導き出されるのでありまして、いわゆる近代戦を有効に遂行し得る能力、いわゆる他国を侵略し得るような能力をさしておるもの、こう考えております。」との見解が示された126

この近代戦争を有効に遂行できるか否かによる戦力の分け方は、この1952年当時から1954年に自衛隊に改められた後の鳩山一郎内閣誕生まで使われ続けた。しかしながら、このような区別のされ方は正しくないと考える。戦力であるか否かの線引きは本来、「警察力」かそうではないかによるものでなければならず、時代や場所、その地域の治安状況などによって変化はあるが、限度が定められやすい「警察力」を基準になされるべきだからである。

この近代戦争遂行能力説は、下手をすれば際限なく基準が拡大されていく危険をはらんだものであって、予算の加減があるにせよ、装備自体の上限はあってないものと同義であると捉えても仕方のない程度のものである。もしこの解釈を現代に適用するならば、核兵器が世界中にあり、大陸間弾道ミサイル(Intercontinental Ballistic Missile 以下『ICBM』と呼ぶ。)に搭載された核兵器によって瞬時に国家そのものが存亡の危機に立たされてしまうことを考えると、戦車を筆頭とする陸上兵器や航空兵器、海上兵器は全て、核兵器を持たないという免罪符の下で近代戦争遂行能力が無いと言われ、戦力ではないという判断が可能になってしまうのである。

事実、現代の日本防衛において、高いエネルギーを照射することで目標物を瞬時に破壊する高出力レーザーを使った対空防衛システムの開発方針を明記する方向で調整に入っており、問題視されていた護衛艦「いずも」の空母化構想に関しては「防衛計画の大綱」において専守防衛からの逸脱懸念が国内外にある事への配慮として「多用途運用護衛艦」と位置付ける方向である。これらは、いずれも近代戦争を有効に遂行し得る能力を持つものであるが、現代の政府解釈である「必要最低限の実力」以前の「近代戦争遂行能力」においても、これは認められ得る余地があるものである127

その後、1954年7月1日に自衛隊法(昭和29年6月9日法律第165号)が施行され、現在存在する陸上自衛隊、海上自衛隊、航空自衛隊が設置されたのである128。その目的は同法第3条にある通り、「自衛隊は、我が国の平和と独立を守り、国の安全を保つため、我が国を防衛することを主たる任務とし、必要に応じ、公共の秩序の維持に当たるものとする。」とされた。また、同日には「防衛庁は、わが国の平和と独立を守り、国の安全を保つことを目的とし、これがため、陸上自衛隊、海上自衛隊及び航空自衛隊(自衛隊法(昭和二十九年法律第百六十五号)第二条第二項から第四項までに規定する陸上自衛隊、海上自衛隊及び航空自衛隊をいう。以下同じ。)を管理し、及び運営し、並びにこれに関する事務を行うことを任務と」し、併せて「防衛庁は、前項に規定する任務のほか、条約に基づく外国軍隊の駐留及び日本国とアメリカ合衆国との間の相互防衛援助協定(以下「相互防衛援助協定」という。)の規定に基づくアメリカ合衆国政府の責務の本邦における遂行に伴う事務で他の行政機関の所掌に属しないものを適切に行うことを任務」とする防衛庁設置法(昭和29年6月9日法律第164号)が施行された。

一方、この自衛隊法・防衛庁設置法施行に先立って、1954年6月2日に行われた第19回国会参議院本会議においては、防衛庁・陸海空自衛隊の設置に先立ち、「本院は、自衛隊の創設に際し、現行憲法の条章と、わが国民の熾烈なる平和愛好精神に照し、海外出動はこれを行わないことを、茲に更めて確認する。」とする「自衛隊の海外出動を為さざることに関する決議」を決議し、海外に自衛隊が送られることに対して釘を刺した。

加えて、1954年6月3日に下田武三条約局長が「平和条約でも、日本国の集団的、個別的の固有の自衛権というものは認められておるわけでございますが、しかし日本憲法からの観点から申しますと、憲法が否認してないと解すべきものは、既存の国際法上一般に認められた固有の自衛権、つまり自分の国が攻撃された場合の自衛権であると解すべきであると思うのであります。集団的自衛権……つまり自分の国が攻撃されもしないのに、他の締約国が攻撃された場合に、あたかも自分の国が攻撃されたと同様にみなして、自衛の名において行動するということは、一般の国際法からはただちに出て来る権利ではございません。それぞれの同盟条約なり共同防衛条約なり、特別の条約があつて、初めて条約上の権利として生れて来る権利でございます。ところがそういう特別な権利を生ますための条約を、日本の現憲法下で締結されるかどうかということは……できないのでありますから、結局憲法で認められた範囲というものは、日本自身に対する直接の攻撃あるいは急迫した攻撃の危険がない以上は、自衛権の名において発動し得ない」との認識を示し、集団的自衛権の行使は日本国憲法において認められていないとの立場に立った129

この時点において、日本は集団的自衛権を持つが、その行使が容認されるには特別の条約を結ばなければならない。しかし、そのような条約を結ぶことは現憲法下ではできないとしていた。

1954年5月7日に第1次インドシナ戦争の天王山であったディエンビエンフーの戦いがベトナム民主共和国の勝利に終わったことで、共産主義勢力の東南アジアにおける伸長を恐れるアメリカによって各地の民族紛争にアメリカが積極的に関与していく可能性を当時の外務省が敏感に察知していたため、このような答弁になったのではないかと推察される130

第4節 自衛のための必要最小限度の実力論

この考え方は、自衛隊の発足という新たな事態と「本項は自衛のための戦力保持を禁じてはいない」との芦田説を採用していた改進党の流れを汲む鳩山一郎内閣の成立に伴い、自衛戦力許容論との関係が問題になったことから、改めて示された政府解釈を基に唱えられた学説であり、これはその後、現在に至るまで、歴代内閣によって踏襲され、政府の公定解釈として維持されているものである131

1954年12月21日の第21回衆議院予算委員会において、同年12月10日から新たに首相に就任していた鳩山一郎首相は「自衛のための戦争が許されていれば、自衛隊は軍隊」だと認めた上で、「憲法の解釈を自衛のための軍隊ならば持つてもよろしいというように解釈いたしませんければ、日本の防衛は一日としてできない……日本の防衛をしないで済ますことはできないわけですから、疑いがあつてもこれをりくつに合して解釈して―憲法違反ということをとれば日本の防衛ができないでしよう。日本の防衛をするためには憲法を融通解釈いたしまして、そうして日本の防衛をしなくちやならないし、すでに自衛隊法というものも国会を通過しているのであり……それに準じて憲法を解釈しても決して憲法の違反ということは言えないと思う。しかし疑いは確かにあるのですから、そういうような疑いのもとに日本の防衛をするということは非常に不愉快な話でありますから、防衛のために十分に防衛力を持つてもよろしいということをあらためて書いた方が、日本の防衛の実があがる」とする考え方を示した132

1954年12月22日に大村清一防衛庁長官が現在に連なる憲法第9条と自衛権、自衛隊についての政府統一見解を以下の通り明らかにした。

「第一に、憲法は自衛権を否定していない。自衛権は国が独立国である以上、その国が当然に保有する権利である。憲法はこれを否定していない。従つて現行憲法のもとで、わが国が自衛権を持つていることはきわめて明白である。

二、憲法は戦争を放棄したが、自衛のための抗争は放棄していない。一、戦争と武力の威嚇、武力の行使が放棄されるのは、『国際紛争を解決する手段としては』ということである。二、他国から武力攻撃があつた場合に、武力攻撃そのものを阻止することは、自己防衛そのものであつて、国際紛争を解決することとは本質が違う。従つて自国に対して武力攻撃が加えられた場合に、国土を防衛する手段として武力を行使することは、憲法に違反しない。

自衛隊は現行憲法上違反ではないか。憲法第九条は、独立国としてわが国が自衛権を持つことを認めている。従つて自衛隊のような自衛のための任務を有し、かつその目的のため必要相当な範囲の実力部隊を設けることは、何ら憲法に違反するものではない。自衛隊は軍隊か。自衛隊は外国からの侵略に対処するという任務を有するが、こういうものを軍隊というならば、自衛隊も軍隊ということができる。しかしかような実力部隊を持つことは憲法に違反するものではない。自衛隊が違憲でないならば、何ゆえ憲法改正を考えるか。憲法第九条については、世上いろいろ誤解もあるので、そういう空気をはつきりさせる意味で、機会を見て憲法改正を考えたいと思つている。」133

この政府統一解釈について考えると①「自衛権」について、1952年6月3日の第19回衆議院外務委員会における下田武三条約局長の答弁の内容が生かされていないこと、②戦争は放棄したが抗争は放棄していないとの言葉遊びのような状態に陥っていること、の2点が読み取れる。この政府の統一見解は現在まで続く自衛隊を合憲とする考え方である。

その後、1956年2月29日には「わが国に対して急迫不正の侵害が行われ、その侵害の手段としてわが国土に対し、誘導弾等による攻撃が行われた場合、座して自滅を待つべしというのが憲法の趣旨とするところだというふうには、どうしても考えられない……そういう場合には、そのような攻撃を防ぐのに万やむを得ない必要最小限度の措置をとること、たとえば誘導弾等による攻撃を防御するのに、他に手段がないと認められる限り、誘導弾等の基地をたたくことは、法理的には自衛の範囲に含まれ、可能である……。」134との発言があり、自衛隊が行い得る作戦の中に自衛のために敵地に赴くことは可能であるという考えが示された。

また、その後には様々な防衛と関係のある分野で政府見解が積み上げられていった。

兵器に関しては、1957年4月25日に小滝彬防衛庁長官が「現在、核兵器といわれているものは……伝えられるところによれば、多分に攻撃的性質を持つもののようである。そうとすれば、この種の核兵器をわが国がみずから持つことは、憲法の容認するところではない」と述べ、核兵器に関する政府の見解が示された135

続いて、いわゆる「文民」に関しては「結論的に申しまして……文民の解釈について……自衛官はやはり制服のままで国務大臣になるというのは、これは憲法の精神から言うと好ましくないんではないか。さらに徹して言えば、自衛官は文民にあらずと解すべきだというふうに考える……。」との姿勢を示し、自衛隊は軍隊ではないが、「武力組織」には該当するので、「文民」の枠内では解釈できないとの考えを示した136。このことは、自衛官が退官前に国務大臣の椅子に座ることは無くなったことを意味する。

また、日本は自衛権を保持するという前提に立ち、この自衛権を行使するための武力攻撃発生の時点に関する認識の政府見解を1970年3月18日に明らかにした。高辻正巳内閣法制局長官の答弁によると「武力攻撃が発生した場合というのは……一番大事なことは……その武力攻撃が発生した場合、つまり始まった場合、これをいうので、現実の侵害が発生した後でなければならぬということもないし、武力攻撃のおそれがある場合であるというわけでもない。武力攻撃が始まったとき、これが一番大事なところで」あり、時間的な要素が最も大切な要素であると示したのである137

集団的自衛権についての見解が1954年の下田武三条約局長以来、久々に1972年10月14日に出された。この政府見解文書によると内閣法制局は「国際法上、国家は、いわゆる集団的自衛権、すなわち、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにかかわらず、実力をもって阻止することが正当化されるという地位を有しているものとされており、国際連合憲章第51条、日本国との平和条約第5条(c)、日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約前文並びに日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との共同宣言3第2段の規定は、この国際法の原則を宣明したものと思われる。そして、わが国が国際法上右の集団的自衛権を有していることは、主権国家である以上、当然といわなければならない138。ところで、政府は、従来から一貫して、わが国は国際法上いわゆる集団的自衛権を有しているとしても、国権の発動としてこれを行使することは、憲法の容認する自衛の措置の限界をこえるものであつて許されないとの立場にたつているが、これは次のような考え方に基づくものである。

憲法は、第9条において、同条にいわゆる戦争を放棄し、いわゆる戦力の保持を禁止しているが、前文において『全世界の国民が……平和のうちに生存する権利を有する』ことを確認し、また、第13条において『生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、……国政の上で、最大の尊重を必要とする』旨を定めていることからも、わが国がみずからの存立を全うし国民が平和のうちに生存することまでも放棄していないことは明らかであつて、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛の措置をとることを禁じているとはとうてい解されない。しかしながら、だからといつて、平和主義をその基本原則とする憲法が、右にいう自衛のための措置を無制限に認めているとは解されないのであつて、それは、あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最少限度の範囲にとどまるべきものである。そうだとすれば、わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られるのであつて、したがつて、他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されないといわざるを得ない139。」との立場をとり、集団的自衛権は行使できないとの立場を示した140

以上、概観してきたように憲法第9条の様々な分野において政府見解が示され、現在に至っている。次章は、近年マスコミを賑わせた平和安全法制を筆頭とする有事法制について、詳しく検討を重ね、それから朝鮮戦争期に日本が行った協力に当てはめて考えていきたい。

第4章 各有事立法と朝鮮戦争期の協力

この章では各有事立法の概要及びその後の経過を述べ、当該法律下で可能となった事項について朝鮮戦争における日本の行った協力と比較していきたいと考える141

第1節 国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律

国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律(以下「国際平和協力法」と呼ぶ)は1992年に成立した。そもそも国連の平和維持活動(以下「PKO」と呼ぶ)には、これまで世界の約120ヵ国以上から100万人以上が参加し、1988年にノーベル平和賞を授与される等広く世界で認められてきた経緯がある。また、現代社会(2019年1月現在)においても非常に重い役割を占めており、国連休戦監視機構(UNTSO)を始として国連インド・パキスタン軍事監視団(UNMOGIP)、国連キプロス平和維持隊(UNFICYP)、国連兵力引き離し監視団(UNDOF)、国連レバノン暫定隊(UNIFIL)、国連西サハラ住民投票監視団(MINURSO)、国連コソボ暫定行政ミッション(UNMIK)、国連ハイチ司法支援ミッション(MINUJUSTH)、ダルフール国連・AU合同ミッション(UNAMID)、国連コンゴ民主共和国安定化ミッション(MONUSCO)、国連アビエ暫定治安維持部隊(UNISFA)、国連南スーダン共和国ミッション(UNMISS)、国連マリ多面的統合安定化ミッション(MINUSMA)、国連中央アフリカ多面的統合安定化ミッション(MINUSCA)が行われている。

我が国が国際平和のため、より積極的な役割を果たしていくことを目的として、1992年に国際平和協力法が制定され、国際連合を中心とした国際平和のための努力に対して、本格的な人的、物的協力を行える制度が整えられた142

この法律は、国際連合を中心とした国際平和のための努力への積極的な寄与として「PKOへの協力」、「人道的な国際救援活動への協力」及び「国際的な選挙監視活動への協力」の3本柱を規定するとともに、いわゆる参加5原則(①紛争当事者の間で停戦の合意が存在していること、②受け入れ国等の同意が存在していること、③中立性を保って行動すること、④以上の3つの条件が満たされなくなった場合には一時的に業務を中断し、更に短期間のうちにその原則が回復されない場合には派遣そのものを終了させること、⑤武器の使用は要員の生命等の防護のために必要な最小限に限ること)に沿って活動を行うべきことを定めている。

このPKOの活動を通じて確立されてきた伝統的な原則としては、①停戦合意が存在すること、②中立・不介入であること、③非強制的な性格であること(受け入れについての合意が存在すること)、④自衛の場合に限って武器使用が認められること、⑤国際的性格を維持することである。この中で最も重視されているのは②の「中立・不介入である」点であり、PKOという活動が強制力を伴わない自発的な活動であり、紛争当事国の同意と協力に基づいて成り立つものとされる所以である。

しかし、このPKOの考え方は最初から確立されたものではなく、時代によって変化してきたものである。

1956年の第二次中東戦争時に発生したスエズ危機に対処するため、国連総会は、紛争当事者に対し即時停戦と交戦地域に対する兵力投入を停止するように求めた。これに実効性を付与させるためにカナダのレスター・ボールズ・ピアソン外相が提唱した「国連緊急軍(スエズ国連軍、UNEF)」がPKOの元祖であり、第1世代のPKOであったと評価できる143

この案は第二次中東戦争において当事者であったイギリス及びフランスが安全保障理事会の常任理事国であったことで機能停止に陥っていた安保理において認められた。

このUNEFの任務は停戦の監視およびイギリス・フランス・イスラエルのエジプト領内からの撤退確認である。一部の人員はUNTSOから引き抜かれたほか、ブラジル・カナダなどから提供された人員で構成されていた。最大人員規模は約6,000名。イギリス・フランスは12月には撤退し、イスラエルも1957年3月までには1949年の休戦ラインまで撤退したことで任務は達成された。UNEFは、その後もエジプト・イスラエルの境界地帯のエジプト側に展開し、停戦監視を続けたが、エジプトとイスラエルの関係が再び悪化した1967年5月16日にエジプトの要請を受け、任務を中止し撤退した。

このUNEFの報告書の中には、①紛争当事者の同意があること、②中立的な立場を維持すること、③武器使用は自衛のための最小限とすること等が書かれており、第2代国連事務総長であったダグラス・ハマーショルドの考えが示されている。これがその後のPKOの萌芽であった。

第2世代のPKOは、1980年代後半の冷戦体制の崩壊以降、様々な対処を求められる紛争に対して、これまでより複雑な任務を担い、軍人のみならず、文民警察官及び難民救済や復興支援のための要員等が参加する大規模なPKOを指す144。1989年に行われた国連ナミビア独立支援グループ(UNTAG)が上記考えに基づいた最初のPKOであると言われている。この際に安保理からUNTAGに与えられた任務はナミビアの自由・公正な選挙の実施と、ナミビアの独立に至る道筋の確保であった。

このUNTAGは紛争当事者間における停戦及び外国軍隊の撤退を監視するという第1世代に与えられたPKOの任務に加えて、国家の独立を支援するというこれまでとは異なった性質を帯びたものであり、軍事部門だけではなく選挙部門及び文民警察部門を併せ持ったという意味で、その後の国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)等のモデルになったのである145

1992年、安保理は、創立以降初めて、サミットを開催し、第6代国連事務総長ブトロス・ブトロス・ガリに対して国連の予防外交、平和創造及び平和維持を国連憲章の範囲内で強化し、より効果的にする方法に関して分析と勧告を行うように求めた146

この求めに応じて提出された「平和のための課題」と題された報告書は、武器が自衛のためのみならず任務遂行のために使用されることも許容した平和執行部隊の創設やPKOの予防的展開を示したこれまでとは異なったPKOの形、つまりは第3世代のPKOの枠組みを模索したものであった。

この考えに基づいて派遣された第2次国連ソマリア活動(UNOSOMⅡ)においては、強制的な武装解除という新たな権限を付与された平和執行部隊と国連の介入に対し強固に反対する武装勢力との散発的な戦闘が各地で頻発し、1995年にUNOSOMⅡは与えられた任務を達成できないまま撤退を余儀なくされ、PKOという制度自体の限界を露呈させたものとなったのである147

そして、1995年に提出された「平和のための課題(追補)」においては、UNOSOMⅡの失敗を踏まえた上で、PKOに武力行使の役割を担わせることについて厳しく戒める等、「平和のための課題」で提案していた国連による「力による平和」路線を改め、これまで築き上げてきた第2世代までの受け入れ当事国による同意に基づいた伝統的なスタンスに回帰すべきであるとするものであった。

2000年8月に国連平和活動検討パネルが安保理に提出した、いわゆるブラヒミ・レポートにおいても、PKOは本来の機能に徹するべきであると提案され、民族紛争に関しては第1世代において採られた3原則を大前提にしつつも、より柔軟かつ積極的な行動をすべきであると考えられており、新たな第4世代のPKOの体制が模索されているのである148

一方で、近年行われているPKOの任務は多様化が進んでおり、文民の保護やDDR(Disarmament, Demobilization and Reintegration:元兵士の武装解除・動員解除・社会復帰)、SSR(Security Sector Reform:治安部門改革)、地雷対策といった任務も付与されるようになってきている149

このような時運の流れの中において、日本のPKOに関する法整備は考えられてきたのである。日本がPKOについて真剣に考え始めたのは1990年の湾岸戦争時、我が国は多国籍軍の後方支援に総額130億ドルもの資金を拠出したが、与えられた評価はそれに見合ったものではなく、評価は低いものであった150

このショックを契機として、日本内外から「人的貢献」の必要性が叫ばれるようになり、我が国は大々的なものとしては戦後初めて、自衛隊の海外派遣について検討せざるを得なくなった。

ここにおいて、「自衛隊の国連軍参加は集団的自衛権とは別である。」とする政府の採る従来からの憲法解釈の変更を示唆した後、「国際平和協力法案」を閣議決定、国会に提出したのである。

1990年10月26日の第119回国会において中山太郎外務大臣は国際社会で貢献することを通じて、敵国条項の削除や将来の常任理事国入りを為すためであると述べつつ、「……国際社会で孤立をし、国際社会からつまはじきをされるような国家になれば、国民生活自身が疲弊に陥るということも私どもは十分念頭に置いて、これから国際社会の中で貢献をしなければならないと考えております。」151と述べ、必要性を強調しながら、同時に次のように述べて、参加・協力・武力行使との一体化に関する以下の政府見解を明らかにした。

「一 いわゆる「国連軍」に対する関与のあり方としては、「参加」と「協力」とが考えられる。

二 昭和五五年一〇月二八日付政府答弁書にいう「参加」とは、当該「国連軍」の司令官の指揮下に入り、その一員として行動することを意味し、平和協力隊が当該「国連軍」に参加することは、当該「国連軍」の目的・任務が武力行使を伴うものであれば、自衛隊が当該「国連軍」に参加する場合と同様、自衛のための必要最小限度の範囲を超えるものであって、憲法上許されないと考えている。

三 これに対し、「協力」とは、「国連軍」に対する右の「参加」を含む広い意味での関与形態を表すものであり、当該「国連軍」の組織の外にあって行う「参加」に至らない各種の支援をも含むと解される。

四 右の「参加」に至らない「協力」については、当該「国連軍」の目的・任務が武力行使を伴うものであっても、それがすべて許されないわけではなく、当該「国連軍」の武力行使と一体となるようなものは憲法上許されないが、当該「国連軍」の武力行使と一体とならないようなものは憲法上許されると解される。」152

しかし、国会においては、政府与党の思う通りには進まず、集団的自衛権行使との関係や自衛隊の海外派遣を禁じている憲法との関係等、様々な問題点が浮き彫りとなり、廃案となってしまった153。この一件で、議会運営の困難さや憲法に関する与野党間での根回しの難しさを改めて思い知らされたのであった。

1991年、湾岸戦争の終結に伴い、国連停戦監視団(UNIKOM)が編成され、イラクとクウェート間に設けられた非武装地帯の監視、国境侵犯行為の抑止に当たったが、海については、ペルシャ湾にはイラク軍が敷設した機雷が多数残存しており、この海域を航行する我が国のタンカー等の船舶の航行に重大な影響を及ぼしていた。

我が国はアメリカから自衛隊の掃海艇派遣を要請され、ペルシャ湾の機雷除去のため海上自衛隊掃海部隊の派遣を4月24日に閣議決定、海上自衛隊は掃海母艦1隻(「はやせ」)、掃海艇4隻(「ひこしま」「ゆりしま」「あわしま」「さくしま」)及び補給艦1隻(「ときわ」)から成るペルシャ湾掃海派遣部隊を編成し、4月26日に出発した。掃海部隊の511名は約6か月間に亘りペルシャ湾の掃海を行い、34個の機雷を処分する成果を挙げ、周辺海域における船舶の航行の安全確保に貢献したのである154

この掃海部隊が派遣された後、国際社会からの評価は一変した。クウェートにおいて、日本の国旗が新たに他国に加わって印刷された記念切手が発行される等国際社会における人的貢献によって与える一国の評価が大きく変わったことを日本国民は身をもって知ったのである155

この対処は自衛隊法第99条の「海上自衛隊は、防衛大臣の命を受け、海上における機雷その他の爆発性の危険物の除去及びこれらの処理を行うものとする。」という規定に基づくものであったが、我が国は公に初めて行った人的国際平和協力であったという点で、PKOは我が国が海外派遣に関連した集団的自衛権について考え始めた萌芽という評価をすることができる。

ペルシャ湾の掃海艇派遣の後、政府は1991年の第121回臨時国会に特に人的な面を中心とし、これまでより積極的に国際社会に寄与するため、PKO等に対する協力を適切かつ迅速に行うための国内体制整備を目的として「国連平和協力法」を提出した。

国会における審議の過程において、PKOに対する協力のためとはいえ、自衛隊の部隊等を他国へ派遣することは、憲法の禁じている「武力の行使」に該当するのではないかといった議論がなされたが、結局1992年に成立した。

この国際平和協力法において基礎となっているPKOは、紛争当事者の間に停戦の合意が成立し、紛争当事者がPKOに同意している状態で、中立・非強制の立場で以て国連の権威と説得により停戦監視等の任務を遂行しようとするものであって、強制的手段に基づいて平和を回復しようとするものではない156

したがって、政府はこの法律に基づいて自衛隊が協力する事柄はPKO参加5原則もあり、憲法第9条に禁止された武力の行使や武力を行使する目的をもって武装した部隊(兵員)を他国に派遣する、いわゆる海外派兵に該当するものではないとしている。また、人道的な国際救援活動に参加する場合においてもこのPKO5原則は堅持されることとなっており、自衛隊を海外に派遣する際のメルクマールとなっている。

この後、変更が加えられ、2018年現在のPKO参加5原則は①紛争当事者の間で停戦の合意が存在していること、②国連平和維持隊が活動する地域の属する国及び紛争当事者が当該国連平和維持隊の活動及び当該国連平和維持隊への我が国の参加に同意していること、③当該国連平和維持隊が特定の紛争当事者に偏ることなく、中立的な立場を厳守すること、④上記の原則のいずれか満たされない状況が生じた場合には、我が国から参加した部隊は撤収することができること、⑤武器使用は要員の生命等の防護のための必要最小限のものを基本とすること、である。受け入れ同意が安定的に維持されていることが確認されている場合、いわゆる安全確保業務及びいわゆる駆け付け警護の実施に当たり、自己保存型及び武器等防護を超える武器使用が可能となっている。

当然ではあるが、この現行PKO参加5原則においても、朝鮮戦争期に行われたのと同様の協力ができないことは明らかである。

では、国連平和協力法成立過程においてどのような議論が行われていたのか、憲法第9条との関係性を考えながら、国会答弁を見ていきたい。

まず、1991年9月25日の国会において、工藤敦夫内閣法制局長官は「我が国の自衛隊が今回の法案に基づきまして国連がその平和維持活動として編成した平和維持隊などの組織に参加する場合に、まず第一に武器の使用、これは我が国要員等の生命、身体の防衛のために必要な最小限のものに限られる、これが第一でございます。それから第二に、紛争当事者間の停戦合意、これが国際平和維持活動の前提でございますが、そういう紛争当事者間の停戦合意が破れるということなどで我が国が平和維持隊などの組織に参加して活動する、こういう前提が崩れました場合、短期間にこのような前提が回復しない、このような場合には我が国から参加した部隊の派遣を終了させる、こういった前提を設けて参加することといたしております。したがいまして、仮に全体としての平和維持隊などの組織が武力行使に当たるようなことがあるといたしましても、我が国としてはみずからまず武力の行使はしない、それから、当該平和維持隊などの組織といわゆるそこが行います武力行使と一体化するようなことはない、こういうことでございまして、その点が確保されておりますので、我が国が武力行使をするというような評価を受けることはない。したがって、憲法に申します平和主義、憲法前文で書かれ、あるいは憲法九条で武力の行使を禁止している、そういう点につきまして憲法に反するようなことはない、かように考えております。」と述べ、①武器の使用は我が国要員等の生命、身体の防衛のために必要最低限に限られること、②我が国の方から進んで武力行使はしないことを根拠とし、よって派遣先である平和維持隊等の組織が行う武力行使と一体化することはない、という論理によって平和主義は担保されるとしたのである157

また、国連平和維持軍(以下「PKF」と呼ぶ)についての言及も1991年9月30日にあり、「……私といたしましては、まずPKF、国連の行いますPKFというのは、その行われる事態におきまして、安保理の決議等を受けて、しかも紛争当事者の同意、合意等があってその上で行われますものでありますから、それ全体として、まず武力の行使に当たるような武器使用はまずまずないだろう、かように存じます。ただ、そこの中で認められております、国連文書によって私が承知しておりますところでは、場合によって、そのPKFの任務を達成する、それを実力をもって阻止しよう、そういう動きに対して武器を使用することも例外的に認める場合がある、かように言われております点から、まず全体として国際的な武力紛争に携わるものではないけれども、そういうものによって武力の行使に当たるようなケースが例外的にないわけではない、そういう形で私は申し上げているつもりでございます。」158と自衛隊が派遣され得るPKFにおいてはPKFの任務遂行を阻む動きに対して武器使用がなされる場合もあると認めた上で、「PKF全体が、概括的に申し上げればそういう意味で『国際的な武力紛争の一環としての戦闘行為』を行うようなものではございません。……ただ……先ほど申し上げましたような任務の遂行を実力をもって妨げるような動き、それに対して武力行使をすることも認める、そういうケースもまれなケースとして認める、こういうことでございますから、そういうものは相手によりまして、あるいはこちら側によりまして、そういう意味で武力紛争に全くそれが当たらないとまで断言し得ない、そういうおそれを持ったものでございますから、今回の法案におきましてもいわゆる要員の生命等の防護にそれを限定して我が国は参加する、そういうことであれば我が国憲法九条に言う武力の行使に当たることはない……。」159と重ねて憲法第9条に抵触しないことを強調した。

1998年4月30日に国連平和協力法の一部を改正する法律案が提出された際には、石井紘基議員から停戦合意がなければ、物資協力が一方の紛争当事者に加担することとなるのではないか、また、この改正は五原則の見直しにつながるかという指摘を受け、橋本龍太郎総理大臣は「今般の改正は、停戦合意が存在しなくても、その活動の不偏性への評価が保たれている一定の国際機関自身によって実施される人道的な国際救援活動のための物資協力を実施できるようにすることであり、このような国際機関に対する我が国の協力が、一方当事者に加担することとなり中立性を欠くものと評価されることは考えられません。加えて、今般の法改正は人道的な国際救援活動全般に係る諸原則を変更するものではなく、また、国際連合平和維持活動への協力の前提も何ら変更するものではありませんので、いわゆる五原則の見直しにつながるものとも考えておりません。……政府としては、今後とも、憲法、法律の枠内で行われるべきこと、国内及び国際社会から評価されるものであること、派遣が効果的にかつ安全に行われるよう支援体制を整えること、我が国が適切に対応することが可能な分野であることなどの観点から、総合的に判断していく考えであります。」と述べ、これを否定した160

一方、PKO参加5原則についてはPKFに参加するに当たって、憲法で禁じられた武力の行使と受け取られないことを担保する意味合いで策定された経緯を踏まえて、一層慎重な取り扱いを要するとの考えを示した161

加えて、国連軍に派遣された場合の自衛官の取り扱われ方については、2003年11月27日に末松修議員からPKOの任務遂行時に妨害が起こった場合、日本が排除しなければ、結局、自衛隊は「張子の虎」ではないか、しかし、もしこれを排除しようというような変更が法改正によって行われるならばこれは憲法違反に当たるのではないか、と質問が出た。

これに対して津野修内閣法制局長官は「従来から我が国、これは国連軍一般にも言えることですが、我が国は憲法の平和主義、国際協調主義の理念を踏まえて国連に加盟しているわけであり……我が国としては、最高法規である憲法に反しない範囲内で、憲法九十八条二項に従って国連憲章上の責務を果たしていくということになるわけでありますけれども、憲法九条によって禁じられている武力の行使あるいは武力による威嚇というようなものは、そういうものに当たる行為につきましては、我が国としてこれは許されないというのは当然のことであります。国連平和維持活動でありますけれども、これは国連安保理決議等に基づきまして国連が組織し、国連の統括のもとに行われるものでありますが、このことは国連が各国から派遣された要員に対する指揮監督権を有することを意味するものではありませんで、国連は各国から派遣された部隊や要員の配置等の調整に関する権限を有するにとどまるものであるというふうに理解しております。したがいまして、PKOに派遣された自衛官は我が国の公務員として活動するものであり、自衛隊の部隊の活動は我が国の活動そのものでありますから、当然憲法の枠内で行われるべきであるというふうに考えております。」と答え、たとえ国連軍に組み込まれた自衛官であったとしても、我が国が一次的な監督権を持つことに変わりはないので、当然憲法の枠内でしか行動できないとの考えを示した162

その後も福田康夫内閣官房長官による答弁や、政権交代後の岡田克也外務大相の答弁等、日本国内におけるPKO、PKFに関する議論は継続して行われた163

しかし、昨今では、南スーダンにおけるPKOで派遣された部隊の日報が防衛大臣に「適切な時期」に報告されていなかったことから、別の論点である文民統制(シビリアン・コントロール)が利いていないのではないかとの疑念が生じる結果となった164

第2節 日米防衛協力のための指針と周辺事態安全確保法及び船舶検査活動

日米防衛協力のための指針(以下、「ガイドライン」と呼ぶ。)は、1978年に日本は自衛のため適切な規模の防衛力を保有し、アメリカ軍による在日施設・区域の使用を確保すること、アメリカは核仰止力を保持するとともに、部隊を前方展開し、来援し得るその他の兵力を保持すること、また、日本とアメリカ両国は日本への武力攻撃がなされた場合に共同対処行動を円滑に実施できるよう、自衛隊とアメリカ軍との間の協力態勢の整備に努めるという内容であった。そのガイドラインを1997年に「平素から行う協力」、「日本に対する武力攻撃に際しての対処行動等」及び「周辺事態の協力」に際して日本とアメリカ両国の役割、調整の在り方について大枠が規定され、周辺事態への対応を含め、両国の協力を拡大した形で改定した165。その後、2015年に安全保障法制との整合性も確保しつつ、「切れ目のない」形で日本の平和と安全を確保するための協力を充実・強化するとともに、地域・グローバルや宇宙・サイバーといった新たな戦略的領域における同盟の協力の拡がりを的確に反映したものとなり、発展してきているもので、また、両国の協力の実効性を確保するための仕組みとして、同盟の調整メカニズム、共同計画の策定など協力の基盤となる取組みを明記する等といった形で再改定されたものである。

その中で、2015年に改定された最新のガイドライン(以下、「2015年ガイドライン」と呼ぶ。)については安全保障関連法案を検討する際に検討するとして、目下、特に注目したいのは1997年のガイドライン(以下、「1997年ガイドライン」と呼ぶ。)である。

周辺事態に際して我が国の平和及び安全を確保するための措置に関する法律(以下、「周辺事態法」と呼ぶ。)は、冷戦後の国際情勢の変化、アメリカの世界戦略の変遷、日本の新しい国防認識等に基づき、日本とアメリカの両国において1990年代の半ばから21世紀の新時代に向けて即応できる日米同盟の在り方について模索し、これまでの体制を新たに拡張したこれまでとは異なる体制の形成を促す中で誕生した国内法である。

「樋口レポート」、「ナイ・イニシアティブ」、「新防衛計画の大綱」、「日米安保共同宣言」、「1997年ガイドライン」等の一連の日米安保新体制の枠組み作りを経た後に、最終的な到達点としてできたのがこの周辺事態法である166

この周辺事態法は国内法ではあるが、その認定ならびに適用範囲等、日米安保との関連で極めて深い互換性を持っており、中国と台湾はこの立法について極めて敏感になっていたのである167

その理由として、本法第1条に目的として「この法律は、そのまま放置すれば我が国に対する直接の武力攻撃に至るおそれのある事態等我が国周辺の地域における我が国の平和及び安全に重要な影響を与える事態(以下『周辺事態』という。)に対応して我が国が実施する措置、その実施の手続その他の必要な事項を定め、日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約(以下『日米安保条約』という。)の効果的な運用に寄与し、我が国の平和及び安全の確保に資することを目的とする。」とあり、この周辺事態とは「我が国周辺の地域における我が国の平和及び安全に重要な影響を与える事態」を指す。また1997年ガイドラインを筆頭とする日米安保体制の1つの結実点としての周辺事態法であることを考慮に入れると、この周辺事態の概念は1997年ガイドラインと同一のものであると解釈できる。

つまり、この同一な概念とは①地理的な概念ではなく事態の性質に着目した概念であって、ある事態が我が国の平和と安全に重要な影響を与えているか否かは、事態の態様、規模等を総合的に勘案して判断すること、②かかる事態が生じ得る場所を予め特定できるものではないことから、周辺事態が発生し得る地域を地理的に一概に画することはできないものである168

この周辺事態法に関しては国内法という性質から直接的には海外を対象とするような文言は確認することはできない。しかし、台湾や韓国といった旧西側諸国は非常に複雑な思いでいたに違いない。なぜなら、この国内法が適用されることによって日本とアメリカ両国を味方として受け入れざるを得なくなるからである。アメリカは基地負担を各国に押しつける「覇権」を推し進める国であるし、いくら戦後賠償が済んでいたとしても日本が東アジア諸国に軍事面で影響力を及ぼすのは良くないと考える国々も悲しいながら多々存在しているのもまた事実である。

周辺事態法が国内法でありながら、他国に対して多々影響を及ぼしていると考えられる原因の1つは認定基準である。「そのまま放置すれば我が国に対する直接の武力攻撃に至るおそれのある事態等」に本法の認定基準を絞っているのである。つまり、認定基準は固定化された具体的基準や数量などではなく、日本に与える影響の程度、そして日本が自らそれを判断するという状況に応じた流動的なものである。

第1条には「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約の効果的な運用に寄与し、我が国の平和及び安全の確保に資することを目的とする。」ことを挙げている。つまり、アメリカ軍に対する援助をもって、我が国が負担しなければならない防衛に必ず寄与するという裏書きの意味を果たしているのである。

台湾や韓国に対する安全保障体制については、日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約(以下、「日米安保条約」と呼ぶ。)第6条にある「極東における国際の平和及び安全の維持」、日米安保共同宣言中の「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約を基盤とする両国間の安全保障面の関係が、共通の安全保障上の目標を達成するとともに、21世紀に向けてアジア太平洋地域において安定的で繁栄した情勢を維持するための基礎であり続けることを再確認した」、1997年ガイドラインの「日本周辺地域における事態で日本の平和と安全に重要な影響を与える場合の協力」等の文脈において周辺事態法が成立した経緯を踏まえなければならない。

この「極東」や「アジア太平洋地域」、「日本周辺地域」という文言には必ず台湾や韓国が含まれているとみなすことができるのである。我が国の持つ「極東」概念の参考となるのは1960年2月26日に出された政府統一見解である。この中において、極東の範囲とは「一般的な用語としてつかわれる『極東』は、別に地理学上正確に画定されたものではない。……実際問題として両国共通の関心の的となる極東の区域は、この条約に関する限り、在日米軍が日本の施設及び区域を使用して武力攻撃に対する防衛に寄与しうる区域である。かかる区域は、大体において、フィリピン以北並びに日本及びその周辺の地域であって、韓国及び中華民国の支配下にある地域もこれに含まれている。」となっている169。この見解は未だ覆されてはおらず、現在においても息づいているものであると推察できる。

国会においてもこの見解を支持するような答弁が見受けられる。1998年5月8日の衆議院安全保障委員会において久間章生防衛庁長官は「今度のガイドライン、それを受けましてのいわゆる実効性確保のための法律等におきましても、今度の周辺事態は、特定の区域、特定の地域、特定の国を対象とするものではなくて、我が国周辺の地域で我が国の平和と安全にとって重要な影響を与える事態が起きたときにどうするかということでまとめているんだという話……台湾を日米安保の範囲に入れることは中国の主権の侵犯である、そういうような言い方なのです。」170と述べ、また、極東という言葉の概念について「周辺事態は今の地理的概念でないということで貫かれるべきでありますけれども……日米安保条約第六条に言う極東は台湾海峡を含むのか否か、これは含むという政府の見解が今でも維持されている、このように伺っていてよろしいですね。」171と西村眞悟議員から質問を受けた久間章生防衛庁長官は「外務省が見えていませんので私の方からお答えいたしますけれども、昭和三十五年の解釈が現在まで生きております。」172とはっきりと明言した。

この周辺事態法は「日本周辺」という抽象的ながらも存在する地理的な要件と「事態」という主観的な要件、の2つともが満たされて初めて発動されるのである。つまり、日本に重大な事態を及ぼす場合であっても日本周辺でなければ適用されないし、日本周辺であっても我が国に重大な影響を及ぼすものと認められなければ適用されない。

しかし、これらの要件はアメリカ軍の行動の端緒となる事態発生場所やアメリカ軍の行動範囲と必ずしも一致するものではなかった。当時の条約締結慎重派が挙げていた理由の1つでもあるが、日米安保条約の条文中にある「極東における国際の平和及び安全」を脅かすような事態が必ずしも「極東地域における事態」である必要性は無いと条文上は読み取れるのである。したがって、仮に極東以外の場所で発生した事態であっても、それが「極東における国際の平和及び安全」を脅かす可能性があるものであると判断されてしまえば、「平和及び安全に寄与するため」にアメリカ軍は日本国内にある基地を使用することができると解釈される余地が大いにあったのである。

これを裏付けるかのように1965年5月31日に第48回国会衆議院予算委員会において高辻正巳内閣法制局長官は「……ベトナムにおける情勢が極東における国際の平和と安全に対して何らかの影響あるいは脅威を及ぼすというようなことがありますれば、アメリカ合衆国は、第六条にありますような、日本の施設及び区域を使って安保条約の目的達成上のことができる、条約上はそういう関係になる……。」との考えを示し、条約締結慎重派の憂いが杞憂ではなかったことが証明されたのである173

当時においても「極東」という地域的限定はほとんど無意味であり、問題はその事態が「日本や極東の平和及び安全を脅かす事態」であるかどうかということに集約され、その意味においても日米安保条約第6条のいわゆる「極東条項」は基本的に地理的概念ではなく、状況概念であったと評価できる174。そう考えると、無条件的に範囲を認めていた「極東条項」から多少なりとも地理的範囲を狭めさせた形で周辺事態法を制定できたのは評価しなければならないだろう175

結局のところ、この法律が適用される地理的範囲は「極東条項」より多少狭く解釈することができ、さしずめ「台湾及び韓国を含む日本の主権が及び得る範囲および公海」と解釈することができるのではないだろうか。

この解釈に基づけば、中国が台湾進攻を行った場合や、北朝鮮が韓国に侵攻した場合には、それが「日本の平和及び安全に重要な影響を与える事態」であると判断された時には、周辺事態法が適用されて、諸行動のきっかけとなる可能性は大いにあり得る。むしろ、このように解した場合には本法は専ら台湾有事や朝鮮有事に備えた法律であったと評価される。

しかし、その一方で、非現実的な事態として台湾による大陸反攻や韓国主導での朝鮮半島統一を目指す北朝鮮との戦争等は中国大陸や北朝鮮の領域が適用範囲として考えられていないことを踏まえると、これらの国々は日本の周辺の地域に含まれていないと解すべきであり、これらの事態による周辺事態法の発動は無かったと考えられる。しかし、この周辺事態法の抱える不明瞭な点は明確な答弁や基準が示されることが無いまま、2015年、安全保障法制の整備に伴い改正され、重要影響事態に際して我が国の平和及び安全を確保するための措置に関する法律(以下、「重要影響事態法」と呼ぶ。)となった。

この周辺事態法が適用された場合の日本の対応は、まず、①政府は、周辺事態に際して、適切かつ迅速に、必要な対応措置を実施し、我が国の平和及び安全の確保に努めること、②対応措置の実施は、憲法第9条との関係から武力による威嚇又は武力の行使に当たるものであってはならないこと、③内閣総理大臣は、対応措置の実施に当たり、基本計画に基づいて内閣を代表して行政各部を指揮監督すること、④関係行政機関の長は、対応措置の実施に関し、相互に協力すること、といった基本原則に基づかなければならない176

この周辺事態が発生した際に、行い得る対応の具体例としては、①自衛隊が実施する後方地域支援、②特に内閣が関与することにより総合的かつ効果的に実施する必要のある関係行政機関の行う後方地域支援、③後方地域捜索救助活動及び④船舶検査活動がある。この中で自衛隊が実際に行い得る業務は①、③及び④である。

ここで言われている後方地域とは、我が国領域並びに現に戦闘行為が行われておらず、かつ、そこで実施される活動の期間を通じて戦闘行為が行われることが無いと認められる我が国周辺の公海(排他的経済水域を含む)及びその上空の範囲のことを指し、後方地域支援とは、周辺事態に際して日米安保条約の目的の達成に寄与する活動を行っているアメリカ合衆国の軍隊に対する物品及び役務の提供、便宜の供与その他の支援措置であって、後方地域において我が国が実施するものをいう。また、後方地域捜索救助活動とは、周辺事態において行われた戦闘行為によって遭難した戦闘参加者について、その捜索又は救助を行う活動(救助した者の輸送を含む)であって、後方地域において我が国が実施するものをいう(周辺事態法第3条)。その一方において、人道的な観点から、後方地域捜索救助活動を実施している中において、戦闘参加者以外の遭難者を発見した場合には、救助することができるとされており、また、実施区域に隣接している外国の領海に遭難者が流されてしまった場合には、その当該国の同意を得た上で、救助することができるとされている177。船舶検査活動とは、周辺事態に際し、我が国が実施する貿易その他の経済活動に係る規制措置の厳格な実施を確保する目的で行われる活動であり、国連安保理決議に基づき、あるいは旗国の同意に基づき、船舶(軍艦等を除く)の積荷及び目的地を検査・確認する活動並びに必要に応じ船舶の航路又は目的港もしくは目的地の変更を要請する活動であって、我が国領海又は我が国周辺の公海(排他的経済水域を含む)において我が国が実施するものが該当する178

特にこの船舶検査活動については大きく7つに分けられる。①目標船舶の航行状況を監視する「航行状況の監視」、②航行する船舶に対し、必要に応じ、呼びかけ、信号弾及び照明弾の使用その他の適当な手段(実弾の使用を除く)により自己の存在を示す「自己の存在の顕示」、③無線その他の通信手段を用いて、船舶の名称、船籍港、船長の氏名、直線の出発港、積荷その他の必要な事項を照会する「船舶名称等の照会」、④船舶(軍艦等を除く)の船長又は船長に代わって船舶を指揮する者に対し当該船舶の停止を求め、船長等の承諾を得て、停止した当該船舶に乗船して書類及び積荷を検査し、確認する「乗船しての検査・確認」、⑤船舶に貿易その他の経済活動に係る規制措置の対象物品が積載されていないことが確認できた場合において、当該船舶の船長等に対し、その航路又は目的港もしくは目的地の変更を要請する「航路等の変更の要請」、⑥船舶の停船等を求め、又は航路等の変更の要請に応じない船舶の船長等に対して、これに応じるよう説得を行う「船長等に対する説得」、⑦船長等に対する説得を行うため必要な限度において、当該船舶に対し、接近、追尾伴走及び進路前方における待機を行う「接近、追尾等」がある。

武器の使用に関しては第11条に規定があり、まず第1項において「第6条第2項(第7条第7項において準用する場合を含む。)の規定により後方地域支援としての自衛隊の役務の提供の実施を命ぜられた自衛隊の部隊等の自衛官は、その職務を行うに際し、自己又は自己と共に当該職務に従事する者の生命又は身体の防護のためやむを得ない必要があると認める相当の理由がある場合には、その事態に応じ合理的に必要と判断される限度で武器を使用することができる。」と定め、第2項では「第7条第1項の規定により後方地域捜索救助活動の実施を命ぜられた自衛隊の部隊等の自衛官は、遭難者の救助の職務を行うに際し、自己又は自己と共に当該職務に従事する者の生命又は身体の防護のためやむを得ない必要があると認める相当の理由がある場合には、その事態に応じ合理的に必要と判断される限度で武器を使用することができる。」としている。しかし、第3項では「前2項の規定による武器の使用に際しては、刑法(明治40年法律第45号)第36条又は第37条179に該当する場合のほか、人に危害を与えてはならない。」となっており、一般の刑法典が適用されることも改めて明記されている。

第3節 イラクにおける人道復興支援活動及び安全確保支援活動の実施に関する特別措置法

イラクにおける人道復興支援活動及び安全確保支援活動の実施に関する特別措置法(以下、「イラク特措法」と呼ぶ。)は4年間の時限立法として2003年7月26日に成立し、4年後の2007年7月、期限を2年延長することを2007年3月30日の閣議で決定したものであり、2009年7月に延長期限切れで失効した。

このイラク特措法によって日本は公には戦後初めて戦場となっている外国の領土に自衛隊を送り、武力行使を行うことが解釈上可能となった。政府の従来解釈によっても、武力行使を目的とした自衛隊の海外派遣は違憲であるとなっていたにも関わらず、可能とみなされるような立法を行ったことで、憲法解釈を事実上変更したとの認識を与えることになってしまったのである。以下、随時概観していきたい。

本法制定は、決して我が国が進んで自国の兵員を他国に派遣しようという意図に基づいたものではなく、基本的に日本が大国という地位にいるが故に行わなければならないという国際社会からの期待に応えるものであったことは忘れてはならない。

イラクを巡る情勢の緊迫化を受け、2002年11月の中旬、古川貞二郎官房副長官から安全保障担当の大森敬治官房副長官に対して、新法の制定を含めた対米支援やイラク復興支援策の検討が指示され、内閣官房内にイラク新法検討チームによる検討を開始した180。この時期の前後には、アメリカからイラクが国連決議を履行せず、アメリカがイラクを攻撃した場合の支援について約50か国に対して打診が行われており、日本に対しても、自衛隊による後方支援に法的な制約があることを承知した上で、難民に対する救済活動等の人道支援とイラクの戦後復興への協力等の検討が求められていた。古川貞二郎官房副長官の指示を受けて始められた内閣官房内部での検討作業は問題認識、展開認識、事実認識と物事が整理されていくにつれて、①軍事行動後の復興支援を日本の自主的な判断で行うことを基本方針とすること、②復興段階と言っても具体的にいかなる状況で自衛隊が活動することになるのか、③戦闘行動の直接支援は行わないとしても治安維持活動に対する支援の可否問題、また、戦闘行動と治安維持活動の区別はどのように行うのか、という点に収斂していった181

関連法案の作成は内閣官房のみで行われ、防衛庁は加えられなかった。防衛庁には必要に応じて意見が求められたにすぎず、防衛庁側からは武器使用権限の拡大について考慮するように要望が出されていた182

2002年末の時点では、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)への資金拠出等による難民救済や難民の流入が想定される中東各国に対する無償資金協力等の経済的援助、及び戦争終結後のイラクで、道路や水道、電力等の生活インフラ整備や保健・医療支援、行政機構の再生援助の人道復興支援等の非軍事面での検討を中心に行っていた。2002年の12月4日には川口順子外相が「テロ対策特措法に基づく協力支援活動等は、あくまでも、平成十三年九月十一日のテロ攻撃によってもたらされている脅威の除去に努めることにより国連憲章の目的の達成に寄与する諸外国の軍隊等の活動を支援するためのものでございます。……イラクが関連をしている国連の安保理の決議、これに対して重大な違反を行う、そして諸外国の軍隊による軍事行動が行われるという事態になった時点で、この軍事行動が平成十三年九月十一日のテロ攻撃によってもたらされている脅威の除去に努めることにより国連憲章の目的の達成に寄与する諸外国の軍隊等の活動に該当しないと判断されれば、このイラクに対する軍事行動についてテロ対策特措法を適用した協力支援活動等を行うことはできないわけでございます。いずれにいたしましても……国際社会の責任ある一員として我が国がどのような役割を主体的に果たすべきかとの観点から、例えば難民支援、周辺国支援等の分野を含めまして、あらゆる選択肢を念頭に置いて、現在、種々検討を行っているところでございます。」と答弁を行い、日本政府はテロ対策措置法に基づいた協力をイラク戦争においては適用できないという立場を明らかにした183

12月16日にワシントンで日本の外相・防衛庁長官とアメリカ側の国務長官・国防長官が参加する日米安全保障協議委員会(いわゆる「2+2」)が行われ、川口順子外相からアメリカ軍の武力行使が不可避な状態となれば、日本として難民支援や復興支援をイラクにおいて力強く推進していく旨申し入れがあった。

また、2003年1月23日には、訪米していた亀井静香氏に対して国防総省の高官から、アメリカがイラクに対して武力行使に踏み切った場合は、日本に対して、アメリカの武力行使に対する支持表明、軍事作戦実行時の後方支援、戦後におけるイラクの復興、の3つの支援を特に求めたいと申し入れがあった。

また、1月下旬からは、ドイツやフランス等、今までアメリカと歩調を合わせていた国々からイラクに対する武力行使に反対する姿勢が明確に示されるようになる一方、日本においては、武力行使後の支援策の一環としてイラクに自衛隊を派遣することの検討について盛んに報道が行われるようになった。具体的には、これまで想定されてきたようなイラク周辺国における難民救援活動や医療、輸送等の特定分野における人道救援活動に加え、イラク国内での駐留軍の作戦行動に対する後方支援、施設の復旧、化学兵器の処理等を想定した自衛隊の派遣にスポットライトが当たるようになった。しかし、イラクにおける軍事作戦の終了後もPKOが派遣される可能性は低かったので、国際平和協力法を利用した自衛隊派遣は極めて困難であり、改めて新法制定の必要性が感じられていた。

2003年の3月15日には、アメリカとイギリスが対イラク武力攻撃に踏み切ってしまった場合の緊急対応策がまとめられた。この緊急対応策の方針は、戦闘行為を現に行っているアメリカ軍への後方支援や戦費の負担は見送りとし、戦闘が終了した後のイラク復興支援に重きが置かれ、小泉純一郎首相自らがアメリカ・イギリス両軍の攻撃開始直後に記者会見を開いてアメリカ・イギリスへの支持を表明する運びとなっていた。また、この時に、アメリカ軍からの要請があれば、在日米軍施設の警備に自衛隊が警護出動(自衛隊法第81条の2)することも検討された。警護出動事態に関しては自衛隊法81条の2に「内閣総理大臣は、本邦内にある次に掲げる施設又は施設及び区域において、政治上その他の主義主張に基づき、国家若しくは他人にこれを強要し、又は社会に不安若しくは恐怖を与える目的で多数の人を殺傷し、又は重要な施設その他の物を破壊する行為が行われるおそれがあり、かつ、その被害を防止するため特別の必要があると認める場合には、当該施設又は施設及び区域の警護のため部隊等の出動を命ずることができる。

一 自衛隊の施設

二 日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第六条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定第二条第一項の施設及び区域(同協定第二十五条の合同委員会において自衛隊の部隊等が警護を行うこととされたものに限る。)」という規定があり、それがそのまま適用される形となる。

国外での自衛隊の活動は邦人の救出や難民支援等が中心となっていた。周辺国における邦人救出には商用機の利用が自衛隊では一般的であり、チャーター機や政府専用機の派遣に加え、状況によりC-130H輸送機やインド洋に展開している護衛艦の活用も考慮に加えられることとなった184。国連はイラク戦が始まることによって周辺諸国に対する人口の流出が60万人程度起こり、もし戦闘が長引くことがあれば、145万人ほどが流出するであろうと予測していた。そのため既存の協力に加えて、難民に対する医薬品や食糧援助等で約1億2000万ドルの支援が検討されたほか、国際平和協力法に基づく人道的な国際救援活動の一環として、自衛隊の輸送機による毛布やテント等の輸送業務を実施することも想定されていた185

2003年3月20日にアメリカとイギリスによるイラクに対する武力行使が行われると、小泉純一郎首相は記者会見でイラクが一連の国連決議を無視し続け、最終的な決断を促す安全保障理事会にも応ぜず最後まで誠意を示さなかったこと、また、核兵器等の大量破壊兵器の拡散防止は国際社会のみならず、我が国にとっても極めて重大な問題であるとの認識の下、アメリカ・イギリスによる対イラク武力行使について支持する立場を表明するとともに、政府内にイラク問題対策本部が設置され、以下のような「我が国の対応策について」が決定された186

「1.緊急性の高い対応策

(1)イラクとその周辺における邦人の安全確保

○危険情報の適時適切な発出と在留邦人、旅行者等への徹底

○緊急連絡と非難の体制の維持確保

○政府専用機、政府チャーター機の派遣等の準備

(2)国内の警戒態勢の強化・徹底

○出入国管理、通関検査

○テロ関連情報の収集分析

○ハイジャック等の防止策

○NBCテロ等への対処

○国内重要施設、在日米軍施設、各国公館等の警戒警備

○テロ資金対策

○不審船対策

(3)我が国関係船舶の航行の安全確保

○情報収集の強化と関係者への適時的確な情報提供

○沿岸国との連携、協力

(4)世界及び我が国の経済システムの安定

○原油等物資の市場動向や供給状態、金融・証券市場の動向を監視

○関係諸国等と連携しつつ、必要に応じて、原油の安定供給のための適切な措置を実施

○外国為替市場の安定化、金融システムの安定の確保、国内の流動性の確保

(5)被災民の発生に応じた緊急人道支援

○国際機関を通じた支援

○NGOを通じた支援

○国際平和協力法に基づき、周辺国に対し、人道救援物資を自衛隊機等により輸送、物資を供与、文民医療チームを派遣

2.今後の事態の推移を見守りつつ検討すべき項目

(1)イラク周辺地域への支援

○ヨルダン、パレスチナ自治区をはじめとするイラク周辺地域への支援(経済支援、救急医療体制整備のための支援を含む。)

(2)イラクの復旧・復興支援や人道援助等

○イラクにおける大量破壊兵器等の処理、海上における遺棄機雷の処理、復旧・復興支援、人道救援等のための所要措置

3.テロ対策特措法に基づく支援の継続・強化

○テロとの闘いを継続する諸外国に軍隊等に対し、テロ対策特措法に基づき、自衛隊艦艇、航空機により、補給、輸送活動等を継続・強化」187

2003年3月28日、小泉純一郎首相は、イラクへの自衛隊の派遣について、既存の法律で可能な対応と、新法をもってしか行えない対応があり、現行しばらくは既存法で対応可能な範囲において協力を行うとの考えを示していた。この時、現行法による対応策として、自衛隊法に基づく周辺海域での機雷掃海活動、イラクの周辺国における国際平和協力法に基づく医療・輸送等の人道支援や、国連をはじめとする国際機関に対する化学兵器関連の専門家の派遣等が想定されていた。

4月21日に開かれたイラク問題対策本部会議において「我が国は、イラクにおける人道・復興支援等に対する自衛隊及び文民による協力について、幅広い見地から所要の検討を進める」とした「我が国のイラク復興支援策等について」を決定した188

国連平和協力法に基づいた輸送支援等、自衛隊機を使用した難民支援が実施され、機雷掃海の必要性は低いとの理由で掃海作業は見送られた。これより後の主要な復興策で生じるであろう課題は復興支援策の実効性であった。ODAについては相手国政府の明確化や国際機関経由での実施等が条件となり、自衛隊の活動は国連PKOの設立が見通せない中で、新法制定の必要性が高まった。

2003年5月1日に『戦闘終結宣言』が出され、外形的ではあったが、多国籍軍はイラクへの攻撃を終了した189。イラクではサダム・フセイン政権崩壊以降、国連安保理決議1483に基づいて当初はアメリカ国防総省人道復興支援室(US Office of Reconstruction and Humanitarian Assistance:ORHA)、後に連合国暫定当局(Coalition Provisional Authority:CPA)を中心としたイラクの政府体制再構築が行われようとしていた。

4月下旬から5月の上旬にかけて、与党幹事長を中心とした視察団がアラブ首長国連邦、イラク、カタール、クウェートを訪問し、現地の視察と共に、ORHA関係者やアメリカ軍関係者らと会談を行い、自衛隊が支援を行う条件として、①停戦、②統治機構の設立、③国連安保理決議の採択、④国民の支持と理解、が考えられると伝えた190

2003年5月22日には、1990年のイラクによるクウェート侵攻以来、イラクに対して課せられていた経済制裁の解除等を主な内容とする国連安保理決議第1483号が採択され、アメリカ・イギリス占領下におけるイラク復興のパッケージが固まることとなった。5月23日には、訪米していた小泉純一郎首相とジョージ・ウォーカー・ブッシュ大統領が会談を行い、国際平和協力法に基づいた周辺諸国への自衛隊機C-130輸送機を活用した人道支援物資輸送の検討を行うとともに、イラク国内への自衛隊の展開についても日本の現状の国力を踏まえて、日本として選択し得る貢献を行いたい旨を表明した。

このことは国会内において議論が行われていたとは言え、国外において国内審議中の議題について言及することは些か不用意であったのではないかと思われる。

国内においては、イラクの自衛隊の派遣について、①国際平和協力法による、周辺諸国での食料・物資輸送や医療支援等を行う、②新法を制定し、イラク国内での空輸や施設部隊による道路や水道等の復旧・整備等を行う、③新法を制定し、イラク国内でアメリカ・イギリス軍の治安維持活動の後方支援を行う、の3案に議論は向かいつつあった191。このうち、①の場合については、イラク国内で活動を行う場合の前提条件となる停戦合意の有無等についてイラク政府の国としての意志の判断が困難で、活動範囲がイラクの周辺諸国のみにとどまるという点で問題があった。また、②については、イラク国内において人道支援のみを行うとしても、2003年9月に予定されていた自民党総裁選挙との関係等で新法制定のために国会を延長することが難しく、イラク国内におけるニーズも1990年の湾岸戦争後のニーズに比べて乏しいとの考えが出された。他方、③については、武力行使との一体化や武器使用基準の不明確さ等から法案整理や国会審議により一層の時間がかかるとみられており、その実現性については低いものとみられていた。

2003年6月6日に事態対処法等有事関連法が与党に加えて民主党等も賛成し、参議院で可決、成立すると、小泉純一郎首相はイラク特措法案の国会提出を決断し、6月13日に行われる運びとなった。

また、国会の会期延長を小幅にしたい自民党の思惑から、自民党の山崎拓幹事長の判断で、制服組から求められていたイラクの治安状況を加味した武器使用基準の緩和について取り上げない方針を固めた。アメリカ側から要請があった後方支援分野における任務には対応できるように規定していたが、治安維持任務については武器使用基準の緩和の件と組み合わさっており、規定されなかった。

これだけ早く法案をまとめ上げたのには、世界各国がイラク復興への参加を次々と表明する中において、できるだけ早い時期に日本も陸上自衛隊の部隊派遣という具体的な形での国際貢献を表明したいとの理由があったのではないかと推察できる。

2003年の6月12日には政府から自民党の国防部会等に法案の全案が示された。部会において、政府案は承認されたが、臨時で開かれた総務会においては大量破壊兵器がイラクから未だ発見されていないような状況の下で、自衛隊の活動内容に大量破壊兵器処理の支援が含まれていた点について反対論が根強くあり、了承とはならなかった(その後、大量破壊兵器関連の記述は削除され、了承を受けた)。

そもそも大量破壊兵器の保有疑惑というのは小泉純一郎首相がアメリカ・イギリスの武力行使を支持した最も大きな理由であり、この記述が削除されたことは後に禍根を残すものとなった。

2003年の6月26日に開かれた156回国会衆議院イラク人道復興支援並びに国際テロリズムの防止及び我が国の協力支援活動に関する特別委員会の理事会においても、政府側から想定されているイラクでの復興支援業務について説明が行われ、自衛隊の輸送・補給業務を中心に①C-130輸送機を用いたイラクとその周辺諸国の間での患者や水、食料、援助物資の輸送、②おおすみ型輸送艦を中心に、地上部隊や地上車両の輸送、③イラクの非戦闘地域において自衛隊が補給基地を設け、燃料、水、食料等を提供する等が具体的な案として示された。

この「非戦闘地域」の区切りについてであるが、同日6月26日の156回国会衆議院イラク人道復興支援並びに国際テロリズムの防止及び我が国の協力支援活動に関する特別委員会において「常識的に考えれば、戦争を行っていれば戦闘行為だ、戦争が終われば非戦闘行為だ、非戦闘地域だ、こういうふうなことは言えますけれども、具体的に地域を指定するとかそういったようなことになると、これはまた何か分類というか定義が必要なのかなというような感じもいたします……いずれにしましても、自衛隊が活動する区域はいわゆる非戦闘地域である……。」との考えを示し、自衛隊が派遣される地域が本当に戦闘の行われていない後方地域であるのか、国民に疑義を持たせるような答弁となった192

この不明確な点を民主党は追求し、2003年6月2日から6月8日にかけて、イラクとヨルダンに調査団を派遣し、現地で任務に当たっているアメリカ軍への散発的な攻撃が続いていることや戦闘地域と非戦闘地域の区別が困難であり、イラクに歓迎されるような復興支援が現状では難しいとの立場を示すに至った。更に、イラクから大量破壊兵器が発見されていないことを挙げ、そもそもイラクに対する武力行使の正当性に関しても疑義を投げかけていた。そのため、7月1日には自衛隊のイラク派遣に対して反対の立場を固めており、民主党の提示した修正案においても、自衛隊の活動に関する規定の全てを削除し、文民による活動のみを認める等、とても自民党と折り合いがつけられるような内容ではなかった。

その後、民主党を筆頭とする野党勢力は非戦闘地域概念の妥当性や自衛隊派遣を求めるニーズ、武器弾薬の輸送を排除していないという点を中心に追及を進め、法案の採決前には福田康夫内閣官房長官、川口順子外務大臣、石破茂防衛庁長官にたいする問責決議案を出す等の抵抗が見られた。結局、7月26日未明、参議院本会議で賛成136票、反対102票によって可決成立したのである193

このイラク特措法第2条第2項で「対応措置の実施は、武力による威嚇又は武力の行使に当たるものであってはならない。」としながら、問題の非戦闘地域については「対応措置については、我が国領域及び現に戦闘行為(国際的な武力紛争の一環として行われる人を殺傷し又は物を破壊する行為をいう。以下同じ。)が行われておらず、かつ、そこで実施される活動の期間を通じて戦闘行為が行われることがないと認められる次に掲げる地域において実施するものとする。」との曖昧な表現で示されることになった。また、自衛隊が行わない業務として第8条の第6号に「武器(弾薬を含む。第十八条において同じ。)の提供」と「戦闘作戦行動のために発進準備中の航空機に対する給油及び整備」を挙げ、平成十三年九月十一日のアメリカ合衆国において発生したテロリストによる攻撃等に対応して行われる国際連合憲章の目的達成のための諸外国の活動に対して我が国が実施する措置及び関連する国際連合決議等に基づく人道的措置に関する特別措置法(以下、「テロ対策特措法」と呼ぶ。)で禁止されていた武器弾薬の輸送はこのイラク特措法では可能であるとの立場を示した194

また第17条に規定された武器の使用に関しては「対応措置の実施を命ぜられた自衛隊の部隊等の自衛官は、自己又は自己と共に現場に所在する他の自衛隊員(自衛隊法第二条第五項に規定する隊員をいう。)、イラク復興支援職員若しくはその職務を行うに伴い自己の管理の下に入った者の生命又は身体を防衛するためやむを得ない必要があると認める相当の理由がある場合には、その事態に応じ合理的に必要と判断される限度で、第四条第二項第二号ニの規定により基本計画に定める装備である武器を使用することができる。」とされた。

また、このイラク特措法とテロ対策特措法の大きな違いは、受け入れ国の同意が必要ではなく、当該事項に関する条件が無いことである。これは受け入れ国であったイラクの政府機構が崩壊しており、同意を取り付ける相手がいなかったことが理由として考えられる。しかし、そのような過酷な環境であるなら尚更、制服組が主張していたように武器の使用基準の緩和について考慮する必要があったと思われる195

やはり、文民から見て制服組は軽んじられているとの印象が否めない。制服組の言うことを全て聞く必要はないにせよ、武器使用基準の緩和等、隊員の身体を守る必要性が高いような緊急性の高い問題には政治的日程に固執することなく、取り組む必要があるということを再認識することとなった。

第4節 我が国及び国際社会の平和及び安全の確保に資するための自衛隊法等の一部を改正する法律案

「我が国及び国際社会の平和及び安全の確保に資するための自衛隊法等の一部を改正する法律案」(以下、「平和安全法制整備法案」と呼ぶ。)は、自衛隊法、周辺事態法、船舶検査活動法、国際平和協力法等の改正による自衛隊の役割拡大(在外邦人等の保護措置、米軍等の部隊の武器保護のための武器使用、米軍に対する物品役務の提供、「重要影響事態」への対処等)と、「存立危機事態」への対処に関する法制の整備を内容とするものである。

また、新法として設けられた「国際平和共同対処事態に際して我が国が実施する諸外国の軍隊等に対する協力支援活動等に関する法律」(以下、「国際平和支援法」と呼ぶ。)は第1条において国際平和共同対処自体を「国際社会の平和及び安全を脅かす事態であって、その脅威を除去するために国際社会が国際連合憲章の目的に従い共同して対処する活動を行い、かつ、我が国が国際社会の一員としてこれに主体的かつ積極的に寄与する必要があるもの」と定義し、「当該活動を行う諸外国の軍隊等に対する協力支援活動等を行うことにより、国際社会の平和及び安全の確保に資することを目的とする。」とした。また、同法はこれまでと同様に第2条第2項において「対応措置の実施は、武力による威嚇又は武力の行使に当たるものであってはならない。」とし、同条第3項で「協力支援活動及び捜索救助活動は、現に戦闘行為(国際的な武力紛争の一環として行われる人を殺傷し又は物を破壊する行為をいう。以下同じ。)が行われている現場では実施しないものとする。ただし、第八条第六項の規定により行われる捜索救助活動については、この限りでない。」と定めた。

しかし、一方でイラク特措法の相手国からの同意に関する理解が不明確であったという反省から、第2条第4項において「外国の領域における対応措置については、当該対応措置が行われることについて当該外国(国際連合の総会又は安全保障理事会の決議に従って当該外国において施政を行う機関がある場合にあっては、当該機関)の同意がある場合に限り実施するものとする。」という変更が加えられた。

また、武器の使用基準の変更としては第11条第5号に「……自衛隊の部隊等の自衛官は、外国の領域に設けられた当該部隊等の宿営する宿営地(宿営のために使用する区域であって、囲障が設置されることにより他と区別されるものをいう。以下この項において同じ。)であって諸外国の軍隊等の要員が共に宿営するものに対する攻撃があった場合において、当該宿営地以外にその近傍に自衛隊の部隊等の安全を確保することができる場所がないときは、当該宿営地に所在する者の生命又は身体を防護するための措置をとる当該要員と共同して、第一項の規定による武器の使用をすることができる。この場合において、同項から第三項まで及び次項の規定の適用については、第一項中「現場に所在する他の自衛隊員(自衛隊法第二条第五項に規定する隊員をいう。第六項において同じ。)若しくはその職務を行うに伴い自己の管理の下に入った者」とあるのは「その宿営する宿営地(第五項に規定する宿営地をいう。次項及び第三項において同じ。)に所在する者」と、「その事態」とあるのは「第五項に規定する諸外国の軍隊等の要員による措置の状況をも踏まえ、その事態」と、第二項及び第三項中「現場」とあるのは「宿営地」と、次項中「自衛隊員」とあるのは「自衛隊員(同法第二条第五項に規定する隊員をいう。)」とする。」とあるように大幅に緩和され、いわゆる駆け付け警護が可能となった。

一方で、武力行使との一体化の回避については①「現に戦闘行為が行われている現場」では実施しない、②自衛隊の部隊の長等は、活動の実施場所若しくはその近傍において戦闘行為が行われるに至った場合、それが予測される場合等には、一時休止等を行う、③防衛大臣は実施区域を指定し、その区域の全部又は一部において、活動を円滑かつ安全に実施することが困難であると認める場合等には、速やかにその指定を変更し、又は、そこで実施されている活動の中断を命じなければならない、との条件をつけた196

この平和安全法制整備法は10本の一部改正の法律と新規制定の法律1本から構成されている。改正される法律の主要なものとしては①自衛隊法における改正点としては(ⅰ)在外邦人等の保護措置、(ⅱ)アメリカ軍等の部隊の武器等の防護、(ⅲ)平時におけるアメリカ軍に対する物品役務の提供の拡大、(ⅳ)国外犯処罰規定、②周辺事態法の改正によって新設される重要影響事態に際して我が国の平和及び安全を確保するための措置に関する法律(以下、「重要影響事態法」と呼ぶ。)における改正点としては(ⅰ)我が国の平和と安全に重要な影響を与える事態におけるアメリカ軍等への支援を実施すること等、改正の趣旨を明確にするための目的規定の見直し、(ⅱ)日米安保条約の目的の達成に寄与する活動を行うアメリカ軍以外の外国軍隊等に対する支援活動を追加、(ⅲ)支援メニューの拡大、③船舶検査活動法における改正点としては(ⅰ)周辺事態法の見直しに伴う改正、(ⅱ)国際平和支援法に対応し、国際社会の平和と安全に必要な場合の船舶検査活動の実施、④国際平和協力法における改正点としては(ⅰ)国連PKO等において、いわゆる安全確保、駆け付け警護等実施できる業務の拡大、とその業務の実施に必要な武器使用権限の見直し、(ⅱ)国連が統括していないような人道復興支援やいわゆる安全確保等の活動の実施が挙げられる。

そして、事態対処法制の改正点としては(ⅰ)事態対処法を通じた存立危機事態の名称、定義、手続等の整備、(ⅱ)自衛隊法を通じた存立危機事態に対処する自衛隊の任務としての位置付け、行動、権限等の変更、(ⅲ)米軍等行動関連措置法を通じた武力攻撃事態に対処するアメリカ軍に加えて、武力攻撃事態等におけるアメリカ軍以外の外国軍隊及び存立危機事態におけるアメリカ軍その他の軍隊に対する支援活動を追加、(ⅳ)特定公共施設利用法を通じた武力攻撃事態等におけるアメリカ軍以外の外国軍隊の行動を特定公共施設等の利用調整対象に追加、(ⅴ)海上輸送規制法を通じた存立危機事態における海上輸送規制の実施等が挙げられる。

この法律が提出された際に、内閣は国会に対して「我が国を取り巻く安全保障環境の変化を踏まえ、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態に際して実施する防衛出動その他の対処措置、我が国の平和及び安全に重要な影響を与える事態に際して実施する合衆国軍隊等に対する後方支援活動等、国際連携平和安全活動のために実施する国際平和協力業務その他の我が国及び国際社会の平和及び安全の確保に資するために我が国が実施する措置について定める必要がある。これが、この法律案を提出する理由である。」として説明をしていた197

この安全保障法制は決して短絡的に生み出されたものではなく、第2次安倍晋三内閣が誕生して以来の悲願であったと思われる。

2012年12月26日に第2次安倍晋三内閣が発足すると、2013年1月28日に第183回国会が召集され、所信表明演説において安倍晋三首相は「……外交政策の基軸が揺らぎ、その足元を見透かすかのように、我が国固有の領土、領海、領空や主権に対する挑発が続く、外交、安全保障の危機……このまま手をこまねいているわけにはいきません。……外交、安全保障についても、抜本的な立て直しが急務です。」と述べ、外交・安全保障分野における何かしらの法改正を含む外交・安全保障体制の変更を行う決意を明らかにした198

2013年2月7日に安倍晋三首相の下に安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会(以下、「安保法制懇」と呼ぶ。)が設置され、第1次安倍晋三内閣における諮問機関が復活したのである。

2013年8月8日、内閣は小松一郎フランス国駐箚特命全権大使を新たに山本庸幸氏の後継として内閣法制局長官に任命した。政府は従来、集団的自衛権の行使は憲法に違反するとの立場を採っており、内閣法制局はこの政府の立場を理論の面から支える憲法解釈構築の中心的な役割を果たしてきた。そのため、集団的自衛権の行使を容認する考えを持つ小松一郎フランス国駐箚特命全権大使を新たに内閣法制局長官に任命することで、内閣法制局内の人事の刷新及び憲法解釈変更のための地ならしとしての内閣法制局長官任命であると理解された199

また、2013年12月4日には、内閣の下に国家安全保障会議(以下、「日本版NSC」と呼ぶ。)を新たに設け、首相、官房長官、外務大臣、防衛大臣による4大臣会合を中心として国家安全保障の重要事項を審議し、首相の政策決定や政治的決断のサポートを行うこととなった200。また、この日本版NSCの事務を担当させるために内閣官房内に国家安全保障局を置いた。12月17日に日本版NSC及び閣議において、防衛計画の大綱(防衛大綱)及び中期防衛力整備計画(中期防)、国家安全保障戦略を決定した。

2014年5月15日に安保法制懇は報告書を提出し、「国際協調主義を前提とした日本国憲法の平和主義は、今後ともこれを堅持していくべきである」としながらも「安全保障環境が顕著な規模と速度で変化している中で、我が国は、我が国の平和と安全を維持し、地域・国際社会の平和と安定を実現していく上で、従来の憲法解釈では十分対応できない状況に立ち至っている。」と結論づけた201

また、この報告書では「……憲法第9条は、第1項で、我が国が当事国である国際紛争の解決のために武力による威嚇又は武力の行使を行うことを禁止したものと解すべきであり、自衛のための武力の行使は禁じられておらず、国際法上合法な活動への憲法上の制約はないと解すべきである。『(自衛のための)措置は、必要最小限度の範囲にとどまるべき』であるというこれまでの政府の憲法解釈に立ったとしても、『必要最小限度』の中に個別的自衛権は含まれるが集団的自衛権は含まれないとしてきた政府の憲法解釈は、『必要最小限度』について抽象的な法理だけで形式的に線を引こうとした点で適当ではなく、『必要最小限度』の中に集団的自衛権の行使も含まれると解すべきである。」とし、集団的自衛権の行使は現状の日本国憲法下においても認められるとの立場を鮮明に示した。これは画期的なことであり、集団的自衛権についての答弁があった1954年6月3日の第19回衆議院外務委員会における下田武三条約局長の答弁以来積み上げられてきた集団的自衛権の行使は違憲であるという解釈を、この報告書は真っ向から否定したのである。

また、憲法上認められる自衛権の中で「……我が国においては、この集団的自衛権について、我が国と密接な関係にある外国に対して行われ、その事態が我が国の安全に重大な影響を及ぼす可能性があるときには、我が国が直接攻撃されていない場合でも、その国の明示の要請又は同意を得て、必要最小限の実力を行使してこの攻撃の排除に参加し、国際の平和及び安全の維持・回復に貢献することができることとすべきである。」と報告していた。

この報告書を受けて、安倍晋三首相は記者会見を行い、後者の立場を採りつつ、①限定的な集団的自衛権の行使は憲法上容認されること、②憲法解釈の変更のため、内閣法制局の意見を踏まえつつ与党協議を行い、閣議決定を行うこと、の2点を説明した202

2014年7月1日、日本版NSC及び閣議において「国の存立を全うし、国民を守るための切れ目のない安全保障法制の整備について」を決定した。ここにおいて「日本国憲法の施行から67年となる今日までの間に、我が国を取り巻く安全保障環境は根本的に変容するとともに、更に変化し続け、我が国は複雑かつ重大な国家安全保障上の課題に直面している。国際連合憲章が理想として掲げたいわゆる正規の『国連軍』は実現のめどが立っていないことに加え、冷戦終結後の四半世紀だけをとっても、グローバルなパワーバランスの変化、技術革新の急速な進展、大量破壊兵器や弾道ミサイルの開発及び拡散、国際テロなどの脅威により、アジア太平洋地域において問題や緊張が生み出されるとともに、脅威が世界のどの地域において発生しても、我が国の安全保障に直接的な影響を及ぼし得る状況になっている。さらに、近年では、海洋、宇宙空間、サイバー空間に対する自由なアクセス及びその活用を妨げるリスクが拡散し深刻化している203。もはや、どの国も一国のみで平和を守ることはできず、国際社会もまた、我が国がその国力にふさわしい形で一層積極的な役割を果たすことを期待している。」とし、平和安全法制において周辺事態法を改正して誕生した重要影響事態法における重要影響事態に世界のどこで脅威が発生しても日本の安全保障に直結するとの考え方を示した。

続いて、「政府の最も重要な責務は、我が国の平和と安全を維持し、その存立を全うするとともに、国民の命を守ることである。」とし、そのために「我が国自身の防衛力を適切に整備、維持、運用し、同盟国である米国との相互協力を強化するとともに、域内外のパートナーとの信頼及び協力関係を深めることが重要である。特に、我が国の安全及びアジア太平洋地域の平和と安定のために、日米安全保障体制の実効性を一層高め、日米同盟の抑止力を向上させることにより、武力紛争を未然に回避し、我が国に脅威が及ぶことを防止することが必要不可欠である。その上で、いかなる事態においても国民の命と平和な暮らしを断固として守り抜くとともに、国際協調主義に基づく『積極的平和主義』の下、国際社会の平和と安定にこれまで以上に積極的に貢献するためには、切れ目のない対応を可能とする国内法制を整備しなければならない。」としている。我が国自身の防衛力を適切に整備、維持、運用することは非常に重要なことであり、この文章の流れにおいては中国が新たに外洋空母を持ったことに対して日本がいずも型護衛艦をF35の運用が可能な「多用途運用護衛艦」に改修することは適切なことであると評価することができる204

また、この決定内においては「純然たる平時でも有事でもない事態が生じやすく、これにより更に重大な事態に至りかねないリスクを有している。警察機関と自衛隊を含む関係機関が、より緊密に協力し、いかなる不法行為に対しても切れ目のない十分な対応を確保するための態勢を整備することが一層重要な課題となっている。……米軍部隊の武器等であれば、米国の要請又は同意があることを前提に、当該武器等を防護するための自衛隊法第95条によるものと同様の極めて受動的かつ限定的な必要最小限の「武器の使用」を自衛隊が行うことができるよう、法整備をする。」とあり、これまで対処が難しかった、いわゆるグレーゾーン事態に対処可能になるような法改正が行われるとしている。このいわゆる「グレーゾーン事態」は純然たる平時でも有事でもない事態と定義されている205

このグレーゾーン事態について東シナ海に着目点を持つ研究からは「①東シナ海における大枠の特徴は、海域においては法執行機関が、空域においては軍事組織が活動及び対応をしており、海域、空域の活動主体の性質が異なり、統一的に事態を把握することが困難であること、②海警は、組織の性格上、純粋な法執行機関か、それとも軍事組織としての性格をも有する組織として理解すべきか、判断に迷う点があること、③海警の活動は、ガイアナ対スリナム事件における国際仲裁裁判所の判断を踏まえれば、国際法上、場合によっては武力の行使を構成すると判断し得るのかどうか。これらのコロラリーから、空域では単なる実力の行使として捉えるのか、それとも海域でも武力の行使として捉えるのか、判断が困難な場合があること、によって白黒はっきりとすることができない。」と評するものもある206

また、憲法第9条との関係においては「……自衛の措置は、あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るためのやむを得ない措置として初めて容認されるものであり、そのための必要最小限度の『武力の行使』は許容される。これが、憲法第9条の下で例外的に許容される『武力の行使』について、従来から政府が一貫して表明してきた見解の根幹、いわば基本的な論理であり、昭和47年10月14日に参議院決算委員会に対し政府から提出された資料『集団的自衛権と憲法との関係』に明確に示されているところである。」とこれまでの憲法解釈を踏まえた上で、パワーバランスの変化や技術革新の急速な発展、大量破壊兵器等の脅威などにより我が国を取り巻く安全保障環境が根本的に変容し、変化し続けている環境を踏まえれば、今後発生するような他国に対する武力攻撃であったとしても、その目的や規模、様態等の諸条件に鑑みれば、我が国の存立を脅かすことも現実に起こり得ると評価した。

その結果、「我が国に対する武力攻撃が発生した場合のみならず、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合において、これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないときに、必要最小限度の実力を行使することは、従来の政府見解の基本的な論理に基づく自衛のための措置として、憲法上許容されると考えるべきである」とこれまでの政府の憲法解釈からは180度認識を転回させたのである。

それを受けて、「『平和安全法制』の概要―国際社会の平和及び安全のための切れ目のない体制の整備―」において①我が国に対する武力攻撃が発生したこと、又は我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること、②これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段が無いこと、③必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと、から成る「新3要件」を示し、この要件を満たした下での武力の行使を可能としたのである207

2015年5月14日、日本版NSC及び閣議において平和安全法制関連2法案を決定し、5月15日に衆議院及び参議院に提出した。国会では衆議院において、5月19日に浜田靖一議員を委員長とする我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会が設置され、5月22日から活動を開始した。

2015年5月26日の第189回国会衆議院我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会において「……我が国を取り巻く安全保障環境の変化を踏まえ、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態に際して実施する防衛出動その他の対処措置、我が国の平和及び安全に重要な影響を与える事態に際して実施する合衆国軍隊等に対する後方支援活動等、国際連携平和安全活動のために実施する国際平和協力業務その他の我が国及び国際社会の平和及び安全の確保に資するために我が国が実施する措置について定める必要がある」という理由が法案提出理由として述べられた208

そして2015年5月27日の同委員会においては集団的自衛権に関する昭和47年の政府見解との関係が問われた。長妻昭議員から「……四十七年見解、あくまで外国の武力攻撃によって国民の権利が根底から覆されるという急迫不正の事態ということは個別的自衛権があるというふうな見解がある……ここの『外国の武力攻撃』というのは、外国の日本に対する武力攻撃及び外国の密接に関係する相手国に対する武力攻撃と、両方含まれているということ」209なのか尋ねられ、横畠裕介内閣法制局長官は「……昭和四十七年見解のそういった基本論理を前提とした結論部分というのが最後に書かれておりまして、『そうだとすれば、』という部分でございますけれども、『そうだとすれば、』というところで初めて『わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる』という文言が出てきます。つまり、我が国に対するということが明示されるのは、『そうだとすれば、』という部分の結論の部分でございます。そうしますと、前提としての『外国の武力攻撃」という部分は、必ずしも我が国に対するものに限定されていない。当時におきましては、そのような国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆るような急迫不正の事態というのは、我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られるという認識を持っていた。それとあわせて、結論の『そうだとすれば、』ということで、『わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる』ということが言われているというふうに理解しております。」と答弁し、2014年7月1日の「国の存立を全うし、国民を守るための切れ目のない安全保障法制の整備について」の国際環境の変化という文言と整合性をとるような発言を行った210

また、続く松野頼久議員から「今までの政府が踏襲してきた集団的自衛権の解釈を変える」のか直接、安倍晋三首相に質問が及ぶと、安倍晋三首相は「四十七年の基本原理……は、自国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために必要な自衛の措置をとることを禁じているとは到底解されず、外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫不正の事態に対処するためのやむを得ない措置として、必要最小限度の武力行使は許容されるというのが基本原理であります。この基本原理の中において、……我が憲法のもとで武力行使を行うことが許されるのは、我が国に対する急迫不正の侵害に対処する場合に限られるのであって、したがって、他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は憲法上許されないと言わざるを得ないというところについては、我が国に対する武力攻撃が発生したこと、または我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があることに、結論について当てはめを変えたということでございますが、基本論理は、最初に申し上げたことが基本論理であり、この基本論理の中で、時代の状況が変わった中において当てはめを変えた、こういうことでございます。」と答弁し、基本論理について変更は生じておらず、この基本原理を時代の変化に即して「当てはめ」を変えたという説明がなされたのである211

このような集団的自衛権に関する議論が喧々諤々と行われる中で、7月15日に同特別委員会において採決が行われ、賛成多数により可決された。翌7月16日には衆議院本会議にて採決が行われ、自民党・公明党・次世代の党等の賛成多数により可決され、参議院に送付された。

参議院においては2015年7月29日、吉田忠智議員からなされた「……従来、他国に対する武力攻撃の阻止を内容とする集団的自衛権の行使は憲法上許されないとされてきたものを、なぜ集団的自衛権の行使容認に踏み切れたのでしょうか。212」との質問に対し、横畠裕介内閣法制局長官は「新三要件の下での限定された集団的自衛権の行使は、あくまでも我が国の存立を全うし、国民を守るため、すなわち我が国を防衛するためのやむを得ない自衛の措置として、一部限定された場合において他国に対する武力攻撃が発生した場合を契機とする武力の行使を認めるにとどまるものでございます。すなわち、国際法上は集団的自衛権の行使として認められる他国を防衛するための武力の行使それ自体を認めるものではないということでございます。その意味で、国際法上の集団的自衛権の行使一般を認めることは憲法に抵触するという考えは変わっておりません。」と述べ、あくまでフルスペックの集団的自衛権は憲法に抵触するとの考え方を示したのである213

衆参両院共に参考人質疑を実施する等議論を深めようと努力はなされたが、やはり与党と野党の間には大きな隔たりがあり、採決が強行されることとなった。与野党ともに議論を深めない点について、双方の行為は国会という議論を深めることを通じて問題解決を図ろうとする場所を蔑ろにする行為であると私は考える。数の論理で押し切ることはおかしいと叫ぶことは良いが、自らの政党では与党の数の論理に対抗できるだけの国民の信任を得られないという事実を真摯に受け止めて、自らを省みて議論に徹して欲しいと強く感じた。特に議論で勝てないから原稿を奪おうとする野党側の行動は民主主義を守ることに繋がるのではなく、むしろ数の論理を根底にした議会制民主主義を破壊してしまうのだということであると改めて強く考えた。

結果、2015年9月17日に参議院我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会において可決、9月19日には参議院本会議において可決成立した。

第5節 現在の有事立法による1950年の朝鮮戦争の評価

この節においてはこれまで見てきた国際平和協力法、周辺事態法、イラク特措法、平和安全法制の個別法について、朝鮮戦争期に行われた協力がどこまで可能かということを分析していきたい。

まず、第3節で説明した国連平和協力法の下では朝鮮戦争期における日本の協力はどのような評価がなされるのであろうか。朝鮮海域における日本特別掃海隊はアメリカ極東海軍が作戦行動を行うのと同一区域で、機雷の除去という交戦行為を行っていた。PKO参加5原則を概観するまでもないが、敢えて見ていきたい。

①の紛争当事者間における停戦合意の存在は北朝鮮軍と国連軍の壮絶な戦いが継続されていたことからも分かるように当然存在していない。②の受け入れ国の合意についてであるが、朝鮮戦争は単一民族間の紛争という面では内戦と捉えることが可能であるかもしれないが、実際には異なるイデオロギーを持つ国同士の戦いであるため本来はPKOが派遣されるような状況ではない。そして③の中立性を保って行動することについてであるが、1950年当時の日本の置かれた状況はとても中立性が維持できるようなものではなく、むしろ、国連軍に積極的に協力して、日本として完全な独立を勝ち取らなければならないと考えていたため、『朝鮮動乱と日本の立場』からも明らかであると思う。また、④の①~③の条件が満たされない場合には一時的に業務を中断し、更に短期間のうちにその原則が回復しない場合には派遣を終了させることについては、これまで見てきたようにとても派遣できるような状況下ではない中での派遣ということであり、これも満たされないことになる。そして、⑤で挙げられた武器の使用は要員の生命等の防護のために必要な最低限にかぎること、という条件については、機雷の除去というものが「要因の生命等の防護のために必要最低限」の部類に入るのか、ケースバイケースで考えなければならないが、機雷の除去は交戦に当たるとする考え方が大勢である。

では、その他の協力で可能なものとして考えられるものは、医療的な協力としての国連軍に対する血液の提供及び、山口県における韓国亡命政府の創設程度であろう214。この亡命政権の構想ですら国際協力法第3条第3項のヲ「被災民に対する食糧、衣料、医薬品その他の生活関連物資の配布」とワ「被災民を収容するための施設又は設備の設置」を根拠とし、亡命政権が「被災民を収容するための施設又は設備」に含まれるという拡張解釈によって可能となるものである。ただし、このような解釈は到底認められないものであるとの評価は免れないであろう。

続いて、周辺事態法によって可能となるものを1950年当時の朝鮮戦争に当てはめてみたらどうであろうか。この周辺事態法がこれまでの法制と異なるのは、日本が国際平和協力法以上の何かしらの協力活動をしなければならなくなったという点である。第1節の国連平和協力法では満たさなければならないPKO5原則という大きな前提条件があったが、今回の周辺事態法においてはそれが無い。乗り越えなければならないハードルは憲法第9条の縛りと政治的判断によるものだけであろう。

このような状況下において、如何様な協力ができたであろうか。まずは、後方地域支援として朝鮮半島に出撃するアメリカ極東海軍艦艇に対する給水・給油活動及び乗員に対する食事の提供等が可能である。湾岸戦争期には給水・給油活動は武力行使との一体化論において問題となっていたが、今回の周辺事態法においては「後方支援地域」という条件付きではあるが可能となった。また、人員・物資の輸送も可能となったが、国内法であるため、基本的に国内の輸送しか考えられていないものと推察できる。それに、もし、海外に対しても活用ができたとしても、それは受け入れ国の同意と子細に亘る国内法の整備が必須であり、1950年当時の韓国に日本の特別掃海隊を受け入れる心情は到底無かったと思われる。

また、本法で可能となったこととして、修理・整備、整備用機器等の提供である。しかし、ここで留意しておきたいのは、可能となったのは修理とそれに必要な器具の提供であって、決して兵器の改装を認めていない点である。つまり、朝鮮戦争期に国内で行ったアメリカ軍の兵器の修理は認められるが、搭載される兵器の改装については認められないのである。

加えて、周辺事態法第3条第4項のロの2「後方地域支援として行う自衛隊に属する物品の提供及び自衛隊による役務の提供(次項後段に規定するものを除く。)は、別表第一に掲げるものとする。」を根拠として通信設備の利用、通信機器の提供等も可能となったが、この通信設備自体は朝鮮戦争期に北朝鮮側の通信網を破壊する目的で行われた圧倒的火力の艦砲射撃の目標であったことからも分かるように重要な攻撃目標である。つまり、通信機器の提供はまだ良いとしても通信設備を利用させることに関しては非常にその地域に危険をもたらす蓋然性を高めてしまうのではないか。1950年当時、終戦からの復興過渡期にあった日本にとって民間で使用されるような通信設備はあまり整備されてはおらず、むしろその通信設備もGHQの許可を得た上で使うほど、直接的に日本がどうこうできるものではなかった。

最後に港湾設備の利用であるが、通信設備と同様航空機の離発着、船舶の出入港支援等が今回の周辺事態法第3条第4項のロの2によって可能となった。しかし、朝鮮戦争期の日本は呉、神戸、横浜等の大規模港はことごとくGHQに接収されており、空港の利用もGHQの利用に供されることが主であり、日本独自で使用することが非常に難しかったため、この支援が可能となったからといって何か変化が生じるものではないと思われる。もし、接収されていなかったとしても、周辺事態法の別表第1及び第2の備考において「物品の提供には、武器(弾薬を含む。)の提供を含まないものとする。」、「物品及び役務の提供には、戦闘作戦行動のために発進準備中の航空機に対する給油及び整備を含まないものとする。」という条件が設けられており、朝鮮海域に出撃するアメリカ極東海軍及び国連軍の艦艇、航空機に給油、整備は不可能であった。

そして、当然のように日本が朝鮮海域に送った日本特別掃海隊であるが、この法令についても認めることができない。周辺事態法第7条によって後方地域捜索救助活動の一環として他国の同意を得た上で、他国の領海に入ることは可能であったが、当該海域が「現に戦闘が行われておらず」、かつ「当該活動の期間を通じて戦闘行為が行われることがないと認められる」状態でなければならないという縛りが日本の行う海上協力全般にあり、交戦地域に分け入って機雷を除去する業務まで可能であるという解釈は不可能であると言わざるを得ない。

以上のことから、通信設備の利用という観点では多少なりとも1950年の朝鮮戦争期に行われた支援というものはこの周辺事態法によって可能となったとみなせるが、問題の核心である日本特別掃海隊の派遣に関しては未だ不可能なままである。

イラク特措法については時限立法であるが、同様の法律が成立した場合のことを考えてみたいと思う。

まず、活動領域としては「我が国領域及び現に戦闘行為(国際的な武力紛争の一環として行われる人を殺傷し又は物を破壊する行為をいう。以下同じ。)が行われておらず、かつ、そこで実施される活動の期間を通じて戦闘行為が行われることがないと認められる次に掲げる地域において実施する」とし、法になってから初めて「我が国領域」という文言が入った意味というものを考えると我が国領域内において戦闘行為が発生する蓋然性が高くなった場合であっても、この場合に協力活動が中止されることはないと解釈するべきであろう。

つまり、朝鮮戦争当時において朝鮮半島に近くアメリカ軍基地を有する山口県岩国で1950年7月3日、市役所や警察、消防等の市当局者が、九州に国籍不明機が襲来したとの報に基づき、空襲に対する対応策を決定したような身に迫るような危険の蓋然性が高くなる状況下であっても協力は継続されるということである215

しかし、もちろんこの法律によって外国の領域に出向いて支援を行うことが可能となったが、この支援を行うためには重要な点が2点あり、イラク特措法第2条第3項に挙げられている。1つ目は「当該対応措置が行われることについて当該外国の同意がある場合」であり、2つ目は「現に戦闘行為(国際的な武力紛争の一環として行われる人を殺傷し又は物を破壊する行為をいう。以下同じ。)が行われていない地域」である。日本国内における協力は可能であるが、朝鮮半島及び朝鮮海域における協力は戦闘区域であるという評価がなされるであろうことから、不可能であると言わざるをいない。このことは同法第8条第5項にある通り「対応措置のうち公海若しくはその上空又は外国の領域における活動の実施を命ぜられた自衛隊の部隊等の長又はその指定する者は、当該活動を実施している場所の近傍において、戦闘行為が行われるに至った場合又は付近の状況等に照らして戦闘行為が行われることが予測される場合には、当該活動の実施を一時休止し又は避難するなどして当該戦闘行為による危険を回避しつつ、前項の規定(指定を変更し、又はそこで実施されている活動の中断)による措置を待つ」(括弧内は筆者加筆)という文章からも読み取ることができる。

新たに可能となる業務は朝鮮半島の「非戦闘地域」における被災民の生活若しくは復興を支援する上で必要な施設若しくは設備の復旧若しくは整備である。この「非戦闘地域」では、自衛隊イラク派遣の活動報告(いわゆる日報)曰く銃撃戦や散発的な戦闘が拡大していたようであるが、この日報問題が出た後の2018年4月17日においても小野寺五典防衛大臣は「自衛隊が活動した地域は非戦闘地域の要件を満たしていた」と語っており、極めて広く解釈の余地が与えられていると解すべきである一方で、名古屋高等裁判所のイラク特措法違憲判決内では首都バグダッドはアメリカ軍がシーア派及びスンニ派の両武装勢力を標的に多数回の掃討作戦を展開し、これに武装勢力が相応の兵力をもって対抗し、双方及び一般市民に多数の犠牲者を続出させている地域であるから、まさに国際的な武力紛争の一環として行われる人を殺傷し又は物を破壊する行為が現に行われている地域というべきであって、イラク特措法にいう「戦闘地域」に該当するものであるとの評価を下している216

このイラク特措法下において行われた航空自衛隊によるクウェート国から首都バグダッドに向けての多国籍軍の物資・人員の空輸活動について違憲とする判決が名古屋地方裁判所において出されたのは特に多国籍軍の武装兵員の輸送であり、これについては武力行使の一体化論から違憲と判断された217

このことから、38度線付近で戦闘が行われていた時期に、日本が釜山に向けて輸送船を送ること自体は戦闘地域から離れた後方地域であるとの認定を受ける可能性が高く、よって輸送船を送ることはできる。一方、同じ輸送であったとしても、撤退のために日本に向けて国連軍の将兵を戦闘区域から輸送することは輸送業務という直接的に武力の行使でなかったとしても、武力の一体化論との関係で問題となるであろう。

このように個別法によって拡張・拡大解釈がなされてきたことから朝鮮戦争期において可能となる協力の幅も確実に広がってきた。

そして平和安全法制においては、新設された国際平和支援法第3条第2項の「協力支援活動として行う自衛隊に属する物品の提供及び自衛隊による役務の提供(次項後段に規定するものを除く。)は、別表第一に掲げるものとする。」という文章によって海外において諸外国の軍隊等に対する物品及び役務の提供が可能となり、弾薬の提供も可能となった。朝鮮戦争期における弾薬の輸送は国連軍が行っていたが、同法が当時あれば、日本が輸送することもできた。

自衛隊法の改正により同法第84条第3項において、外国における緊急事態に際して生命又は身体に危害が加えられるおそれがある邦人の保護措置を自衛隊の部隊等が実施できるようにすることが可能となった。これを朝鮮戦争期に活用すれば、当時、朝鮮半島内において在外邦人がいなかったとは考えられないため、日本が朝鮮半島に赴いて救出が可能であると考えることができるかもしれない。しかし、この平和安全法制による自衛隊法の改正においても実施要件として①保護措置を行う場所において、当該外国の権限ある当局が現に公共の安全と秩序の維持に当たっており、かつ、戦闘行為が行われることがないと認められること、②自衛隊が当該保護措置を行うことについて、当該外国等の同意があること、③予想される危険に対応して当該保護措置をできる限り円滑かつ安全に行うための部隊等と当該外国の権限ある当局との間の連携及び協力が確保されると見込まれること、の3つ全ての要件を満たす場合にのみ当該対応が可能である。

つまり、現代の改正された自衛隊法があったとしても、当時の日韓基本条約が結ばれていない韓国に対して日本が朝鮮半島に出向いて在外邦人を救出する同意を得る等不可能であったと思われる。また同様に③の協力、連携も不可能であったであろう。

周辺事態法が改正された後の重要影響事態に際して我が国の平和及び安全を確保するための措置に関する法律(以下、「重要影響事態法」を呼ぶ。)によってアメリカ軍のみならず、国際連合憲章の目的の達成に寄与する活動を行っている他国軍隊に対しても武器・弾薬の提供及び武装人員の輸送、戦闘作戦行動のために発進準備中の航空機に対する給油及び整備は実施が可能となった。これによって、朝鮮戦争期におけるアメリカ極東軍以外の兵員の輸送は認められることになった。

また、武力攻撃事態等における我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全の確保に関する法律(以下、「武力攻撃事態対処法」と呼ぶ。)においては周辺事態法に「存立危機事態」の概念が追加され、「武力攻撃が発生した事態又は武力攻撃が発生する明白な危険が切迫していると認められるに至った事態」である武力攻撃事態と認められた場合は予備行動が採れるようになり、他国との協調的行動が可能となった。これは集団的自衛権行使のための要件を明記したと判断できるだろう。この事項を朝鮮戦争の時代に当てはめてみれば、朝鮮での問題が日本に波及しないとは考えられず、存立危機事態の適用される可能性は高いが、当時の韓国は我が国と国交は無く、「密接な関係」の解釈について問題が生じることは明らかである。もし、これが適用されたならば、自衛隊を防衛出動の任に当たらせることが可能となる。しかし、この交戦間近の状態に至ったとしても、武力行使との一体化論の構成要件に該当し、他国の海域に艦艇を派遣することはできず、限定的な集団的自衛権の行使ではやはり朝鮮戦争期の日本特別掃海隊のような行動は不可能であると評せざるを得ない。

おわりに

これまでの検討の結果、2019年現在の平和安全法制をもってしても1950年当時の協力は行えないことが明らかとなった。となると、どのように考えれば朝鮮戦争期の協力が可能になるであろうか。

最も、ハードルが高いのが日本特別掃海隊の派遣であることは明白である。これを可能にすることができるのは唯一、「集団的自衛権の行使(いわゆるフルスペックでの集団的自衛権)」しかないであろう218

しかし、これまでの内閣法制局が積み上げてきた憲法解釈によると、集団的自衛権の行使は認められてはいない。なぜなら、武力の行使を禁止した憲法第9条に抵触してしまうからである。

平和安全法制をもってして行えない協力を1950年当時の日本政府が憲法改正も無しに首相のリーダーシップに基づいた政治的判断のみに依拠し、行ってしまったのは隠しようのない事実なのである。私が平和安全法制を評価するのはこの点なのである。憲法に対して一方的に優位にいた軍事行動に対する政治的判断を何とか法律のレベルに下げて、政治的判断の幅を減らそうとした。この点は大いに評価されてしかるべきではないだろうか219

その時々において行った判断が評価されるのは後の時代においてであり、その時々には限られた資源(時間や人員等)の中で判断がなされていたことを考慮すべきである。戦後74年を迎える2019年、これからも国際問題、国内問題等が我が国日本を襲うこともあろうと考えられるし、様々な法律では対応できないため、政治的判断で乗り切らなければならない事態が起こるであろう。

現状、戦後72年もの間手が一切加えられてこなかった日本国憲法、この憲法は日本が占領軍の重武装をもって大日本帝国軍の肩代わりをしていた期間に制定されていたものであり、日本が国家として成立する際に持つ目的である「対内的な治安維持」と、「対外的な独立の保全」を遂行しにくい状況にするものである。それは憲法前文の片務的な平和に対する保障と日本国民の主観的意図に任せられている点からも現行憲法が国家の存立保障について不明確であるという点につき、憲法自体に欠缺があることは明らかである220

そのような未来において、我々は少しでも政治的判断の幅を減らすよう、時代の変化に合わせて法律を変え、場合によっては制定し、やむを得ず行われた政治的判断については政治思想抜きにして広い視野で日本のためを思って行動してゆかなければならないと考える221。今回は概念的な問題に終始してしまい、各法律における事例を用いた分析等の問題が残ったままとなってしまっている。このような積み残した問題については、次の機会に改めて論じることとしたい。

本稿を読んでいただいた方々の安全保障観構築の一助になることを祈って止まない。

Footnotes

1 昭和期の日本の戦争に対しては「太平洋戦争」、「大東亜戦争」、「15年戦争」、「アジア・太平洋戦争」等の呼称があり、イデオロギー性等の要素に応じて使い分けがなされている。そのため今回はイデオロギー性が極めて薄く、内閣総理大臣の談話等で使用される「先の大戦」という文言を用いることとした。庄司潤一郎「日本における戦争呼称に関する問題の一考察」『防衛研究所紀要』第13巻第3号(防衛研究所,2011年)。

2 内閣官房広報室の世論調査によると昭和36年~38年において常に20%程度、軍隊保持についてどうするべきかという態度について「不明」とする割合があり、国民が意識の中で国防の重要性を低く捉えていることがわかる。国民講座日本の安全保障編集委員会編『国民講座・日本の安全保障〈8〉自衛隊論』(原書房,1969年)222頁。

3 この宣言はそれまで連合国が声高に語ってきた原理を一応結実させるものであったが、当時も国際社会そのものが一枚岩ではなく、如何なる大国も日本を処断できるほど潔白ではなかった。ヘレン・ミアーズ,伊藤延司訳『アメリカの鏡・日本 完全版』(KADOKAWA,2017年)422-423頁。

4  ケネス・J・ヘイガン・イアン・J・ビッカートン,高田馨里訳『アメリカと戦争1775-2007』(大月書店,2010年)205頁。

5 ソ連軍が平壌進駐とともに発した布告文は、「朝鮮人民よ。ソ連軍隊と同盟国軍隊は、朝鮮から日本掠奪者を駆逐した。朝鮮は自由になった。」に始まり、「解放された朝鮮人民万歳!」で結ばれている。この姿勢は「マッカーサー布告」と対比され、解放軍としての姿勢の落差を示すものとして理解されたが、実態はアメリカ、ソ連ともにイデオロギーに基づいた政策を南北で推進していくことになる。文京洙『新・韓国現代史』(岩波書店,2015年)37-38頁。

6 田中恒夫『図説 朝鮮戦争』(河出書房新社,2011年)4頁。

7 田中・前掲(6)5頁。

8 当時ソ連は北朝鮮の占領について、殆んど明確な政策方針を持ち合わせていなかった。このことは、マッカーサー元帥に発出した「一般命令第一号」の発令過程や、ソ連の北朝鮮占領軍が、当初、日本の行政機関を存続させ、それを通じて行政を執り行おうとの布告を出したこと等を見ればわかる。塚本勝一『北朝鮮・軍と政治』(原書房,2012年)11頁。

9 田中・前掲(6)7頁。

10 田中・前掲(6)8頁。いまだ冷戦開始以前の1946年3月の段階で、米国は「フィリカラム」という沖縄・フィリピン合同軍を考え、統合参謀本部はフィリピンに対し「三八の軍事基地を含む七一の基地施設用地の使用権」を要求していた。古関彰一・豊下楢彦『沖縄 憲法なき戦後―講和条約三条と日本の安全保障―』(みすず書房,2018年)76頁。

11 トルーマンは大統領に就任した際、「ルーズベルトの政策の継承」を公言していたが、駐ソ大使ウィリアム・アヴェレル・ハリマンからの対ソ強硬策への転換についての提言等を受け入れ、対ソ強硬に舵を切った。この1つの表れがルーズベルトの唱えていた安全保障体制とは矛盾する「個別的および集団的自衛の固有の権利」規定であり、ソ連との対立のスタートでもあったのである。福田茂夫『第二次大戦の米軍事戦略』(中央公論社,1979年)287-289頁。トルーマンはポーランド問題を取り上げてモロトフ外相に対してヤルタ合意に基づいた行動をソ連が行うよう強く求めたのである。李錫敏「トルーマン政権期における「冷戦戦略」の形成とアジア冷戦の始まり―対ソ脅威認識を中心に―」赤木完爾・今野茂充編『戦略史としてのアジア冷戦』19頁。

12 北朝鮮においては、1948年2月28日に朝鮮人民軍(以下、「北朝鮮軍」と呼ぶ。) が創設されており、国家建国よりも国軍の方が先行して誕生しているという特異点は指摘しておきたい。また、国家より先に軍隊が創設されたことは、毛沢東を代表とする共産主義者の伝統的な軍事重視思想からきており、このマルクス・レーニン主義の普遍的な原則が北朝鮮にも適用されたことになる。塚本・前掲(8)25頁。

13 ソ連が北方領土を占領した時点において北海道にアメリカ軍が進駐してきていたため、北海道の占領はできなかった。そのため、ソ連は外交ルートを通じてアメリカに北海道の管轄権をソ連に譲るよう働きかけたが、アメリカはこれを拒否していた。もし分割がなされていたら、日本も朝鮮と同様、分断国家となっていた可能性も否定できない。Martin E. Weinstein,Japan's Postwar Defense Policy, 1947-1968,Columbia University Press, 1991, p.29.

14 田中・前掲(6)9頁。

15 東アジアにおいては1949年を通じてソ連は抑制的で、ヤルタ会談の枠組みに忠実であった。簑原俊洋編『「戦争」で読む日米関係100年―日露戦争から対テロ戦争まで―』(朝日新聞出版,2012年)116頁。

16 1949年6月29日にアメリカ軍は軍事顧問団を残し、韓国から完全撤退、1950年1月26日には米韓相互防衛援助協定とアメリカ軍事顧問団の設置に関する米韓協定がソウルで調印された。大沼久夫編『朝鮮戦争と日本』(新幹社,2006年)31頁。ジョージ・フロスト・ケナンは、日本においてFBIとコースト・ガード(Coast Guard)をモデルとする中央集権的警察隊及び沿岸警備隊の創設を積極的に要請し、前者は国務省の反対で実現されなかったが、後者は1948年5月に連合国最高司令官(SCAP)の指令で、非武装の巡視船28隻を基幹とする海上保安庁として誕生した。李京柱『日韓の占領管理体制の比較憲法的考察―東アジアの日本国憲法の定位―』(日本評論社,2018年)247頁。

17 主なものだけで、基土門里キトムンニ砲撃事件、第一次松岳山ソンアクサン戦闘、白川ペクチョン侵入等、十一もの散発的な戦闘が朝鮮戦争開戦までに行われていた。田中・前掲(6)11頁。

18 スターリンはこの当時、南(韓国)からの侵攻を恐れるほど、アメリカを筆頭とする西側諸国の出方に警戒していたのである。A・V・トルクノフ,下斗米伸夫・金成浩訳『朝鮮戦争の謎と真実―金日成、スターリン、毛沢東の機密電報による―』(草思社,2001年)25頁。

19 1949年9月にトルーマン大統領はイギリス外相と対日講和に合意し、ソ連の同意がなくとも講和条約を締結する方法を模索し始めたのである。加藤秀治郎編『日本の安全保障と憲法 国際関係学叢書1』(南窓社,1998年)51頁。

20 ソ連の原爆が開発されてすぐ、アメリカは水爆の開発に着手するが、この勢力均衡政策に立脚したエスカレート性そのものが東西冷戦下で戦争不可避論を生み出す原因となったのである。坂本義和『坂本義和集2 冷戦と戦争』(岩波書店,2004年)49-51頁。

21 田中・前掲(6)12頁。

22 田中・前掲(6)14頁。

23 田中・前掲(6)14-15頁。

24 既に北朝鮮は中国及びソ連から軍事援助を得ていたとされる。Herbert P. Bix, HIROHITO AND THE MAKING OF MODERN JAPAN, Harper Perennial, 2001, p.640.

25 田中・前掲(6)15頁。

26 アメリカ国務省情報・調査局は、ソ連が世界戦争の危険を承知した上で北朝鮮に侵攻を許し、アメリカが築き上げようとしている世界秩序に対する明白な挑戦であると断定していた。佐々木卓也『封じ込めの形成と変容』(三嶺書房,1993年)235頁。

27 建制とは、戦時に備えて大量の兵力動員ができるよう、軍事教育を施した人間を平時における軍隊として大量に確保しておき、そうした戦時に必要とされる大量の部隊の中核と徴兵によって集められた人間に軍事教育を施すという重大な役割のことを指す。

28 蔡秉徳チェビヨンドク参謀総長に報告が入ったのが午前6時、李承晩大統領に報告が入ったのが午前10時という有様であった。田中・前掲(6)19頁。

29 しかし、戦車を見たこともない将兵が多くいた韓国軍はアメリカ軍から供与された2.36インチRLではソヴィエト製T-34型戦車に歯が立たないことがわかると、パニックを起こす部隊もあった。抱川ポチョンでは、パニックに陥ったため、6月25日の午前11時に陥落してしまった。

30 北朝鮮が期待していた反体制派のゲリラ達はその活動に統一性、計画性が無く、各個に蜂起して韓国軍の討伐に遭い、勢力は大幅に削がれていた。また、事前に送り込んでいたゲリラの応援部隊も合流前に壊滅状態に陥っていたため、ソウルを占領したところで、反体制派達にもう後方の擾乱と各地での蜂起を起こす力はもう無かったのである。田中・前掲(6)27頁。また、別の考え方では、延びきった兵站の追随を待っていたとも考えられる。塚本・前掲(8)48頁。

31 国連の集団安全保障体制には①安保理の常任理事国の持つ拒否権、②軍事的強制措置はいわゆる国連軍によって行われるが、正式な国連軍を結成するための特別協定(国連憲章第43条)が主に国家主権の問題のために1つも結ばれていないこと、③加盟国自身が各々抱える政治的利害を集団的防衛という観点から定義される共通善に従属させることに消極的であることが多いこと、④制裁自体、対象国が大国である場合、効果は期待できないこと、の大きく4つの理由から著しい限界があるとされる。この決議が採択された背景にはソ連が中国の代表権問題で安保理において欠席戦術を採っていたことがある。肥田進『集団的自衛権とその適用問題―「穏健派」ダレスの関与と同盟への適用批判― 名城大学法学会選書11』(成文堂,2015年)166-167頁。

32 海上封鎖等は直接海軍同士の衝突を主眼としたものではなく、地上部隊に対する支援砲撃、北朝鮮軍の補給路の遮断、レーダーや飛行場等の戦略的に重要な目標を破壊するために行われた。

33 遅滞作戦(遅滞戦術)とは、優勢な敵が急速に進撃するのを防ぐために、包囲されないように気をつけながら、接敵と後退を繰り返し、徐々に撤退する戦術である。つまり、包囲殲滅されず、かつ決定的な戦闘も避けることで、兵力を出来るだけ温存して退くことをさす。接敵して小さな交戦がおきても、進撃側は攻撃準備のために展開しなくてはならず、停止を必要とするので、これによって防御側は時間を稼ぎ、第二の防御線の準備を待つことができるという利点がある。同様の考え方は陸上自衛隊にも存在し、『作戦要務令』は「退却」という語感を嫌い、「後退行動」に統一している。木元寛明『戦術の本質―戦いには不変の原理・原則がある―』(サイエンス・アイ新書,2017年)104頁。

34 連隊の規模はおよそ1000~3000人である。

35 これに先立って、7月1日には金日成が命令を発して徴兵令を施行したが、これは当然強制徴用であって、北だけではなく南在住の青壮年はもちろん、10代の少年までもが徴用されて、僅か半日程度の訓練をもって最前線に送り込まれた。しかし、扱いは過酷であり、常に督戦隊によって監視され、撤退する際には足を縛られ、渡された小銃を発砲し続けるしかないような状況で放置される有り様であった。塚本・前掲(8)52頁。

36 この決議は安保理による勧告の形で行われたので、加盟国に対して拘束力を持つものではなく、「国連軍」への参加はあくまでも自発的なものであった。明石康『国際連合 軌跡と展望』(岩波書店,2012年)47頁。

37 諸議決に対する加盟国の反応と協力状態から見ても、この軍隊が国連軍そのものではないのは明らかであり、せいぜい国連機関の勧告に基づく集団的措置の一種に止まると解せられるとする説もある。山本草二『国際法(新版)』(有斐閣,2003年)724頁。

38 日本の再軍備に関しては、朝鮮戦争勃発後、GHQやジョン・フォスター・ダレス等アメリカ側が吉田首相に迫ることによって起こったと説明されていたが、朝鮮戦争勃発の4か月以上前に河辺虎四郎元中将をトップとする河辺機関から「特別治安維持隊」構想が計画されており、この旧軍関係者からの圧力も吉田首相に警察予備隊設立を決意させる契機であったと考えられる。有馬哲夫『大本営参謀は戦後何と戦ったのか』(新潮社,2010年)64-65頁。

39 このような措置は大韓民国憲法自身、予期していなかった事態であった。國防部政訓教程編纂會『政訓教程12 大韓民國憲法解説』(國防部,1953年)252-257頁。

40 田中・前掲(6)37頁。

41 アメリカ陸軍が使用したロケットランチャーは、弾薬の炸薬前端部の形状を凹状にすることによって火薬の燃焼ガスが集中するというモンロー効果を利用し、弾薬の着弾と同時に高エネルギーの燃焼ガスにより、頑強なT-34の装甲を破ることで、多くの場面で国連軍を救うことになる。

42 田中・前掲(6)56頁。

43 田中・前掲(6)56頁。

44 田中・前掲(6)57頁。

45 このいずれの港に対しても日本は旧日本海軍軍人をスカウトして海上保安庁に組み込んだ特別掃海隊を組織させ、これを派遣し、機雷の除去、武装人員の運搬業務に当たることになる。Sado Akihiro, The Self-Defense Forces and Postwar Politics in Japan, Japan Publishing Industry Foundation for Culture, 2017, p.17.

46 1950年10月上旬に周恩来を派遣し、参戦する中国義勇軍に対して軍事援助をスターリンに対して要請したが、スターリンは「敢えて、金政権を北朝鮮に維持する必要はあるだろうか。満州に亡命政権でも作らせてはどうか。」というほど冷淡な回答しか得られていなかった。つまり、共産主義陣営の中は一枚岩ではなかったのである。塚本・前掲(8)56頁。その後、10月12日に朝鮮戦争勃発後、初めてとなるORE文書、ORE58-50「極東の危機的状況」が作成された。ORE58-50は、ソ連と中国が朝鮮戦争に参戦する可能性や、中国が台湾、インドシナに侵攻して戦線を拡大する可能性を見極めようとした情報評価文書である。ソ連が朝鮮戦争に介入すれば、必然的にアメリカ軍との武力衝突が起こり、世界戦争にエスカレートする危険がある。世界戦争のリスクを冒す覚悟がソ連指導部になければ、ソ連が朝鮮に参戦することはないというものであった。大野直樹『冷戦下CIAのインテリジェンス―トルーマン政権の戦略策定過程―』(ミネルヴァ書房,2012年)168頁。

47 この戦いは国連が持つ民主主義を守る戦いである一方で、アメリカ自身の試金石となる戦いでもあった。1951年に出された米国の基本政策(NSC48/5)は、共産圏からの防衛ラインを、台湾を除く「日本、琉球諸島、フィリピン、オーストラリア、ニュージーランド」のラインにおいていた。台湾に関しては、トルーマン大統領が1950年1月に、米国の防衛対象から除外すると言明していたが、フィリピンは、台湾とちがって防衛ラインに入っていたにもかかわらず、はたして米国が防衛してくれるのか、疑問をいだいていた。このようなアメリカの庇護下にいる国々に対して、軍隊を動員してもアメリカが守るという姿勢を示すことを求められていたのである。古関・豊下・前掲(10)77頁。

48 大沼・前掲(16)75-76頁。

49 小倉、岩国、北富士等からが多く、名目上は「軍属」のような形式であったが、銃を支給され、実戦に参加、その中の1人は北朝鮮軍の捕虜になり、国際問題化した。大沼・前掲(16)76頁。

50 5月3日の憲法記念日、マッカーサーは、露骨なことばで共産党を攻撃した。彼は、共産党は「当初は穏健に発足し、そのために一部の人々の支持をかくとくした」が、最近では「合法の仮面をかなぐりすて、それにかわって公然と国際的略奪の手先となり、外国の権力政策・帝国主義的目的および破壊的宣伝を遂行する役割をひきうけた」と指摘し、「同党が以上のようなことをやっていることは、とりもなおさず同党が破壊しようとしている国家および法律から同党がこれ以上の恩恵と保護を受ける権利があるかどうかの問題を提起し、さらに同党の活動がはたしてこれ以上憲法でみとめられた政治運動とみなされるべきかどうかの疑問を生ぜしめる」と警告した。信夫清三郎『戦後日本政治史 Ⅳ』(勁草書房,1967年)1111頁。1950年5月30日に人民大会事件が起こると、吉田茂首相は「共産党の非合法化を考慮せざるを得ない。」との首相談話を出す一方で、マッカーサー元帥に書簡を出し、共産党に対する団体等規正令の適用を政府の判断で行えるように事前承認を求めていた。小倉裕児「マッカーサーと日本共産党―占領政策の連続性の観点―」『年報・日本現代史 アジアの激変と戦後日本』第4号(現代史料出版,1998年)164頁。

51 敗戦後の1945年9月10日、GHQは「言論及び新聞の自由に関する覚書」を発して、検閲を開始、同年9月19日にGHQのいわゆるプレス・コード(SCAPIN-33=日本新聞規制に関する覚書)により、10月5日から事前検閲が開始された。1948年7月15日からは事後検閲に変更され、同年10月24日からは事実上の各社の自己検閲へと緩和されていた中での変更であった。大沼・前掲(16)78頁。プレス・コード関連に関しては以下の文献を特に参考にした。江藤淳『閉ざされた言語空間―占領軍の検閲と戦後日本―』(文藝春秋,1988年)。

52 アメリカでは1950年9月23日に国内治安維持法(通称マッカラン国内治安維持法)が成立した。この法律は朝鮮戦争勃発し、冷戦が激化していた下でパトリック・アントニー・マッカラン連邦上院議員が提出した反共立法の1つである。

53 大嶽秀夫編・解説『戦後日本防衛問題資料集』第1巻(三一書房,1991年)591頁。それまでも、情報分野において厳重な政府による統制を撤廃させた功績のみを記載し、自らが情報統制を行ったという事実はできるだけ国民の目にはつかせないように腐心していたことが窺える。連合軍総司令部編,共同通信社訳『日本占領の使命と成果』(板垣書店,1950年)274-290頁。

54 同勅令違反で検挙、逮捕された事例としては、東京市谷での特殊印刷物印刷妨害、横浜鶴見での韓国への武器等輸送反対演説とアジビラ撒布等があった。大沼・前掲(16)86頁。この勅令については、昭和22年法律第72号(日本国憲法施行の際現に効力を有する命令の規定の効力等に関する法律)の第1条の2に基づいて固定化されたのである。

55 国内における治安維持権力の弱体化を生んだいわゆる「人権指令」は、言論・集会の自由を制限する法令の廃止とこれら法令を執行する内務省の特高警察等の廃止と内務大臣と警保局長、警視総監等の罷免、拘留されている政治犯の釈放を要求したものである。天川晃『占領下の議会と官僚』(現代史料出版,2014年)303頁。

56 これに対する当時の革新側の理解としては、平和愛好国としてのソ連、日本を植民地にしようとするアメリカという認識があった。この認識はアジアの共産主義指導層が理想主義を掲げ、自らも高いモラルを維持している一方、アメリカの応援する現政権は腐敗した権威主義的傀儡政権に過ぎず、自由と民主主義を守るというアメリカの方針が、欧州とは異なり、アジアでは全く説得力を持たなかったことを意味している。大嶽秀夫『日本とフランス「官僚国家」の戦後史』(NHK出版,2017年)73頁。

57 外務省情報部『朝鮮動乱と日本の立場』(外務省情報部,1950年)12頁。

58 ポツダム政令325号はポツダム政令311号の全てにおいて改正された形であり、この311号自体は1946年6月12日に公布され、同年7月15日より施行されていた。吉田敏浩『「戦後再発見」双書⑤「日米合同委員会」の研究―謎の権力構造の正体に迫る』(創元社,2016年)211頁。GHQは、占領下の日本において事実上一切の決定権を持っており、GHQの指令に対応する日本政府の各部局にアメリカ人の顧問を採用することを義務づける等を行ったのである。松田武『戦後日本におけるアメリカのソフト・パワー―半永久的依存の起源―』(岩波書店,2008年)55頁。

59 大沼・前掲(16)89頁。

60 朝鮮戦争勃発前の1950年5月3日に自由党の両院議員秘密総会で演説した吉田首相は、「永世中立とか全面講和などということは、いうべくしてとうていおこなわれないこと」であり、「それを南原総長などが政治家の領域にたちいってかれこれいうことは、曲学阿世の徒にほかならないといえよう」と強調し、社会党だけではなく学界に対しても敵対的な姿勢を明らかにした。信夫・前掲(50)1111頁。

61 宮澤俊義「戰爭放棄・義勇兵・警察豫備隊―荒波にもまれる大和島根―」『改造』1950年10月號(改造社,1950年)27-29頁参照。田中耕太郎はまた、同時に狼の例え話を持ち出して、狼に対する絶対無抵抗主義は精神的には狼に勝つことになるかもしれないし、あの世に行ってから神様に褒められるかもしれないとしながらも、少なくとも肉体的には狼の奴隷となってしまい、こうなると自由な平和は実現できないとも述べている。

62 大沼・前掲(16)94-95頁。

63 大沼・前掲(16)95頁。

64 日本は本当に主権が制限されていたのかという議論もあるが、主権とは法的・政治的な地位や資格という意味での権利であるから、それを要求して、かつこの要求を受け入れれば大いに影響を受ける、あるいはこれを拒否し得る相当の勢力や権威がそれを認めて(少なくとも拒否しない場合に)ようやく成立する。国家はその構成員により主権が認識され、受け入れられて初めて主権国家となるのであり、当時の日本国民に「連合国の『統治下』にあった」との認識があったとしても「日本の主権下にいない」との認識は無かったはずであり、その点では、「統治権が制限された」主権国家であったと評することができる。中沢和男「国際政治における主権の機能とその将来」『東海大学紀要政治経済学部』(東海大学,2015年)38頁。

65 警察予備隊創設期においては民事局別館(Civil Affairs Section Annex:CASA)が指導に当たり、平和条約発効後は在日保安顧問部(Safety Advisory Section Japan:SASJ)に引き継がれた。この警察予備隊当時に掲げられた根本精神は「愛国心」と「民族愛」である。米山多佳志「第2次世界大戦後の韓国・日本の再軍備と在韓・在日米軍事顧問団の活動」『防衛研究所紀要』第16巻第2号(防衛研究所,2014年)135-138頁。

66 信夫・前掲(50)1185頁。

67 この朝鮮半島に警察予備隊を送るという議論を提唱したのはジョン・フォスター・ダレスであった。Rajesh Kapoor, JAPANESE (Re) Militarization and Asia, Pentagon Press, 2011, pp.112-113.

68 手塚正巳『凌ぐ波濤―海上自衛隊をつくった男たち―』(太田出版,2010年)197頁。

69 マッカーサーはより多くの艦艇を必要としていた海上保安庁に対して、排水量387トン、速力14ノット、20ミリと40ミリの機関砲を装備した大型上陸支援艇(Landing Ships, Support, Large: LSSL)の提供を考えていた。この案は1948年2月12日の極東委員会の政策決定と抵触するという理由で頓挫することになる。柴山太『国際政治・日本外交叢書⑪ 日本再軍備への道―1945~1954年―』(ミネルヴァ書房,2010年)316-317頁。

70 海中に沈められた機雷の上を鉄製の艦艇が通過すると、磁気に感応して爆発する上に、海中に敷設された係維機雷に船底が触れれば、如何なる艦船も致命傷を負ってしまい、これら大量の機雷を除去できなければ、陸上への交通は遮断され、上陸作戦が成功する見通しも立たないような状況であった。手塚・前掲(68)217頁。

71 これ以前の協力としては、第1騎兵師団の輸送、沖縄から第29歩兵連隊の2個大隊の朝鮮半島への輸送業務がある。石丸安蔵「朝鮮戦争と日本の関わり―忘れ去られた海上輸送―」『朝鮮戦争と日本』(防衛研究所,2013年)41頁。

72 手塚・前掲(68)218頁。

73 この時の質問には身分の問題や万一の時の保証、手当、憲法との関係性、38度線との地理的関係等について質問が出たが、田村久三本部長は「作戦上の危険な場所には入らない。安全な場所だけの掃海であることを米極東海軍司令部と確約してある。」と答えるにとどまった。加えて、命令権者や指揮関係の問題についての質問には「後刻米軍から指示される。」と答えた。手塚・前掲(68)224-226頁。

74 手塚・前掲(68)226頁。

75 占領下の日本では日章旗の掲揚が禁止されていたため、外洋に出る際に日本船舶が掲げていたのは国際信号旗であるE旗の端を三角に切り落とした「E燕尾旗」を使用するように義務づけられていた。この旗は別名「日本商船管理局旗」と呼ばれていた。加えて、掃海隊は船名と隊番号を示す表示を消すように指示を受けた。これによって、掃海艇が朝鮮海域に赴く場合、国際法規上では無国籍の艦隊と同様の扱いとなったのである。すなわち、国の庇護を受けることができない性質を帯びていたのである。手塚・前掲(68)228-229頁。

76 手塚・前掲(68)233頁。

77 手塚・前掲(68)240頁。

78 随伴していた第2掃海隊は為すすべもなくその場で停船し、生存者の救助作業を見守っていることしかできなかった。手塚・前掲(68)244頁。

79 手塚・前掲(68)246-247頁。

80 手塚・前掲(68)252頁。

81 手塚・前掲(68)253頁。

82 手塚・前掲(68)257頁。

83 講和条約に先立ち、1950年5月に吉田茂首相は池田勇人大蔵大臣をアメリカに派遣し、講和後も軍の駐留を継続させるよう日本側から提案しても良いという吉田茂首相の意向をアメリカ側に伝えていた。植村秀樹『〈同時代史叢書〉「戦後」と安保の六十年』(日本経済評論社,2013年)39頁。同時に結ばれた日米安保条約(旧安保)には在日米軍について行動目的と範囲が日本防衛に限定されていないこと、国内の対立にアメリカ軍の介入を認めること、といった条項が挿入されていた。アメリカは体制的に西側諸国に組み込まれていた日本を条約的にも冷戦構造に組み込んだのである。中北龍太郎『国家非武装の原理と憲法九条―憲法・自衛隊・安保の戦後史―』(社会評論社,1997年)86-88頁。赤根谷達雄・落合浩太郎編『日本の安全保障』(有斐閣,2004年)10頁。

84 この際の問題は憲法違反に止まるものではなく、中立(中立国)義務の防止(阻止)義務に違反していたのは明白である。この防止義務は中立国の領域内で交戦国のために戦闘部隊を編成したり、あるいは敵対行為に参加すると信じられる相当の理由のある船舶を艤装したりする行為を防止するため、可能な手段を尽くさなければならないというものである。松井芳郎・佐分晴夫・坂元茂樹・小畑郁・松田竹男・田中則夫・岡田泉・薬師寺公夫『国際法【第5版】』(有斐閣,2014年)326-327頁。その後、アメリカから貸与される艦艇の受け入れ準備のため、Y委員会が作られた。石田京吾「戦後日本の防衛政策(一九五一~一九五二年)―「Y委員会」を中心として―」赤木・今野・前掲(11)135頁。

85 1952年5月23日の第13回国会参議院内閣委員会における奥野健一法制局長の答弁(第13回国会参議院内閣委員会会議録第28号3頁)。

86 浦田一郎『自衛力論の論理と歴史―憲法解釈と憲法改正のあいだ―』(日本評論社,2012年)10頁。

87 1951年10月17日の第12回国会参議院本会議における大橋武夫法務総裁の答弁(第12回国会参議院会議録第6号54頁)。

88 憲法前文の趣旨は、日本の存立を脅かしたり、日本の独立を侵害するような外国勢力の日本に対する侵略行為はあり得ないということであり、「日本国民は恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚」し、「平和を愛する諸国民の信義に信頼し」ていれば、その平和な生活が維持されるとの極めて片務的なものである。林修三・中村菊男編著『自衛隊と憲法の解釈』(有信堂,1967年)21頁。

89 帝国議会での質疑に限って言えば、憲法第9条の問題を正面切って取り上げたのは野坂参三議員と南原繁氏だけであったと言っても過言ではない。当時の統治エリート達は国体護持(天皇制の維持)さえできれば他は受忍すべきという考えを持っていたのである。米原謙『MINERVA政治学叢書 ③ 日本政治思想』(ミネルヴァ書房,2013年)234頁。

90 1946年6月26日の第90回帝国議会衆議院本会議における吉田茂国務大臣の答弁(第90回帝國議會衆議院議事速記録第6號81頁)。

91 1946年6月28日の第90回帝国議会衆議院本会議における吉田茂国務大臣の答弁(第90回帝國議會衆議院議事速記録第8號124-125頁)。憲法第9条の第1項と第2項とは明らかにその内容、その範囲を異にしている。第1項は制限付、条件付の戦争の放棄である。しかし第2項は全面的な戦力の放棄である。その結果は、第2項の全面的戦力の放棄が、第9条全体の結論となってきて、第1項のような制限付、条件付戦争の放棄ということは無意義な定義となってくる。このような解釈は聞いたことがなく、摩訶不思議な解釈であるとする見解もある。安澤喜一郎『起草及び制定の事実に立脚した憲法第9条の解釈』(成文堂,1981年)88-89頁。

92 この時の日本政府は国連に加盟すれば自国の平和は必ず守られると考えていたようであるが、この国連について①国連憲章は戦争を否定していない、②国連は建前として本来国際的な機関ではない、③国連は、第2次世界大戦後の現状維持の執行機関である、④国連は、各加盟国が一般的な政治的了解を相互に模索する場に過ぎない、と批判的な考えを持つ論者もいる。小室直樹『国民のための戦争と平和』(ビジネス社,2018年)148頁。

93 1949年前半はマッカーサー元帥自身、日本に中立を望むと言明し、朝日、毎日、讀賣の各紙も続いて日本は将来、中立を目指すべきだと主張したが、7月には日本に共産主義を食い止める防波堤の役割を望むと態度を一変させた。上丸洋一・朝日新聞取材班『新聞と憲法9条―「自衛」という難題』(朝日新聞出版,2016年)111-113頁。

94 世界においては冷戦の進行と、軍事的衝突の勃発が懸念されており、インド独立後のインド=パキスタン戦争、英領マラヤ(現マレーシア)では共産主義者の暴動が非常事態宣言へと帰結して、更に中東戦争がこの時期に重なって勃発した。この国際状況をもって、理想主義と平和主義の夢におぼれているだけでは日本の安全と独立が確保できないとケナンが深刻に懸念していたのである。細谷雄一『戦後史の解放Ⅱ 自主独立とは何か 後編―冷戦開始から講和条約まで―』(新潮社,2018年)81頁。

95 1949年11月9日の第6回国会衆議院外務委員会における佐々木盛雄委員の質問(第6回国会衆議院外務委員会議録第2号2-3頁)。

96 1949年11月9日の第6回国会衆議院外務委員会における川村政府委員の答弁(第6回国会衆議院外務委員会議録第2号3頁)。

97 1949年11月9日の第6回国会衆議院外務委員会における西村熊雄政府委員の答弁(第6回国会衆議院外務委員会議録第2号3頁)。この時期における政府解釈が依拠していた思想こそ、憲法第9に内在する原理であり、それを擁護することこそ憲法学者の務めであると考える論者もいる。麻生多聞『平和主義の倫理性[憲法9条解釈における倫理的契機の復権]』(日本評論社,2007年)190頁。

98 1949年11月19日の第6回国会衆議院外務委員会における玉井祐吉委員の質問(第6回国会衆議院外務委員会議録第4号6頁)。

99 1949年11月19日の第6回国会衆議院外務委員会における西村熊雄政府委員の答弁(第6回国会衆議院外務委員会議録第4号6頁)。

100 1949年11月19日の第6回国会衆議院外務委員会における玉井祐吉委員の質問(第6回国会衆議院外務委員会議録第4号6頁)。

101 1949年11月19日の第6回国会衆議院外務委員会における西村熊雄政府委員の答弁(第6回国会衆議院外務委員会議録第4号6頁)。

102 「……警察力は軍隊じやない。……従つて武力を使わないということと、警察官を使うということは紙ひとえの違いにすぎませんので、特にその点をお伺いいたしたいわけです。……武力の、もしくは物理的力を使わないで自衞しようということを考えて行きますと、結果におきましては……自衞権はやはり日本のような国においては、特に日本の国自体を守るための緊急避難の形であります。正当防衞の形であると思う。……従つて国の正当防衞的の立場における自衞権は……警察官あたりでやるよりしようがないだろうというように私も考えておる。……日本の現在の国情から、……自衞権はやはり日本の現状が、どちらの方面からも侵略を受けないという保障は、とうていできないわけでありますから……結局はこの條約としての永世中立ということは、保障国の態度自体にかかつて来る。永世中立の立場を維持したいといたしましても、やはり日本の立場としては自衞の問題が最後まで残つておる。国家というものが一応ある限りにおいては……主体としての自衞権の問題は、当然残つて来るはずであります。……また警察官が不当な外国の侵害に対して防禦態勢をとることが、この第九條の武力の行使というような言葉の中に含まれるとお考えになるかどうか。武力というものは私は單に軍隊だけとは考えておりませんので、あえてお尋ねしたいわけであります。」と玉井祐吉委員は質問したが、川村松助政府委員は「実際問題のあらゆる場合を仮想しまして考えますと、非常に微妙な点が多心ので、十分に研究さしていただきたいと思います。」と答えるにとどまり、警察官が直接防衛に参画することについて明言を避けた。1949年11月19日の第6回国会衆議院外務委員会における川村政府委員の答弁(第6回国会衆議院外務委員会議録第4号7頁)。

103 1949年11月21日の第6回国会衆議院外務委員会における野坂参三委員の質問(第6回国会衆議院外務委員会議録第5号15頁)。事実、日本共産党は憲法草案について「……當草案は、戰爭一般の放棄を規定してをります。これにたいして共産黨は、他国との戰爭の放棄のみを規定することを要求し……われわれは、わが民族の獨立をあくまで維持しなければならない。日本共産黨は、一切を犠牲にして、わが民族の獨立と繁榮のために奮闘する決意をもつてゐるのであります。……當憲法第二章は、わが國の自衞權を放棄して民族の獨立を危くする危険がある。それゆえにわが黨は、民族獨立のためにこの憲法に反對しなければならない。」と反対の立場を鮮明にしていた。時事通信社編『日本國憲法』(時事通信社,1947年)141-142頁。

104 1949年11月21日の第6回国会衆議院外務委員会における吉田茂首相の答弁(第6回国会衆議院外務委員会議録第5号15頁)。

105 1949年11月21日の第6回国会衆議院外務委員会における野坂参三委員の質問(第6回国会衆議院外務委員会議録第5号15頁)。

106 1949年11月21日の第6回国会衆議院外務委員会における吉田茂首相の答弁(第6回国会衆議院外務委員会議録第5号15頁)。

107 改革だけではなく、政治全般について、GHQは最高権力を持っており、日本政府自体がGHQに対する「外交」によって支持と理解を常に調達しておかねば、政策実現はもとより自らの政権すら維持できない有様であった。五百旗頭真編『戦後日本外交史【第3版補訂版】』(有斐閣,2014年)52頁。

108 "Three basic points stated by Supreme Commander to be "musts" in constitutional revision" 江藤淳編『占領史録 第3巻 憲法制定経過』(講談社,1982年)169-170頁。このマッカーサー・ノートはSWNCCが作成した文書を基にしていた。「日本の統治体制についてのアメリカの方針―「日本統治制度の改革」(1946・1・7 SWNCC―国務・陸軍・海軍三省調整委員会)」末川博・家永三郎監修,吉原公一郎・久保綾三編『日本現代史資料 日米安保条約体制史1』(三省堂,1970年)763-766頁。

109 中立主義が成り立ちうる最低限の要件として挙げられるものは、①その国に中立を守る自主独往の決意が確立されていること、②その国の地理、歴史、経済、戦略等の諸条件が中立を維持するのにふさわしいこと、③その中立化について関係諸国の利害関係が一致していること、が求められ、その条件が整わない中において、憲法第9条を持っているからという理由だけで世界中に中立の保証を求めたとしても、単に笑いものになるだけであると指摘する論者もいる。大平善梧『集団安全保障と日本外交』(一橋書房,1960年)80-81頁。武力攻撃を行う国又は不正規軍、武装集団に対して自発的に領域を提供する第三国の責任は関与の度合いと勘案され、武力攻撃とみなされる可能性さえある。この管理責任を解除する根拠として集団的自衛権がある。これを行使すれば集団的自衛権に基づく合法的な領域使用とみなされるため、加害国との関係において管理責任を生じることはないのである。森田桂子「武力紛争時の第三国領域使用の帰結―武力攻撃への該当性の観点から―」『防衛研究所紀要』第8巻第2号(防衛研究所,2006年)38頁。

110 戦力の意味をこのように広く解釈する考え方は、一般的に非戦力として考えられているものを戦力と捉える誤った解釈ではないかとの指摘もある。粕谷進『憲法第九条と自衛権【新版】』(信山社,1998年)40頁。

111 1953年2月12日の第15回衆議院通商産業委員会における佐藤達夫内閣法制局長官の答弁(第15回国会衆議院通商産業委員会議事録第18号8頁)。

112 佐島直子編『現代安全保障用語事典』(信山社,2004年)176-177頁。

113 「1・3「マッカーサー書簡・警察予備隊設置(一九五〇・七・八)」」大嶽・前掲(53)426-427頁。

114 警察予備隊の発足当初は、それが武装警察部隊であるのか、それとも陸軍再建の第1歩になるのかは必ずしもはっきりしていなかったのである。植村秀樹『再軍備と五五年体制』(木鐸社,1995年)27頁。

115 芦部信喜氏が説明するように、自衛権とは必要性の要件、違法性の要件、均衡性の要件が満たされて初めて一定の実力を行使できる権利のことである。そして、当然独立国家であればこの意味の自衛権は持つものである。予備隊の任務、活動に期待するにもかかわらず、そのような自衛権行使のための有事法制については遅々として進まなかったのが現状である。芦部信喜,高橋和之補訂『憲法 第6版』(岩波書店,2015年)59頁。

116 1950年7月29日の第8回国会衆議院本会議における佐瀬昌三議員の質問(第8回国会衆議院会議録第10号163-164頁)。

117 1950年7月29日の第8回国会衆議院本会議における吉田茂首相の答弁(第8回国会衆議院会議録第10号164-165頁)。

118 1950年7月29日の第8回国会衆議院本会議における岡崎勝男内閣官房長官の答弁(第8回国会衆議院会議録第10号165頁)。

119 1950年7月29日の第8回国会衆議院本会議における大橋武夫法務総裁の答弁(第8回国会衆議院会議録第10号165頁)。

120 1950年9月11日の参議院内閣委員会における大橋武夫法務総裁の答弁(参議院内閣委員会(第8回継続)会議録第2号7-8頁)。

121 この警察予備隊の増強はアメリカ政府上層部の許可を受けず、標準的歩兵師団編制にも達しない状況を考えると、完全な正規軍とは言いにくい状況であった(中戦車と155ミリ砲以上の重装備が無いということは、アメリカ軍の軽師団にも達しないレベルのものである)。柴山・前掲(69)298-362頁。1951年1月から軽機関銃が部隊にも配属されてその訓練が始まり、1951年10月には迫撃砲及びバズーカ砲が貸与されてその訓練が始まったのである。加えて、旧軍人の追放の解除も1951年になってからは逐次進み、8月には約11,000名、10月には約5000名、12月には約400名の解除があり、警察予備隊は彼らに呼び掛けて、漸次部隊の幹部を補強していった。加藤陽三『私録・自衛隊史』(防衛弘済会,1979年)41-42頁。

122 1951年11月15日の参議院平和条約及び日米安全保障条約特別委員会における大橋武夫法務総裁の答弁(第12回国会参議院平和条約及び日米安全保障条約特別委員会会議録第19号15頁)。

123 1952年1月30日の第13回衆議院外務委員会における木村篤太郎法務総裁の答弁(第13回国会衆議院外務委員会議録第2号6-7頁)。

124 1952年1月31日の第13回衆議院予算委員会における吉田茂首相の答弁(第13回国会衆議院予算委員会議録第5号18頁)。保安庁法案と破壊活動防止法案、公安調査庁設置法案が併せて第13回国会に提出された。池田慎太郎『現代日本現代史② 独立完成への苦闘1952~1960』(吉川弘文館,2012年)17頁。吉田茂首相は辰巳栄一元陸軍中将を主たる軍事アドバイザーとした私的諮問機関を設置し、講和後の安全保障について議論を行った。再軍備で構築する組織の主任務を治安維持主体とするのか対外防衛主体とするのかが議論の根本であり、対日脅威を考えた場合、治安維持主体なら、統合した軍隊を作ることや独立した空軍を持つ必要性は少なく、対外防衛主体なら、その必要性が向上するのである。1月31日の答弁において不明瞭な発言を残したのにはこういう理由があったのである。高橋秀幸「自衛隊草創期の統合:統合幕僚会議設置に航空自衛隊創設が及ぼした影響―旧軍からの継続性を踏まえて―」『防衛研究所紀要』第19巻第2号(防衛研究所,2017年)131-134頁。

125 政府は当初から憲法第9条は日本に差し迫った侵略行為に対応するための最低限の戦力(forces)を持つことを否定したものではないと主張してきたが、この時代から大多数の憲法学者はこの政府見解に反発していた。Rajesh Kapoor, ibid., p.28.

126 1952年11月29日の第15回衆議院外務委員会における木村篤太郎保安庁長官の答弁(第15回国会衆議院外務委員会議録第3号5頁)。

127 多用途の内容としては、垂直着陸が可能な最新鋭ステルス戦闘機F35Bの搭載のほか、災害時の使用や病院船機能を持たせる考えであるという。一般社団法人共同通信社「対空防衛に高出力レーザー明記へ」(2018年12月6日)https://this.kiji.is/443094934087238753?c=39546741839462401 (最終閲覧日2019年1月15日)

128 自衛隊という防衛行動の主体となる組織は創設されたが、作戦行動に必要となる民間の物資や施設、及び人員の動員を定める有事法制については合意されることがなく、不完全な国防体制とならざるを得なかった。

129 1954年6月3日の第19回衆議院外務委員会における下田武三条約局長の答弁(第19回国会衆議院外務委員会議録第57号4-5頁)。

130 第2次インドシナ戦争(ベトナム戦争)においては、南ベトナム支援を強化し、1961年12月からヘリコプター部隊等を投入し、戦闘に加わった。これは、「南ベトナムが共産化されると東南アジア全域が共産化されてしまう」といういわゆる「ドミノ理論」に基づくものであった。佐島・前掲(112)466-467頁。

131 従来、自衛隊の存在を違憲と言い続けてきた社会党の村山富市首相も、1994年7月20日の衆議院本会議及び7月21日の参議院本会議において「私としては、専守防衛に徹し自衛のための必要最小限度の実力組織である自衛隊は、憲法の認めるものであると認識するものであります。」と述べ、これまでの政府が踏襲してきた政府解釈を社会党政権においても踏襲することを決めた。1994年7月20日の第130回国会衆議院本会議における村山富市首相の答弁(第130回国会衆議院本会議録第2号5頁),1994年7月21日の第130回参議院本会議における村山富市首相の答弁(第130回参議院本会議録2号4頁)。最小限度の再軍備がひとたび発足すると、それは経済力のゆるす最大限度の軍備となるばかりでなく、この限度を突破した軍備(国民大衆の生活水準を思いきり引下げ、国家の社会的な施設や文化上の施設をまるきり犠牲にした軍備)に転化する必然性をさえももっているとの考えもあったが、現在の日本はそうなってはおらず、予想は外れたと言える。山川均『日本の再軍備』(岩波新書,1952年)12頁。

132 1954年12月21日の第21回国会衆議院予算委員会における鳩山一郎首相の答弁(第21回国会衆議院予算委員会議録第1号11-15頁)。

133 1954年12月22日の第21回国会衆議院予算委員会における大村清一防衛庁長官の答弁(第21回国会衆議院予算委員会議録第2号1頁)。

134 1956年2月29日の第24回国会衆議院内閣委員会における船田中防衛庁長官の答弁(第24回国会衆議院内閣委員会議録第15号1頁)。

135 1957年4月25日の第26回国会参議院内閣委員会における小滝彬防衛庁長官の答弁(第26回参議院内閣委員会議録第26号1頁)。

136 1965年5月31日の第48回国会衆議院予算委員会における高辻正巳内閣法制局長官の答弁(第48回国会衆議院予算委員会議録第21号26頁)。

137 1970年3月18日の第63回国会衆議院予算委員会における高辻正巳内閣法制局長官の答弁(第63回衆議院予算委員会議録第15号11頁)。

138 日本は従来から集団的自衛権は行使できないとしているが、防衛出動下令時において我が国を防衛するためには、我が国及びその周辺で張梁する敵はそれが如何なる行動を採りつつあるかに関わりなく、これを制圧する必要がある。そしてこの制圧行動においては我が国の法益に対する現実の侵害が無くても積極的に攻勢に出て敵を撃破すべきであり、付随効果としてアメリカ軍を攻撃している敵を撃破し、アメリカ軍が自衛隊から防護されるといったことはあり得る。政府は一貫してこの趣旨で答弁しており、かかる理解の下で我が国の安全の確保にさしたる支障を生ずるとも思われない。安田寛・西岡朗・宮澤浩一・井田良・大場昭・小林宏晨『自衛権再考』(知識社,1987年)34-37頁。

139 必要性と均衡性が自衛権の発動要件として要求されており、外国の航空機が領空を侵犯するという例がしばしばあるが、ただそれだけをもって撃墜することは自衛権の名においても一般に許されていないとしているが、1983年の大韓航空機撃墜事件に対する対処等を見ると、この考え方は覆されたと捉えて良いのではないかと考える。田畑茂二郎『安保体制と自衛権〔増補版〕』(有信堂,1969年)42-43頁。

140 「集団的自衛権と憲法との関係に関する政府資料」(1972年10月14日参議院決算委員会提出資料)。

141 ロバート・ジャクソンの言う「疑似国家(quasi-state)」の議論を用いて、「外部からの自由」である消極的主権と「独立状態を国家が享受する手段」である積極的主権の2つに主権概念を分けて考える論者もいるが、私はこの有事法制による対外支援というものができないような状態であった制定以前の日本は第三世界の国々と同様、自国のことのみに専念してしまう消極的主権のみを持つ疑似国家であったと考えている。山影進「国家主権と国際関係論」日本国際政治学会編『国際政治 国家主権と国際関係論』第101号(日本国際政治学会,1992年)3頁。

142 この考えは「平和を維持し、専制と隷属、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」と述べられている日本国憲法に適したものであり、PKOに限っては、平和への「日本なりの」努力とみなせるのではないだろうか。野中俊彦・中村睦男・高橋和之・高見勝利『憲法Ⅰ(第5版)』(有斐閣,2012年)153頁。

143 田村重信編著『日本の防衛政策』(内外出版,2012年)169頁。

144 田村・前掲(143)169頁。

145 田村・前掲(143)169-170頁。

146 田村・前掲(143)170頁。

147 田村・前掲(143)170頁。

148 2013年3月28日の国連安保理決議2098号により、MONUSCOの任務の一部として新たに①国連PKOの一部でありながら現地武装勢力対処のための平和強制任務を付与され、②活動開始後比較的早い段階で、当時最大の不安定要因となっていた武装勢力「3月23日運動(March 23 Movement)」の掃討作戦(コンゴ民主共和国軍:FARDCとの共同作戦)に成功した「介入旅団(Force Intervention Brigade)」に対する関心が高まる等、「平和の強制」に回帰するような動きもみられる。山下光「MONUSCO介入旅団と現代の平和維持活動」『防衛研究所紀要』第18巻第1号(防衛研究所,2015年)1頁。

149 田村・前掲(143)171頁。国家主権は責任を意味し、人々を保護する主要な責任は国家自身にある。内戦等により、民衆が深刻な被害を受けており、かつ、その国家がそれを回避し、又は防止しようとせず、又はすることができない時には、国際による保護する責任が不干渉原則に優越するとの認識が大勢である。川西晶大「「保護する責任」とは何か」『レファレンス』No.674(国立国会図書館,2007年)17頁。

150 この時のアメリカは、国内外で精力的に根回しを行い、軍事的強制措置を採り得る体制を正当化しており、極めて日本の国際環境的には多国籍軍に参加しやすい状況であった。星野俊也「地域紛争とアメリカ―国際干渉の論理と国連―」佐藤誠三郎編『新戦略の模索―冷戦後のアメリカ―』(日本国際問題研究所,1994年)113-114頁。

151 1990年10月26日の第119回国会衆議院国際連合平和協力に関する特別委員会における中山太郎外務大臣の答弁(第119回国会衆議院国際連合平和協力に関する特別委員会議録第4号7頁)。

152 1990年10月26日の第119回国会衆議院国際連合平和協力に関する特別委員会における中山太郎外務大臣の答弁(第119回国会衆議院国際連合平和協力に関する特別委員会議録第4号25頁)。

153 奇遇なことに隣国である韓国においてもPKO活動が問題となったのは1991年の湾岸戦争時であった。この時には医療支援団(軍医や軍所属の看護師の他、警戒・通信・化学要員を含み、銃器や弾薬も所持)154名と空軍輸送団(C-130輸送機5機)160名をサウジアラビアとアラブ首長国連邦に派遣した。室岡鉄夫「韓国軍の国際平和協力活動―湾岸戦争から国連PKO参加法の成立まで―」『防衛研究所紀要』第13巻第2号(防衛研究所,2011年)26-27頁。

154 田村・前掲(143)172頁。

155 同時にこの掃海作業により海上自衛隊の掃海・掃討能力は隊員達の技量に依るものが多く、装備に関しては諸外国に大きく劣ることが明らかになった。その後、諸外国の装備を参考としたすがしま型掃海艇が建造されることになる。

156 しかし冷戦後、内戦後の国家の治安維持・回復と人道支援及び国家機能の債権を含む複合型PKOに性質が変化するにつれて、従来の基準では限界が見え始めてきた。事実、内戦における停戦合意は破棄されることが多く、実質的には戦闘状態が継続しているような状況の中にPKOが置かれることもしばしば見られた。また、当初は紛争当事者双方がPKOの展開に合意していても、後にこれを撤回したり、明示的に撤回せずともPKOの行う活動を妨害する等、実質的に活動への同意が取り下げられたりする場合も多い。大西健「強制外交と平和作戦―東ティモールへの介入を事例として―」『防衛研究所紀要』第14巻第2号(防衛研究所,2012年)23-24頁。

157 1991年9月25日の第121回国会衆議院国際平和協力等に関する特別委員会における工藤敦夫内閣法制局長官の答弁(第121回国会衆議院国際平和協力等に関する特別委員会議録第3号3頁)。

158 1991年9月30日の第121回国会衆議院国際平和協力等に関する特別委員会における工藤敦夫内閣法制局長官の答弁(第121回国会衆議院国際平和協力等に関する特別委員会議録第5号33頁)。

159 1991年9月30日の第121回国会衆議院国際平和協力等に関する特別委員会における工藤敦夫内閣法制局長官の答弁(第121回国会衆議院国際平和協力等に関する特別委員会議録第5号33頁)。

160 1998年4月30日の第142回国会衆議院本会議における橋本龍太郎総理大臣の答弁(第142回国会衆議院会議録第34号5頁)。

161 PKOへの協力業務におけるPKF本体については、業務の性格上、従来から軍隊又は軍人が実施してきたものであり、法律上、自衛隊の部隊しかできないことになっているが、国際平和協力法の審議過程において、内外の一層の理解を得るために別個の法律で定めるまではこのPKF業務を凍結することになった。しかし、2001年の第153回臨時国会において国際平和協力法改正案が成立し、PKF本体業務の凍結が解除されている。丸茂雄一『叢書 日本の安全保障 第1巻 概説 防衛法制―その政策的展開―』(内外出版,2009年)66-67頁。

162 2003年11月27日の第153回国会衆議院安全保障委員会における津野修内閣法制局長官の答弁(第153回国会衆議院安全保障委員会議録第4号6頁)。

163 自衛隊の海外派遣には大きく3つの矛盾がある。それは、①自衛隊は外征軍としてデザインされておらず、故に補給等の後方支援部隊の規模を小さくしていることから、自衛隊の師団規模も他国の軍隊と比べて半分程度の7000~9000人程度で構成されていること、②人助けという善意が通用しない時代になってきている中で求められる隊員達の新たな心構え、③憲法との整合性、という矛盾を指摘する意見もある。柳沢協二『自衛隊の転機―政治と軍事の矛盾を問う―』(NHK出版,2015年)39-40頁。自衛隊はその後、カンボジアに対する陸上自衛隊施設大隊等の派遣を皮切りにモザンビークに対する自衛隊輸送調整中隊等の派遣、ルワンダ難民救援隊等の派遣、ゴラン高原への陸上自衛隊輸送隊等の派遣、東ティモールに対する陸上自衛隊施設群等の派遣、国連ネパール政治ミッションへの派遣、国連スーダンミッションへの派遣、国連ハイチ安定化ミッションへの派遣、国連東ティモール統合ミッションへの軍事連絡要員の派遣、国連南スーダンミッションへの派遣等、行った。

164 軍事に対する政治優先あるいは軍事に対する民主主義的な政治統制のこと。民主主義国家における政軍関係を規律する概念を指す。戦前の大日本帝国には、文民統制という概念は存在せず、軍令と軍政が大日本帝国憲法の庇護の下区別されていた。現在の戦後日本においては軍令と軍政が分けられていたことから生じた弊害を除去するため、民主主義国の例に倣って文民統制が取り入れられるようになった。佐島・前掲(112)229-230頁。

165 この1997年ガイドラインについてはその関連法として、周辺事態法の他に自衛隊法の一部改定とACSA(日米物品役務相互提供協定)の改定も行われた。自衛隊法の一部改定では、在外邦人や外国人の輸送にあたって、航空機に船舶の使用も認め、武器の使用も可能となったのである。ACSAの改定では、平時に限定されていた共同訓練、PKO、人道的国際救援活動、物品役務の提供が周辺事態有事にも認められるようになった。澤野義一『平和主義と改憲論議』(法律文化社,2007年)165頁。

166 周辺事態法の持つそれまでとは異なった性質として、後方地域支援任務の主な担い手が、地方公共団体(地方公務員)や民間企業(民間人)を指す「国以外の者」(周辺事態法第9条)とされている点に本法の狙いが集約されていると読み、多くの国民が「協力」の名の下に動員の対象と位置付けられた、国民動員を柱とした戦前の国家総動員法に似ているとする論者もいる。纐纈厚『周辺事態法―新たな地域総動員・有事法制の時代―』(社会評論社,2000年)95頁。同様の点は国会でも議論されており、1998年5月8日の衆議院安全保障委員会において佐藤謙防衛庁防衛局長が「九条の第一項『関係行政機関の長は、法令及び基本計画に従い、地方公共団体の長に対し、その有する権限の行使について必要な協力を求めることができる。』という規定でございますけれども、この規定は、周辺事態に対します対応の重要性にかんがみまして、地方公共団体に対する一般的な協力義務について定めるものでございます。あくまでも協力を求めるということでございまして、地方公共団体に対して強制をするということではございません。」と答弁を行い、明確に否定している。1998年5月8日の第142回国会衆議院安全保障委員会における佐藤謙防衛庁防衛局長による答弁(第142回国会衆議院安全保障委員会議録第8号12頁)。

167 呉春宜「日米安保体制と台湾の国家安全保障―周辺事態法の適用を中心として―」『人文學報』第91巻(京都大学人文科学研究所,2004年)211頁。

168 この考え方は旧ユーゴへのNATO軍による空爆を正当化したNATOの21世紀・新戦略概念とも軌を一にしているとする考えもある。澤野・前掲(165)164頁。

169 国会答弁においては「現行の安保条約もそうでありますが、この新安保条約において『極東』という字を各所に使ってあります。前文、それから四条、六条等に使っておりますが、いずれも要するに、日本の平和と安全というものと非常な密接な関係のある極東の平和と安全という意味において使っておるわけでございます。……この条約が目的としておる平和維持という目標から考えまして、日本の平和と安全、これときわめて密接な関係にあるところの極東の国際的安全と平和、こういう意味で、日米両国が強い関心を持っておる地域ということになると思います。そういう意味において……フィリピン以北及び日本の周辺ということを申しておるのは、そういう意味でございます。」という岸信介首相の答弁がある。1960年2月26日の第34回国会衆議院日米安全保障条約等特別委員会における岸信介首相の答弁(第34回国会衆議院日米安全保障条約等特別委員会議録第4号8頁)。

170 1998年5月8日の第142回国会衆議院安全保障委員会における久間章生防衛庁長官の答弁(第142回国会衆議院安全保障委員会議録第8号2頁)。

171 1998年5月8日の第142回国会衆議院安全保障委員会における久間章生防衛庁長官の答弁(第142回国会衆議院安全保障委員会議録第8号9-10頁)。

172 1998年5月8日の第142回国会衆議院安全保障委員会における久間章生防衛庁長官の答弁(第142回国会衆議院安全保障委員会議録第8号10頁)。

173 1965年5月31日の第48回国会衆議院予算委員会における高辻正巳内閣法制局長官の答弁(第48回国会衆議院予算委員会議録第21号6頁)。

174 横田耕一「「周辺事態」の問題性」山内敏弘編『日米新ガイドラインと周辺事態法―いま「平和」の構築への選択を問い直す―』(法律文化社,1999年)53-54頁。

175 しかし、国会においては高野紀元外務省北米局長が「……概念上超えることはないということとの関係でございますが……昭和三十五年の統一見解におきまして二つ項目がございまして、一つは極東という概念でございますが、極東は地理的に一概に画定し得る地域ではないけれども、強いて言えば、日米の両国が共通の関心を有する地域で、フィリッピン以北云々云々という定義がございます。それに加えて、第二段で、しかしそれに加えて、米軍が実際そのような目的のために活動する、行動する範囲は、必ずしも今申し上げた極東の地域に限定されるものではないということも統一見解にございます。その意味での、それを極東の周辺という概念で申し上げますれば、それは地理的に一概に画定できない地域でございます。そういう意味において、周辺事態もそれと同じようにこれは地理的概念ではない。その総合的な判断に基づいて、その時点時点において判断されるべき問題でございます……。」と述べ、「極東」よりも「日本周辺の地域」は広いとする理解があり得ることを示した。1998年5月22日の第142回国会衆議院外務委員会における高野紀元外務省北米局長の答弁(第142回国会衆議院外務委員会議録第14号4頁)。

176 田村・前掲(143)186頁。

177 佐島・前掲(112)251頁。

178 田村・前掲(143)189頁。ここで述べられた軍艦の定義とは1982年の国連海洋法条約29条によれば、「一の国の軍隊に属する船舶であって、当該国の国籍を有するそのような船舶であることを示す外部標識を掲げ、当該国の政府によって正式に任命されてその氏名が軍務に従事する者の適当な名簿又はこれに相当するものに記載されている士官の指揮の下にあり、かつ、正規の軍隊の規律に服する乗務員が配置されているもの」である。これには水上艦だけではなく、潜水艦も含む。佐島・前掲(112)149頁。

179 刑法第36条は正当防衛であり、第37条は緊急避難である。

180 読売新聞政治部編『外交を喧嘩にした男―小泉外交二〇〇〇日の真実―』(新潮社,2006年)155頁。

181 大森敬二『背広の参謀が語る 我が国の国防戦略』(内外出版,2009年)190-194頁。

182 柳沢協二『検証 官邸のイラク戦争―元防衛官僚による批判と自省』(岩波書店,2013年)91-92頁。

183 2002年12月4日の第155回国会衆議院外務委員会における川口順子外務大臣の答弁(第155回国会衆議院外務委員会議録第9号2頁)。

184 自衛隊の行う新たな業務に関して、大森氏自身は、新たな役割が求められているのは我が国のことであると考えている。なぜなら、軍隊組織である自衛隊は、本来、国家として色々な機能を柔軟に実施できる集団であるが、その機能に関しては国家が基本方針を通じて明確にし、体制を整え、国民の支持と理解を得て、初めて可能になるものであるからである。大森・前掲(181)197-198頁。

185 大森・前掲(181)194-195頁。

186 大森・前掲(181)195頁。この開戦について、フィリピンは日本同様、支持を表明したが、中国、ロシア、欧州連合(EU)、アラブ連盟は強く批判した。

187 首相官邸https://www.kantei.go.jp/jp/kikikanri/iraq/030320taiousaku.html(最終閲覧日2019年1月15日)。

188 首相官邸http://www.kantei.go.jp/jp/kikikanri/iraq/030421sien.html(最終閲覧日2019年1月15日)。

189 戦闘終結宣言が出された5月の段階において、NHK放送文化研究所が行った自衛隊派遣についての世論調査では、「派遣すべき」が18.7%、「派遣すべきでない」が16.0%、「国連や国際世論の動向を見て判断すべき」が62.1%となっており、賛成・反対の強い意見の持ち主よりも、派遣を前提とした「慎重派」が多数を占めていたのが分かる。烏谷昌幸「新聞の中の「イラク戦争と憲法9条―朝日・毎日・読売の比較分析を中心に―」」『メディア・コミュニケーション研究所紀要』(慶應義塾大学,2005年)67頁。

190 イラクを真の意味で復興させるためにはイラク自身の民主化が根付くような支援が必要であり、責任ある統治機構の設立を進めるためにはイラク政府の警察や軍隊を整備し、強化することでイラク自身の手による治安維持能力を向上させる手伝いを本来はしなければならないのである。佐藤丙午「米国の安全保障戦略とイラク」『防衛研究所紀要』第9巻第1号(防衛研究所,2006年)8頁。

191 このアメリカからの同盟国軍に対する要請は、戦闘期においてはアメリカ軍の進軍速度に付随できる装備を持つ軍隊は存在しないため、単独での作戦遂行を主としていたが、復興、安定化の段階になればCOINドクトリン(反乱やゲリラ活動を鎮圧するために考案された対反乱ドクトリンである)に基づいた負担を要請できるとの観点からであった。福田毅『シリーズ アメリカ・モデル経済社会 第9巻 アメリカの国防政策―冷戦後の再編と戦略文化―』(昭和堂,2011年)249頁。

192 2003年6月26日の第156回衆議院イラク人道復興支援並びに国際テロリズムの防止及び我が国の協力支援活動に関する特別委員会における福田康夫内閣官房長官の答弁(第156回国会衆議院イラク人道復興支援並びに国際テロリズムの防止及び我が国の協力支援活動に関する特別委員会議録第3号4頁)。このいわゆる「非戦闘地域」において、陸上自衛隊はサマワ宿営地で13回のロケット弾攻撃を受け、即席爆破装置(IED)による攻撃を受けたのである。半田滋『「戦地」派遣―変わる自衛隊―』(岩波書店,2009年)39-40頁。

193 この時、イラクに送られた車両には装甲がほとんどなく(96式装輪装甲車と軽装甲気機動車は除く)、隊員達にも「デイトルド・インステクション」と呼ばれる増着防護セットは支給されなかったのである。江畑謙介『日本の防衛戦略―自衛隊の新たな任務と装備―』(ダイヤモンド社,2007年)7-30頁。

194 自衛隊にもフォースプロテクションと呼ばれる「防護部隊」が存在し、平時において基地や部隊をテロや奇襲攻撃から守り、有事ではこの他に邦人救出等のNEOやHAOにおける作戦でも民間人を守るために必要な措置である。本来であれば、外国地への災害派遣(Disaster Relief:DR)において、援助物資の略奪等を防ぐことも任務である。しかし、自衛隊は海外においてフォースプロテクションを行ったことがなかったのである。柿谷哲也・菊池雅之『自衛隊イラク派遣の真実―戦後最大の政治決断の成果と問題点』(三修社,2004年)56-57頁。

195 前線と後方地域との一体性については多くの文献で指摘をされているが、特に以下を参考にした。江畑謙介『軍事とロジスティクス』(日経BP社,2011年)。

196 内閣官房・内閣府・外務省・防衛省『「平和安全法制」の概要―我が国及び国際社会の平和及び安全のための切れ目のない体制の整備―』http://www.cas.go.jp/jp/gaiyou/jimu/pdf/gaiyou-heiwaanzenhousei.pdf(最終閲覧日2019年1月15日)。

197 第189回国会衆議院,「我が国及び国際社会の平和及び安全の確保に資するための自衛隊法等の一部を改正する法律案」http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_gian.nsf/html/gian/honbun/houan/g18905072.htm(最終閲覧日2019年1月15日)。

198 2013年1月28日の第183回国会衆議院における安倍晋三首相による所信表明演説(第183回国会衆議院会議録第1号 ㈠ 2-3頁)。

199 小松一郎氏は第1次安倍晋三内閣が設置した、集団的自衛権の行使を可能にするための検討をする有識者会議「安保法制懇」の実務に携わった。安保法制懇は日米が共同で活動する際、危険が及んだ公海上の米艦船の防護など4類型を検討し、解釈変更を求める報告書をまとめており、小松氏はこの立案にかかわっていた。日本経済新聞社「法制局長官に小松大使 集団的自衛権解釈見直し派」(2013年8月2日)https://www.nikkei.com/article/DGXNASFS0200S_S3A800C1MM0000/(最終閲覧日2019年1月15日)。

200 安全保障会議と同様の構成である9大臣会合は必要に応じて開催され、参加者は首相、官房長官、外務大臣、防衛大臣に加えて、副総理、財務大臣、総務大臣、経済産業大臣、国土交通大臣、国家公安委員長である。また、更に必要に応じて首相が定めた大臣が出席する緊急事態大臣会合があり、この会合には大臣の他に統合幕僚長等の関係者を出席させることができる。

201 安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会「「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」報告書」(2014年5月15日)http://www.kantei.go.jp/jp/singi/anzenhosyou2/dai7/houkoku.pdf(最終閲覧日2019年1月15日)。これから生じるであろう新たな課題への取り組みは、従来の考え方の延長で解決し得るものではなく意識を改革し、我が国が国際安全保障環境において平和と繁栄をいかに確保するか、国防の原点に立ち返って基本方針を考える必要があるとしている。大森・前掲(181)290頁。

202 安倍内閣総理大臣記者会見(2014年5月15日)http://www.kantei.go.jp/jp/96_abe/statement/2014/0515kaiken.html(最終閲覧日2019年1月15日)。しかし、この中において個別的か集団的かを問わず、自衛のための武力行使は認められており、国連の集団安全保障措置への参加といった国際法上、合法な活動には憲法上の制約はないとする考え方についてはこれまでの憲法解釈と論理的に整合しないという理由で明確に否定をしている。

203 「非正規集団等による行動」「サイバー攻撃」と並んで「電磁スペクトラム攻撃」を挙げている。この「電磁スペクトラム攻撃」は平素から電磁スペクトラム空間において情報収集を行い、必要な際には電波等を遮断し、欺偏する等して目的を達成する近年軍事技術分野において注目されているものである。この電磁スペクトラム兵器として有名なのが半径数百~数千キロ以内にある電気・電子機器を瞬時に損壊させる高高度電磁パルス(High altitude ElectroMagnetic Pulse:HEMP)である。松村五郎「戦争の未来と今後の自衛隊のあり方―平時の「戦争」にも備えよ―」『安全保障を考える』第760号(安全保障懇話会,2018年)7-12頁。

204 朝日新聞デジタル「いずもは「多用途運用護衛艦」事実上の空母、批判回避」(2018年12月6日)https://www.asahi.com/articles/ASLD54WMSLD5UTFK00T.html(最終閲覧日2019年1月15日)。

205 「平成26年度以降に係る防衛計画の大綱について(別紙)」(2013年12月17日) http://www.mod.go.jp/j/approach/agenda/guideline/2014/pdf/20131217.pdf(最終閲覧日2019年1月15日)。

206 山下愛仁「「グレーゾーン事態」分析―東シナ海における中国の活動と日本の対応を事例として―」『エア・パワー研究』第4号(航空研究センター,2017年)97-98頁。

207 内閣官房・内閣府・外務省・防衛省・前掲(196)。

208 2015年5月26日の第189回国会衆議院我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会における中谷元国務大臣の趣旨説明(第189回国会衆議院我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会議録第2号1頁)。

209 2015年5月27日の第189回国会衆議院我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会における長妻昭議員の質問(第189回国会衆議院我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会議録第3号23頁)。

210 2015年5月27日の第189回国会衆議院我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会における横畠雄介内閣法制局長官の答弁(第189回国会衆議院我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会議録第3号23-24頁)。

211 2015年5月27日の第189回国会衆議院我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会における安倍晋三首相の答弁(第189回国会衆議院我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会議録第3号29頁)。

212 2015年7月29日の第189回国会参議院我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会における吉田忠智議員の質問(第189回国会参議院我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会会議録第4号36頁)。

213 2015年7月29日の第189回国会参議院我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会における横畠裕介内閣法制局長官の答弁(第189回国会参議院我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会会議録第4号36頁)。

214 8月下旬ごろに外務省から、「韓国政府は、6万人の亡命政権を山口県に作るということを希望している」との電報があり、それらの施設、宿舎等を遺漏なく揃えるようにともあった。結局は9月16日に国連軍が仁川上陸作戦を敢行したことで戦局は大きく逆転、亡命政権構想も消えたのである。庄司潤一郎「朝鮮戦争と日本の対応―山口県を事例として―」『防衛研究所紀要』第8巻第3号(防衛研究所,2006年)45頁。

215 この際に決定された対応策は「空襲警報はサイレン20秒10回吹鳴」するのをはじめ、警報時には、発電所のスイッチを切って灯火管制を行う、火に注意、家を守る、学生は登校しない、デマに耳を貸さぬ、子供・老人は付近の山等に避難する等といったものであった。庄司潤一郎「朝鮮戦争と日本の対応(続)―山口県を事例として―」『防衛研究所紀要』第10巻第2号(防衛研究所,2007年)60-61頁。

216 名古屋高判平20.4.17判例タイムズ1313号137頁。

217 前掲(216)名古屋高判平20.4.17。

218 この当時、日本が行使した集団的自衛権は「条約の連鎖効果(chain effect)」に基づくものではないかと思われる。村瀬信也編『自衛権の現代的展開』(東信堂,2007年)40頁。

219 政治的判断というベールを隠れ蓑として「自衛隊としてとるべき措置」「とられるべき国家施策の骨子」を研究するとの名目でいわゆる三矢研究が行われ、非常に問題となったことがある。林茂夫編『有事体制シリーズ 全文・三矢作戦研究』(晩聲社,1979年)。

220 林・中村・前掲(88)20-21頁。同様の指摘は現在でもなされている。石破茂・清谷信一『軍事を知らずして平和を語るな』(KKベストセラーズ,2006年)16-21頁。

221 復帰に際して沖縄でも、自衛隊配備のテンポを落とすことで地元住民への配慮を見せながら、共同行動を執るアメリカ軍及び着実な配備を目指す自衛隊の基地の用地を確保するために賃借料を最大限に増額することで大方の地主の理解を得るとともに、公用地暫定使用法の制定により反戦地主等による契約拒否に対応することで自衛隊配備の基盤を確保したのである。小山高司「沖縄の施政権返還に伴う沖縄への自衛隊配備をめぐる動き」『防衛研究所紀要』第20巻第1号(防衛研究所,2017年)157頁。海外での自衛隊の任務遂行の機会が増大し、そこでの安全を確保するために武器を使用する可能性が高まる中において、自衛隊の態勢整備が逐次進められている。その際、旧軍の悪しき慣習を無くし、士気を阻害しないような法制が整えられなければならない。奥平穣治「【研究ノート】防衛司法制度検討の現代的意義―日本の将来の方向性―」『防衛研究所紀要』第13巻第2号(防衛研究所,2011年)116-129頁。ボールディングの「高度喪失勾配(Loss-of Strength Gradient:LSG)」によって日本の軍備力増強の必要性と島嶼防衛の関係性を説く論者もいる。坂口大作「距離と軍事作戦―島嶼防衛強化のための理論的背景―」『防衛研究所紀要』第13巻第1号(防衛研究所,2010年)。「国家緊急権」に関する規定が無いが「必要性の法理(Rule of Necessity)」の考えを援用して当然、政府が行使できるとする。つまり、法律の縛りが無いまま、政府が行動することができるのである。奥平穣治「【研究ノート】軍の行動に関する法規の規定のあり方」『防衛研究所紀要』第10巻第2号(防衛研究所,2007年)87頁。1995年に新たに付与された権限は、警戒区域を設定し、立入り制限・禁止・退去を命じること(災害対策基本法第63条第3項)等の基本的な事項であり、それまで自衛隊はこのような権限を持たないまま派遣されてきたのである。守屋武昌『日本防衛秘録』(新潮社,2013年)96-107頁。

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  • 山下光「MONUSCO介入旅団と現代の平和維持活動」『防衛研究所紀要』第18巻第1号 (防衛研究所, 2015年)
  • 山本草二『国際法 (新版) 』 (有斐閣, 2003年)
  • 横田耕一「「周辺事態」の問題性」山内敏弘編『日米新ガイドラインと周辺事態法―いま「平和」の構築への選択を問い直す―』 (法律文化社, 1999年)
  • 吉田敏浩『「戦後再発見」双書⑤「日米合同委員会」の研究―謎の権力構造の正体に迫る』 (創元社, 2016年)
  • 米原謙『MINERVA政治学叢書③ 日本政治思想』 (ミネルヴァ書房, 2013年)
  • 米山多佳志「第2次世界大戦後の韓国・日本の再軍備と在韓・在日米軍事顧問団の活動」『防衛研究所紀要』第16巻第2号 (防衛研究所, 2014年)
  • 読売新聞戦後史班編『昭和戦後史 「再軍備」の軌跡』 (読売新聞社, 1981年)
  • 読売新聞政治部編『外交を喧嘩にした男―小泉外交二〇〇〇日の真実―』 (新潮社, 2006年)
  • エドワード・ルトワック, 武田康裕・塚本勝也訳『エドワード・ルトワックの戦略論―戦争と平和の論理―』 (毎日新聞出版, 2017年)
  • 連合軍総司令部編, 共同通信社訳『日本占領の使命と成果』 (板垣書店, 1950年)
  • 名古屋高判平20.4.17判例タイムズ1313号
  • 「平成26年度以降に係る防衛計画の大綱について (別紙) 」 (2013年12月17日) http://www.mod.go.jp/j/approach/agenda/guideline/2014/pdf/20131217.pdf (最終閲覧日2015年1月15日)
  • 朝日新聞デジタル「いずもは「多用途運用護衛艦」 事実上の空母、批判回避」 (2018年12月6日) https://www.asahi.com/articles/ASLD54WMSLD5UTFK00T.html (最終閲覧日2015年1月15日)
  • 安倍内閣総理大臣記者会見 (2014年5月15日) http://www.kantei.go.jp/jp/96_abe/statement/2014/0515kaiken.html (最終閲覧日2015年1月15日)
  • 安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会「「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」報告書」 (2014年5月15日) http://www.kantei.go.jp/jp/singi/anzenhosyou2/dai7/houkoku.pdf (最終閲覧日2015年1月15日)
  • 一般社団法人共同通信社「対空防衛に高出力レーザー明記へ」 (2018年12月6日) https://this.kiji.is/443094934087238753?c=39546741839462401 (最終閲覧日2015年1月15日)
  • 首相官邸http://www.kantei.go.jp/jp/kikikanri/iraq/030421sien.html (最終閲覧日2015年1月15日)
  • 首相官邸 https://www.kantei.go.jp/jp/kikikanri/iraq/030320taiousaku.html (最終閲覧日2015年1月15日)
  • 第189回国会衆議院, 「我が国及び国際社会の平和及び安全の確保に資するための自衛隊法等の一部を改正する法律案」http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_gian.nsf/html/gian/honbun/houan/g18905072.htm (最終閲覧日2015年1月15日)
  • 内閣官房・内閣府・外務省・防衛省『「平和安全法制」の概要―我が国及び国際社会の平和及び安全のための切れ目のない体制の整備―』http://www.cas.go.jp/jp/gaiyou/jimu/pdf/gaiyou-heiwaanzenhousei.pdf (最終閲覧日2015年1月15日)
  • 日本経済新聞社「法制局長官に小松大使 集団的自衛権解釈見直し派」 (2013年8月2日) https://www.nikkei.com/article/DGXNASFS0200S_S3A800C1MM0000/ (最終閲覧日2015年1月15日)
 
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