人間科学
Online ISSN : 2434-4753
研究論文
「子育て支援」の基礎理念についての考察
田井 康雄
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キーワード: 子育て, 子育て支援, 専門性
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2019 年 1 巻 p. 60-67

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Abstract

少子高齢化社会において,「子育て支援」の重要性が問題にされている。しかしながら,「子育て」そのものの意義について深く考察することなしに「子育て支援」が問題にされるために,「子育て支援」そのものの重要性,さらには,「子育て支援」に必要な専門性についてはほとんど評価されていない現状にある。

このような現状を鑑み,現代日本社会における少子化の根本的原因とともに少子化による「子育て」の変質と重要性,さらには,「子育て支援」の新たな側面がもつ諸側面等について根本的考察を行っていくことによって,今後の「子育て支援」のあり方をより改善する契機を作っていきたい。

1. はじめに

少子高齢化社会を迎え,労働力人口の減少の傾向はさらに顕著になりつつある。それとともに女性の社会参加は社会的常識になってきている。このような傾向のなか,核家族化もますます進み,「待機児童数は,2009年以降,2万人を超えて推移している1)」。以上の状況において,「子育て支援」という概念の重要性がかつてなかったように大きく取り上げられ,問題にされるようになってきた。

生理的早産注1)という形で生まれてくる人間において,育児は必然的現象であるにもかかわらず,それを行うのは基本的に実の母親によっているという常識が崩れようとしている。

母親による育児は基本的には母性愛という本能的愛によって成立し,母性愛はギリシア的愛の概念でいえば,アガペー(授与愛)の形をとってあらわれてくるのである。教育愛の根本的構造の核をなすアガペーを基礎にする母性愛が人間の母親注2)に本来備わっている。実の母親が自らの子どもをかわいいと感じるのは,このような母性愛を大部分の母親はもっているからである注3)

社会全体が理性的に物事を判断し,行動することが進められていくと,このような母性愛という本能的愛は必ずしも肯定されないことは明らかである。近代的な国家になればなるほど,女性の社会進出が進み,その結果,少子化が起こってくるのは近年の先進諸国の状況を見れば明らかである注4)

このように人間社会の進化,合理化,経済至上主義化が進むにつれて,人間自身がもつ本能的能力が失われ,生理的早産として生まれてくる人間という種の特徴を成立させる「人間における子育て」すら成立しにくい状況が起きてきているのである。このような状態は,個々の人間が自らの社会的立場よりも個人としての立場の重要性を前面に出すことによって利己主義化が進行した結果である。生理的早産で生まれてくる人間において,「子育て」が成立しない状況が生じているということは,人間という種の存在の危機であるが,そのこと自体理性的に判断すれば,個人の問題とレベルが異なるがゆえに,少子化が進行していくのである。

実の親による「子育て」は人間という種の本能に導かれる活動であるが,それが個人としての欲求に阻止される現代社会において,人間という種を維持するための機能を職業が受け持つことは必要不可欠である。それこそが「子育て支援」であり,「子育て支援」は人間の理性化の進行によって生じてきた「子育て放棄」や「少子化」という現象を緩和,ないしは解消するための理性的活動であるということができる。

「子育て支援」の必要性はその子を産んだ人間ではなく,子育て実践を客観的立場から見る人がもつ考え方であり,「子育て放棄」は子育てを実際に行っている母親において生じてくる欲求である。それゆえ,「子育て」という概念自体それぞれの置かれている人間の立場によって異なる意義をもつものである。「子育て」の対象である子どもとの人間関係において血縁関係がある場合とない場合では,その子どもに対する根本的意識が異なっているのである。

以上のような「子育て」における根本的問題を考慮したうえで,「子育て」自体のもつ人間学的意義を考察していきたい。

2. 「子育て」のもつ人間学的意義

生理的早産として生まれてくることが種の特徴である人間にとって,「子育て」という活動は不可欠の要素である。それを成立させるために母性愛という本能的愛を母親はもつ。しかしながら,人間社会の発展に伴い,人間の多様な活動が成立してくるにつれて,理性による活動の領域がますます増大してくる。つまり,母親が母親としての役割を演じるだけでは済まなくなり,多様な活動を個人的にも社会的にも行いたいという欲求が生じてくる。その結果,「子育て」という本能的母性愛から生じてくる活動を拒否する母親があらわれてくる。逆に理性的母性愛によって「子育て」を行いたいという母親以外の人間もあらわれてくる状況がある。ただその「子育て」を行うのが実の母親によるものであるか,その役割を代行する職業があり,その職業が専門職としての条件を成立させるものであるかどうかによって,「子育て」の意義自体が大きく変化してくる注5)

個としての親が自らの子どもを育てたいという欲求をもつ母性愛と同様に,種としての親が次世代を育てたいという種の母性愛ともいうべきものが成立してくるのである。それゆえにこそ,保育士は実の子どもでない子どもに対しても母性愛をもち,育児を行うことができるのである注6)

実の母親がもつ母性愛は,自分の子に対する特別な母性愛であるのに対して,保育士がもつ母性愛は保育活動を行うすべての子どもに対する無私の愛という形をとらねばならない。その意味において,保育士であること自体の基本にそのような専門的能力が求められるのである。

「子育て」という概念は人間教育の初期の教育(保育)の時期の概念であり,従来実の母親によって行われるものと考えられてきた。そのような実の母親による「子育て」を補う補足的活動として保育が考えられてきたがゆえに,保育における専門性が評価されてこなかったのである。しかしながら,保育における専門性の基礎は具体的な保育における実践というよりは,保育の対象である乳幼児に対する教育愛でなければならない。実の母親の母性愛は教育愛の基礎であり,保育士はこのような意味での母性愛をもっていることが求められる。

プロの保育士は多様な子どもの状態に応じた保育ができる。その背後には長年の経験に培われた教育愛があり,個々の子どもの状態を把握し,それに応じた保育ができるのである。このような保育における専門性が必ずしも正当に評価されていない現状にある。というのは,保育の正当性は,その保育の結果いかに子どもが成長・発達するかという評価がなされなければならないが,現実には保育の後の学校教育の成果として評価されるのが一般であり,乳幼児期の保育の成果としての評価が行われていない現状にあるからである。

われわれは「子育て」の人間学的意義について,より長期的視点で乳幼児期の保育のあり方について考察しなければならない。そして,保育の本来もつ重要性を評価しなければならない。

3. 「子育て支援」を構成する基礎理念

実の母親による「子育て」を支援するのは,誰のために行うべきなのかをまず考察しなければならない。「母親のためなのか」,「子どものためなのか」,さらには「保育士のためなのか」という問題である。それぞれについて考察する。

(1) 母親のため

男女共同参画社会の進行に伴って,女性の社会参加の条件づくりとしての「子育て支援」という考え方が広がっている。零歳児保育園の増加,認定こども園の設置等は,女性の育児負担の軽減を第一の目的にしている。まさに,母親である女性のために「子育て支援」を行うという考え方である。女性の人間としての権利が育児によって制限されるという考え方は,近代男女共同参画社会においては,問題視され,改善されるべき考え方である。「母親になる」ということは,「次世代を産み育てる」ということを意味し,そこには,必然的に「子育て」の概念が含まれていなければならない。

しかしながら,現代社会においては自己意識に基づく生き方を尊重されることが基本的人権の基礎の一つになっているため,母親という立場に立つことによって,人間としての権利が制限されることは大きな問題である。人権を尊重することが現代社会における最大のテーマであり,その結果,新たなさまざまの問題が生じてきているのである注7)

このように母親のための「子育て支援」は母親自身による「子育て」そのものの軽視に繋がる危険性がある。現実に男女共同参画育児の考え方は,「子育て」される子どもの成長・発達に応じた「子育て」ではなく,「子育て」する側の都合に応じた育児になってしまう傾向がある。

「子育て」も「子育て支援」もともに母親のためだけであるのでなく,それを受ける子どものためのものでなければならないことを忘れてはならない。

(2) 子どものため

本来,実の母親による「子育て」は子どもにとって最適のものでなければならない。しかしながら,現状においては,育児ノイローゼになったり,育児放棄したりする母親,実の母親による虐待等の形で,母親自身の状況やその改善策は問題にされるが,子どものための「子育て支援」という考え方が必ずしも前面には出されていない。

「子育て」は乳幼児期の子どもの成長・発達に不可欠の育児であり,それは基本的に保育という形で行われるべきものである。子どもの成長・発達に必要不可欠の「子育て支援」とは,保育の専門性に導かれた方法論を母親による育児に活かすことでなければならない。そして,そのような「子育て支援」がなされることによって,母親のみによって行われる「子育て」よりも子どもの成長・発達にプラスになる要素が存在していなければならない。

それゆえ,「子育て支援」を行う者の乳幼児教育における専門性は高度であると同時に現実的有効性をもつものであることが求められる。母親による「子育て」は基本的に母性愛によって導かれる育児であり,母親以外の多様な活動を行う現代の女性においては,「子育て」に関する情報についても,他の多様な情報の一つとして受け入れることになるので,本能的な母性愛による育児が成立しにくくなる。このような状況において,子どものための育児は母親にのみ任せられるべきものではなく,専門的知識や技術を持った保育士等による「子育て支援」を伴うものでなければならないのである。母親のみによって行われるよりも,保育の専門家である保育士によって行われる保育の方が子どもの成長・発達にプラスになる要素が多いことが必然的に認められなければならない。また,そのことを社会も,親も保育士自身も当然のこととして認める程度の専門性を保育士はもたねばならないのである。しかし,現実にはそこまでの保育士の専門性が認められていないのである。

「子育て支援」という保育の専門家である保育士による活動が,子どものためになっているという現実が必要不可欠なのである。

(3) 保育士のため

母親による子育てを支援する立場の専門職である保育士は保育のプロでなければならない。保育は養育・保護・教育という3つの要素から成り立ち,保育士は個々の子どもの成長・発達の状態から,それぞれの要素のうちどの要素にウエイトを置くべきかを個々の子どもにおいて適正に判断し,実践していかなければならない。

専門職としての保育士の専門性に対する社会的評価は一般に専門職といわれる職業に比べて極めて低い。それは保育がすべての女性の行う活動であるという認識,さらには,育児経験を持たない若い保育士の専門性に対する基本的疑問に起因している注8)。保育士の専門性のレベルアップ,および,そのレベルアップに伴う待遇改善によって,保育士自身の保育に対する取り組みが変化してくると考えられる。

また,保育士の専門性のレベルアップにより,母親の意識の変化,さらには,保育に対する社会的評価が変化してくる。「子育て支援」を行う専門職としての評価は,乳幼児期における保育のその後の教育に対する影響によって具体的な有効性を証明することができる。しかしながら,現実には保育の後の教育の成果として評価され,保育そのものの評価はほとんどなされてこなかった。現実には実の母親の「子育て」が十分にできないから行う保育士による「子育て支援」であり,保育士による「子育て」の質が実の母親による「子育て」より高い質の育児であるということは必ずしも実現できないのである。

以上のように,「子育て支援」の再考により保育を構成する母親,子ども,保育士のすべてに焦点を当てたあり方の吟味,今後の改善策等について多面的に問題にしていくことが必要である。

4. 少子化による「子育て」の変質

近代的な社会の発展に伴い,人間は多様な立場に立ち役割を演じることが求められる社会になってきた。それに伴って,生理的早産として誕生する人間という種の特殊性から生じる「子育て」の重要性が見失われている。社会の発展と教育の充実に伴い,人間は種としての本能よりも個人としての欲求を前面に出す生き方をするようになってきた。個人として「生きる」権利を尊重するあまり,種としての人間のあり方を外から強制されないことが当然のこととなっている。少子化はその必然的結果であるということができる。次世代を維持・発展させたいという欲求ではなく,自らの子孫(自分と自分の子ども)のためという私的欲求を前面に出して生きることが人間の権利であるという考え方をもつ現代人にとって,少子化は必然的現象である注9)

このような少子化社会において,子育てに喜びを感じ,集中できる人間は少ない。むしろ,自らの個人的欲求を実現するために子育ては妨げになる活動であり,子育て自体を重要な活動と認識しない傾向が一般的になりつつある。それゆえ,保育に対する考え方も,自らが行う保育ではなく,保育士に対して保育という要求を実現させるという考え方に繋がるのである。つまり,母親は保育士を教育者として信頼し,尊敬するのではなく,保育士を自らの要求を実現するための手段・道具とみなし,低く評価するようになるのである。

少子化によって一人一人の子どもに充実した教育を与えるという考え方は,少年期以降の教育注10)に関するものであり,乳幼児期の保育に関するものではない。乳幼児期の保育はその後(少年期以降)の教育に大きく影響することは事実である。保育を構成する養育・保護・教育のうち,前の二つの要素は主に乳児期において,最後の一つが主に幼児期に行われる。ただし,その割合は個々の子どもの発達状況に応じて変化しなければならない。乳幼児保育の専門性は,このバランスを個々の子どもの成長・発達において見抜き,その必要性に応じた保育を実現できるところに成立してくるのである。

社会全般における少子化傾向が,社会における育児そのものに対する考え方を根本的に変えるものになりつつある。つまり,それまで親子関係における私的な問題であった「子育て」が社会全体の問題になり,保育における専門家としての保育士の対応すべき問題になりつつある。その時に,保育士のもつ専門性はさらにレベルアップすることが,社会的に求められているのである。親が育児権を放棄するのではなく,人間としての育児が教育の重要な問題になり,親の教育権と子どもの学習権を共に保障する専門家である保育士の専門的活動に変化しつつあるのである。それゆえにこそ,少子化傾向の顕著になりつつある現在,保育士の専門性は高いものにならざるをえないのである。保育の専門性は「子育て支援」のための専門性だけではなく,実の親が行う「子育て」以上の高度の保育全般における専門的見識をもつ保育士による「子育て支援」によって,「子育て」自体のレベルアップ(親にとっても,子どもにとっても)に繋がるような保育士の実際的能力が求められているのである。

個々の人間が自らの個人的人生におけるレベルアップを目指すことが当然の現代社会において,次世代のための教育の基礎になる子育ての専門家である保育士の具体的・実践的専門性に対する社会的要請はますます高くなりつつある。

5. 「子育て支援」の必要性の有無

以上のような状況に置かれている現在,「子育て支援」は「母親における子育てを支援する」というレベルのものではなく,人間の種のレベルにおける次世代を担うべき人間の育成という意味における「保育」が必要になってくるのである。つまり,「子育て支援」は個人の問題ではなく人類全体の問題であり,子どもの学習権も人類の未来を支える基盤・人類の未来の文化を形成するという意味における教育というレベルのものにならなければならない。

現在までの「子育て支援」はあくまで個人レベルでの問題として考えられてきた。しかしながら,今後の「子育て支援」は,人口問題だけでなく,社会構造,人間発達,文化創造という多面的側面において進めていかなければならない。「子育て支援」は人類の次世代教育の第一歩であり,今までとは異なった概念で捉えられなければならない。

子どもを親の所有物とみなすのではなく,人類全体の新たな可能性を担う一員の育成という極めて重要な問題になりつつあるのである。「子育て」は個人の私的な問題ではないからこそ,専門家による「子育て」が必要であり,それは母親の「子育て」を補助するという意味での「子育て支援注11)」ではなく,母親の「子育て」を導くことによって「より優れた」次世代育成を実現する基礎を育むのである。次世代育成という意味を含みもつ「子育て支援」は個々の親レベルの「子育て」を超えた専門的理念に導かれなければならない。それは人間という種の存在の確保と発展を目指すものでなければならない。

以上のような新たな側面をもつ「子育て支援」という概念は,「子育て」自体が新たな目的をもつことによって成立する。それゆえにこそ,保育士の専門性はその目的においても,内容においても,実践においても,はるかに高い専門性が求められることが予想される。今後さらに進むと考えられる少子化社会において,保育士に求められる役割の多様化と重要性は,はるかに高い専門性を基盤にすることによってはじめて成立するものであり,そのための保育士養成のあり方の再検討や専門性のレベルアップのあり方を確立することが求められるのである。

6. 「子育て支援」の新たな側面

(1) これからの児童中心主義教育を進める要素

少子化社会を迎え,児童中心主義教育の根本的な考え方の改革が必要になってくる。ルソー(J.J. Rousseau, 1712~1778)により導かれた児童中心主義教育の考え方は,民主主義社会の発展に応じて進化してきた。現在,この民主主義社会の基本的構造が変化しようとしている。つまり,近代民主主義社会の発展は個々人の権利の拡大とその充実を目指しながら実現されてきた。それは個と集団(個人と社会の調和的発展)という基本的方向性をとりながら実現されてきた。

しかしながら,現代社会はこのような個と集団の関係が根本的に変化し,個がその主体性を拡大し社会を個のための社会へと変化させようとする異質な社会構造をとろうとしている。個と社会の調和の根本的バランス注12)が従来とは異質のものへと変化しつつある。

このような民主主義注13)の基本的考え方の変化が児童中心主義教育思想にも影響を与えているのである。その結果が,少子化現象なのである。子どもを親の都合で出産し,教育することは必然的に少子化に繋がる。次世代のための教育という人類が常に続けてきた教育理念が自らの世代の(さらには,自らだけの)ための教育へと変化することによって,次世代を自世代のために役立てることの正当性を暗に主張する考え方が,現代社会のとりわけ先進諸国の人民にあらわれつつある。

被教育者の成長・発達を第一の教育的要素と考える児童中心主義教育思想の基本的考え方が根本的に崩壊することによって,親に都合のよい形で進められる新たな児童中心主義教育が教育全般に広がりつつあることは否めない。このような新たな児童中心主義教育に基づく「子育て」は親の自然の意識によって実現していくことができない注14)。保育の専門家である保育士の存在の必要性は極めて大きいといえる。しかも,親がその教育権を委託できるだけの信頼のできる高い専門性をもつ保育士の存在が求められているのである。

(2) 新たな「親意識」の成立

生理的早産に基づく育児の必要性は人間の種としての存在を成立させる基本的条件である。その条件を実現させるために,人間は自らの子孫である子どもに対して教育愛(母性愛)をもつのであり,それこそが「子育て」を成立させる基礎条件である。しかしながら,人間社会の進化・発展により,人間の理性化が進み,理性的にあらゆることを捉えることによって人類の文化が進歩を遂げてきた結果,人間は自らの子どもに対する教育愛やそれに導かれる「子育て」自体をも理性的に把握しようとするようになり,その結果,本能としての教育愛である母性愛を徐々に失いつつある。このような現状において,母親に代わりうる「子育て」の専門職が必要になりつつある。

従来の保育士はあくまで実の母親の「子育て」を補助する存在であり,「子育て」において中心的役割を演じるのは母親であった。母親は自らの子どもに対して「無私の愛」である母性愛を本能的にもつ存在であった。しかし,人類社会の発展により,人間存在全体が理性化し,母性愛自体が理性的に分析されるようになってきた。その結果,実の母親による「子育て」が子どもにとって絶対的なものではなくなるとともに,母親が母親としての立場と同時に他の社会的役割を演じる立場に変わり,母親としての本能的母性愛だけをもち「子育て」することが不可能になってきたのである。

以上のような母親の立場の変化に伴い,保育士の立場や役割も変化してきているにもかかわらず,その社会的評価が従来と変わらないという矛盾を保育士という職業はもっているのである。このようなことについて次のような視点で考察していきたい。

1) 「親意識」が導く「子育て支援」欲求

親という立場は子どもの誕生と同時に成立する立場であり,その立場は同時に育児という必然的活動に入ることをも意味している。「子育て」は基本的に親であるという意識から成立する母性愛に基づく育児としてあらわれてくる。あらゆる事柄を理性的に判断し,考察する現代社会において,「子育て」についてもその傾向は否めない。そこで,保育の専門家である保育士の重要性があらわれてくるのである。しかし,保育士に求められるのは母親の「子育て」を補助するための保育であり,そのような状態が長年続いてきた。男女共同参画社会の進展に伴い,女性の社会進出の活性化が実現し,「子どもを産み,育てる」という役割の意義が相対的に低下してきている。

現代の女性は出産・育児についても,理論的・理性的に判断し実行するようになってきた。その結果,「子育て」の質のレベルアップをも求めるようになりつつある。保育士に対する要求の多様化である。保育所に単に子どもを預かってもらう託児所的役割だけを求めるレベルから乳幼児教育の専門機関としての質の高いレベルの保育を実現することを求めるようになってきているのである。教育の初期の段階に行われる保育の重要性を評価するようになりつつあるのである。

「子育て支援」という欲求は,これらのさまざまなレベルの「子育て」の質のレベルアップを委託するものであり,その相手こそ保育士なのであるが,保育士がこのような多様な保育欲求に十分に対応できる能力をもつ現状には至っていない。そのような状態を実現するためには,保育士養成の充実と同時に保育士の待遇改善が実現されなければならない。

2) 「子育て支援」欲求を成立させる要素

a.保育士の専門性

教育に関する職業の専門性については,その資格課程を通じて得られる専門性とその職業実践の過程を通じて得られる能力から成立する。基本的には教育職は何年もの教育実践を通じてその専門性を形成していくのである。しかしながら,保育士の早期離職率は極めて高い注15)。その原因は基本的には待遇の低さと多忙さによるとされているが,そのような状態を生み出しているのが,保育士の専門性が評価されていないことによると考えられる。

保育士の専門性は養成段階よりも,職業実践の過程で成立してくるものであるにもかかわらず,職業実践の期間が短いということは専門性のレベルアップが実現しないことに繋がるのである。それこそ,社会的に保育に対する専門性の理解がなされていないからである。

保育を構成する養育・保護・教育のうち,養育と保護はすべての親が行っていることであり,保育そのものが専門性の概念に属さないと考える人々が極めて多いのである注16)。教育的な成果に対する評価は小学校教育以降においてしか行われていない。例えば,保育所,幼稚園レベルでの保育実践の成果はその後の教育段階においてはじめて評価されるのであり,保育所,幼稚園における保育の成果としての評価はなされないのである。

このような現状において,保育士の専門性の評価とそれに見合う待遇改善こそ緊急の改善課題である。

b.親と保育士の信頼・尊敬

保育士に対する社会的評価の低さは専門性のレベルの低さに繋がり,さらに,親の保育士に対する信頼・尊敬の低さの原因になっている。保育士の仕事は親による「子育て」の支援であるという発想は,「子育て」の主体はあくまで母親であり,その支援を行う保育士という構造をとっている。保育士の専門性のレベルアップによって,親の保育士に対する信頼と尊敬の意識がその背景に成立することによって「子育て支援」はより大きな成果を上げることができる。

親と保育士の連携は「子育て支援」において不可欠であり,親と保育士の連携こそ相互信頼と相互尊敬によって成立するのである。親子の間で行われる育児は一対一の関係であり,それぞれの子どもに必要な保育を親の判断で行うことによって成立する。保育士と子どもの間で行われる保育は保育士のそれぞれの子どもの独自性に応じた固有のかかわりによって成立する。それゆえにこそ,保育士の専門性は個々の子どものもつ性格・能力・発達段階に応じて対応できるという具体的保育実践において実現されてこなければならない。それゆえ,保育士は保育実践を通じて個々の子どもを把握するということを行う専門家であることが第一に求められる。このような意味において,保育士の専門性は極めて高いレベルの専門性であり,それこそ,保育実践を通じて養われる専門性なのである。

現状では,このような保育士の高い専門性が成立する前の段階で保育所を去ってしまうという状況が極めて多いのである。このような意味において,保育士の待遇改善は差し迫った課題であるということができる。

c.保育士の社会的地位の確保

生理的早産による育児は本来人間の種としてもつ本能的愛である母性愛によって実現されるものである。しかしながら,社会の発展に伴って種としての本能である育児を補うべき保育の必要性が現われてくることによって,その保育に従事する専門職である保育士の存在の重要性が高まりつつある。それは保育に続く教育の重要性が認められ,その教育の最初期における保育を見直そうという立場が評価されるようになってきたからである。

単に女性の社会進出のための職業としての保育士ではなく,乳幼児期の保育実践を行う専門職としての保育士という社会的地位の確立がなされなければならない。次世代を担うべき教育の最初期における乳幼児期の保育の重要性,さらには,その乳幼児期の保育実践も専門家である保育士という職業の社会的必要性を社会全体で認め,評価していかなければならない。それこそが保育士の社会的地位の確保の前提である。

一時的な職業としての保育士ではなく,生涯にわたり研鑽を続けながらその専門性を培っていくことが必要な専門職としての保育士という社会全体での認識が広まらなければならない。

3) 「子育て」の新たな目的

「子育て」の目的は自らの子孫を産み育てる前提であり,人間としての種の本能によって成立する考え方だけで終わるべきものではない。「子育て」は個人の問題であると同時に,人類全体の問題なのである。それは人間が明確な自己意識をもつ社会的動物になるという存在であり,人間社会において何らかの役割を担うことによってのみその存在が意味をもつ存在になるからである。カント(I. Kant, 1724~1804)の『教育学講義』における「人間は教育を必要とする唯一の被造物である2)」という言葉が示す人間にとっての教育の必要性は単なる個人の問題ではなく,「人間は教育によってはじめて人間になることができる3)」という明確な自己意識をもつ社会的動物になるという意味なのである。

このように理解するならば,「子育て」は自分の子どもを育てることだけを意味するのではなく,次世代において人間としての役割を演じる社会構成員を育成することでもなければならない。つまり,子育ては決して個人の問題ではなく,人間社会全体の問題なのである。それゆえにこそ,「子育て」は保育の専門家である保育士の高度な専門性に導かれて実現されていかなければならない人間という種の問題なのである。

(3) 一世代の一員としての意識

現状において,「子育て」という概念は個人的・私的な概念として理解されている。それゆえ,自分にとって子どもが必要かどうかという意識で考えることが多いがゆえに,少子化問題は社会問題であり,しかも,自分個人とは無関係の問題であるという捉え方をする人が多い。自分が社会構成員であり,次世代に対して既存社会を発展させていかなければならない責務があること自体を認識していない人間が極めて多い。つまり,人間が明確な自己意識をもつ社会的動物であるという根本的あり方を考えると,「自らが世代の一員であり,社会的役割を果しつつ生きていかなければならない」という人間の本質を無視した生き方を多くの人間が行っていることになる。

「子育て」や「子育て支援」はまさに個人の問題であるとともに,社会構成員の義務として認識されなければならないのである。例えば,女性が出産を機に退職することによって失われる損失が1兆2千億円になるという報道によって,「子育て支援」の必要性を考える人がいると同時に,子どもを産まない選択をする人々も多数現われてくる。経済至上主義的イデオロギーの蔓延している現代社会において,利己主義化していく人間は極めて多いのである。経済学者は個人の利己主義化傾向を極めて軽視しているが,現実の一般的人間は個人の経済的有益性を前面に出すことが一般的傾向になっている。

明確な自己意識が経済至上義的イデオロギーの影響によって,既存社会の構成員としての側面よりも,「個人の利益」により大きなウエイトを置いて考えるようになっているのである。既存社会の一員としての意識や世代の一員としての意識が個人としての私的な欲求の背後に押しやられてしまい,利己主義化傾向が非常に強くなっているのが,現代社会の一般的傾向なのである。

「子育て」や「子育て支援」をこのような社会的レベルでの問題として捉えるとともに,「自分個人の利益」という行動基準を「社会全体の利益」という行動基準に変化させていく道徳教育を教育実践全体において実現していくことが必要である。

「明確な自己意識をもつ」存在である人間にとって,その自己意識を導く理性の方向性の教育こそ道徳教育であり,それが現代社会において最も遅れていることは否めない。個人の自由は個々人の理性によって正しい方向に進んでいく自由であり,正しい方向を選択する自由の基準になる善悪の基準は道徳教育によって導かれなければならない。

今後の「子育て」及び「子育て支援」を正しい方向に導く道徳教育の充実が望まれるのである。

注1)  ポルトマン(A. Portmann, 1897~1982)によって,人間の誕生はこのように呼ばれた。さらに,ここに人間としての種の特徴である「長い成長期」と教育可能性が成立することが指摘された。田井康雄編『不確実性の時代に向けての教育原論―教育の原理と実践と探究―』学術図書出版社,2013年。

注2)  母性愛は,哺乳類,鳥類,一部の爬虫類に見られ,それぞれの種の存続に不可欠の役割を演じている。

注3)  近年,実の母親による虐待が急増してきているのは,社会全体が理性化し,経済至上主義的イデオロギーの広まりに伴って,育児における理性化が起こってきているからである。理性的に自らの新生児を見れば,かわいい要素は極めて少ない。母性愛があるからこそ,生理的早産として生まれてきた人間という種の保存が実現しているのである。

注4)  逆に,発展途上国で少子化に悩んでいる国はない。

注5)  他人の権利を代行するとき,権利を委託する側が代行する側の能力や専門性を信頼することができるとともに,その代価を正当に評価し,双方がその権利の委託・代行を認め合うことができる状態が成立しているかどうかによって,その意義が大きく変化する。

注6)  保育士の保育活動の基礎には,このような母性愛が含まれている。人間という種の本能に導かれた母性愛である。それゆえ,保育士は女性だけの職業ということにはならないのである。

注7)  少子高齢化,育児放棄等経済至上主義的イデオロギーに導かれたさまざまの現象が生じてきている。

注8)  保育士だけでなく,一般的な教師は親の教育権と国の教育権を代行し,子どもの学習権を保障する専門職であり,教育権保持者,および,学習権保持者の信頼と尊敬に基づいてその専門性が成立する。

注9)  権利主義と経済至上主義的イデオロギーの蔓延している現代社会において,個人にとって子どもを産み育てることは必ずしもプラスにならないという考え方をもつ人が多い。

注10)  小学校以降の教育を教育とみなし,それ以前の教育(保育)は小学校教育のための準備としか考えないのである。「お受験幼稚園」という名で呼ばれた幼稚園も,幼稚園教育の充実ではなく,小学校教育のための幼稚園教育という考え方であることは否めない。

注11)  「子育て支援」という概念は,母親が主体性をもった子育てを行い,それを他者が支援するという意味であるが,そのようなレベルの問題ではなく,母親の子育てを保育の専門家である保育士がその専門的見識によって導き,「より優れた次世代育成」を実現するという新たな意味をもつ概念にならなければならない。

注12)  従来は個と社会の調和的発展においてそのバランスが実現してきたが,個々人の権利欲求の飛躍的拡大によって,個のための社会,個人を支え,繁栄させるための社会制度という考え方が前面に出されるようになりつつある。

注13)  自由と平等のバランスにより成立してきた民主主義社会の理念が,自由により大きなウエイトが置かれることにより,「弱肉強食」という自然界の摂理が民主主義社会においても大きく機能し始めていることを否定することはできない。

注14)  生理的早産で誕生してくる子どもに対する母性愛に基づく育児が成立しにくい状況において,児童中心主義教育を意図的に進めていく専門職としての(乳幼児教育専門家)保育士が必要になってくるのである。

注15)  厚生労働省「保育士等の現状」(第1回保育士等確保対策検討会,資料4)の調査では,保育士の離職率は10.3%となっている。

注16)  養育と保護においてその専門性が評価されるのが,発達障害児の子どもに対する保育である。小・中・高における特別支援教育は重要視されつつあるが,幼稚園や保育所における発達障害児の支援についてはほとんど問題にされていない。

文献
  • 1)  矢野恒太記念会(編).日本国勢図会2018・19.矢野恒太記念会,2018, 458.
  • 2)  Holstein H. Immanuel Kant Über Pädagogik. 4 Auflage. Ferdinand Bochum. Kamps pädagogische Taschenbücher. S.27.
  • 3)  Holstein H. Immanuel Kant Über Pädagogik. 4 Auflage. Ferdinand Bochum. Kamps pädagogische Taschenbücher. S.29.
  • 参考文献
  • *1)  田井康雄(編),安曇茂樹,高松みどり,久保田健一郎,中戸義雄,國崎大恩,渋谷亮,森岡次郎,藤田雄飛.不確実性の時代に向けての教育原論―教育の原理と実践と探究―.学術図書出版社,2013.
  • *2)  永井聖二,神長美津子(編),湯川嘉津美,岩立京子,榎沢良彦,青柳宏,作野友美,天童睦子,藤井美保,鈴木正敏.幼児教育の世界.学文社,2011.
  • *3)  木村元(編),前田晶子,大西公恵,高瀬雅弘,仲島愛子,後藤篤,舟橋一男,菊池愛美,牛木純江,白松大史.近代日本の人間形成と学校.クレス出版,2013.
 
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