2020 年 68 巻 3 号 p. 1187-1192
本稿では,チャンドラキールティの著した『中観五蘊論』における解脱(vimukti)について考察する.同論は心相応行法の一つとして解脱を説くが,説一切有部のアビダルマの伝統と比較すると,解脱は心相応行を構成する法としては異例の要素である.本稿では,いかなる理由で『中観五蘊論』において解脱が心相応行法として説かれたのかという点を明らかにする.
はじめに『中観五蘊論』に説かれる解脱の基本的な情報として,心相応行における位置とその定義を確認する.続いて,心相応行の構成から想定される仮説,ならびに,先行研究における指摘を紹介し,その問題点を指摘する.
次に解脱に対する有部の理解を確認する.有部が有為の解脱を無学の勝解(adhimokṣa)であると理解することを示した後に,その理由として,解脱と勝解が語根(muc)を同じくするからであると説明することを紹介する.以上の有為の解脱に対する有部の理解を考慮に入れて,本稿の後半では『中観五蘊論』における勝解の理解を検討し,同論において解脱がなぜ勝解に含まれなかったのかという点を考察する.
まずは『中観五蘊論』における勝解の定義を示す.そして,説一切有部における勝解の理解と異なる点として,同論において勝解の本質が智(jñāna)であると理解されている点を指摘する.一方,有部の法体系を解説するという論全体の趣旨に沿って,解脱については有部と同様に無学の勝解と理解していると考えられる.また,有部の教理によれば,智の本質は慧(prajñā)であり,勝解とは異なる法である.
結論としては,これらの諸法の関係にもとづいて,『中観五蘊論』においては,本質的には智(すなわち,慧)である勝解に,本質的には勝解である解脱を含めることができなかったために,解脱が独立した心相応行法として説かれた可能性を指摘する.