印度學佛教學研究
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  • 谷口 力光
    2023 年 71 巻 3 号 p. 943-947
    発行日: 2023/03/25
    公開日: 2023/09/08
    ジャーナル フリー

     家産分割,相続の主体となる様々な「息子」は12世紀頃以降においていかにカテゴライズされ,相対的に位置づけられたか.本報告は,Vijñāneśvara著Mitākṣarā(ca. 1056-1126),Haradattamiśra著Ujjvalā(ca. 1100-1300)という2作品のdharmanibandhaが伝える息子論(eg., putraprakaraṇa)から,このような議論が精緻化してゆく様相の一端を跡付ける.

     putraprakaraṇaは,主要な息子とされる嫡出子(aurasa)と,養子(dattaka)や再婚女性の息子(paunarbhava)などとの相続上の関係性について情報を伝える.中世サンスクリット法律学における法益論や近現代南アジアにおける寡婦再婚問題などにも関連する重要主題の一つである.

     主たる初期文献群(dharmasūtra, dharmaśāstra)は,微妙な相違はあるものの,一般に息子として12-13種類を数える.しかし,その数はMitākṣarāでは14種類,さらにUjjvalāでは15種類に至る.既往研究では,このような息子に関する議論について,諸資料に見られる相違点は「なにか」という点での貢献が行われてきた.本稿は,それらの相違点が「どのように」生じるのかに焦点を当てる.

     具体的には,MitākṣarāUjjvalāに見られる発達した議論の間にある唯一の相違点である “yatra kvacanotpādita”と呼ばれる息子種について,これがなぜ前者では言及されず,後者では第15位の息子として掲げられるようになったのかについて,その学的背景を探る.そして,これら両資料が想定していたであろう「結婚の正当性」との関係から,この差異を説明可能であることなどを指摘する.

     南アジア広域で指導的地歩を築いたMitākṣarāと,最多の息子種を数えるらしいUjjvalāとの差異化の一端が示されることで,それ以降に著されたdharmanibandhaなどとの比較を行う上での基盤が得られたと期待する.

  • 虫賀 幹華
    2023 年 71 巻 3 号 p. 948-952
    発行日: 2023/03/25
    公開日: 2023/09/08
    ジャーナル フリー

     本論文は,ヒンドゥーの聖地で執行される祖霊祭(祖先祭祀)の規則の発展について,16世紀後半に北インドのバナーラスでミーマーンサー学派の議論に精通するナーラーヤナ・バッタによって書かれたTristhalīsetu(TSS)を中心に考察するものである.同文献の総論で聖地での祖霊祭は重要な主題として7章を割いて扱われ,その中でも詳細に検討にされるのが,Devīpurāṇaからの引用とされる詩節群の解釈である.この詩節群は,聖地に関する最初のDharmanibandhaであるTīrthavivecanakāṇḍa(12世紀)をはじめ聖地関連文献で引用されており,15世紀のミティラーで書かれたTīrthacintāmaṇi(TC)では引用だけでなく解釈に関する議論もなされている.本論文では,引用詩節のうち特に詳しく検討される「聖地での祖霊祭における勧請の禁則の適用」について,TSSがTCを参照しながらそれと異なる意見をどのように述べているかに注目して,両者の議論の内容を要約した上でTSSの記述の特徴を指摘する.TSS総論の一部のみの検討であるため最終的な結論は別稿に譲るが,TCに比してTSSは,実際に聖地で祖霊祭を執行する人々が直面するようなさまざまな問題について,当時の実践形式への配慮なのか比較的緩い規則を採用し,それを正統化するためにミーマーンサーの議論を利用していることがうかがえる.TSS執筆の事情として,聖地での実践を正統派のものとして説明しようとするDharmanibandhaにおける聖地での祖霊祭に関する議論の重要性と,アクバル統治下のバナーラスというバラモン知識人が共同体を作り,宗教関連の論争に回答するのに重用されていたという時代背景についても言及する.

  • 小川 英世
    2023 年 71 巻 3 号 p. 953-960
    発行日: 2023/03/25
    公開日: 2023/09/08
    ジャーナル フリー

     Uddyotakaraは,BhartṛhariがA 1.4.49 kartur īpsitatamaṃ karmaから導出した「行為の〈領域〉が〈目的〉である」(kriyāviṣayatvaṃ karmatvam)という〈目的〉定義を採用し,vṛkṣaṃ paśyati [devadattaḥ](「デーヴァダッタは木を見ている」)における術語「目的」の適用を正当化した.

     Vācaspatiは,この定義中の「行為」が行為の結果(phala)を指示することを踏まえ,以下の三点を明示した.

     A Xが〈目的〉であるとき,Xは行為の〈領域〉であり,XはX自身ならざる他者に内属する行為,それの結果の所有者である.

     B 知覚行為と特徴付けられる,デーヴァダッタに内属する行為によって,木を〈領域〉とする経験が生ぜしめられる.

     C 経験が対象を〈領域〉とするとは,経験が対象に依存して確定されることである.

     Cは,Nyāya学派の統覚(anuvyavasāya)の理論の要点を見事に表現したもので,思考器官によっては単に「私は知識を有する」ではなく「私は木の知識を有する」ということが理解されることを指摘している.

     当該の木は,その木を〈領域〉とする経験の所有者である.経験は,内属の関係でデーヴァダッタに関係し,領域性(viṣayatva)の関係で木に関係する.

     Uddyotakaraによれば,認識はすべて,対象という自己の〈領域〉(svaviṣaya)とその〈領域〉とは異なる,その対象の実践的活動上の属性(獲得・放棄・無関心)という〈領域〉(viṣayāntara)の二つの〈領域〉を有する.したがって,木を〈領域〉とする経験とは,一方では「これは木に他ならない」という確定知であり,他方ではこの確定知を手段として起こる,獲得等の原因となる「この木は獲得されるべきである」といった判断知である.

  • 片岡 啓
    2023 年 71 巻 3 号 p. 961-968
    発行日: 2023/03/25
    公開日: 2023/09/08
    ジャーナル フリー

     ダルマキールティのクマーリラ批判を引き継いだシャーンタラクシタは,『タットヴァ・サングラハ』最終章において,クマーリラの全知者批判を斥け,全知者の存在を擁護する.そこで彼はクマーリラの散逸した著作である『ブリハット・ティーカー』から大量の詩節を前主張として引用する.そして,後主張において,クマーリラの主張を逐一否定する.本稿では,ミーマーンサーと仏教の対立を,マングースと蛇の戦いにクマーリラが例えている前主張部(TS 3154-55)と,それに対してシャーンタラクシタが答える後主張部(TS 3374-79)とを取り上げる.この議論は,クマーリラの先行著作である『シュローカ・ヴァールッティカ』には見られなかったものであり,『ブリハット・ティーカー』においてクマーリラが新たに導入した議論と推測される.本研究では,これらの詩節が,クマーリラの著作の中でどのような文脈に位置するのかを明らかにすることで,この詩節が登場する議論の文脈を整理するとともに,このような比喩が登場した背景を探ることで,この比喩が持つ含意を取り出し,クマーリラとシャーンタラクシタがこの比喩に込めた意図を浮かび上がらせる.

  • 須藤 龍真
    2023 年 71 巻 3 号 p. 969-974
    発行日: 2023/03/25
    公開日: 2023/09/08
    ジャーナル フリー

     ニヤーヤ学派のバッタジャヤンタ(ca. 9-10c)はNyāyamañjarī第11日課において他学派の疑似的理由(hetvābhāsa)論を批判する.本稿は,同書にみられる「成立していない理由」(asiddha)の分類に着目し,その特徴や帰属先を検討するものである.特に「無知によって成立していない理由」(ajñānāsiddha)を取り上げ,ミーマーンサー学派バッタ派の注釈文献やチャクラダラのNyāyamañjarī注を用いて,同誤謬の位置付けを考察する.すなわち,ジャヤンタに批判的に言及される,無知(ajñāna),疑惑(sandeha),錯誤(viparyaya)に基づく「成立していない理由」の分類は,〈無知〉を含む点でクマーリラのŚlokavārttikaに対応する.ただし,両者いずれも〈無知〉に関する定義的説明や例示を欠く.スチャリタミシュラなどのバッタ派の論師は,これを「意味がよく知られていない語の使用」(aprasiddhārthapadaprayoga)の場合における誤謬として,意味論・語用論的な側面でとらえた.また,バッタ派における同解釈の正統性を補強するものとして,チャクラダラのNyāyamañjarī注に「語の不成立」(padāsiddha)に関する複数の詩節がBhaṭṭaという名称とともに引用されていることを示した.このBhaṭṭa詩節はNyāyamañjarī注の校訂者N. J. Shahによればクマーリラの散逸した著作Bṛhaṭṭīkāの断片である可能性がある.本稿においても,〈無知〉に関してあまり注意を払わないŚlokavārttikaと出処不明のスチャリタミシュラ解釈を架橋するものとして,Bhaṭṭa詩節が位置付けられうることを指摘した.最後に,後代のニヤーヤ学派及びバッタ派の論師による「無知によって成立していない理由」理解を検証し,意味論・語用論的解釈から認識論的解釈へと遷移している可能性を示した.この点については,〈無知〉等に基づく誤謬に言及する文献を精査し,議論学における関連概念との比較を通じて概念的変遷をより丁寧に追う必要があろう.

  • 斉藤 茜
    2023 年 71 巻 3 号 p. 975-980
    発行日: 2023/03/25
    公開日: 2023/09/08
    ジャーナル フリー

     シヴァ教二元論シャイヴァ・シッダーンタにおいて,ビンドゥ(bindu)は森羅万象と言語の質料因として重要な位置を占める.9~10世紀頃のカシュミール出身と目される思想家シュリーカンタの詩節のみから成る著作Ratnatrayaparīkṣā(『三宝の考察』以下RTP)は,三宝即ちシヴァ,シャクティ,そしてビンドゥの考察を主題とする作品だが,最も紙幅を割かれるのはビンドゥであり,シヴァとシャクティもビンドゥとの関係の上から議論される.一方でそこには,明らかにさまざまな過去の思想伝統が混ざり合った痕跡があり,その複雑さが「ビンドゥとは,マーヤーより上位の,シヴァ教的な根本物質であって,同時に言葉の源である」以上の考察をこれまで阻んできた.本稿はシャイヴァ・シッダーンタにおけるビンドゥ思想を形成した基になる思想をRTP及びシャイヴァ・シッダーンタの諸聖典に基づきながら分析することを目的とし,以下の三点を考察する.(1)〈六道〉のひとつでありビンドゥの様態とされる〈カラーの道〉とは何か.(2)〈カラーの道〉は,他の〈非表示者〉〈表示者〉の五つの〈道〉をどのように遍充するのか.(3)五カラーを内包するビンドゥ相とは何か,そしてそれがどうしてシヴァのシャクティと呼ばれるのか.これに関連して,シヴァの三つの態を作るビンドゥと,その中で特に〈享受〉態に相として現れる〈ビンドゥ〉との関係を検討する.

  • 眞鍋 智裕
    2023 年 71 巻 3 号 p. 981-987
    発行日: 2023/03/25
    公開日: 2023/09/08
    ジャーナル フリー

     マハーラーシュトラのヴィシュヌ教徒ヴォーパデーヴァ(ca. 13thCE)はその著作Muktāphala(MPh)の第五章でバクティを「規定されたバクティ」(vihitā bhakti)と「規定されていないバクティ」(avihitā bhakti)に分類している.また彼の庇護者であったヘーマードリ(ca. 13thCE)は,MPhに対する註釈Kaivalyadīpikā(KD)においてそれぞれについて詳解している.私は以前に,MPh・KDにおけるバクティの一般的定義と規定されたバクティの定義について論じたが,規定されていないバクティに関しては検討する機会を得ていなかった.そのため本稿では,MPhとKDにおける規定されていないバクティに関する諸問題を論じた.その諸問題とは,1) 「規定されていない」ということはどういう意味であるのか.2) 規定されていないバクティによる救済の論理とはどのようなものであるのか.3) 規定されていないバクティの下位分類にはどのようなものがあるのか,というものである.以上のような諸問題をMPhとKDを分析することによって明らかにした.

     本稿における分析の結果,以下のことが明らかとなった.1) に関しては,バクティの手段である愛欲等が自然に成立したものであるため,ヴェーダ聖典の規定(vidhi)の対象とならないという意味で,そのバクティが「規定されていない」ものであるということであった.2) に関しては,意志的な努力もなく,自然と沸き起こった愛欲等によって主宰神にバクティを捧げることで,主宰神の恩寵のみによって救済に与ることができる,というものであった.3) に関しては,愛欲から生じるバクティ,嫌悪から生じるバクティ,恐れから生じるバクティ,愛着から生じるバクティという四種の下位分類があった.しかし,規定されたバクティが14種に分類され,体系的に階梯づけられているのとは異なり,四種の規定されていないバクティはそれぞれそれ自体で解脱という果報を生じさせることができる.

  • Le Huu Phuoc
    2023 年 71 巻 3 号 p. 988-991
    発行日: 2023/03/25
    公開日: 2023/09/08
    ジャーナル フリー

     本稿は,初期仏教における善巧方便(Upāya-Kauśalya)について論じたものである.筆者は,善巧方便の意義と歴史性という二つの主要なカテゴリーに焦点を当てている.大乗仏教における善巧方便については,Michael Pye(マイケル・パイ)やJohn W. Schroeder(ジョン・シュローダー)など,様々な仏教学者によって研究されてきた.しかし,初期仏教における善巧方便については,これまで,あまり注目されてこなかった.この教義は後のマハーヤーナ(Mahāyāna)諸経典Aṣṭasāhasrikā­prajñāpāramitāsūtra(アシュタサーハスリカー・プラジュニャーパーラミター・スートラ),Vimalakīrti­nirdeśa­sūtra(ヴィマラキールティ・ニルデーシャ・スートラ)Saddharma­puṇḍarīka­sūtra(サッダルマ・プンダリーカ・スートラ)などの形成と発展に影響を与えたのである.初期仏教において,善巧方便という用語は明確ではなく,また後世のマハーヤーナ(Mahāyāna)諸経典ほど言及されているわけでもない.しかし,善巧方便と研究することは,初期仏教における説法の形能を明らかにすることにつながる.研究対象は主に,初期仏教における善巧方便について書かれた『ニカーヤ』(Nikāya)と研究書である.調査の結果,筆者は善巧方便という概念が,梵天(Brahmā)が釈尊に衆生のために説法することを頼むという伝承とともに,『ディガーニカーヤ』(Dīghanikāya『アーグッタラニカーヤ』(Aṅguttaranikāya)『ジャータカ』(Jātaka)において,非常に早く登場することを見出した.

  • 山崎 一穂
    2023 年 71 巻 3 号 p. 992-997
    発行日: 2023/03/25
    公開日: 2023/09/08
    ジャーナル フリー

     仏教詩人ゴーパダッタ(5-8世紀頃)のSaptakumārikāvadāna(SKA)は仏教説話集成Jātakamālāの一部をなしていたと推定される美文詩作品である.本論文は,ゴーパダッタが用いる直喩(upamā)の例に注目し,同作品がサンスクリット詩文学の歴史の流れの中にどのように位置づけられるかという問題を検討するものである.

     インドの諸詩論家は,直喩の構成に関する様々な規則を定めており,1つの限定句が喩えるものと喩えられるもののいずれか一方だけを限定する直喩を用いることを禁じる.彼等によれば,喩えるものと喩えられるものを限定する2つの意味を1つの限定句に与えるか,同一属性を表す2つの限定句で喩えるものと喩えられるものを1つずつ限定する形で直喩を組み立てなければならないという.前者は〈掛詞による直喩〉(śleṣopamā)と呼ばれ,後者は〈空想される直喩〉(kalpitopamā)と呼ばれる.

     SKAには直喩の用例が8例見られる.これらの用例を検討すると,7例が〈掛詞による直喩〉にも〈空想される直喩〉にも分類されないことが判明する.この事実だけに注目すれば,SKAは詩論家が求める水準を満たしていない作品であると解釈できる.しかし,ゴーパダッタのJātakamālāの詩節が土着辞典の註釈書に引用されている事実は同作品が知識人の間で広く読まれていたことを示唆する.また,仏教美文詩には文体表現よりも語りを重視する傾向が一般的に認められる.以上を踏まえると,SKAは詩論上の諸規則を厳密に守ることを前提とせず,物語材源とされた仏教説話の筋を忠実に再現して提示することを主たる目的として書かれた作品であるとも解釈できる.

  • 笠松 直
    2023 年 71 巻 3 号 p. 998-1003
    発行日: 2023/03/25
    公開日: 2023/09/08
    ジャーナル フリー

     動詞bhāṣの現在語幹は通例,韻文部分では能動態(Saddhp I 60a bhāṣati),散文部分では中動態で活用する(KN III: 69,12p bhāṣante sma).この対立は両部分の言語層の差異を示すかのようだが,KN V: 124,2p bhāṣateとKashg 125a7 bhāṣatiとの対応はこの想定に反する.

     未完了過去形KN XII: 267,2p abhāṣetāmとアオリスト形Kashg 256a3 bhāṣi(ṃ)suとの対応は示唆的である.恐らく原『法華経』段階でbhāṣは,現在形では能動態が,過去形ではアオリストが主に用いられたと思しい.アオリスト形は,中央アジア伝本では散文にも残存するが(旅順B8V8 bhāṣi ~ Kashg 202a1 abhāṣu) ⇔ KN VIII: 212,4 abhāṣata),伝承の中で「歴史的現在」形へ,中動態へまたsmaを付した形へ改変されていったものであろう(Kashg III: 74a7p bhāṣinsu ~ KN 69,12 bhāṣante sma).

     KN V: 131,13-143,7は後代の増広で,羅什訳「薬草喩品」に欠ける.ここでカシュガル本は中動態で一貫する(ex. Kashg 136b4p bhāṣate = KN 137,7).「提婆達多品」の読み(Kashg XII: 252a5p bhāṣate = KN 263,8)とともに文献の層序を言語的な差異で証するものと言える.

     旅順B18R8 bhāṣī(⇔ KN XXI: 398,3-4 bhāṣate sma)が導くsyād yathedamの構文は,『金光明経』『守護大千国土経』など一部の文献に特徴的なものである.これは「陀羅尼品」がもと,いわば「陀羅尼クライス」に属する半独立の文献であった痕跡と評価できよう.

  • 葉 少勇
    2023 年 71 巻 3 号 p. 1004-1009
    発行日: 2023/03/25
    公開日: 2023/09/08
    ジャーナル フリー

     チャンドラキールティは『入中論注』において,『大雲経』からナーガールジュナについての予言を引用している.すなわち,将来,「Nāga(-āhvaya)と呼ばれる比丘」(nagāhvayo bhikṣuḥ)が現れ,仏陀の教えを広めるだろう,という部分を指す.この予言に関連する内容は『大雲経』の漢訳とチベット語訳に見られるが,nagāhvayaに対応する語句はどこにも見られない.そのため,この予言は真にナーガールジュナを指しているのか,という疑問がすでにプトンによって指摘されていた.

     現在知られている『大雲経』の唯一のサンスクリット写本はポタラ宮に保存されている.この写本の中で予言される人物は「Tathāgatanāga(-āhvaya)と呼ばれる比丘」(tathāgatanāgāhvayo bhikṣuḥ)である.この呼称は文中において繰り返し現れるため,たんなる筆記者のミスとは考えられない.また,この読みはチャンドラキールティの説明にも符合する.しかし,『大雲経』のチベット語訳において,対応する内容は「如来と同名の比丘」(de bzhin gshegs pa dang ming ’thun pa’i dge slong)となって,この読みは前後の文脈から外れるのではない.

     音節と音節の形が近似しているため,もともとサンスクリットの読みは,チベット語訳に一致する「如来の名前と[同じ]名前をもつ比丘」(*tathāgatanāmāhvayo bhikṣuḥ)であるべきだが,後にいくつかの伝本の中でtathāgatanāgāhvayo bhikṣuḥと誤写されるようになったと考えられる.このような事例は,最初こそ書写中の偶然のミスとして出現したものであったが,読者にとっては『楞伽経』の有名な表現である「nāgāhvayo bhikṣuḥ」を思い起こさせるものであって,最終的にその形がテキスト全体における諸用例を統一するために使用され,ついにポタラ本を由来とする,新しいテキストの系統を生み出すことに至ったのかもしれない.『大雲経』中のナーガールジュナに関する予言がインドでは主に中観派の伝統において言及されるので,これを中観派の伝本と呼ぶことも可能であろう.

  • 王 俊淇
    2023 年 71 巻 3 号 p. 1010-1015
    発行日: 2023/03/25
    公開日: 2023/09/08
    ジャーナル フリー

     『経集』(Sūtrasamuccaya)は,主に大乗経典からの抜粋集であり,中観派の祖であるナーガールジュナ(2世紀頃)の著作とされている.『経集』のサンスクリット写本が発見されて以来,『経集』とそこに引用されている経典についてのより詳細な研究が可能になった.一般に,『経集』のようなアンソロジーにおける引用文は,他の形式の経典転写に比べて,より引用元の経典の古形に近い傾向がある.経典転写の過程では,写経者が意図的・非意図的に原文に手を加え,訂正や挿入を行うことで,本文が徐々に変化していくことがある.これとは対照的に,『経集』に引用された経典は,『経集』が編纂された当時の姿を伝えている.したがって,現存する他の資料と『経集』の該当箇所のテキストを比較することで,これらの抜粋箇所に関する有益な情報が得られるのみならず,『経集』の成立年代や作者について推測することも可能であろう.『経集』に引用された経典のうち,『般若経』は15回も引用されており,最も頻繁に引用されている大乗経典である.本論文では,『経集』に引用された15回の『般若経』をサンスクリット語,漢訳,チベット語訳の『般若経』文献,および鳩摩羅什訳『大智度論』の注釈と比較検討することで,その典拠に関するBikkhu Pāsādika(1978)の主張を修正し,これらの抜粋を『般若経』の文学的文脈の中で位置づけ直す.

  • 趙 悠
    2023 年 71 巻 3 号 p. 1016-1020
    発行日: 2023/03/25
    公開日: 2023/09/08
    ジャーナル フリー

     インド古典文献において,機関木人は一種の比喩で,行為主体の有無の問いとして使われている.ジャイナ教徒とヒンズー教徒にとって,機関木人(ロボット)はただ生命をもってない身体のみを表示するので,この比喩には別の「自我」が必要とされる.これに対して,仏教徒にとって,機関木人という比喩は無我教義の文学性論証として使われている.本論は仏教側に注目し,紀元前に成立した二つの比喩用例を詳細に比較してきた.機関木人が直接に比喩対象として使われ,あるいはこの比喩を使って,うまく叙事の一部分としてストーリーを組み立てる二種の使い方を発見した.さらに,これらの代表的な事例を考察し,仏教におけるこの比喩の使い方,及び仏教思想の発展に伴う使い方の変化も明らかにする.

  • 米澤 嘉康
    2023 年 71 巻 3 号 p. 1021-1028
    発行日: 2023/03/25
    公開日: 2023/09/08
    ジャーナル フリー

     本論文は,「prajñāpāramitānīti(shes rab kyi pha rol tu phyin pa’i tshul)」という用語が中観論書においてどのように用いられているかを紹介している.まず,チャンドラキールティ(Candrakīrti)著『プラサンナパダー(Prasannapadā)』やバーヴィヴェーカ(Bhāviveka)著『般若灯論(Prajñāpradīpa)』における用例を検討し,『中論(Mūla-madhyamaka-kārikā)』やその註釈書のチベット語訳奥書の用例も取り上げて,中観派における意義を確認している.次に,バーヴィヴェーカ(Bhāviveka)著『中観心論(Madhyamakahṛdaya-kārikā)』(『思択炎(Tarkajvālā)』)の用例を取り上げ,瑜伽行派においてもその用例があることを指摘している.そして,瑜伽行派における用例は,『順中論』にも関連していることを示唆している.

  • 般灯
    2023 年 71 巻 3 号 p. 1029-1032
    発行日: 2023/03/25
    公開日: 2023/09/08
    ジャーナル フリー

     天野宏英が2000年に出版したハリバドラ作『現観荘厳論釈』の批判校訂版は,ネパールで発見された「Ms. N1」「Ms. N2」という二つの『現観荘厳論釈』の貝葉写本を利用している.しかし,「Ms. N1」は第七葉を欠き,「Ms. N2」は九葉しかないものであったため,「Ms. N1」「Ms. N2」は不完全な写本である.筆者は北京大学で『現観荘厳論釈』に関する新たな写本を発見した.この写本は,以前,中国民族図書館(略称:CEL)に所蔵されていたが,現在,西蔵博物館に所蔵されているため,「写本T1」と命名する.新出写本には「Ms. N1」の欠落部分が含まれるため,非常に重要な写本であると考えられる.この新出写本は,CEL No.13の二十葉(十七葉完全,三葉破損)と,CEL No.17の破損している二葉からなる.CEL No.17の破損した二葉は,CEL No.13の破損した三葉のうちの二葉と一致し,完全な二葉を組成できる.また,『羅炤目録』の中に,CEL No.13とほぼ一致する写本に関する記述がある.この写本は仏教学者であるヴィブーティチャンドラ(Vibhūticandra,1170-1230)が書写したものである可能性が高い.彼は三度チベットに行き,多くの梵文写本を書写したと伝えられる.さらに,本論文は,「Ms. N1」の欠落部分に相当する「写本T1」第六葉のDiplomatic Editionを収録している.

  • 秦野 貴生
    2023 年 71 巻 3 号 p. 1033-1038
    発行日: 2023/03/25
    公開日: 2023/09/08
    ジャーナル フリー

     ダルマキールティ(600-660)のアポーハ(anyāpoha)と,純粋否定(prasajyapratiṣedha)・定立的否定(paryudāsa)との関係性について検討を行った.

     ダルモーッタラ(740-800)は『アポーハプラカラナ』(Apohaprakaraṇa)や,『プラマーナ・ヴィニシュチャヤ』(Pramāṇaviniścaya)に対する注釈(Pramāṇaviniścayaṭīkā)といった自身の著作において,「ダルマキールティのアポーハは純粋否定とのみ関係する」と述べる.しかし,adhyavasāyaの用法を含め,ダルモーッタラ独自の見解に基づいた理解と言える.ダルモーッタラ,シャーキャブッディ(660-720),そしてチベット人注釈家であるタルマリンチェン(1364-1432)の3者は,PV 1.169の注釈からそれぞれアポーハに言及しており,PV 1.169はアポーハの性質を表す偈として彼らに位置付けられていた.

     また,3種のアポーハに言及するシャーキャブッディ,シャーンタラクシタ(725-788),タルマリンチェンの見解を統合すると,ダルマキールティのアポーハは純粋否定のみではなく,定立的否定をも含意していると考えられた.

  • 児玉 瑛子
    2023 年 71 巻 3 号 p. 1039-1043
    発行日: 2023/03/25
    公開日: 2023/09/08
    ジャーナル フリー

     “kṛtakatva”は,Nyāyabindu第三章やHetubinduにおいて,本質因の論証例を提示する際に繰り返し用いられ,本質因の中でも代表的なものとして知られている.しかし,これまで“kṛtaka”という語の意味が詳細に検討されることはなかった.ダルマキールティは「“kṛtaka”は,自身の原因のみから,瞬間的なもの[すなわち]一瞬間存在するという性質をもつもの,そのようなものとして生じる」(Pramāṇavārttikasvavṛtti ad Pramāṇavārttika 1.27)と述べる.このうち「自らの原因のみから生じる」という点が,本質因の下位分類において“kṛtakatva”を区分する際に重要な役割を果たしている.本稿では,本質因およびその論証式の分類を説くNyāyabindu 3.12, Pramāṇaviniścaya 2.52cdに対するダルモーッタラの註釈を主要資料として“kṛtaka”という語の意味を検討する.

     ダルマキールティが規定する三種の本質因のうち,“kṛtakatva”は外的な原因を限定者とする分類に属している.“kṛtaka”という語には,その分類の根拠となる限定者を表述する語が適用されないが,自らの生起に際して他のものの働きに依存する存在物のみが“kṛtaka”と呼ばれ,当該の語には「他のものの働き」という限定者がすでに含まれている.ダルモーッタラによれば,そのような語を述べるときには,「原因によって」といった限定者を述べる語を適用してはならない.このことは,ka接辞を伴わない“kṛta”との対比によって説明され,“kṛta”の場合,話者が述べなかったとしても限定者は間接的に了解されるという.同じ分類に属するほかの本質因と合わせ,〔1〕限定者を表述する語が適用される本質(pratyaya­bhedabheditva, prayatnānantarīyakatva),〔2〕限定者を表述する語の適用が任意である本質(kṛta[tva], kāryatva),〔3〕限定者を表述する語が適用されない本質(kṛtakatva)と区分できる.

     以上のような解釈がなされた背景として,“kṛtakatva”のみを論証例として挙げるNyāyabinduに対し,Pramāṇaviniścayaでは偈文で“kāryatva”という論証因が例示される.このことから,ダルモーッタラはka接辞を伴わない語形についても論じる必要があった.ダルマキールティが挙げた“kṛtaka”と“kārya”という二つの語には,いずれも限定者を述べる語は適用されていないが,その解決方法には限定者が含まれるか了解されるかという違いがある.ダルモーッタラは,Pramāṇaviniścayaṭīkāでは“kṛta”と“kṛtaka”の相違により重点をおいた解説をしており,論証例として表れる語の違いに応じて註釈者の視点が異なる点は興味深い.

  • 酒井 真道
    2023 年 71 巻 3 号 p. 1044-1051
    発行日: 2023/03/25
    公開日: 2023/09/08
    ジャーナル フリー

     ダルマキールティ論理学の眼目の一つは,彼が所証属性を必ず導出できる正しい証因の条件を考究したことにある.彼によれば,証因「所作性」は所証属性「無常性」を必ず導出できる逸脱のない証因であるが,それは,この証因属性をもつ,原因から生じた,壺などの対象が,その滅つまりは所証属性である無常であることに関し,他に依存していないからである.依存しているとすれば,他のものの側に不備があったり,他のものが当該対象を破壊するに際し妨害が入ったりする可能性があるから,滅は当該対象に必ず起こるとは言えない.つまり彼によれば,或る対象が或る属性を得るに際し無依存であるならば,その対象はその属性を必ず得る.反対に,他に依存しているならば,それは確実にその属性を得るとは言えない.

     非仏教徒は,彼が主張する,この,無依存性と確実性との関係に疑義を呈し,有依存であるが必ず起こるものを反例として挙げることで,この関係を否定する.幾つかある彼らの反例の中で哲学的に最も興味深いのは太陽の,出と没である.彼らによれば,太陽は出れば必ず没し,没すれば必ず上るが,時間というものに依存している.一方,仏教側の応答に目を向けると,プラジュニャーカラグプタがこの反例について興味深い回答を出している.

     本稿は,プラジュニャーカラグプタと彼の対論者が論じる,中世インド版「sunrise problem」とも言えるべき問題について考察する.プラジュニャーカラグプタは,太陽の,出による没の遍充,没による出の遍充を認めない.というのも,それらが繰り返し見ることに基づいているとしても,没した太陽が出ない,出た太陽が没しない,ことを斥ける正しい認識がないからである.

     プラジュニャーカラグプタが論じる問題は,ヒュームが提起した,いわゆる帰納の問題と本質を同じくするが,プラジュニャーカラグプタの場合,その議論は,宗教上の或いは護教論的な要請がその背景にあることに注意すべきであろう.

  • 岡崎 康浩
    2023 年 71 巻 3 号 p. 1052-1059
    発行日: 2023/03/25
    公開日: 2023/09/08
    ジャーナル フリー

     Pramāṇasamuccayavṛtti(PSV)は,現在KanakavarmanとDad pa’i shes rab(K)による蔵訳とVasudhararakṣitaとSeng ge rgyal mtshan(V)による蔵訳の2種の蔵訳でのみその全体像を見ることができるが,両蔵訳には,齟齬がかなり存在し,そのいくつかはPSVの理解を妨げている.とくに4章には,一方の蔵訳に存在し,一方の蔵訳には存在しない箇所がいくつかみられる.その多くは一方の蔵訳の欠落,または錯簡と考えられるが,その中で規模が大きく内容的にも重要なPramāṇasamuccaya(PS)4.4と4.5の間のK訳については,単純にV訳の欠落と考えることができない.それはこの箇所のK訳の持つ特異な性格にある.このK訳PSVとその注釈Pramāṇasamuccayaṭīkā(PST)を比較したとき,PSTにはこの箇所のPSVを引用し説明したと思われる箇所がなく,PSVの内容をただ敷衍していると思われることであり,逆にPSVがPSTの本文から抽出されたようにさえ見えることである.また,内容から考えて,この箇所はPS4.4とその前後のPSVで例示が同延関係を示すとした場合の難点を論じた議論の補完的なものであり,PSV自体はこの箇所がなくても意味が通じるものである.したがって,この箇所のK訳PSVは竄入の可能性が疑われる.

  • 渡辺 亮
    2023 年 71 巻 3 号 p. 1060-1064
    発行日: 2023/03/25
    公開日: 2023/09/08
    ジャーナル フリー

     インド密教サンヴァラ系の一流派を形成したクリシュナーチャーリヤ(Kr̥ṣṇācārya)に帰される『グヒヤタットゥヴァプラカーシャ』(*Guhyatattvaprakāśa-nāma)はチベットの大学僧プトゥン(Bu ston)の言及により<究竟次第>を説く儀礼書として知られている.その多くの詩節はインド密教聖典の諸説を総合・折衷した『サンプタタントラ』(Saṃpuṭodbhavatantra)と並行しているが,それを指摘する論考は未だ発表されていない.本稿では同書の第3章に確認できる『サンプタタントラ』との並行箇所を俎上に載せ,その内容を明らかにするとともに,クリシュナーチャーリヤの方軌が同聖典にどのように包摂されたのか,周辺文献を考慮しつつ,その一端を窺うことを目的とする.

     同書の第2章および第3章では後期密教聖典に見られるevaṃ māya śrutam云々―いわゆるbhaga-type―の序文(nidāna)を音節や語単位に区分し,それぞれに教理的な解釈を施す仕方が説かれる.その仕方を手短に述べるならば,序文の音節や語を符丁としてそれらが持つ表面的な意味以外のさまざまな事物や現象を修行者に認識させる仕方である.彼は自身の教義やその実践を序文という諸々の象徴語によって表現したのである.

     また重要な論点の一つは「般若(prajñā)と方便(upāya)」に代表される女性原理と男性原理の融和的合一であると考えられる.特に第3章では羯磨印(karmamudrā)との性的瑜伽によって獲得される般若智(prajñājñāna)がevaṃなどの符丁によって体得される仕方が説かれる.

  • 藤井 明
    2023 年 71 巻 3 号 p. 1065-1070
    発行日: 2023/03/25
    公開日: 2023/09/08
    ジャーナル フリー

     これまでにBhūtaḍāmaratantraの仏教版(Buddhist Bhūtaḍāmaratantra / BBT)とヒンドゥー教版(Hindu Bhūtaḍāmaratantra / HBT)の比較対照を行ってきた.本論文では両BTの入門儀礼に関する記述を比較対照した.

     両BTでは,いくつかの共有されない要素と共有される要素が認められる.仏教とヒンドゥー教間で何が共有される要素で,何が共有されない要素であるか,という具体的事例を両BTの入門儀礼を例に挙げて明らかにした.この儀礼は,BBTでは第4章のmaṇḍalapraveśavidhiとして示される箇所である.この記述に対応するHBTの章は第6章であり,dīkṣāvidhānaと説かれている.

     両BTの本儀礼中で共有されない要素としては,1. 入門儀礼の名称,2. Vajraの使用,3. マントラの暗号化,4. テクニカルタームの使用という4点が挙げられる.また,共有される要素として,1. 衣の色と覆面の使用,2. 忿怒尊との合一化とāveśa,3. kuladevatāを見せる作法と灌頂,4. 水の使用の4点が示される.これらの記述の分析の結果,BBTからHBTを編纂した改変者は仏教特有の術語を避けながらHBTを編纂したと推測される.即ち,仏教の教理や概念というものを理解していた者による編纂であった可能性が挙げられる.一方で,編纂者が単に理解出来ない術語を用いなかったという可能性もあるが,これを断定することは困難である.本論文で提示してきたBBTとHBTの対応関係が示すように,タントラ仏教におけるmaṇḍalapraveśaとヒンドゥータントリズムにおけるdīkṣāの儀礼はある程度は交替可能な儀礼であると言い得るであろう.

  • 横山 剛
    2023 年 71 巻 3 号 p. 1071-1076
    発行日: 2023/03/25
    公開日: 2023/09/08
    ジャーナル フリー

     チャンドラキールティ(Candrakīrti, 7世紀頃)が著したとされる『中観五蘊論』(*Madhyamakapañcaskandhaka, チベット語訳のみ現存)は,中観派の理解を交えながら,説一切有部の法体系を略説する小論である.しかし,アビダルマ的な色彩が強いために,一部の先行研究は同論をチャンドラキールティの真作とすることに疑念を呈する.筆者はこれまでにこれらの研究が提示する根拠を批判的に検討することで,それらが同論師の著者性を否定するためには十分でないことを指摘するとともに,真作を支持する新たな根拠を提示した.一方で,ツォンカパ(Tsoṅ kha pa, 1357-1419)も『善説金鬘』(Legs bśad gser phreṅ)において,これらの研究とは別の点から,チャンドラキールティの著者性に疑念を呈する.

     本稿は,ツォンカパの主張や根拠の詳細を明らかにするとともに,その妥当性を検討することを目的とする.ツォンカパは『善説金鬘』において,見所断の煩悩を断つ過程をどのように説くかという点を議論する中で,『中観五蘊論』の著者性に言及する.そこでは『倶舎論』と『阿毘達磨集論』の見道理論を対比しながら議論が進む.本稿では,両論における見道理論の差を明確化した上で,ツォンカパの主張を再考する.また,その主張の背景に,「有部の法体系=実在論」および「チャンドラキールティは世俗であっても実在論を認めない」という思想的な前提が見られることを指摘する.本稿では『中観五蘊論』の著作目的や性格を考慮に入れるとともに,有部アビダルマの法体系の性質にまでさかのぼって,これらの前提や議論の妥当性を検討する.そして,その主張や根拠がチャンドラキールティの著者性を疑問視するためには,十分ではないことを示す.

  • 根本 裕史
    2023 年 71 巻 3 号 p. 1077-1084
    発行日: 2023/03/25
    公開日: 2023/09/08
    ジャーナル フリー

     本論文はチベット仏教におけるmed dgagとma yin dgagという二種の否定に関わる概念を再検討するものである.サンスクリットの二種の否定表現として良く知られるprasajyapratiṣedha「想定否定」とparyudāsa「制限否定」は,シャーンタラクシタとカマラシーラのアポーハ論や,チベットのサンプ僧院で展開した空性論証解釈を経て,med dgag「不在」(ツォンカパによれば,何かの否定という形でのみ知られるもの)とma yin dgag「非在」(ツォンカパによれば,否定を通じて認識内に別の存在要素を投影するもの)という認識論的な概念へと変容した.これらがゴク・ロデン・シェーラプ,トルポパ,ツォンカパの中観思想・仏性論で重要な意味を担っている.多くの研究の蓄積があるにもかかわらず,今なお不明瞭と思われるのは次の二つの問題である.[1]チベット的なmed dgagとma yin dgagの特質は何であるか.[2]瑜伽行者の宗教的体験をma yin dgagないしmed dgagの概念によってどのように説明できるか.本論文ではこれらの問題を精査することにより,瑜伽行者は入定中に何も見ないのだとするガンポパ説,ma yin dgag「非在」を見るのだとするトルポパ説,med dgag「不在」を見るのだとするツォンカパ説の特色を論じ,med dgagとma yin dgagの概念がチベット仏教修行理論の本質を理解する上で有効な着眼点となることを指摘する.

  • 望月 海慧
    2023 年 71 巻 3 号 p. 1085-1093
    発行日: 2023/03/25
    公開日: 2023/09/08
    ジャーナル フリー

     Dīpaṃkaraśrījñānaは30を超える成就法を著しており,その観想対象となる尊格にはヒンディーの神々も見られる.Gaṇapatiはその一人であり,彼は2つのGaṇapati成就法を著している.すなわち,Śrīgaṇapatiśāntisādhana(P. no. 4986)とGaṇapatiguhyasādhana(P. no. 4990)である.また,Gaṇapatiの別名であるVighnarājaの成就法であるSunipuṇamahādevavighnarājasādhana(P. no. 4981)とGaṇapatiに対する讃歌であるGaṇapatirāgavajrasamayastotra(D. no. 3739, P. no. 4561)もあり,彼によるGaṇapati関係の著作は4書となる.さらに,彼には他の著者によるGaṇapati文献の翻訳が4書ある.著作のうち,第二の成就法は彼が翻訳したAmoghavajraの同名成就法とほぼ同じ内容であり,最後の讃歌は,図像的特徴が書き換えられて,最初の成就法に引用されている.ただし,彼の他の著作にはGaṇapatiに対する言及を見ることはできない.

     このうち,著作において描写されるGaṇapatiの図像的特徴を比較すると,最初のGaṇapati成就法では,白い身体・象頭・四手・鼠座で描かれており,チベットに伝わる彼の伝承と一致する.しかしながら,第二Gaṇapati成就法では,赤い身体・猿頭・四手で描かれており,上述のAmoghavajraの伝承と一致する.また,Vighnarājaの成就法では,赤い身体・四面三眼・十二手で描かれており,Abhayākaraguptaが編集したSādhanamālāに収録されるGaṇapati成就法の伝承に類似している.同じ著者が異なる図像的特徴を著したことは,彼が確定した図像的特徴を持っていなかったことと,異なる伝承をチベットに伝えようとしたことを意味している.

  • 朴 煕彦
    2023 年 71 巻 3 号 p. 1094-1098
    発行日: 2023/03/25
    公開日: 2023/09/08
    ジャーナル フリー

     密教を顕教から区別づける要素として,入門儀礼でもあり,成就の手段ともされる灌頂(abhiśeka)を挙げることができる.一般に灌頂は,瓶灌頂,秘密灌頂,般若智灌頂,第四灌頂に分類される.そのうち,第四灌頂の定義と目的についての解釈は多様であり,第四灌頂の設定自体を否定する立場,般若智灌頂の一部とする立場,言葉による灌頂とする立場,言葉による灌頂とは異なる儀礼であるとする立場などが共存してきた.本稿ではアティシャ(Atiśa Dīpaṃkaraśrījñāna, 982-1054)の密教著作『現観分別』(Abhisamayavibhaṅga)と見修広説(lTa sgom chen mo)を中心として彼が説いた第四灌頂の定義と目的の究明を目指す.

     結論として,まず,アティシャは第四灌頂を言葉による世俗諦と勝義諦の双入の説示として定義することを指摘し,二諦の双入が説示される理由は修行者が勝義諦のみにとどまることを防ぎ,利他行を行うための基盤を提示するためであることを明らかにする.最後に二諦の双入を成就した者が自他の利益のために実践すべき行為としてアティシャは如何なるものを提示するかを論じる.

  • 福島 マシュー
    2023 年 71 巻 3 号 p. 1099-1103
    発行日: 2023/03/25
    公開日: 2023/09/08
    ジャーナル フリー

     本論文はチベットの有名な学僧であるツォンカパが著した『密意解明』(dGongs pa rab gsal)の構造を示し,そしてその特徴を明らかにすることを目的とする.

     『密意解明』は生起次第の修行者向けのヘールカ身体曼荼羅の成就法儀軌である.本テキストではガンターパの直接引用は見られないが,その内容から見るとガンターパの成就法を元にしていることは明らかである.『密意解明』はツォンカパの晩年,およそ1415年頃の著作と思われる.奥書によれば,チベットのガンデン寺にて書かれ,カシパ・リンチェンによって書き写された.ツォンカパは複数の高僧からの要請を受け,この教えを説いたということである.テキスト自体は27フォリオからなり,主に散文で書かれている.構成はチベットで作られた一般的な儀軌の構成となっている.

     ツォンカパは『密意解明』を2つの部分に分けている.それは(1)「実際の修習の次第」(lam sgom pa’i rim pa dngos),(2)「修習の効能」(de ltar bsgom pa’i phan yon)である.また(1)はさらに(1.1)「修習の対象」(gang gis sgom pa’i rten),(1.2)「修習の場所」(gang du sgom pa’i gnas),(1.3)「修習の実践方法」(ji ltar sgom pa’i tshul)と3つに分かれており,(1.3)が成就法の中心をなす.

     本成就法は瞑想・儀式の準備から始まり,次に外曼荼羅の観想が行われる.その後身体曼荼羅の観想が行われ,供養や賞賛,曼荼羅を対象とした瞑想が行われる.最後に真言の念誦とバリ供養が行われ,成就法の修習が終了する.この構造はガンターパの『吉祥なるチャクラサンヴァラの成就法』と概ね一致するが,ガンターパのものよりはるかに詳しく説かれている.本論文ではにそれぞれの部分を詳細に検討する.

  • 矢ノ下 智也
    2023 年 71 巻 3 号 p. 1104-1107
    発行日: 2023/03/25
    公開日: 2023/09/08
    ジャーナル フリー

     仏教の業報輪廻の理論によれば,真実に対する誤った認識(無明)を断じていない凡夫(so so skye bo, pṛthagjana)は,その真実を原因として善業や不善業を積み,善趣や悪趣へと輪廻する.一方で,真実に対する誤った認識を断じている聖者が,業を積んで輪廻することはない.ツォンカパ・ロサンタクパ(Tsong kha pa blo bzang grags pa: 1357-1419)は,聖者は真実を直証した後も善業や不善業を積むが,彼らがその業によって輪廻することはないと理解する.彼によれば,輪廻の原因となる業を積むのは凡夫である.ただし,このことは凡夫が積む業であれば必ず輪廻の原因になるということを意味するのではない.後代のゲルク派の学僧セー・ガワンタシ(bSe Ngag dbang bkra shis: 1678-1738)によれば,未だ聖者位に到達していない凡夫である声聞資糧道者が積む善業は,輪廻の原因にならない.なぜなら,その善業は輪廻の根源である有身見(’jig lta, satkāyadṛṣṭi)によって発動されたものではないからである.ただし,声聞資糧道者はその善業を積むことによって来世で人間に再生することになる.これは一見すると輪廻しているように見えるが,ガワンタシはそのようには理解しない.彼によれば,解脱や一切智を獲得するためには,何度も人間へと再生し,修行をしなければならないからである.もしも,その再生が輪廻であったら,声聞資糧道者は解脱することができなくなってしまう.ガワンタシの理解の背景には,「輪廻」(’khor ba)とは何かという問題があったと考えられる.彼にとって「輪廻」とは,業によって再生すること全てを意味するのではなく,その再生が業を積んだ本人に苦しみをもたらすことだけを意味するのである.

     『縁起大論』(rTen ’brel chen mo)の問答を分析することで,ガワンタシが業を「輪廻の原因となるもの」と「解脱や一切智へと導くもの」という二つに分類していることが明らかとなった.彼の理解は「解脱や一切智を獲得するためにはどのように修行をすべきか」という大乗仏教における救済論的な問いに対する一つの答えである.

  • 伊藤 奈保子
    2023 年 71 巻 3 号 p. 1108-1115
    発行日: 2023/03/25
    公開日: 2023/09/08
    ジャーナル フリー

     インドネシアにおける文殊菩薩は文殊信仰や密教を考察する上で重要な尊像である.本論では2007年出版の執筆書籍を再考し,インドネシアの文殊菩薩の図像と特徴について述べる.現存作例は鋳造像は現段階で26軀,8-11世紀頃の中部ジャワ地域,東部ジャワ地域,スマトラにみられ,石造像は単独像が中部ジャワのプラオサン寺院に多く,また東部ジャワに1軀が確認できる.鋳造像・石造像ともに右手を与願印,左手には梵夾を載せた蓮茎を執る作例が多い.寺院のレリーフではボロブドゥールの『大方広仏華厳経』「入法界品」やムンドゥット寺院の八大菩薩の内の1軀として8-9世紀頃に建立された中部ジャワ地域の壁面などにみられる.8世紀頃のクルラク碑文では中部ジャワ地域に文殊菩薩の信仰があったことが読み取れ,造像の時期からも8世紀頃には文殊菩薩が中部ジャワ地域を中心に信仰の対象とされた可能性が考えられる.また鋳造像,石造像ともに頭部背後に三日月形がみられ,ボロブドゥールの仏伝図から7歳以下の童子と,ムンドゥット寺院の男女尊のレリーフに,群がる童子に三日月形が表現されることからインドネシアでは頭部背後の三日月形が童子を示す表現である事が導き出せる.また『陀羅尼集経』『文殊師利宝蔵陀羅尼経』などの経典に「文殊は童子形」であることが説かれ,尊像が三日月形のほかに,頭部の髻や獣牙の胸飾,ふくよかな体躯などからも,インドネシアの文殊菩薩は明らかに経典の童子を意図した造像がなされたことがうかがえる.

  • 李 子捷
    2023 年 71 巻 3 号 p. 1116-1121
    発行日: 2023/03/25
    公開日: 2023/09/08
    ジャーナル フリー

     本論において,筆者はまず不空(705-774)訳『大方等如来蔵経』を仏陀跋陀羅(358-429)訳『大方広如来蔵経』と比べる.その結果,仏陀跋陀羅訳によく見られる「仏性」という訳語が,不空訳に見当たらないことが分かる.なお,不空に使用される「胎蔵」という訳語は,仏陀跋陀羅訳にもチベット訳にも見当たらない.これより見ると,不空がgarbhaを「胎蔵」と漢訳した可能性を指摘できる.

     『如来蔵経』だけでなく,筆者は更に『金剛頂経』などの不空訳とされるほかの諸経論に見える「胎蔵」を確認することにより,この漢訳語の根源を探ってみたい.『金剛頂経』の梵本と不空訳との対照を通して,後者に見られる「虚空界胎蔵」という訳語が複数のサンスクリット語単語に対応することが明らかになる.このため,よく「蔵」と訳されるgarbhaが,不空訳の場合になると,しばしば「胎蔵」と翻訳される,という結論に至る.

  • 唐 秀連
    2023 年 71 巻 3 号 p. 1122-1127
    発行日: 2023/03/25
    公開日: 2023/09/08
    ジャーナル フリー

     本稿では「捨生取義」(生を捨て義を取る)について大乗仏教の倫理的観点から述べる.

     「捨生取義」の倫理的命題は先秦時代の儒教にさかのぼる.漢字の「義」という字は,主に公正または正義を意味するが,仏教ではその概念に独自の解釈がある.仏教の経典において,「捨生取義」は「捨身護法」(身を捨てて法を護る)の考えに最も近い.『勝鬘経』や『央掘魔羅経』など,大乗仏教の方等経では,自分の命を犠牲にして「正法」を守ることを強く唱導している.

     「捨身護法」は大乗仏教で高く評価されてはいるものの,そのような行為はその複雑性から必要な道義的責任とは見なされていない.仏教では世俗の道徳規範は「世俗常数」以上のものではないと信じられている.よって,世俗の倫理的規範や義務を忠実に実践することと比較して,仏教では道徳的行為が「涅槃」に通じる正しい道へと導くものであるかに重点が置かれている.それゆえ,真の「正法」と「捨生取義」の間で,大乗仏教の倫理観では前者により大きな価値を置き,それを後者の評価基準としている.

  • 李 乃琦
    2023 年 71 巻 3 号 p. 1128-1133
    発行日: 2023/03/25
    公開日: 2023/09/08
    ジャーナル フリー

     『一切経音義』は唐代の僧侶である玄応に編纂され,現存する最古の仏典音義である.奈良時代に日本に伝来し,盛んに書写された.現在,中国に所蔵されている『一切経音義』の版本に対し,写本は日本しか残されていない.その他に,大英図書館やフランス国立図書館には『一切経音義』の敦煌・吐魯蕃断片群が所蔵されている.2019年,国際仏教学大学院大学と中国国家図書館古籍部とが共同編集した宋版思渓蔵が公開できるようになった.思渓蔵は高麗再雕本を底本とする大正蔵の対校本として,利用する価値がある.

     本論文は,『一切経音義』写本(正倉院蔵本,金剛寺蔵本,法隆寺大治三年写本,七寺蔵本,西方寺蔵本,広島大学図書館蔵本,東京大学史料編纂所蔵本,京都大学国語学国文学研究室蔵本,天理図書館蔵本,興聖寺本)と版本(高麗初雕本,高麗再雕本,磧砂蔵本,宮内庁蔵本)を対照する.思渓蔵『一切経音義』を中心に,諸本と異同のある内容を通して,思渓蔵の特徴を検討する.

  • 孫 眞(政完)
    2023 年 71 巻 3 号 p. 1134-1139
    発行日: 2023/03/25
    公開日: 2023/09/08
    ジャーナル フリー

     『佛子必覽』(1931)と『釋門儀範』(1935)にある‘往生淨土符食法’の種類と活用方法,意味を調べることを目的とする.『佛子必覽』と『釋門儀範』は,韓国の仏教儀式の體系化と近代化という点で重要な位置を占める儀式書である.特に,朝鮮後期の韓国仏教では儀式集の集中的に刊行された.今回の研究では,死者を浄土に往生させる‘往生淨土符’を摂取する過程に焦点を合わせたものである.主に,‘往生淨土符食法’と三長六齋日の関係性と展開についての考察である.この符を燃やし,その灰を水に溶かして摂取する行為は見えない力を内在化することである.つまり,この符を通して韓国仏教の符籍に関した側面を見ているが,それは浄土に生まれ変わりたいという仏教的な側面を意味する.並に,神秘的な符籍が仏教儀式の一部として使われたことも分かる.

  • 辻本 臣哉
    2023 年 71 巻 3 号 p. 1140-1144
    発行日: 2023/03/25
    公開日: 2023/09/08
    ジャーナル フリー

     本稿では,法華験記において神祇の登場する説話に対して,どのような神仏習合理論の影響があるかを検証した.神仏習合理論は,護法善神説,神身離脱説,本地垂迹説の三つに分けられる.まず,奈良時代に,護法善神説と神身離脱説が広まる.護法善神説では,神は仏法を保護する護法神とされる.一方,神身離脱説では,神は衆生と同様,迷える存在であり,受苦の身を脱するため仏法の力により救われるとされる.平安時代になり,本地である仏・菩薩が衆生を救済するために神として現れるとする,本地垂迹説が登場し,徐々に神仏習合理論の主役となる.

     検証の結果,社格の高い神には,護法善神説が適用されている一方,社格の低い神には,神身離脱説が適用されていることが確認された.本地垂迹説については,その影響を受けた説話はなかった.しかし,同一の神祇に,護法善神説と神身離脱説の二つの理論が適用されていることもあり,神の分類は,単純ではなく,多層的である.

  • 亀山 隆彦
    2023 年 71 巻 3 号 p. 1145-1151
    発行日: 2023/03/25
    公開日: 2023/09/08
    ジャーナル フリー

     本稿では,平安末期の真言僧覚鑁が著した『五輪九字明秘密釈』の「正入秘密真言門」中に説かれる「九字曼荼羅」に着目し,本曼荼羅の成立経緯と背景に関して考察を試みる.

     『五輪九字明秘密釈』所説の九字曼荼羅とは,阿弥陀仏の九字真言《oṃ》《a》《mṛ》《ta》《te》《se》《ha》《ra》《hūṃ》を核とする曼荼羅思想である.中央の観音,第一重の八葉蓮華に配置される八仏,第二重の八葉蓮華に配置される八大菩薩,および十二大供養菩薩といった要素から構成される.先行研究では,この曼荼羅を構成する要素が,どういった経論・儀軌・教説に由来するかについて,議論が蓄積されてきた.

     先ず,中央と第一重の八葉上の九尊に関しては,不空訳『無量寿如来観行供養儀軌』起源と見て間違いない.一方,第二重の八葉上に配される八大菩薩については,菩薩の選択と配列から,不空訳『八大菩薩曼荼羅経』由来とも考えられるが,『五輪九字明秘密釈』の場合,『八大菩薩曼荼羅経』には無い九字真言と八大菩薩の対応が説かれるという問題が残される.

     この問題に関して,赤塚祐道氏は,中世期の密教僧が著した各種典籍を分析し,その中に記される「阿弥陀法」で用いられる密教瞑想法「字輪観」に関連して,九字真言と八大菩薩の対応が示されることを指摘する.さらに,その指摘に基づき,中世密教僧が用いた九字真言の字輪観が,『五輪九字明秘密釈』の九字曼荼羅の典拠と推測する.

     筆者も,赤塚氏の推測に同意する.しかし,現段階では,論拠が十分でないという問題も残る.本稿では,この課題の克服を目標に,『五輪九字明秘密釈』の九字曼荼羅と高山寺蔵『五臓曼荼羅』の一部記述の比較に取り組む.この比較を通じて,九字曼荼羅と字輪観が置き換え可能であること,両者が文脈の面で非常に近い位置にあることを明らかにする.

  • 2023 年 71 巻 3 号 p. 1155-1276
    発行日: 2023/03/25
    公開日: 2023/09/08
    ジャーナル フリー
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