抄録
他者に対して性的に惹かれないという意味のアセクシュアリティは,アメリカ精神医学会(APA)が出版する精神疾患の診断・統計マニュアルのDSM第3版(DSM-Ⅲ,1980年)では,性障害とみなされていた。そこには,性行為の存在を所与とするだけでなく,恋愛とセックスを直線的に結びつける性規範が背景に存在しているからである。しかし,アセクシュアリティは,DSM第5版では性的欲求低下障害の診断基準から除外されるようになった。本論文は,このDSMの改訂過程を通じて,アセクシュアル当事者団体AVEN(Asexual Visibility and Education Network)が医療言説に抵抗するために,どのような戦略を用いたのか,またどのように医療言説に隠されている性規範に抵抗したかを明らかにすることを目的とする。主たる方法としては,同団体がDSM改訂検討会議で発表した報告書を分析した。その結果,同団体がアセクシュアリティを性的指向と定義づけることによって性的欲求低下障害と区別し,性の医療化に抵抗したことが明らかになった。このことを踏まえると,AVENはその活動の過程で,セックスと恋愛の間に想定されている直線的関係を切り離すことで性規範の外縁を拡張する言説を創出したといえる。