2011 年 87 巻 2 号 p. 69-86
我が国において明治中期から大正終期にかけて原因不明であった乳幼児の仮称所謂脳膜炎の原因が,1923年,平井毓太郎による研究報告によって,母親の使用する白粉中の鉛に起因する鉛中毒であることが解明された。しかし,異論ないし疑義を呈する研究者があり,就中,高洲謙一郎は2編の原著と1編の講筵をもって最後まで疑義を徹した。これらに対して平井もそれぞれ原著2編と講筵1編をもって疑義に対する解釈という表現で応答した。高洲のほか谷 保平,唐沢光徳,長濱宗佶も部分的に疑義を呈し,平井は前二者に簡単に応答した。これらの平井による応答によって,鉛毒説に対する疑義はその後継続することなく終息し,鉛毒説は確立した。(表1,写真3)