2020 年 13 巻 p. 12-31
多文化共生という用語は現代日本社会で定着している。しかし、1990年代にこの言葉が登場し受容されるまでの地域の多彩な経緯は、特定の地域を除き明らかにされておらず、理念と政策用語とのあいだに乖離が生じている。本稿では、1970-80年代における大阪府豊中市における公立学校に注目し、教員たちによる在日朝鮮人教育の歴史を、地域史の立場から明らかにすることを目的とする。豊中市は在日朝鮮人が多く住む集住地ではなく、在日朝鮮人教育の主な担い手は日本人の教員たちであった。豊中の教員たちは、自主的な研修活動をつうじて、先行する民族教育の実践に学びながら、教科書記述を検討したり自主教材を作成したりし、夏休みには当事者だけが集まる夏期学校に取り組んだ。1980年には豊中市の教育方針として「在日外国人教育基本方針─主として在日する韓国・朝鮮児童生徒の教育─」が策定された。この背景に、1960年代以来の同和教育や障害児教育の実践という歴史があり、また、国際人権規約の批准といった同時代の変化も影響していた。在日朝鮮人児童・保護者の受け止めは多様であり、働きかけが拒絶される例もみられたが、教員たちは子どもの民族意識をはぐくむ努力を続け、この取り組みがのちに中国残留日本人の子どもたちが学校に通学するようになった際には受け皿ともなった。各地域固有の文脈にもとづく在日朝鮮人教育の多様な実践を引き続き明らかにしていくことが必要である。