2022 年 39 巻 1 号 p. 2-5
東京電力福島原子力発電所事故にともなう福島県民の被ばく線量に関して,甲状腺の131I蓄積量の実測値が少なかったこともあり,線量の推計が長らく定まらなかった。「原子放射線の影響に関する国連科学委員会(UNSCEAR)2013年報告書」の甲状腺吸収線量評価値は,不確実性が多く,過大評価になっていた。この10年,国内の研究グループの努力により,線量評価の方法論が整備され,被ばく線量推計の精度が向上した。これらの日本人研究者による研究成果を反映したことにより,2021年2月に公開された「UNSCEAR 2020年報告書」では,UNSCEAR 2013年報告書で公表した福島県民の甲状腺吸収線量を改訂し,プレスリリースにおいて「放射線関連のがん発生率上昇は見られないと予測される」と発表するにいたった。本小論では,過去10年の研究の推移を概説し,甲状腺線量評価の現状を報告する。
2011年3月11日に発生した東日本大震災と巨大津波により東京電力福島第一原子力発電所(以下,東電福島第1原発と略す)は炉心冷却機能を失い,炉心の核分裂生成核種のうち,ガス状あるいは溶融して気化した核種を中心に,環境中に漏洩し,放射性プルームとして東日本に拡散した。このうち,短半減期の放射性ヨウ素である131I,132I,133Iおよび放射性テルル132Teが甲状腺被ばくを起こす主要な核種である。漏洩のタイミングは,1号炉においては3月12日14時30分頃のベントと15時36分の水素爆発ごろから漏洩が始まっており,3号炉においては3月14日11時1分の水素爆発の前から,そして2号炉においては3月15日6時10分の4号機水素爆発の前後には漏洩が始まっていたと思われる。原子放射線の影響に関する国連科学委員会(以後UNSCEARと略す)は,この事故に伴い120 ペタベクレル(PBq)の131I,29PBqの132Te/132I,そして9.6PBqの133Iが漏洩したと評価している[1]。幸いなことに,事故当時,季節風が西から東に吹いていたおかげで,放射性プルームの多くは太平洋に沈着した。UNSCEARは放出された放射性セシウムの約23%は陸地に沈着したと評価している。
甲状腺被ばくを起こす経路は,吸入被ばく,経口被ばくと外部被ばくがある。被ばくのレベルは,避難や屋内退避や水道,生鮮食料品の摂取制限,安定ヨウ素剤の服用などの防護対策により大きく変わる。このため,線量評価は,汚染水道水や食品の摂取状況の評価,個々人の避難行動,屋内退避の防護効果の評価,日本人のヨウ素代謝の特性など多面的な検討を行わなければならない。UNSCEAR 2013年報告書の甲状腺吸収線量評価値は,経口被ばく線量を過大に評価するなど不確実性が高かった[1]。この10年間,国内の研究者の努力によりこれらの線量評価に係わるデータが集積され,現実的な線量再構築が可能となった。本小論では,過去10年の研究の進展を概説し,甲状腺線量再構築の方法論および評価値に関して概説する。
大気拡散シミュレーション(ATDM)とは,原発からの放射性核種の単位時間当たりの放出情報(ソースターム)と経時的な風向きや風速,気温,湿度などの気象場情報を組み合わせて,放出されたガス状あるいは粒子状の放射性物質(放射性プルーム)がどのように拡散し,化学型を変化させ,沈着していくかを計算するプログラムである。ATDMにより,大気中の放射性核種の濃度の時間的空間的広がりや,地上への経時的な単位時間当たりの沈着量や,経時的空間線量率の推移などが計算できる。日本原子力研究開発機構(JAEA)の研究者達は,5年の歳月をかけて大気拡散シミュレーションを精緻化するためにプログラムを更新し[2,3],空間線量率や地上の137Cs沈着密度や129I/131Iの土壌汚染密度,あるいは事故以前から稼働していた各地の浮遊状粒子状物質(SPM)モニタリングステーションのフィルターに残されていた137Cs粒子濃度などの実測値[4,5]を参照しながらATDMシミュレーションとソースタームの最適化を行った。その成果として2019年に福島県をカバーする1kmメッシュおよび関東甲信越から岩手県,秋田県をカバーする3kmメッシュ別に3月12日から3月31日までの期間の131I(粒子型,元素ヨウ素,メチル化ヨウ素の化学型毎),134Cs,137Cs,132Teの一時間毎の大気中および地表面での核種濃度データベース(WSPEEDI _2019DB)を完成させ,報告した[5]。このデータベースは,私たちやUNSCEAR 2020年報告書の甲状腺線量評価の基本的データとして使われている。WSEEDI_ 2019DBと行動調査票に書かれている住民の位置情報を突合することにより,より現実的な被ばく線量を推計することが可能となった。
県民健康調査基本調査で実施した行動調査票を使って,3月11日から7月11日までの日々の居場所とその市町村のガンマ線空間線量率マップを組み合わせて実効線量が計算できる。3月11日から3月14日の空間線量率は実測値が少ないため,WSPEEDIによるシミュレーション結果を利用し,3月15日からは文部科学省が公表した空間線量率マップを使っている。市町村別の外部被ばく線量の分布は,福島県のWEB頁にも公開されており,県北・県中の住民の90%以上が2mSv未満,県南地区住民の約91%,会津・南会津地区住民の99%以上,およびいわき地区住民の99%以上が1mSv未満と評価されている。一方,避難地区を含む相双地区の約78%が1mSv未満である一方,自主避難が遅れた住民のいた浪江町や飯舘村では,最大25mSvまで外部被ばく線量が分布している[6]。ここで計算されているのは実効線量であるが,その1.2倍が甲状腺の吸収線量となる。
1986年旧ソ連邦のチエルノブイリ原発事故の時は,131Iで汚染されたミルクを子供達が消費し続けたことにより,ベラルーシの避難小児の甲状腺線量が0.2~5Sv以上と高くなった。一方,東電福島第1原発事故の場合は,Hirakawaらの調査によればミルクや野菜からの内部被ばくは少なかったと思われる[7]。被災の影響が少なかった会津地方を除くと,ミルク集荷場やクーラーステーションなどが被災し,操業が一時停止された。19日に操業再開にこぎつけたものの,16日から開始されていた流通前の原乳のモニタリングにより暫定規制レベルを超える汚染が検出されたことを受け,19日からは川俣町の原乳の出荷・自家消費の自粛要請が出され,3月21日からは福島県産の原乳の出荷制限が開始された。また,野菜類に関しては,地物野菜の緊急モニタリングが3月19日から開始され,20日にはその結果がでるまで路地野菜の出荷自粛要請が出されていた。出荷自粛要請前に消費していた可能性もあるが,多くの小売店は,震災直後より休業を余儀なくされており,県民は事故以前から保管していた生鮮食料品を食べていたと思われる。このような事情から,福島では131Iで汚染したミルクや葉物野菜による内部被ばくは,一部の自家消費を除けば,ほとんどなかったと判断される。
一方,水道は少し事情が異なっている。震災の影響で県内の水道網は一時断水となったが,断水は3月14日から16日には復旧している。この間,避難住民や被災地住民に対し,自衛隊の給水やペットボトルの配布が行われているが,井戸水や沢水も使われていた。水道の汚染検査の開始時期は自治体により異なり,3月16日以降に開始された。雨や雪により放射性プルームが地上に落とされ,土壌汚染が高かった原発から北西方向の地域は,とりわけ水道の汚染が問題となる。川俣町では測定開始した3月17日に暫定基準値を超す汚染が記録されており,同じく飯舘村でも測定開始した3月20日に暫定基準値を超す汚染が記録されている。暫定基準値を超した自治体は翌日から水道水,沢水の摂取制限を実施しているが,それまでは汚染された水道水を飲料や調理水として利用していたため,内部被ばくの原因となった。
水道水からの内部被ばくに関しては,ワン・コンパートメント・モデルを構築し,WSPEEDI_2019DBの水源への131I沈着量と水道水の131I実測値を使い,実測値のない地域や時期の水道水131I濃度を推計することができる[8,9]。ICRPの年齢階層別131I経口摂取の甲状腺等価線量換算係数(Sv/Bq)と水道水131I濃度(Bq/L)と一日の水道水摂取(飲用および調理)を掛け合わせることにより,1日毎の甲状腺等価線量(TED)が計算される。
ICRPの甲状腺モデルでは,体内に摂取された30%が甲状腺に取り込まれると仮定しているが,日常的にヨウ素摂取量の多い日本人ではヨウ素取り込み率が低い。UNSCEAR 2020報告書では,日本人の甲状腺ヨウ素取り込み率を15%と修正して線量評価しているが,その値は,Kudoらが報告した現代の日本人の甲状腺ヨウ素取り込み率(18.6±6.0%)と矛盾しない[10]。
原発から漏洩した放射性核種の大気中濃度は,3次元的に拡散するため,原発に近いほど濃度が高く,遠方に行くほど希釈される。このため,吸入被ばくは原発の近くで吸入した住民ほど高くなる。放射性プルームは,基本的には原発から太平洋方向に流れていたが,3月12日午後から夜にかけて北方向に流れ,15日朝には南方向,午後から夜にかけて北西に向きを変え,16日朝には南方向に流れている。18日には北方向,20日夜には一旦北方向に流れ,その後21日朝にかけて南方向に向きを変えている。このため,吸入被ばく量は,住民の避難のタイミングや避難先,非避難者の場合は,居住地区により大きく変わる。行動調査票と突合しない限り,現実的な線量評価ができない。私たちは避難地区およびその周辺16市町村の19歳以下住民の行動調査票を無作為抽出することにより,市町村毎の甲状腺吸入被ばく線量の分布を推計した[11,12]。そして,UNSCEAR 2020報告書では,私たちが報告した避難地区住民の行動パターン37と葛尾と広野の3パターンを使って線量評価している。
吸入被ばくにおいては,屋内退避によりプルームの曝露量が変わることが知られているが,日本家屋での実測値はなかった。JAEAのHirouchiらは,東日本の建築年代の異なるコンクリート住宅や日本家屋を使って換気率を実測し報告した[13,14]。私たちやUNSCEARは,Hirouchiらの報告を元に屋内退避によるプルームの防護効果を0.5と算定した。さらに,吸入被ばくにおいても,日本人の甲状腺ヨウ素取り込み率の補正を加えることにより,より現実的な甲状腺評価が可能となった。
2011年3月下旬にいわき市,川俣町,飯舘村において1,080名の小児の甲状腺簡易測定が実施され,甲状線に蓄積していた131I活性が計測された。Kimらは,この測定値を元に急性被ばくシナリオと測定日までの慢性被ばくシナリオでの甲状腺等価線量を再評価し2020年に報告した[15]。私たちは,WSPEEDI_2019DBと行動調査票を組み合わせたシミュレーションベースの甲状腺等価線量評価値が,ほぼKimらの急性被ばくシナリオと慢性被ばくシナリオの報告値の間になることを報告し,精度良く甲状腺線量が再構築されていることを確認した[11,12]。避難地区およびその周辺の16市町村の1歳児の甲状腺等価線量の平均値は,伊達市の1.3mSvから南相馬市小高区の14.9mSvに分布しており,95パーセンタイル値は伊達市の2.3mSvから浪江町の28.8mSvに分布した(論文投稿中)。吸入と経口被ばくの割合により変わるが,成人の甲状腺等価線量は1歳児の33%~45%である。私たちの評価値は,実測値のあるいわき市,川俣町,飯舘村で比較するとUNSCEAR 2020報告書[16](Table A20)より高く,実測値ベースの値に近い。
再評価された小児甲状腺線量の平均値は,最も高い地区でも10mSv未満と低く,ATDMや行動調査票や屋内退避や甲状腺ヨウ素取り込み率の不確実性を考慮しても,その3倍程度の値である。これまでの疫学調査から得られている0.1Gy当たりの甲状腺がんリスク[16,17]から考えると,被ばくによる甲状腺がんの過剰発症は,バックグラウンドに隠れて検出できないと考えられる。