抄録
複雑な社会生活を営むニホンザル集団の中で, 母ザルはそれぞれことなる生物的・社会的背景をもって幼体を出産し, 保育する。同時に, 母ザルは幼体の行動発達に最も大きな影響をおよぼす存在でもある。このように, 母ザルは長期間にわたる幼体への直接的なかかわりを通してそれぞれちがった行動特性をもつ個体を育てることにより, ニホンザルの社会や集団の維持と変容に積極的に関与する (3)。したがって, ニホンザルにおける母子関係というのは, まさに狭い意昧での子育て以上のものである (4) 。霊長類を対象とした母子関係についてこれまで多くの研究がなされてきたが, 母と幼体を結びつける心理・生物学的な基礎について十分明らかにされているとはいえない。とりわけ, 幼体は誕生直後でさえも自ら積極的に外界にはたらきかけており, このような能力は系統発生のプロセスを経て個体が有しているという視点がこれまでの諸研究ではほとんどとられてこなかったように思われる。
幼体の外界への積極的そして自発的なはたらきかけは動物の種のちがいによってことなり, また, 同じ種の動物であっても発達段階のちがいによってことなる。幼体の外界に対するはたらきかけの積極性や自発性は, 当然のことながら, 自らの母にも向けられる。しかも, 発達初期の幼体にとって母とのかかわりあいはそれ以後の発達にとっても極めて重要である。したがって, 幼体を発達初期に母から隔離し, 単独で飼育することは, 幼体の発達に大きな影響を与える。ことに, 母子隔離の幼体に与える影響は, 隔離時における幼体の年齢 (発達段階) および隔離前後の母子関係のあり方などによってことなる (2, 7, 11, 12, 14, 16) 。
野外で生息するニホンザルの幼体は満1才の頃になると母からかなり遠く離れて行動するようになる。つまり, ニホンザルの幼体における満1才という時期はそれ以前よりも母とのかかわりが量的に減少するとともに, 質的に転換する時期の一つでもある。本研究の目的は, 生後1年間の生育条件のことなるニホンザルの幼体を6ヵ月間にわたって母から隔離し, 隔離期間中における幼体の行動変容, 隔離前と隔離後の母子共生事態における幼体の母へのかかわりの変化と母の幼体へのかかわりの変化および両者の関連性を明らかにすることである。
幼体と母ザルを一時的に分離し, 再共生を行ない, その間の行動変容を分析することはニホンザルの母子関係を明らかにする上で有効な方法の一つである。本研究は生育歴をことにする3個体の母ザルとおよそ1才の幼体を対象として1ヵ月間の母子隔離, その後の再共生による行動の変化を分析した。幼体の音声, 母へのしがみつき行動, 幼体と母のグルーミング行動, 母の幼体を抱く行動, および母子間距離などが行動の変化をあらわす指標として用いられた。
行動の生起には大きな個体差が認められたが, 勝山集団における生活の経験をもつ個体ともたない個体では, 隔離の影響がことなるようである。本研究において, 幼体と母の生育歴, 隔離による幼体の行動の変化, および隔離前の母子共生と隔離後の母子再共生事態における幼体と母とのかかわりあい, などの間に関連性のあることが示唆された。