2023 年 32 巻 2 号 p. 67-73
トラウマインフォームドケアは,1990年代に北米で発展してきた,トラウマの理解に基づいた支援の基本概念である.日本に紹介されたのは,2010年代に入ってからであり,その先陣を切ったのが精神看護領域だった.一人一人のクライエントを大切にし,その人の痛みに寄り添い,困難な状況をサポートしようとする精神保健看護の精神は,まさにTICの基本概念に通じるものである.
この度は,精神保健看護に関する最大規模の学術団体の第33回学術集会にお招きいただきましたことをとても光栄に存じます.
私が勤務する兵庫県こころのケアセンターは,1995年に発災した阪神淡路大震災後のいわゆる「こころのケア」にとりくむ目的で立ち上がった組織である.トラウマに関する研究,人材育成,支援者への支援などを行うほかに,併設の精神科診療所では心的外傷後ストレス障害(posttraumatic stress disorder, PTSD)やトラウマ関連障害のケースに,エビデンスに基づいたトラウマ専門治療を提供している.その一方で,トラウマを体験する人は,全世界中で莫大な数にのぼることが判明しており,対人支援に関わる全ての人がトラウマの視点を持っておくことの重要性が強調されるようになった.
本日のテーマである,トラウマインフォームドケア(Trauma-Informed Care, TIC)とは,医療・看護・保健・福祉・教育・司法などさまざまな領域で,トラウマについての理解を深め,サービスの多様な局面でトラウマへの癒しを大切にしようとする支援の基本概念である(Hopper, Bassuk, & Olivet, 2009).注目する側面によっては,Trauma-Informed ApproachやTrauma-Informed Practice,Trauma-Informed Systemなどの用語が用いられることもある(Substance Abuse and Mental Health Services Administration, 2014a).
ここでは,精神保健看護において,いかにTICの視点を生かしていくことができるのかについて概観したい.
トラウマティック・ストレス(トラウマ,心的外傷)とは,「個人の力では対処できないような外的な出来事を体験したときのストレス」であると定義されている.最近では,出来事(Event)や状況の組み合わせの結果として生じ,身体的・感情的に有害であるか,または生命を脅かすものとして体験(Experience)され,個人の機能的および精神的,身体的,社会的,感情的またはスピリチュアルな幸福に,長期的な悪影響(Effect)を与えるものであるとされている(Substance Abuse and Mental Health Services Administration, 2014a).すなわち,トラウマとは3つの「E」の掛け算で規定されるものなのである.私たちは,臨床場面で,身体外傷に対応するものとして,「こころのケガ」という用語を使うこともある.
トラウマ的出来事には,自然災害や事故,犯罪,虐待,性暴力(子どもでは年齢不相応な性的体験),戦争などを体験したり,誰かが被害にあっているのを目撃したりすることが挙げられている.医療従事者が忘れてはならないのは,怖くてつらい医療行為もトラウマになりうるということである.精神科治療における非自発的入院や隔離拘束などの強制治療も,場合によってはトラウマとなりうる.
最近の報告では,世界各国で約7割,日本では約6割の人が,このような出来事を最低1つ体験していると報告されている(Kawakami et al., 2014;Kessler et al., 2017).つまり,トラウマ的出来事に遭遇することは決して稀なことではなく,トラウマをめぐる問題は公衆衛生上の課題であるともいえる.
TICを実践するためには,クライエントのトラウマ歴を知ることが何よりも大切である.しかし,残念ながら,トラウマは目に見えないし,トラウマに苦しむクライエント自身も自発的に申告するとは限らないため,無視されたり過小評価されたりする傾向があるとされている.たとえば,米国の大病院の精神科外来での調査では,7割の患者が虐待を受けた経験があったにもかかわらず,カルテに記載されていたのは3割だったと報告されている(Lipschitz et al., 1996).また,日本のクリニックでの私たちの調査でも,通院患者の約9割が何らかのトラウマ的出来事を体験しており,これは先述の一般人口での体験率約6割よりも高率である(田中ら,2021).しかしこれらの患者のトラウマのほとんどが,主治医と共有されていなかった.
トラウマが過小評価される理由には,臨床家側のこころの障壁が関連していることも指摘されている.たとえば,トラウマというよくわからないものに触れて,症状が悪化してしまわないだろうか?もしそうなったときにどのように対応したらよいかわからない,などの懸念もその一つである(Substance Abuse and Mental Health Services Administration, 2014b).
その一方で,精神保健看護の領域でも,従来通りの支援が功を奏さず,時を経るにつれて,さまざまな問題が雪だるま式に増大し,ますます対応が困難になるケースに出会ったことのある人は少なくないだろう.このようなケースの背景に,トラウマの問題が隠れているかもしれないのである.
私たちは危機状態に陥ったとき,「戦う(Fight)」「逃げる(Flight)」「すくむ(Freeze)」のどれかの反応を示す.これらは動物一般に備わった本能であり,自分の身を守るための当然の反応である.しかし,衝撃的な出来事がトラウマとなってしまうと,これらの反応が無害な状況で起きてしまう.本人は危機状態であるかのように反応するのだが,周囲の人にとっては平常状態であるため,一見すると,その場にそぐわない攻撃的な行動(Fight)や,過度に消極的な行動(Flight),あるいは,何も問題がない(Freeze)かのように映ってしまう.
トラウマの影響が長期に及ぶと,認知・情緒・行動・対人関係・身体・脳の発達・精神健康など,その人を形作るほとんどの領域に影響が及ぶことが知られている(図1).たとえば,物事の捉え方(認知)が歪んでしまい,自分自身や世の中への見方が変わってしまうことがある(悪いのは自分だ,世の中は危険だ,もうだれも信用できないなど).このような場にそぐわない考え方が強固になってしまうと,臨床現場では妄想などの精神病症状のように見える場合もあるかもしれない.これらの偏った捉え方は,トラウマとなるつらい出来事を生き抜くためには一時的に役に立ったかもしれないが,支援の現場では良好な関係構築を阻害する場合もある.また,周囲の状況とは関係なく感情が目まぐるしく上下すると,支援者から見ると,わがままな人,怒りっぽい人,あるいは,双極性障害の症状のように映るかもしれない.
トラウマの中長期的な影響(亀岡,2020b)
図1に示すように,トラウマによる精神健康不全には,不安・抑うつ・物質依存・摂食障害・自殺念慮など,さまざまな病態が含まれるが,ここでは専門家でも誤解の多いPTSDを取り挙げて概要を示したい.
PTSDのわが国での生涯有病率は1.3%で,比較的ありふれた疾患であるとされている(Kawakami et al., 2014).また,一旦発症すると,症状によるつらさや苦しみが大きく,生活上の支障をきたすことが多い疾患であることが知られている.PTSDの診断基準(American Psychiatric Association)は表1に示すとおりであるが,現在の基準では,かなり重篤なトラウマ的出来事を体験した後,その出来事の記憶が自分の意志とは無関係に想起される侵入症状,トラウマ的出来事について考えないようにしたり想起のきっかけとなる人・物・場所などを避けたりする回避症状,認知と気分の陰性の変化,覚醒度と反応性の著しい変化などの症状が1か月以上続き,生活面支障をきたすことで診断される.
PTSDの診断基準(American Psychiatric Association, DSM-5より抜粋)
私たちの生活や支援現場には,PTSD症状を引き起こすきっかけとなるリマインダーが多数存在する(表2)ため,それらをできるだけ取り除く,あるいは,リマインダーがクライエントの症状の引き金になる場合があることを念頭に,支援を組み立てる必要がある.
さまざまなリマインダー(Cohen, Mannarino, & Deblinger, 2012を参考に作成)
PTSDでもう一つ留意しておきたいことは,PTSDの約8割が,他の身体疾患や精神疾患の併存症を有するということである(Forbes et al., 2020/2022).臨床場面で多いのは,併存症の診断が先になされ,その治療が始まっているケースである.この場合,背後に存在するPTSDが見逃されていることが多い.
トラウマに配慮した,トラウマにやさしいケア,見えないトラウマを見える化するケアを意味するTICは,1990年代に主に米国で発展してきた.その背景には,PTSDの概念が洗練されてメカニズムが解明されてきたことや,DV・レイプ被害を受けた女性に関する研究や支援成果が集積されたことがある(Substance Abuse and Mental Health Services Administration, 2014a).DVやレイプなどのトラウマ的出来事を体験した女性が薬物依存になった場合,薬物をやめさせることだけを目的にする支援は,成果が上がらないだけでなく,逆にこれらの女性を再び傷つけてしまうという気づきがあったのである.
そのため米国では,米国福祉省薬物乱用精神保健サービス局(Substance Abuse and Mental Health Services Administration, SAMHSA)がTIC推進の旗振り役となった.現在,米国ではTICに関連する法律がいくつか制定され,国を挙げてTICの実装段階に入っている.たとえば,精神医療や司法領域では,興奮しているクライエントに対して威圧的な対応を取らないことで,クライエントと医療従事者双方のケガが減少したことが報告されている(Borckardt et al., 2011).
TICの概念がわが国に紹介されたのは,2010年代に入ってからだが,その先陣を切ったのが精神看護の領域である(石井,2014;川野,2016).さらに,日本精神科救急学会のガイドラインでは,興奮・攻撃性の強い患者への対応の基本にTICが据えられ,行動制限最小化の方策が推奨されるようになった(平田・杉山・日本精神科救急学会,2015).また,最新のガイドラインでは,表3に示すように,TIC実践の具体例が示されている(杉山・藤田・日本精神科救急学会,2022).
TIC実践の具体例(杉山・藤田・日本精神科救急学会,2022)
トラウマ歴を有するクライエントは,過酷な環境を生き抜くための戦略として,回避・麻痺や解離,あるいはその反対の過剰覚醒,さらには,否定的な感情や認知などのトラウマ反応を身に着けていることが多い.それだけに,治療や支援の場が安全であると感じられないと,そのことがトリガーとなって,まるで今過去に経験したトラウマとなる出来事が起きているように感じ,その場から逃げ出したり,過剰に反応してしまったりすることが少なくない.一方的に力が行使される状況は,トラウマ歴のあるクライエントにとっては安全とは言い難く,ただでさえ脆弱な自己制御力をさらに奪ってしまうものとなり得る.
TICでは,クライエントが敬意をもって受け入れられていると感じられることが何より大切である.支援者には,クライエントが「過酷な状況を一人で生き抜いてきた勇気ある人」という視点をもって接することが求められる.そのためには,たとえ些細なことであったとしても,クライエントの能動的な選択が最大限尊重されることが必要である.このような丁寧な対応を繰り返すことによって,トラウマを有するクライエントは,自分の行動を自分で決定しコントロールする感覚を取り戻していくのである.
TICはトラウマの理解に基づいたケアの基本概念であるため,具体的なTICの実践方法については,各機関の実情に応じて展開していく必要があるのだが,SAMHSAは,TICを提供するにあたって,6つの基本原則を掲げている(表4).
TICの基本原則(Trauma-Informed Care Implementation Resource Center)
その他にも,TICを実践する前提条件として,「4つのR」を挙げている.すなわち,トラウマについての知識を持つこと(Realize),目の前のクライエントがトラウマを有しているかもしれないことに気づくこと(Recognize),トラウマについての知識に基づいた対応をすること(Respond),これらを実践することによって再トラウマを予防すること(Resist re-traumatization)である.
見えないトラウマの影響に気づくためには,トラウマに関する一般的知識や,トラウマ反応やPTSD症状が,日常生活の場でどのように表出されるかについての理解が欠かせない.そのためには,トラウマの基本事項についての職員研修が有益であるとされている(Substance Abuse and Mental Health Services Administration, 2014b).また,クライエント自身も自らのトラウマに気づくことが大切である.そのためには,過去のトラウマ的出来事の体験が現在の健康不全につながっているかもしれないことを,クライエントに伝える心理教育も欠かせない.「あなたがダメなのではなく,こころのケガのせいでうまくいかなかっただけ」のように,パラダイムを転換することも重要である.
精神看護の場では,生活上の多問題を抱え,複雑な病態を示すクライエントに出会うこともある.このような場合,「まず困っている問題から対応しトラウマは後から」と考えられがちであるが,その際にも常に,過去のトラウマとの関連において,問題や症状を理解していく姿勢が求められる.その際,支援者とクライエントが共通の言葉でトラウマについて語れるようになることも必要である.そのために,図2に示すような「トラウマの三角形」(亀岡,2020a)をクライエントと共有しながら,ともに考えていくことが役に立つ.
トラウマの三角形(亀岡,2020a)
TICは,ユニバーサルな支援でもあるため,トラウマを有しない人に対しても有用である.それだけに,対人支援サービスに関わる全ての人が,TICの知識を身につけ,実践力を高めることが重要である.トラウマを有する人への支援は,支援者にとっても負担の大きいものであるが,支援者自身にもTICを実践することが,自らのこころを守る術にもなる.
こころがケガをした人は,それとは真逆の安全な対人関係の脈絡において癒されていくと考えられている(Elliott, & Carnes, 2001).もともと一人一人のクライエントを大切にし,その人の痛みに寄り添い,困難な状況をサポートしようとする精神保健看護の精神は,まさにTICの基本概念に通じるものである.