Journal of Computer Chemistry, Japan
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ソフトウェア・レビュー
相対論的量子化学計算プログラムRAQETの公開
五十幡 康弘吉川 武司中井 浩巳
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2019 年 18 巻 3 号 p. A6-A11

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Abstract

The "Relativistic And Quantum Electronic Theory (RAQET)" program was released for academic use. One-component (spin-free) and two-component (spin-dependent) relativistic calculations are possible based on the infinite-order Douglas−Kroll−Hess transformation and local unitary transformation. This review describes available features, registration/installation, and input/output of the RAQET program.

1 はじめに

相対論効果は,重元素化合物,重元素を含む遷移金属錯体,金属クラスターなどの構造,反応,物性に大きな影響を及ぼす.当研究室では,戦略的創造研究推進事業 (CREST) 「元素戦略」領域の研究課題「相対論的電子論が拓く革新的材料設計」において,高精度かつ効率的な相対論的量子化学計算の実現を目指し,2成分相対論に基づく理論および計算手法の開発に取り組んだ [1, 2].開発した手法を広く利用可能とするために,一部をアカデミックフリーの量子化学計算プログラムGAMESSに実装し,公開した [3].一方,開発したすべての手法を実装したプログラムとして,新たに相対論的量子化学計算プログラムRelativistic And Quantum Electronic Theory (RAQET) [4] を開発し,令和元年5月1日からアカデミック無償で公開している.

本稿では,はじめにRAQETプログラム開発の背景として,相対論的量子化学の概要と2成分相対論の位置付けを述べる.続いて相対論的量子化学計算のアルゴリズムと利用可能な機能,プログラムの入手方法,入出力の仕様を述べる.

2 相対論的量子化学の概要

非相対論的量子化学では,Schrödinger方程式を解いて化学における様々な現象が説明される.相対論的量子化学において対応する基礎方程式はDirac方程式 [5] である.Dirac方程式におけるハミルトニアン (Diracハミルトニアン) は4×4の行列 (4成分) で表される.多電子系に対する4成分Diracハミルトニアンは式(1)のように表される.   

H 4 DH = i H 4 D ( i ) + i > j G 4 ( i , j ) (1)

ここで H 4 D ( i ) は電子iに対する1電子Diracハミルトニアンであり,G4(i,j)は電子iと電子jに関する2電子演算子の一般形である.ハミルトニアンが4成分であることに対応して,波動関数は2つの大成分と2つの小成分からなる4成分波動関数となる.非相対論的量子化学における分子軌道も4成分となり,4成分分子スピノルと呼ばれる.4成分のハミルトニアンと波動関数による相対論的量子化学を4成分相対論と呼ぶ.Dirac方程式の解には電子状態の他に陽電子状態が含まれ,電子状態は主に大成分波動関数で,陽電子状態は主に小成分波動関数で記述される.

2成分相対論では,4成分相対論から導出された2成分のハミルトニアンと波動関数を用いて電子状態(あるいは大成分)のみが扱われる.本稿ではまず2成分相対論の理論を導出するための方針を説明し,代表的な手法を紹介する.個々の手法に関するより詳細な解説は,総説 [6] を参照されたい.

Dirac方程式は大成分波動関数と小成分波動関数の連立方程式とみなすことができる.小成分波動関数を代数的に消去すると2成分の方程式が得られる.この方程式を数値的に解くための近似としてBreit−Pauli近似 [7],正規近似 [8, 9],RESC法 [10] などが提案されている.また関連する手法として,擬大成分と擬小成分の波動関数に基づくNESC法 [11] がある.

2成分相対論の理論を導出するもう一つの方法として,式(2)のようにユニタリー変換Uによって4成分ハミルトニアンH4を電子部分h+と陽電子部分hに分離する方法が挙げられる.       (2)   

ここで,02は2×2のゼロ行列である.ユニタリー変換は波動関数にも適用され,2成分波動関数が得られる.自由電子に対する1電子Diracハミルトニアン H 4 D の厳密な変換は,Foldy−Wouthuysen (FW) 変換 [12] として古くから知られている.外場ポテンシャルを含む場合には,FW変換からさらにユニタリー変換を繰り返すDouglas−Kroll−Hess変換 [13,14,15,16,17] が用いられる.外場を含む1電子Diracハミルトニアンに対して変換を厳密に行う手法も提案されている [18,19,20,21].多電子系の4成分ハミルトニアンには2電子ハミルトニアンG4も含まれるが,ユニタリー変換に基づく方法は2電子ハミルトニアンにも適用され [22,23,24,25,26],より4成分相対論に近い計算結果が得られる.

式(1)におけるh+に基づきHartree−Fock (HF) 方程式やKohn−Sham (KS) 方程式が導出される.波動関数は2成分分子スピノルからなるSlater行列式で表され,それぞれの分子スピノルは基底関数の線形結合として展開される.2成分相対論ではハミルトニアンや分子スピノルは複素数で表されるため,通常の量子化学計算プログラムを拡張して実装することは困難である.このことが,我々がゼロからRAQETプログラムを開発した理由の一つである.

2成分ハミルトニアンh+はDiracの関係式 [5] によってスピン非依存項とスピン依存項に分割できる.スピン非依存項は,内殻電子が光速に近い速度で運動することによるスカラー相対論効果を記述する.相対論的なハミルトニアンにはスピン依存項にはスピン–軌道相互作用などが含まれ,電子のスピンに由来する磁場と軌道角運動量に由来する磁場の相互作用が反映される.スピン依存項を考慮した計算を行うことで,非相対論では縮退するp軌道やd軌道などのエネルギー準位が分裂し,分子軌道はαスピンとβスピンが混合した分子スピノルとなる.非相対論では多くの場合,電子のスピン構造は共線的,すなわちスピンの方向の自由度は1次元であるが,2成分相対論ではスピンの混合に伴いスピンの方向は非共線的となる.スピン依存項を無視すると2成分ハミルトニアンの非対角項は0となり,αスピンとβスピンの1成分ハミルトニアンに分解される.このようなスピン非依存項のみを考慮する方法は1成分相対論と呼ばれる.ハミルトニアンと波動関数はどちらも実数となるため,通常の量子化学計算プログラムを拡張する形で実装できる.実際に,我々の手法のGAMESSプログラムへの実装 [3] は1成分相対論に基づいている.

Figure 1に,相対論的量子化学計算の精度を決定する3つの軸を示す.非相対論的量子化学では,計算精度は電子相関の取り扱いと基底関数の大きさによって決定される.電子相関は,波動関数理論では2次のMøller−Plesset摂動論 (MP2),結合クラスター (CC) 理論などで扱われ,系統的な計算精度の向上が可能である.完全配置間相互作用 (FCI) と完全基底極限 (CBS) の組み合わせは厳密解を与える.密度汎関数理論 (DFT) は,原理的にはHohenberg−Kohn (HK) の定理 [27] に基づく厳密な理論であるが,実際の計算では一般化勾配近似 (GGA) 汎関数にHF交換項を混成した交換相関汎関数がよく用いられる.

Figure 1.

 Three axes toward the exact solution of relativistic quantum chemistry.

相対論的量子化学では,新たな軸としてハミルトニアンが加わる.NRは非相対論であり,PPは内殻電子を相対論的な擬ポテンシャルで扱うことを意味する.Figure 1における1c,2c,4cは,いずれも擬ポテンシャルを用いない全電子計算であり,それぞれ1成分相対論,2成分相対論,4成分相対論に基づく.スカラー相対論効果が支配的である場合は,1成分相対論が計算コストの面で有用である.RAQETプログラムには1成分および2成分相対論に基づく全電子計算が実装されており,これらの普及が意図されている.4成分相対論を超える理論として場の量子論に基づく量子電磁力学 (QED) が知られるが,分光学的精度の議論を除けば化学における相対論効果は4成分相対論もしくは厳密なユニタリー変換に基づく2成分相対論で十分に記述される.なお,Figure 1の電子相関の軸で示されているHKの定理は非相対論の範疇で導出されているが,同様の定理としてRajagopal−Callawayの定理 [28] がQEDの枠内で導出されており,相対論的DFTの存在定理にもなっている.

3 アルゴリズムと機能

RAQETプログラムでは,1成分および2成分相対論に基づくエネルギーおよび解析的エネルギー勾配の計算が可能である.エネルギー計算のアルゴリズムをFigure 2に示す.はじめに1電子積分を計算し,式(2)のユニタリー変換によって相対論的な1電子積分に変換する.RAQETプログラムでは,ユニタリー変換として無限次Douglas−Kroll−Hess (IODKH) 法 [18] を採用している.この変換は1電子ハミルトニアンに対して厳密であるため,4成分相対論に近い計算結果を得ることができる.

Figure 2.

 The flowchart of single-point energy calculations based on the disk-based algorithm.

相対論効果は,重原子およびその近傍で大きく局所的である.このことから,全系に対するユニタリー変換を原子ごとのユニタリー変換の直和とする近似が考えられる [29,30,31,32].   

U U A U B (3)

式(3)のアイディアは局所ユニタリー変換 (LUT) [29, 30] として4成分ハミルトニアンのユニタリー変換に適用されている.RAQETプログラムの公開版では,1電子ハミルトニアンにLUTを適用したLUT-IODKHハミルトニアンに基づく1電子積分の変換が利用できる.通常のIODKH法による変換の計算コストは系のサイズに対して3乗すなわちO(n3)であるのに対し,LUT法の適用によりO(n1)となる.

Figure 2に示すアルゴリズムでは,1電子積分に引き続き2電子積分の計算が行われる.相対論的量子化学計算では,内殻電子をあらわに扱うため多くの2電子積分の計算が必要となる.RAQETプログラムでは,相対論的量子化学計算でよく用いられる一般縮約基底関数を高速に計算する電子間反発積分の計算アルゴリズム [33,34,35] が利用可能である.2電子ハミルトニアンに対する相対論効果をIODKH法によるCoulomb演算子のユニタリー変換 [26] で考慮することも可能である.

続いて自己無撞着場 (SCF) の手続きによってHF方程式もしくはKS方程式を解く.Figure 2のアルゴリズムではSCF計算の前に保存した2電子積分を読み込んでFock行列を生するが,direct SCF [36] のオプションを有効にした場合は,2電子積分は保存せず繰り返しのたびに計算される.SCFの収束に関しては,当研究室で検証 [37] した種々のアルゴリズムが利用できる.

DFT計算ではファジーセル法 [38] によって交換相関エネルギーおよびFock行列に加えられる交換相関ポテンシャルが数値的に計算される.4成分相対論的DFTでは電子密度は4成分密度演算子の期待値として与えられるが,2成分相対論的DFTではハミルトニアンと同様に変換を行った密度演算子を用いることが望ましい.RAQETのスピン非依存DFT計算では,電子密度や交換相関ポテンシャルの計算において密度演算子に対するIODKH変換を行う描像変化補正 (picture change correction, PCC) [39, 40] が利用可能である.一方,スピン依存項を考慮したDFT計算では,交換相関エネルギーおよびポテンシャルを非共線的なスピン密度の汎関数として扱うことが,全エネルギーが分子の回転に関して不変であるために必要である.RAQETでは非共線的スピンに基づくDFT計算がGGAのレベル [41] で実行可能である.

SCF計算の終了後,post-HF法に基づく電子相関エネルギーの計算,解析的エネルギー勾配の計算,時間依存密度汎関数理論 (TDDFT) による励起エネルギー計算などがが行われる.電子相関エネルギーの計算は,MP2法がスピン非依存計算,スピン依存計算 [42] の両方で利用可能である.また,Tensor Contraction Engine (TCE) [43] により自動実装されたCC法も利用可能である.解析的エネルギー勾配は,非相対論的ハミルトニアンを用いた計算に加えて LUT-IODKHハミルトニアンを用いた1成分 [44] および2成分 [45] 相対論計算で利用可能である.

LUT-IODKHハミルトニアンを用いた計算で利用可能な機能をまとめるとTable 1の通りになる.スピン非依存すなわち1成分相対論の計算では,波動関数は非相対論と同様にスピン制限,スピン非制限,スピン制限開殻の3通りで扱われる.スピン依存すなわち2成分相対論の計算では,αスピンとβスピンの混合に関する自由度を持たせた一般化HF波動関数が用いられる.

Table 1.  Available features of the public version of the RAQET program in the case of LUT-IODKH method. R, U, RO, and G stand for restricted, unrestricted, restricted open-shell, and generalized wavefunctions.
Spin-free Spin-dependent
R U RO G
Energy
 HF
 MP2
 CC
 DFT
 TDDFT
Analytical gradient
 HF
 DFT

なお,RAQETは多原子系の全電子計算を行うプログラムであるが,単原子の計算から凍結内殻ポテンシャル [46] を生成し,それを用いて価電子の電子状態を計算することも可能である.

4 RAQETプログラムの入手

RAQETプログラムは,x86_64アーキテクチャ,Linux OS上で動作する.利用希望者は専用のWebサイト [47] にて利用許諾規約を確認し,ユーザー登録を行う必要がある.利用許諾規約には,(i) 許諾事項,(ii) 禁止事項,(iii) 無保証,(iv) 利用中止,(v) 免責事項,(vi) 引用,(vii) 規約の変更に関する詳細が含まれている.ユーザー登録に必要な情報は,氏名・メールアドレス・所属・職位・申請者のホームページ等のURLである.プログラム管理者による承認後,送られてくるメールに記載されたURLから配布パッケージをダウンロードする.ダウンロードされたファイルには,利用許諾規約,インストーラ,バイナリ,実行用シェルスクリプト,日本語・英語マニュアル,基底関数ライブラリ,サンプル入出力が含まれている.

インストーラはLinuxのシェルスクリプトであり,対話処理によりインストールが行われる.環境設定用のファイルをsourceコマンドで読み込むことで計算の準備が完了する.サンプル入力の計算を実行し,結果が正常であるか確認するためのシェルスクリプトが用意されている.

5 RAQETプログラムの入出力

RAQETの入力は拡張子.inpのファイルであり,複数のセクションから構成される.主要なセクションとして計算条件を指定するjob options,計算対象となる原子・分子の情報を記述するmolecular information,基底関数に関する情報を記述するbasis setsが挙げられる.job optionsセクションでは${オプション名}から$endの間に1行ずつキーワードを記述する.オプション名と関連する機能はTable 2の通りである.

Table 2.  Options in the job options section.
Option Function
$Run Basic settings of the calculation
$Wavefunction Selection of wavefunction
$Hamiltonian Hamiltonian settings
$Mol Additional molecular information
$Basis Additional basis set settings
$Integral Molecular integral settings
$Guess Settings for the initial guess method
$SCF Settings for SCF calculations
$MP2 Settings for MP2 calculations
$DFT Settings for DFT calculations
$TDDFT Settings for linear-response TDDFT
$Opt Settings for structure optimization
$FCP Settings for frozen core potential
$TCE Settings for post-HF calculationsbased on TCE

入力の例をFigure 3に示す.job optionsセクションでは,一行につき1つのキーワードで計算条件が指定される.この入力では,スピン依存IODKHハミルトニアンを用いたGHF計算が指定されている.JobType=spは一点計算を意味しており,他にエネルギー勾配計算 (grad),構造最適化計算 (opt) が指定できる.SCFの手続きにおける初期密度行列は拡張Hückel法で得る.

Figure 3.

 The input file of hydrogen chloride, consisting of .job options (red), molecular information (blue), and basis sets (green) sections.

molecular informationセクションでは,HCl分子の各原子の座標がCartesian座標系で指定されている.basis setsセクションでは,計算に用いる基底関数系としてcc-pVTZ-DK [48, 49] を,SCF計算の初期密度行列生成に用いる基底系としてDKH3minimal [50] が指定されている.配布パッケージ内の基底関数ライブラリは,Table 3に示した様々な基底関数系が用意されている.相対論計算にはSapporo基底関数系 [51] などが利用可能である.任意の基底関数系をライブラリに追加することや,入力にて直接指定することも可能である.

Table 3.  Series of basis sets included in the library.
Basis sets Non-relativistic Relativistic
STO-nG
Pople
Sapporo
Correlation-consistent
Polarization-consistent
Others

計算を実行すると出力として拡張子.outのファイルと拡張子.punのファイルが得られる..outファイルには計算条件,計算の過程,さらには全エネルギー,軌道 (スピノル) エネルギー,Mulliken電荷などが出力される.スピン非依存計算では原子ごとのスピン密度,スピン依存計算ではスピンベクトルも出力される..punファイルには計算で得られた分子軌道あるいは分子スピノルが出力される.このファイルの内容は,SCF計算における初期密度行列を生成するために利用できる.

6 まとめ

本稿では,RAQETプログラムの公開版について報告した.相対論的量子化学計算の理論,計算手法の開発,プログラムの拡張と公開に関するプロジェクトは,CREST研究課題終了後も継続している.現時点ではシリアル版のみの公開であるが,プログラム開発ではOpenMPおよびMPIを用いた並列計算に対応した実装を行っており,十分なテストの後に並列版を公開する予定である.また,開発者版のみに実装されている機能や新たに開発された計算手法も順次公開予定である.例えば,スピン禁制電子遷移の計算を可能とするスピン依存TDDFTや,direct SCFに適した2電子ハミルトニアンのIODKH変換およびHF交換エネルギーの計算法 [45] などである.これらの取り組みを通して従来の非相対論的量子化学から相対論的量子化学へのパラダイムシフトに貢献したいと考えている.

謝辞

本研究は,早稲田大学理工学術院総合研究所プロジェクト研究「計算化学の社会実装」(研究番号:17P23),「相対論的電子論が拓く革新的材料設計」(研究番号:19P15) の支援を受けて実施された.RAQETプログラムの開発に携わった清野淳司博士,中嶋裕也博士,中野匡彦博士,速水雅生氏,大山拓郎氏,平賀健太氏に感謝する.また,配布パッケージ作成でご協力いただいた高度情報科学技術研究機構 (RIST) の河東田道夫博士に感謝する.

引用文献
 
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