Journal of Computer Chemistry, Japan
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An Invitation to Muon and Muonium Chemistry Research
Toshiyuki TAKAYANAGITakaaki MIYAZAKI
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2020 Volume 19 Issue 3 Pages 51-56

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Abstract

正または負電荷を有するミュオンを利用すると,ミュオニウム(0.114 amu) およびミュオニックヘリウム(4.11 amu)と呼ばれる軽い水素同位体および重い水素同位体をつくりだすことができる.こうした水素同位体を利用することによって新しい化学研究を展開できる可能性がある.本稿では,これまで行われてきた量子論に基づいたミュオニウム関連分子の理論研究を紹介し,その特異性について解説する.

1 はじめに

ミュオン(μ)はレプトンと呼ばれる素粒子に分類され,核反応を経て生成するパイオン(π)の自然崩壊によってできる.ミュオンには2つの電荷状態μ+ および μが存在し,前者がいわゆる反粒子である.ミュオンは約2.2 μ sという長い寿命を有するため,様々な実験に利用することができる.世界にあるいくつかの加速器実験施設では,核反応を利用してできるミュオン粒子をビームとして取り出せる装置が整備されている.日本では,茨城県東海村にあるJ-PARC (Japan Proton Accelerator Research Complex)と呼ばれる大型プロトン加速器施設に,パルス型の大強度ミュオンビーム装置が整備されており,研究者が実験課題申請をして利用できるようになっている.

ミュオンの大きな特徴は質量がプロトンの約1/9というその軽さにある.水素原子のプロトン核が μ+ に置換してできる疑似原子は軽い水素同位体(質量は0.114 amu)と見なすことができ,ミュオニウム(Mu)と呼ばれている. μ+ の質量は電子の約200倍であるため,Mu中の電子の振る舞いはH原子のそれと近い. 実際,Muのイオン化エネルギーは13.54 eVであり,Hのイオン化エネルギー 13.60 eVに近い.また,Muのボーア半径も0.0532 nmで,Hのボーア半径(0.0529 nm)とほぼ一致する [1].ちなみにこれらの微妙な差は換算質量の違いに起因する.

一方,負電荷のミュオンを利用すると,ミュオニックヘリウムと呼ばれるトリチウムよりもさらに重い水素同位体をつくりだすことができる.μ4Heに捕獲されると,重い電子として原子核のまわりを運動しながらエネルギーを失っていく.最終的にはμが最安定の1s軌道に到達するが,ボーア半径と質量の関係を考えればすぐわかるように,この場合μはヘリウム核の近傍に局在化することになる.ここで電子を1個放出すると,[4He2+μ]e という形態をとることになる.これはヘリウム原子核とμからできる見かけ上+1の電荷を有する擬似原子核[4He2+μ]の周りを電子が回っている水素原子の同位体と見なすことができる.その質量は4.11 amuであり,Super-Heavy Hydrogenと呼ばれることもある [2].

以上のように,ミュオンを利用すれば,質量が通常の水素・重水素と異なる同位体を利用した化学の研究が可能になるのである.本稿では,正電荷をもつミュオンおよびミュオニウムが関連する化学に理論的な側面から焦点をあてる.これらの粒子はその極めて軽い性質から,顕著な量子性を示すことがこれまでにわかっている.つまり,これらの粒子が関わる化学を理解するには,量子力学的な考え方が欠かせないのである.以下では,その基本的な考え方を紹介しながら,最近の研究結果や将来展望について言及する.なお,正電荷をもつミュオンは,ミュオニウムがイオン化したものと見なせるので,以下では特に区別せず,すべてミュオニウムと呼ぶことにする.

2 Muを含む分子の振動と構造

我々が分子を考える場合,暗黙のうちにボルン・オッペンハイマー近似が成り立っていることを前提としていることがほとんどである.すなわち,電子と原子核の運動を分離して扱う.この近似により,ある特定の原子核配置について,電子運動に関するシュレディンガー方程式を解くことで分子の電子的性質を理解することができる.また,ボルン・オッペンハイマー近似は我々にポテンシャルエネルギー超曲面という重要な基本概念を提供する.これは電子運動の離散化エネルギーを原子核配置の関数として考えたものであるが,安定分子はこの超曲面の局所的な極小点に対応し,反応の遷移状態は,超曲面上の鞍点近傍の構造として理解される.また化学反応にともなう構造変化はこの超曲面上での運動に他ならない.Muを含む分子では,そもそもボルン・オッペンハイマー近似が十分に成り立っているのか,という本質的な問いは極めて重要ではあるが,ここでは深く立ち入らないことにして,ポテンシャルエネルギー超曲面概念を用いて話を進めることにする.

前述したように,安定分子はポテンシャルエネルギー超曲面の極小点に相当し,その近傍の形状から離散化した振動エネルギー準位を知ることができる.軽いMu原子が分子に含まれると,その離散化されたエネルギー準位の間隔はかなり大きくなる.例えば,XH結合(X = C,N,Oなど)の振動数はおよそ3000 cm−1であるから,HがMuに置き換わると換算質量の違いから振動数は約3倍の9000 cm−1にもなる.これは少し弱い化学結合エネルギーに匹敵する大きな値であり,この大きなエネルギーがHやDの場合と大きな違いを生むことがある.

少し話を具体的にするために,Muが希ガスと結合してできる簡単な3原子分子イオン,HeMuHe+およびNeMuNe+を考えてみる.これらは水素をはさんだ直線構造が安定な分子で,proton-bound分子とも呼ばれ,量子化学計算によって極めて正確なポテンシャルエネルギー曲面関数が得られている [3,4,5].我々は希ガス中でこのようなMuを含む分子が生成するのではないかと考えている.分子振動の情報は,そのポテンシャルエネルギー上での核の運動に相当するシュレディンガー方程式を数値的に解くことによって得ることができる.ここでは詳しく述べないが,離散化変数表現法という計算方法を用いている [6].

Figure 1にポテンシャルエネルギー超曲面の概略図と計算された振動エネルギー準位を示す.比較のために,Hの結果も示している.予想されるように,Muを含む分子では極めて大きなゼロ点振動エネルギーを有すること,また振動準位間のエネルギーも大きくなり,量子性が際立っていることが理解できる.Figure 2に振動基底状態の波動関数から得られるMu位置分布関数を示す.通常の直線3原子分子の構造とかなり異なっていることが理解できる.

Figure 1.

 Schematic potential energy diagrams of (a) HeXHe+ and (b) NeXNe+ (X = Mu, H) and their vibrational energy levels.

Figure 2.

 Three-dimensional perspective plot of nuclear density distribution of HeMuHe+ in the vibrational ground state.

このようにHがMuに置換されると,振動エネルギーの大きさの違いに加えて,原子の量子分布が異なる場合が多い.似たような例としてグリシンとポルフィセンの2つの例を示す.グリシンは最も簡単なアミノ酸であり,他のアミノ酸と同様,カルボキシ基がCOOHとなっている通常の中性型と,カルボキシ基のプロトンがアミノ基に移動して分子内にNH3+基とCOO基を同時に有する双性イオン型をとることできる.気相中では中性型が安定であるが,水などの極性溶媒中では双性イオン型が安定になることが知られている.しかし,気相中でも金属イオンが付加した錯体になると,その安定構造が変化することが分かっている.我々は,カリウムイオンがグリシンに付加し,かつ1つのプロトンがMu+に置換した場合の分子構造を,経路積分法で調べた [7].この方法では,波動関数を直接得ることはできないが,温度一定条件で原子の量子分布を得ることができる.そのため自由度の大きな系にも適用可能な量子理論である.その結果をFigure 3に示す.理論の詳細については原著論文を見ていただきたいが,すべての原子の自由度を考慮したポテンシャルエネルギー超曲面を密度汎関数法で得られたデータをもとにして作成している.計算の結果,Muは中性型と双性イオン型を隔てる遷移状態付近に分布することが分かった.Figure 3 (b)には,OMu距離とON距離の関数としてプロットしたポテンシャル面の等高線図とMuの分布を同時に示している.赤い点線は固有反応座標である.なぜ,ポテンシャルエネルギー曲面の極小点に分布しないのだろうか.答えは簡単で,Muの場合,量子化されたゼロ点振動エネルギーが,プロトン移動のエネルギー障壁よりもずっと大きいからである.この場合は,井戸型ポテンシャルの基底状態波動関数が井戸の中央に分布することと本質的に同じになり,Muは遷移状態付近に分布する.同様な計算をHについても行ったが,その場合はポテンシャルエネルギー曲面の井戸付近に分布することが分かった. Hの場合はON原子間距離の平均値が約2.6 Åになり,一方Muの場合は,平均距離が約2.4 Åであることが分かる.すなわち,MuがON距離を短くし,水素結合を強めているとも言える.これは振動結合とよばれる現象と近い [8].このことは,HをMuに置換した分子の性質を調べるだけで,プロトン移動反応の遷移状態構造の情報が得られることに相当し,Muを用いた新しい「遷移状態分光法」 [9]になり得ることを示唆している.

Figure 3.

 (a) Three-dimensional perspective plots of quantum nuclear density distributions in the Mu-substituted glycine–K+ complex obtained from path-integral molecular dynamics simulations at T = 300 K. (b) Two-dimensional potential energy surface for the proton transfer process as a function of OMu and ON distances along with Mu the distribution.

我々の研究グループでは,ポルフィセンと呼ばれる2重プロトン移動を起こす分子についてもMu置換体の経路積分計算を行った [10].もともとは,中心の2個のプロトンが同時にプロトン移動を起こすのか,それとも段階的にプロトン移動を起こすのかを調べるために行った研究である.その過程で,一方のHをMuに置換した分子についての計算も行った.Figure 4に原子分布を示す.Hについては分布のピークが窒素原子側に対称的に偏っており,中央の分布はそれほど大きくはない.一方Muの分布は2つの窒素原子の中央付近に分布していることが分かる.すなわちグリシン‐K+錯体と同様,Muはプロトン移動反応の遷移状態付近に分布する結果となった.以上のように,Muを含む分子の場合,量子的な広がりがHにくらべて大きいだけでなく,分子構造そのものを変化する可能性がある.そのため,ポテンシャルエネルギー超曲面の形状だけでは分子構造を理解できないのである.

Figure 4.

 (a) Molecular structure of porphycene. (b) Nuclear distributions for the Mu-substituted porphycene obtained from path-integral molecular dynamics simulations.

3 Muの化学反応

前節では,Mu置換体分子の量子核分布について解説した.しかし,Muを含んだ分子の物性値を正確に測定できるようになってきたのはごく最近のことである.ミュオンビームの大強度化にともない,結果として高い濃度でMuを含む分子が得られるようになってきたからである [11].実はMuの濃度の減少速度を測定することで,反応速度を得る実験のほうが長い間主流であった.実際Muと分子の反応速度の測定は気相・液相を問わずこれまでに数多くの実験が行われている [1].しかし,実験結果の解釈はそれほど簡単ではない.それは,Muが関わる反応では離散化振動エネルギーの効果とトンネル効果という二つの相反する効果が反応速度と密接に関係するからである.

Figure 5に我々が以前に行ったピラジンへのMu付加反応の理論解析の結果を示す [12].興味深いことに,実験結果からはH原子はピラジンのN原子への付加が優先的に起こるとされている一方,Muの場合はC原子に付加することが示唆されている.そこで量子効果を考慮した反応速度の計算を行い,実験結果を説明できるか検討した.Figure 5 (a)に,固有反応座標に沿ったポテンシャルエネルギー曲線の計算結果を示している.それぞれの付加反応について,HとMuの両方の結果を示している.ポテンシャル曲線を描くにあたっては,密度汎関数法に基づく量子化学計算を行い,固有反応座標に沿って量子化されたゼロ点振動エネルギーを逐次計算している.これを振動断熱ポテンシャル(vibrationally adiabatic potential)と呼んでいる.ポテンシャルエネルギーは反応物のエネルギーレベルを基準としているので,Mu付加反応の障壁が,H付加のそれに比べて約2倍の大きさになっていることがわかる.このことは,前節で述べたMu,H置換における量子化された振動エネルギーの違いによる.すなわち,反応のエネルギー障壁の大きさだけを考えた場合では,Muの付加反応がHにくらべて起こりにくいことを示している.しかし,多次元トンネル効果を考慮した遷移状態理論を用いて反応速度を計算すると,Figure 5 (b)に示すようにMu付加反応の速度の方が2桁程度も大きくなる.これは,Muのトンネル効果が反応確率を著しく高めているからである.注意してもらいたいのは,Figure 5 (a)でMu反応についてポテンシャル障壁がHのそれに比べてかなり薄くなっていることである.つまり,障壁の高さはMuにとってそれほど反応の妨げになっていないのであり,障壁の薄さがトンネル効果を促進しているのである.このことは,Muの反応速度を定量的に評価するには広い範囲のポテンシャルエネルギー曲面情報が必要であることを意味する.なお,Figure 5 (b)に示した反応速度の計算結果から分かるように,残念ながら理論が実験結果を説明するには至っていない.

Figure 5.

 (a) Vibrationally adiabatic energy profiles along the intrinsic reaction coordinate for the H/Mu + pyrazine addition reactions. (b) Arrhenius plot of rate constants for the H/Mu + pyrazine reactions calculated with the transition-state theory including multi-dimensional tunneling contribution.

それでは,Muと分子の反応では常に反応障壁の薄さが重要になるかというと必ずしもそうではない.最近Flemingらよって行われたMu + propaneやMu + n-butaneの反応速度の測定では,H原子の反応の方が大きな反応速度を与えることが報告されている [13].まだ詳しい理論解析が行われていないが,これらの反応ではトンネル効果は重要ではあるものの,エネルギー障壁の高さの方がより重要であることを示唆している.いずれにしても,Muの反応速度を定量的に解釈するには,振動エネルギーの量子化効果とトンネル効果の両方を定量的に見積もる必要がある.そのためには,正確な多次元ポテンシャルエネルギー超曲面と,その上ですべての原子運動を量子論に基づいて記述できる反応動力学理論が必要である.現在,リングポリマー分子動力学法などの様々な理論開発が行われつつある [14, 15].

4 おわりに

以上,本稿では我々が行ってきたMuに関する分子の理論研究を中心に解説してきた.前節でも述べたが,ミュオンビームの大強度化にともない,より精度の高いMu化学実験が可能になりつつある.一方,量子化学計算の高精度化や高速化も進んでおり,以前では全くできなかった多次元ポテンシャルエネルギー曲面の自動作成等が可能になりつつある [16].したがって,今後は理論と実験の共同研究が益々重要になっていくであろう.Muが関わる化学では,ボルン・オッペンハイマー近似が成り立っているかなど,本質的に重要な問題もある.また,今後のミュオニックヘリウムを利用した実験にも期待したい.ミュオニウムからミュオニックヘリウムからまで,質量をシステマティックに変えることによって量子効果を制御できるとしたら大変興味深い.本稿がそのような新しい研究のきっかけとなれば幸いである.

参考文献
 
© 2020 Society of Computer Chemistry, Japan
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