Article ID: 2024-0026
本研究は,生物の柔軟な行動を生み出す情報処理システムの本質的原理を化学勾配に基づく数理モデルで表現することを目的とした.単細胞生物の繊毛虫ゾウリムシが障害物に衝突した際の行動応答を生物実験により調べた結果,ゾウリムシは衝突後すぐに方向転換する行動と,障害物に沿って移動した後に方向転換する行動を示した.これらの行動を生じた時の衝突時の角度や速度は同じであったが,直前の角度変化の符号が異なっていた.ゾウリムシの行動は,体表に生えた繊毛運動によって制御され,それは細胞内外の化学勾配に従って生じる膜興奮動態によって調整される.この膜興奮動態と行動とを対応づける数理モデルを構成し,数値シミュレーション実験を行った.その結果,実験結果と同様にゾウリムシが障害物に衝突する前の角度変化の符号の違いで2つの行動を再現できた.つまり,ゾウリムシは同じ化学勾配状態でも,直前の角度変化という運動履歴の違いによって異なる行動を生じる柔軟性を有していた.
This study aims to represent the fundamental principles of information processing systems that generate flexible behaviors in organisms using a mathematical model based on chemical gradients. Biological experiments were conducted to study the behavioral responses of the ciliate Paramecium, a unicellular organism, to collisions with obstacles. The results showed that Paramecium exhibited two distinct behaviors: one in which it changed direction immediately after the collision and another in which it moved along the obstacle before changing direction. While both behaviors had the same angle and speed at the time of collision, the sign of the angle changed before the collision. The behavior of Paramecium is controlled by the movement of cilia on its surface, which is regulated by membrane excitation dynamics driven by chemical gradients inside and outside the cell. We developed a mathematical model that links membrane excitation dynamics to observed behaviors and performed numerical simulations. The results showed that, similar to the experimental results, the two behaviors could be replicated based on the difference in the sign of the angle change before the collision. In other words, Paramecium exhibits flexibility in its behavior, producing different responses based on its motion history, even under the same chemical gradient conditions.
生物の柔軟性と効率性を併せ持った行動原理を理解することは,人工知能やロボティクスなど環境や状況に依存した判断や行動が求められる情報処理システムの開発の観点から意義深い [1,2,3,4,5,6].また,生物の行動についての知見を情報学や工学で応用するためには,行動を生み出す情報処理システムの本質的原理を実装可能な数理モデルで表現することが重要である.
人工知能やロボティクスでは,判断に関係する情報の選択が困難であるために,判断不能な状態に陥るフレーム問題が生じ得る.生物がフレーム問題を回避して柔軟かつ効率的に判断できる背景には,完全合理性や最適性ではなく,重要もしくは部分的な情報に対して部分処理を行う限定的合理性に基づく情報処理がなされている可能性が指摘されている [1, 7, 8].しかしながら,そこでは処理対象とする部分を限定するための情報処理が必要であり,それ自体がフレーム問題になり得る.つまり,完全合理性と限定的合理性のどちらにしても,情報処理プロセスが情報選択,判断,行動という順序で起こることを仮定するとフレーム問題を回避することは難しいと考えられる.
単細胞生物ゾウリムシは前に棲んでいた温度環境を記憶でき,単細胞アメーバ生物の真正粘菌は迷路を解くことができる [9,10,11,12,13,14,15,16].単細胞生物は神経系を持たないことから,それら行動は細胞レベルの生化学過程と物理化学過程によって生じている.つまり,結果たる行動はそれを引き起こすプロセスそのものであり,情報処理プロセスを情報選択や行動に分けて順に起こることを仮定することは難しい.したがって,生物の柔軟性と効率性を併せ持った情報処理システムの原理を理解するためには,情報処理プロセス自体が情報選択を伴う結果たる行動となるような数理モデルの構成が必要であると考えられる.
単細胞生物の繊毛虫のゾウリムシは,細胞レベルの働きと行動とを直接関連づけられる良いモデル生物である.ゾウリムシの行動は,細胞表面の繊毛の運動によって引き起こされ,その繊毛運動は膜興奮動態によって制御される.さらに,ゾウリムシの膜興奮動態は,神経細胞と同様のモデルで表現できる [17,18,19,20,21,22,23].これらのことからゾウリムシは「泳ぐ神経細胞」と呼ばれる.
膜興奮動態は,細胞内外のイオンの流入・流出による化学勾配とそれに伴う電気勾配の変化,すなわち細胞の物理化学状態の変化である.細胞の化学勾配は主に,細胞膜に存在するイオンポンプとイオンチャネルと呼ばれるタンパク質分子の働きによって調節される [24, 25].イオンポンプは細胞内外にイオンを能動的に輸送し,細胞内外に化学勾配を作り出す.これにより細胞内外の電位差,すなわち膜電位が発生する.この細胞状態を分極と呼ぶ.イオンチャネルはイオンを受動的に透過する装置であり,チャネルが開くことによって拡散を通じて細胞内外の化学勾配を部分的に解消する.イオンがチャネルを通過する際に膜電流が生じ,イオンの流入出によって分極状態が解消されて脱分極する.この過程を膜興奮と呼ぶ.
数学的には,膜興奮動態は一連の微分方程式を用いて表現される.ホジキン・ハクスリー(H-H)方程式は,ナトリウムイオンチャネルやカリウムイオン(K+)チャネルなどのイオンチャネルの開閉によって生じる膜電流と膜電位の変化の関係を反映している [26, 27].特に,膜電流はイオンコンダクタンス(イオンの透過しやすさを表す変数)および膜電位に依存する非線形関数で表され,細胞状態変化の計算的側面を支持する実体である.化学勾配の発生と解消のプロセスと数理モデルとを対応づけると,膜興奮動態は化学勾配による自然計算の一形態と考えられる.H-H方程式に基づくと,膜電位の変化は,膜電流関数のパラメータの組み合わせが決まると一意に決定され,外部刺激がない限り膜電位は静止状態から変化しない.言い換えれば,外部との相互作用がない限り,細胞は興奮性を示さない.したがって,細胞の膜興奮動態の機能を明らかにするためには,情報入力過程を含む細胞全体の情報処理システムを考える必要がある.
典型的なゾウリムシの行動に回避反応がある [28, 29].ゾウリムシの前端に機械的刺激が加えられると,繊毛の運動方向が逆転し,一時的に後方へ泳ぐ.この繊毛運動の逆転は,前端への機械的刺激によって機械感受性カルシウム(Ca2+)チャネルが開いて膜電位が上昇し,それによって電位依存性Ca2+チャネルが開いて細胞膜にCa2+電流が発生することで引き起こされる.このように,細胞全体がゾウリムシの行動を引き起こすプロセスに関与している.この一連のプロセスを情報処理システムと捉えると,細胞膜の機械感受性Ca2+チャネルがセンサーとして外部環境の変化を検出するプロセスが「入力」に対応する [11, 33,34,35].情報の選択は,センサーの種類に依存する.また,行動もしくは行動を制御する繊毛運動が「出力」に対応する.その繊毛運動は膜興奮動態によって制御されているから,膜興奮動態が情報処理演算に対応する.
H-H方程式は,非線形性を持つ4変数の連立微分方程式であるため,複雑な行動を記述できる [30,31,32,33].平野らは,一般的なH-H方程式を改変し,ゾウリムシの膜興奮動態を再現可能なゾウリムシ型H-H方程式を構成した [21,22,23].平野らは,ゾウリムシが物理的障害物やイオン濃度の差異などの化学的障壁に直面すると方向転換する行動を再現した.しかし,平野らのモデルによるゾウリムシの行動は環境依存的であり,同じ環境での行動多様性すなわち柔軟な行動は見られなかった.
そこで本研究では,生物が部分的な情報に対して柔軟な行動応答を実現する数理モデルの構築を目的とし,繊毛虫ゾウリムシが障害物に衝突したときに複数の行動応答を示すことを生物実験により明らかにする.また,そのゾウリムシの行動応答の仕組みを化学勾配に基づく細胞の膜興奮動態の数理モデルで記述し,実験で得られたゾウリムシの行動を再現する.
ゾウリムシ(Paramecium multimicronucleatum)は液体培地(4 mg/L KCl [Nakalai Co., 13092-65], 4 mg/L CaCl2 [Nakalai Co., 16973-64], 4 mg/L MgSO4 [Nakalai Co., 20942-34], 2.5 tab/L Ebios tablets [Asahi Group Foods])で,室温24–26°Cの暗室内で培養された [19].ゾウリムシを計測開始2時間前にガラスピペットでアッセイ培地(1.0 mM Tris-HCl [pH 7.6; Nakalai Co., 35436-01], 1.0 mM CaCl2 [Nakalai Co., 16973-64], 2.0 mM KCl [Nakalai Co., 13092-65])に移し,アッセイ培地に適応させた.
Fig. 1は実験装置の概略を示している.プラスチックディッシュ(ϕ = 60 mm, SARSTEDT Co.)の中央に障害物のカバーガラス(高さ6 mm × 幅18 mm; MATSUNAMI, No.1)を垂直に設置した.カバーガラスは,アルカリ電解水で親水化され,墨汁で着色した寒天ブロック(1%(w/v), 10 mm×10 mm×3 mm; Ina Food Industry Co., S-7) に挿入して固定された.プラスチックディッシュ内にゾウリムシを含むアッセイ培地(12.5 individuals/mL)を入れて,ゾウリムシの行動を実体顕微鏡(Olympus, SZ61, ×0.5対物レンズ, 可視光)の暗視野照明により観察した.顕微鏡像はCCDカメラ(Olympus, CS230B, 320×240 pixels, 8 bits)で撮影され,AVIフォーマットの動画像(15 fps)としてパーソナルコンピュータ内蔵のハードディスクにUSBキャプチャーデバイス(Buffalo, PC-SDVD/U2G2)とキャプチャーソフト(Hunuaa, http://www.moemoe.gr.jp/~hunuaa/)を介して記録された.
Schematic illustration of the experimental setup.
障害物に衝突した20個体のゾウリムシを解析対象とした(N = 20).
2.2 解析方法本研究ではゾウリムシの3次元空間での遊泳運動を水平面に射影した2次元運動を解析した.ゾウリムシと障害物との接触点を原点として,ガラス面に平行な軸をx軸(右方向が正), x軸と直行する軸をy軸(上方向が正)としたx−y平面をゾウリムシの運動面とした.この平面において,全てのゾウリムシが右斜め上方向(第3象限から原点方向)に前進して障害物のカバーガラスに衝突し,衝突後に身体の向きを変えて右斜め下方向(原点から第4象限の方向)に前進して障害物から離れていくように動画像を回転および反転した.
動画像の解析には,OpenCVライブラリを用いてPythonで記述されたスクリプト,およびImageJ(NIH)を用いた.事前処理として,動画像の各フレームから全てのフレームの平均画像を減算して背景を除去し,移動する物体のみを抽出した.
動画像からゾウリムシの位置座標と身体の向きを求めた.動画像をフィルタリングおよび二値化処理してゾウリムシの身体を抽出し,その抽出領域の重心座標をフレーム番号nにおけるゾウリムシの位置座標(xn, yn)とした.運動速度は
実験結果の統計学的な有意差はノンパラメトリックのMann-Whiteney U検定もしくはMardia-Watson-Wheeler検定によって調べられた.検定には,SciPyライブラリを用いてPythonで記述したスクリプトを用いた.
ゾウリムシの運動を水平面に射影した2次元運動で捉えると,ゾウリムシはおよそ1.0 mm/sの速さで身体の向きを周期的に変えて蛇行しながら前進した.
Fig. 2は,前進遊泳しているゾウリムシが障害物に衝突した時の典型的な2つの行動パターンを示している.1つ目の行動パターンは,Fig. 2(a)に示されるように,障害物に衝突するとすぐに身体の向きを変えて障害物から離れる行動であった (Touchと呼ぶ).ゾウリムシは蛇行運動しながら前進し,身体の向きを時計回り(
Typical behavioral responses observed when the paramecia collided with an obstacle such as a glass wall. The figures above show the swimming trajectories of the paramecia, while the graphs below show the body angles plotted against time in seconds. The time at impact is 0 s.
2つ目の行動パターンは,Fig. 2(b)に示されるように,障害物に衝突後しばらく障害物表面に沿って泳いだ後に壁から離れる行動であった(Skatingと呼ぶ).ゾウリムシは蛇行運動しながら前進し,身体を反時計回り(dθn> 0)に向きを変えながら蛇行運動しているときに障害物に衝突した.衝突後,約0.2秒間に渡って身体を急速に時計回りに回転させた.その後,さらに身体をゆっくりと時計回りに回転させながら,障害物表面に沿って遊泳して障害物から離れた.
ここでは,ゾウリムシが障害物に衝突してから0.5秒後の身体の向きが負の場合(θ(0.5)≤ 0)をTouch, 正の場合(θ(0.5)> 0)をSkatingと分類した.これは,ゾウリムシが障害物から離れるために障害物衝突後に右回り約50-60°の身体の回転を必要とし,その行動に約0.5秒の時間を要したためである.この実験結果の詳細については3.2節に述べる.
TouchとSkatingの発現割合はそれぞれ50% (N = 10)と25% (N = 5)であった.また,TouchとSkatingとは別の異なる行動や類似する行動が全体の25% (N = 5)に見られた.これらの行動は,障害物から離れずに動かなくなる行動や,障害物表面で一時的に止まった後に離れるといったTouchの類似行動が主であった.
3.2 2つの行動パターンの運動パラメータの比較ゾウリムシと障害物との接触時間,すなわちTouchとSkatingの行動発現がどのような運動パラーメータに依存しているかを明らかにするために,2つの行動パターンの運動の詳細を比較した.
ゾウリムシが障害物に衝突した時の衝突角(θ(0))と身体の角度変化(dθ(0))を解析した.TouchとSkatingのθ(0)の平均値(±s.d.)は,それぞれ
一方,TouchとSkatingのdθ(0)の平均値(±s.d.)は,それぞれ
ゾウリムシが障害物に衝突した時の運動量と障害物から受ける力の影響を解析した.ゾウリムシの質量を一定とすると,運動量は障害物に対して垂直方向の速度(vy(0))に比例し,障害物から受ける力は障害物に対して垂直方向の加速度(ay(0))に比例する.TouchとSkatingのvy(0)の平均値(±s.d.)は,それぞれ0.42 ± 0.19mm/s,0.62 ± 0.06mm/sであり,TouchよりもSkatingの方が有意に大きかった(Mann-Whiteney, 99%信頼区間).TouchとSkatingのay(0)の平均値(±s.d.)は,それぞれ−0.16 ± 0.31mm/s2, 0.03 ± 0.05mm/s2であり,TouchとSkatingに有意差はなかった(Mann-Whiteney, 95%信頼区間).つまり,ゾウリムシの行動パターンは,衝突時に障害物から受ける力よりも,運動量に大きな影響を受ける可能性が示された.
Fig. 3は,Touch (N = 10)とSkating (N = 5)のそれぞれの行動について,ゾウリムシの障害物衝突後の身体の角度変化の経過時間依存性を示している.グラフの横軸は,衝突時刻からの経過時間(t),縦軸は衝突後の身体の角度変化(
Dependency of the body angle variation on the elapsed time after the collision.
Fig. 4は,ゾウリムシの障害物衝突時の身体の角度変化(d(0))と衝突後の身体の回転速度の関係を示している.ここで,衝突後の身体の回転速度は,衝突直後の急激な角度増大後(t = 0.2−0.4s))に生じた身体の回転速度とした.衝突後の身体の回転速度は,d(0) > 0の反時計回りに身体を回転させながら障害物に衝突したSkating行動時に大きく,d(0) < 0の時計回りに身体を回転させながら障害物に衝突したTouch行動時に小さかった.
Dependency of the speed of angle change (t=0.2–0.4 s) after collision on the change of body angle (dθ(0)) when the paramecia collided with a glass wall (filled circle). The dashed line shows a fitting curve with the equation:
ゾウリムシが自由遊泳時に障害物に衝突すると,同じような接触角度や運動速度で衝突しても,身体の回転状態に依存して異なる2つの行動パターン(Touch, Skating)を示した.生物実験の結果に基づいて,それら2つの行動パターンが発現する現象論的シナリオをFig.5にまとめる: (1-2) ゾウリムシが2次元平面(x −y平面)を右斜め上方向に自由に遊泳しているときに,x軸と平行する方向に設置された障害物に衝突する.(3) 衝突後,ゾウリムシは約0.2 sに渡って身体を時計回りに回転させる.(T4-T6) 衝突直前の身体の回転方向が時計回り(d(0) < 0)の時には,継続して身体を時計回りに回転させて,障害物から離れる.この行動がTouchである.(S4-S7) 衝突直前の身体の回転方向が反時計回り(d(0) > 0) の時には,ゆっくりと身体を時計回りに回転させながら障害物表面に沿って遊泳した後に障害物から離れる.この行動がSkatingである.
Phenomenological scenarios of the emergence of two behavioral patterns, touch and skating.
繊毛虫ゾウリムシの遊泳は,細胞表面を覆うように生えた約1万5千本の繊毛の運動の方向や頻度に依存する [11, 27,28,29].その繊毛運動は,細胞内外の化学勾配によって生じる電位差すなわち膜電位によって制御される.より厳密には,細胞表面に生えた繊毛内のCa2+濃度に依存するが,通常は細胞の膜電位変化に依存するとみなす.ゾウリムシに外部から刺激が加えられると,イオンチャネルが開いて拡散を通じて細胞内外の化学勾配を解消するようにイオンの流入出を生じる.これにより細胞内イオン濃度が一時的に変わることで膜電位も変化し,それに伴って繊毛運動の方向や頻度が変化する.
ゾウリムシの化学勾配の定常状態はイオンポンプの働きによって維持されており,Ca2+濃度は細胞外の方が高濃度であり,カリウムイオン(K+)濃度は細胞内の方が高濃度である.ゾウリムシの前部が障害物に衝突すると,機械刺激感受性Ca2+チャネルが開き,細胞内にCa2+が流入して細胞内電位が上昇する.これにより,電位感受性Ca2+チャネルが開いて細胞内電位が急激に上昇し,繊毛運動が変化する.Ca2+の流入量に依存して,ゾウリムシは後退遊泳したり,運動方向を変化させたりする.このようなゾウリムシの応答は約1秒以内の短時間に完了することが多い.Fig. 3に示されるように,生物実験で観察された2つの行動は共に,運動方向の変化であり,またおよそ0.8-1.0 sで角度変化量が飽和していたことから,Ca2+の細胞内流入による繊毛運動の変化によって生じたものであると考えられる.
ゾウリムシの膜電位の動的な挙動は,高等生物の神経細胞の興奮をモデル化したHodgkin-Huxley(H-H)モデルで記述できる.しかしながら,H-Hモデルは,非線形性をもつ4変数の連立微分方程式であるために非常に複雑な挙動を示し,行動観察実験で得られた情報のみからモデルのパラメータを決めることが難しいという側面がある.そこで本研究では,H-Hモデルを2変数に縮約したFitzHugh-Nagumo(FHN)モデルを用いてモデルを構成する [16, 28, 34,35,36].FHNモデルは,ある閾値を超えると活性化される系と,時間遅れのある変数を介したネガティブフィードバックループのある系で構成される2変数の微分方程式であり,神経細胞の興奮性の特徴を表現できる [38]. ここではFHNモデルを用いてゾウリムシの機械刺激の受容に伴う膜電位変化を記述し,その膜電位によって細胞の運動方向を制御する仕組みを導入したゾウリムシの行動モデルを提案する [38].
初めに,ゾウリムシの運動のフレームワークをモデル化する [17].ゾウリムシの遊泳空間をx−y平面と定義し,ゾウリムシの時刻tにおける位置座標を(x(t), y(t))とする.自由に遊泳しているゾウリムシの運動を
ゾウリムシの膜電位は,自由遊泳時の角度変化,外部環境から受ける物理的および化学的な様々な刺激によって生じる角度変化の総和である.そこで,ゾウリムシの運動方向の変化量
ゾウリムシの前進運動は,全ての繊毛打方向が必ずしも一致していないことや,細胞口周囲の特殊な繊毛の動きによって左螺旋を描き,2次元的には蛇行運動しているように見える.そこで,ゾウリムシの蛇行運動の振動的な振る舞いを表現するために,ゾウリムシの自由遊泳時の角度変化u0(t)を以下の式(1)-(2)のようにFHN型のモデルで表現する.
(1) |
(2) |
ここで,
(3) |
ここで,ε > 0は刺激の減衰速度を表すパラメータである.δ(t)は刺激の有無を表すパラメータで,ゾウリムシが壁に接触している場合はδ = 1,ゾウリムシが壁に接触していない場合はδ = 0の値をとる.cs > 0は,生物実験に基づいて構成された衝突応答関数のスケール変換パラメータである.s(u0)は機械刺激に対するゾウリムシの身体の角度変化(衝突応答関数) であり,生物実験の結果(Fig. 4)に基づいて以下の式(4)で記述する:
(4) |
ここで,
ゾウリムシの行動モデルを4次のルンゲクッタ法(刻み幅 = 0.01)によりシミュレートした.
Fig. 6は,自由遊泳するゾウリムシの蛇行運動を示している.ゾウリムシの身体の角度変化(
(a) Typical trajectory of free-swimming paramecia based on mathematical parameters. (b) Time course of u0. (c) A typical trajectory of a limit cycle in the space of u0 and v. The solid line is the solution trajectory, and the dotted and dashed lines are the nullclines for u0 and v, respectively. The parameters and initial conditions for both cases were as follows: vc = 0.01, c0 = c1 = 1.0, τu = 0.15, τv = 0.90, a1 = 1.0, a2 = −1.0, a3 = 4.0, b0 = −1.02572, b1 = 31.682, b2 = 0.243797, ε = 5.0, cs = 20.0, u0(0) = −1.009, v(0) = −0.016, u1(0) = 0.0, x(0) = 0.0, y(0) = 0.0, θ(0) = 30.55.
Fig. 7は,自由遊泳時の蛇行運動を引き起こすu0の周期や振幅は同じであり,ゾウリムシの位置と身体の向きに関わる初期値のみが異なる2条件の数値計算の結果を示している.Fig. 7(a)と(b)は共にt = 0におよそ25°の衝突角で障害物に衝突し,実験で観察されたTouch(Fig. 7(a))とSkating(Fig. 7(b))の行動を示した.
Mathematical model for swimming behavior when a Paramecium collides with an obstacle. Numerical simulations in the case of collision in a left-turning spiral part (a) and in the case of collision in a right-turning spiral part (b). STO and SSK are the contact times between the obstacle and specimen (δ = 1). The figures above show the swimming trajectories of the specimens. The graphs below are the time courses of the key variables. The initial conditions were as follows: (a) u0(0) = −0.937, v(0) = −0.363, θ(0) = 25.71, (b)u0(0) = 1.045, v(0) = −0.018, θ(0) = 25.73. The other parameters and initial conditions for both cases were the same as in Fig. 6.
Fig. 7(a)に示されるように,Touchの場合には,衝突直前の角度変化が正(u0 > 0, 生物実験のdθ(0) > 0に相当)となり,刺激に対する角度変化u1は衝突応答関数sに従って大きな負の値をとった.これにより,ゾウリムシは身体を急速に時計回りに回転させてすぐに壁から離れた.
一方,Fig. 7(b)に示されるように,Skatingの場合には,衝突時の角度変化が負(u0 < 0, 生物実験のdθ(0) < 0に相当) となり,u1はsに従って絶対値が小さな負の値をとった.そのため,ゾウリムシは障害物から離れるために十分な身体の回転角度が得られず,障害物表面をスリップ移動した.その後,ゾウリムシと障害物との接触時間(Fig. 7(b)SSK)が長くなるにしたがって,徐々にu0が増大した.u0が正になったときに,sに従って時計回りの大きな角度変化が生じて,ゾウリムシは障害物から離れた.
このように,実験で観察されたゾウリムシの障害物衝突時の2つの行動パターンは,ゾウリムシが障害物に衝突する時の身体の回転方向(u0)に依存して生じるモデルで再現できた.
本研究では,ゾウリムシが障害物に衝突した時に2つの行動パターン(TouchとSkating)を示すこと,その行動を細胞内外のイオン濃度差すなわち化学勾配に基づく膜電位の変化と刺激応答性による行動モデルで再現できることを示した.
まず,本研究で観察された2つの行動パターンの普遍性について議論する.近年,Nishigamiらは,テトラヒメナが壁付近でLeaving,Sliding,Stoppingの3つの行動を示すことを明らかにした [39, 40].テトラヒメナもゾウリムシと同様に繊毛中類に属する生物であり,我々の実験で示されたTouchとSkatingはそれぞれLeavingとSlidingにおよそ対応した.Escoubetらは,マイクロエンジニアリング技術を用いて作成されたPDMS樹脂の円筒形突起の障害物にゾウリムシが衝突すると主に2つの異なる行動を示すことを明らかにした [42].1つ目の行動は,ゾウリムシが障害物衝突後に一時的に後退してから方向転換する行動いわゆる回避反応であり,約10%の個体に見られた.2つ目の行動は,後退を伴わない運動方向転換であり,約90%の個体に見られた.これは我々のTouchに相当する行動であった.障害物が2次元的には円形であったことから,Skating行動に相当する行動は見られなかった.Touch相当の行動については,ゾウリムシの長径方向の角度が約40°になったところでゾウリムシが障害物から離れた点,ゾウリムシの運動方向転換に要する時間が約0.2sであった点も共通していた.このように,本研究で観察された2つの行動パターンは他の研究で観察された行動と類似していた.したがって,ゾウリムシやテトラヒメナのような繊毛虫が障害物に衝突した場合に,障害物の接触状態を離脱するために複数の行動を示すことは普遍的な現象であるといえる.
一方で,Nishigamiらの流体力学ベースの行動モデルから予測される行動と我々の実験で得られた行動が一致しない部分があった.Nishigamiらのモデルでは,繊毛虫の行動は,細胞体のアスペクト比と,繊毛の長さによって決まる繊毛運動の停止領域サイズに依存する.ゾウリムシの細胞体のアスペクト比と繊毛の長さを適用すると,Sliding行動は壁と細胞との接触角度に関係なく発生することが予測される.我々の実験において,確かにSliding行動に対応するSkating行動は接触角に依らずに発生したが,同じ接触角であってもTouch行動とSkating行動の両方が起こっており,Nishigamiらのモデルから予測される行動と一致しなかった.この不一致の理由は明確でないが,いくつかの可能性が考えられる.例えば,ゾウリムシの細胞形態は正確には楕円体ではないためアスペクト比を単純に適用できない可能性がある.また,ゾウリムシの細胞口周辺の繊毛は他の部分の繊毛と長さが異なるので,接触部位に依っては繊毛運動の停止領域サイズが変わる可能性もある.モデルにおける各種パラメータの行動分岐の境界付近であれば,僅かなパラメータの違いでSlidingとLeavingの行動の違いを生じるため,我々の実験と西上らのモデルとの不一致があったとしても,いずれのモデルや結果を否定するものではないと考えられる.
次に,本研究で観察された2つの行動パターンの発現原理について,ゾウリムシの構造と数理モデルの観点から議論する.提案モデルにおいて,TouchとSkatingの行動は,ゾウリムシと障害物の接触角ではなく接触時のゾウリムシの角度変化(dθ(0))の符号に依存した.本研究ではゾウリムシの運動を2次元で扱ったが,本来ゾウリムシは3次元空間で左回りに螺旋遊泳する.この螺旋遊泳行動は,メタクローナルな繊毛運動やゾウリムシの細胞口周りの特殊な繊毛運動によって生じる.メタクローナルな繊毛運動とは,ゾウリムシ表面の繊毛が推進力を発生するタイミングが細胞表面上を螺旋状に伝播することであり,それによって細胞体の遊泳行動も螺旋状になる.また,ゾウリムシの細胞口周りには,他の部位とは長さ,運動の方向や頻度の異なる特殊な繊毛が生えている.この繊毛運動が細胞表面に発生する回転トルクの非対称性を生み,細胞体の遊泳行動が螺旋状になる.このような螺旋遊泳行動は2次元的には蛇行運動となり,同じ接触角でも角度変化(dθ(0))の符号が異なる状況をつくる.つまり,障害物に衝突するまでの遊泳行動はTouchとSkatingのどちらでも同じであると考えられる.ゾウリムシの行動において,繊毛運動と膜電位とは一対一で対応し,膜電位の実態は化学勾配である.また,角度変化は,ゾウリムシが障害物に衝突するまでに時間とともにどのように動いてきたかという運動履歴に相当する.したがって,ゾウリムシは,化学的に同じ細胞状態であっても,環境と力学的に相互作用する直前の運動履歴に依存して行動多様性を生み出すことができると考えられる.
一般に,非線形微分方程式によるモデルでは,行動パターンの分岐は解の分岐構造に基づいて説明される [43,44,45].我々のモデルでは,機械刺激がトリガーとなって,細胞の状態変化を生じ,その持続時間の違いが複数の行動パターンの生成に寄与した.ゾウリムシの前部細胞膜上には多くの機械刺激受容性カルシウムイオンチャネルタンパク質が存在する.その働きの分子生物学的なメカニズムの詳細は明らかでないが,刺激強度に依存してチャネルの開口数や開口時間が変わると考えられている [46, 47].チャネルの開口数が多ければ,短時間のうちに多くのイオンの流入出を生じ,短時間で電位依存性カルシウムイオンチャネルの働きを誘発できる.チャネル開口数が少なくても開口時間が長くなれば,時間をかけて電位依存性カルシウムイオンチャネルの働きを誘発できる.本研究で観察された2つの行動パターンは,このような機械刺激受容性カルシウムイオンチャネルのダイナミクスによって生じた可能性がある.一方で,ゾウリムシは障害物衝突時に変形することがある.ゾウリムシの細胞が変形すれば,繊毛運動が同じであってもトルクの発生方向の変化に伴って細胞の運動方向も変化する.本研究の顕微鏡での拡大スケールやビデオカメラのフレームレートでは変形に関する情報は得られなかった.今後,高解像度かつ高速度で撮影可能なカメラを使用して障害物衝突中の細胞形態を調べることができれば,行動の表現に対する変形の寄与を定量的に評価することが可能となり,ゾウリムシの行動分岐の原理をより明確に説明できる可能性がある.
最後に,生物の柔軟性と効率性を併せ持った情報処理システムの理解の観点から数理モデルの妥当性や行動の意義について議論する.自然界でゾウリムシは土壌や水生植物などによって生じた障害物に衝突したり,狭空間に入り込んだりすることがある [48].そのような状況に対して効率的かつ柔軟に行動することが生存にとって重要である.Touch行動は,障害物に衝突した際に短時間で方向転換する単純な回避行動である.他方,Skating行動は,障害物表面に沿って移動することで,狭空間でも自らの運動を調節しながら回避可能な状況を探索することができる行動である.TouchとSkatingのどちらの行動も同一刺激で生じるので1回で適した行動となるとは限らないが,複数回の行動を繰り返す中で環境状況に適した行動が確率的に生じる可能性がある.したがって,提案モデルは複数の行動応答が可能である点,生物が自らの行動によって環境との相互作用状態や内部状態を変化させることで複数の行動応答を結果的にスイッチするという点において,環境との相互作用の行動応答に対して柔軟性があるシステムであるといえる.
本研究では,Teroらのモデルに基づき,ゾウリムシの運動方向の変化量