Article ID: 2024-0035
本研究は,ゾウリムシの空間適応行動を化学勾配の緩和過程に基づいて数理モデルで再現することを目的とした.ゾウリムシは,細長い空間内で障害物に衝突した際,短距離の後退遊泳を繰り返しながら徐々に後退距離を伸ばし,最終的に3-4 mmの長距離後退遊泳を発現する.この行動は細胞内外の化学勾配が膜電位を変化させ,繊毛運動の方向と頻度を制御することで生じる.そこで,膜電位動態と繊毛運動の関係を定式化した運動モデルを膜電位モデルに統合した数理モデルを構成した.数値シミュレーションにより,カルシウムイオンチャネルの遅い応答に加えて,後退遊泳を引き起こすカルシウム電流の閾値が動的に変化する仕組みを導入することで,短距離後退遊泳から1 mm程度までの長距離後退遊泳への移行過程の一部を再現できた.これにより,ゾウリムシは単に化学勾配に受動的に応答するだけでなく,膜電位と繊毛運動のダイナミクスを通じた内因的な制御メカニズムを備えた適応能を備えていることが示唆された.
This study aims to model the spatial adaptive behavior of Paramecium based on the relaxation process of chemical gradients. Paramecium exhibits a behavior in which it repeats short-distance backward swimming upon collision with obstacles in narrow spaces, thus gradually increasing the distance of its backward swimming until it exhibits long-distance backward swimming. This behavior arises from the changes in the membrane potential induced by intracellular and extracellular chemical gradients, which control the direction and frequency of ciliary movement. To replicate this behavior, a mathematical model was developed by integrating an electrophysiological model of membrane potential with a motility model that formalizes the relationship between membrane dynamics and ciliary motion. Numerical simulations successfully reproduced the transition from short-distance to long-distance backward swimming and revealed that, in addition to the slow response of calcium ion channels, a dynamically changing threshold of calcium current for inducing backward swimming is essential. These findings suggest that Paramecium possesses an adaptive capability driven not only by passive responses to chemical gradients but also by an intrinsic control mechanism mediated through the dynamics of membrane potential and ciliary motion.
自律移動型ロボットが環境適応能を持つことは,自然界の複雑な環境での移動や,設計段階で予測されていない状況下で柔軟な行動を実現するために不可欠である [1,2,3].この能力は,災害救助や医療支援のほか,人工細胞の設計など多様な応用分野での展開が期待されている [4,5,6].その実現に向けた一つの有効なアプローチは,生物や無生物が持つ移動や環境適応行動の仕組みを解明し,それを工学的に応用可能な数理モデルで表現することである.特に,単細胞生物が示す環境適応行動は,化学反応を力学に変換するプロセスを基盤としており,この特性を数理モデルとして設計することで,生物模倣技術の発展が期待されている [7,8,9].
多くの生物の移動は,化学反応や化学勾配に基づき,化学的変化が力学的な出力に変換される化学-力学変換のプロセスを基盤としている [10,11,12,13,14].たとえば,鞭毛や繊毛は単細胞生物の運動器官として機能し,ATPの加水分解によるエネルギー供給と細胞内の化学反応ネットワークによって調節されて特定の方向性を持つ運動を引き起こす.また,アメーバ運動では,細胞内のタンパク質アクチンの重合と解離が化学反応に基づいて動的に制御され,細胞形状の変化を通じた移動を生じる.これらの現象は,生物が内因的な化学勾配の動態や化学反応を運動制御に活用していることを示している.
他方,無生物の運動にも化学勾配や化学反応を利用した例がある.たとえば,ソフトロボットのBZ(Belousov-Zhabotinsky)ゲルは,ゲル内で酸化還元の自励振動反応を引き起こし,化学エネルギーをゲルの膨張と収縮という力学エネルギーに変換する特性を持つ [15, 16].このゲルは,ラチェット構造のような非対称な床上で一方向の運動を示す [17].ゲルのサイズや形状を調整することで,ゲル内部に異方性を持つ化学反応波の伝播を発生させ,非対称構造がない床上でも一方向の運動を実現できる [18,19,20].また,樟脳粒を水面上に浮かべると,一部が水中に溶解して化学物質の拡散が生じ,それによる表面張力の不均一な分布が異方性のある移動を引き起こす [21, 22].これらは,化学反応や化学勾配が生物や人工システムの運動を駆動する重要な要素であることを示している.
生物に見られる環境適応行動の中には,化学勾配やその緩和過程に基づくものがある.細菌や単細胞生物は,周辺環境の化学物質の濃度勾配を感知し,その情報に基づいて移動方向を調整する走性を示す [23, 24].これにより,栄養源を求めたり,有害物質を回避したりする適応的な行動が可能となる.この走性行動は,細胞内の化学反応ネットワークや化学勾配の緩和過程によって制御されており,細胞内の化学過程が直接運動を制御していることを示している [25, 26].
単細胞生物の繊毛虫ゾウリムシの移動は,化学勾配が駆動する走性行動の良い事例である.ゾウリムシは,細胞内外の化学勾配が引き起こす膜電位の変化によって細胞表面に生える繊毛の運動を制御し,刺激に応じた適応的な行動を示す [27,28,29,30].我々はこれまでの研究で,ゾウリムシが空間適応行動を示すことを明らかにしてきた [31, 32].ゾウリムシは細長い管の行き止まりに衝突すると,短距離の後退遊泳(0.2-0.4 mm)を行った後で前進遊泳に転じて再び行き止まりに衝突する.この一連の行動を繰り返すうちに,後退遊泳の距離は徐々に伸び,最終的には3-4 mm程度の長距離の後退遊泳が可能となる.管が3 mm程度であれば,ゾウリムシは管から脱出できる.この長距離後退遊泳は生存に有利な行動であり,ゾウリムシが空間形状に適応した行動を発現する能力を持つことを示している.我々は,この空間適応行動を細胞内外の化学勾配に基づく膜電位モデルで再現し,膜電位を制御するタンパク質の働きに時定数の遅い応答が存在することで現象が説明可能であることを示した.しかし,化学-力学変換のプロセスを考慮していないモデルであったために,長距離後退遊泳の再現の検証が十分ではなかった.
そこで本研究では,膜電位モデルに運動モデルを統合し,化学勾配の緩和過程に含まれる遅い応答がゾウリムシの空間適応行動の発現に与える影響を評価した.この統合モデルにより,短距離後退遊泳から長距離後退遊泳への移行プロセスを数理的に再現し,その背後にある制御メカニズムを明らかにすることを目指した.
モデル化する現象を明確にするために,ゾウリムシ(Paramecium multimicronucleatum)の長距離後退遊泳行動の観察実験を行った [31].
ゾウリムシが野外環境で稲わらの茎のような細長く行き止まりのある空間に閉じ込められる場合を想定し,ゾウリムシが身体を折り曲げて方向転換できないほど細いキャピラリー空間に閉じ込めた(溶液条件: 1.0 mM Tris-HCl [pH 7.6; Nakalai Co., 35436-01], 1.0 mM CaCl2 [Nakalai Co., 16973-64], 2.0 − 20.0 mM KCl [Nakalai Co., 13092-65]).ゾウリムシのキャピラリー管内での行動を実体顕微鏡(Olympus, SZ61, ×0.5対物レンズ)で観察した.顕微鏡像をCCDカメラ(Olympus, CS230B, 320×240 pixels, 8 bits)で撮影し,1/15秒ごとに静止画を記憶デバイスに保存した.静止画像を連結した時間スタック画像を作成し,Pythonスクリプト,およびImageJ(NIH)を用いてゾウリムシの位置の時間変化を解析した.
Figure 1は,キャピラリー管内でのゾウリムシの位置の時間変化を示している.x = 0はキャピラリー末端で,キャピラリーを覆うオイルと管内の溶液による油液界面の障壁がある.ゾウリムシはその障壁に衝突し,一時的に後退した.時刻t = 30秒までは0.2-0.4mm程度の短距離の後退遊泳を繰り返し,それ以降に徐々に後退距離を伸ばした.時刻t = 60秒頃から3-5 mmの後退を繰り返した.
Long-distance backward swimming in Paramecium。
本研究では,Figure1に示される行動のうち,短距離後退遊泳から長距離後退遊泳に移行するプロセスを再現するモデルを構成する.
本研究では,ゾウリムシの長期後退遊泳行動を再現するモデルを膜電位モデルと運動モデルの2つのモデルで構成した.
ゾウリムシの膜電位は,細胞膜に存在するイオンポンプが細胞内外にイオンを能動的に輸送して細胞内外に化学勾配を作り出すことで生じる.細胞膜上のイオンチャネルが開くことで,イオンが拡散して膜電流を生じる.この膜電気現象は,神経細胞の膜電気現象を表すホジキン・ハクスリー(Hodgkin-Huxley, H-H)方程式でモデル化できる.具体的には,H-H方程式のナトリウムイオンに対応する項をカルシウムイオンに置き換え,イオンの透過性を表すイオンコンダクタンスの電位依存性関数をゾウリムシに適した関数形に変更する [33].このゾウリムシ版H-H方程式に,カルシウムイオンチャネルに時定数の遅い応答を追加した [31].
ゾウリムシの遊泳行動は,繊毛打と呼ばれる細胞表面の繊毛の運動によって駆動される.繊毛の運動方向は,膜電流の状態によって決定され,カルシウムイオン電流が発生している場合には後退遊泳,それ以外の場合には前進遊泳する.繊毛打は推進力を生み出す有効打と元の状態に戻る回復打からなる一連の繊毛運動であり,単位時間あたりの繊毛打の回数が繊毛打頻度である.遊泳速度は繊毛打の頻度に比例し,その頻度は膜電流値に依存する.本研究では,膜電位モデルから得られるカルシウム電流が特定の閾値以下となった場合に後退遊泳させた.遊泳速度は,カルシウム電流値およびカリウム電流値に基づいて繊毛打頻度を決定し,その頻度から求めた.
さらに,ゾウリムシが細い管の行き止まりに衝突した場合をシミュレーションするため,ゾウリムシの運動速度から障壁への衝突時に発生する衝撃力を求め,その衝撃力を外部刺激電流値に変換して膜電位モデルに入力した.
3.2 膜電位動態モデルゾウリムシの膜電位は以下のH-H型の方程式(1)で表現できる [33].
(1) |
ここで,Cmは膜の電気容量,V(t)は膜電位である.Iapp(t)は外部刺激電流であり,その大きさは3.3.2項の式(17)に示すように,ゾウリムシが細い管の行き止まりに衝突することで発生する衝撃力に依存して決定される.δ(t)は刺激の有無を表すスイッチ変数であり,刺激がある場合はδ(t)
= 1,刺激がない場合はδ(t) =
0である.
Ca2+チャネルとK+チャネルのイオンコンダクタンスをそれぞれ以下の式(2)-(4)と式(5)で表す [31].
(2) |
(3) |
(4) |
(5) |
ここで,gCaFとgCaSは,それぞれ速い時定数と遅い時定数を持つCa2+チャネル(以降それぞれをfast-Ca2+チャネルとslow-Ca2+チャネルと呼ぶ)のイオンコンダクタンスを示している.mF, mS, hF, hS, nはイオンチャネルの開閉に関するパラメータであり,その時間変化は以下の式(6)で与えられる.
(6) |
xは各イオンチャネルの開口率であり,(1 − x)は閉口率である.αxとβxはイオンチャネルが開口および閉口する速度を規定するパラメータであり,次の式(7)-(14)で表す.
(7) |
(8) |
(9) |
(10) |
(11) |
(12) |
(13) |
(14) |
ここで,γはslow-Ca2+チャネルのfast-Ca2+チャネルに対する開口および閉口する速度比を表すパラメータである.
式(2)のCa2+チャネルの不活性化過程におけるslow-Ca2+チャネルの割合P(t)(0 <P(t) ≤ 1)を以下の式(15)-(16)で定義する.
(15) |
(16) |
ここで,tiは,時刻t時点で最後に障壁に衝突した時刻である.∆tはシミュレーションの計算時間ステップ,∆Pは刺激によってfast-Ca2+チャネルがslow-Ca2+チャネルに変化する割合,τp = τmaxP(ti − ∆t)はPの減衰時定数,τmaxはPの最大減衰時定数である.aP, bP, cPは定数である.
3.3 運動モデル 3.3.1 位置の表現ゾウリムシが一次元の直線上(x軸, x ≤ 0)を遊泳する現象をモデル化する.ゾウリムシを質点として扱い,時刻tにおける質点の位置をx(t)で表す.質点の速度をv(t)とし,時刻t + ∆tにおける質点の位置をx(t + ∆t) =x(t) + v(t)∆tで近似する.また,x = 0に障壁があると仮定し,質点はこの障壁を超えて移動できないものとする.
3.3.2 膜電流から繊毛打頻度への変換式Machemerは,Ca2+電流の発生に相当する脱分極性電流刺激とK+電流の発生に相当する過分極性電流刺激に対する繊毛打頻度の時間変化や膜電流依存性について電気生理学実験と観察実験によって詳細に分析した [34, 35].その結果,脱分極側と過分極側のそれぞれについて,繊毛打頻度が上限35-40 Hz程度のシグモイド曲線で近似できることを明らかにした.そこで,Machemerの実験的事実の特徴を有する以下の式(17)よって,Ca2+電流とK+電流を繊毛打頻度に変換した.
(17) |
ここで,Frは繊毛打頻度,tは時刻,ICaとIKはそれぞれCa2+電流とK+電流である.ĪCaは繊毛打方向の逆転をスイッチする閾値である.ĪCaが定数の場合と,P(t)に依存して変化する場合(ĪCa = aIcaP(t) + bIca)と場合の2つの場合を比較した.aca, bca, cca,aK,bK,cKは定数である.
3.3.3 繊毛打頻度から繊毛速度への変換式Toyotamaらの研究に基づき,繊毛打頻度Fr(t)と遊泳速度v(t)の関係を式(18)のシグモイド曲線で表した [36].
(18) |
ここで,as, bs, csは定数である.
3.3.4. 機械刺激の刺激電流への変換式ゾウリムシの障壁への衝突効果を膜電気モデルの外部刺激電流として与えた.その大きさを以下の式(19)により決定した.
(19) |
ここで,Fimpは障壁への衝突により発生する衝撃力であり,エネルギー保存則と運動の第二法則を用いて
ゾウリムシの長距離後退遊泳モデルを4次のルンゲクッタ法(刻み幅=0.1 msec)によりシミュレートした.シミュレーションには,NumPyライブラリを用いて記述されたPythonスクリプトを用いた.
パラメータ値と初期値は以下の通りである:
Figure 2は,ゾウリムシが直線上を運動する様子をシミュレーションした結果である.ゾウリムシは,静止膜電位状態で通常遊泳速度1.001mm/s (繊毛打頻度 18 Hz)で前方に遊泳し,一次元空間末端(x = 0)の障壁への衝突で衝撃力を受けた.それを電流刺激に変換してゾウリムシに与えると,膜電位上昇が生じるとともに,Ca2+チャネルが開いて細胞外から細胞内にCa2+が流入してCa2+電流(ICa)が発生した.ICaが閾値以下になると,繊毛打方向が逆転して後退遊泳した.Ca2+チャネルが閉じてICaが閾値より大きくなると,繊毛打方向が通常方向となって前進遊泳に戻った.
Membrane potential response and movement in one-dimensional space of a
Paramecium model. (a) When only the
Ca2+ channel with a fast time constant is active
後退遊泳時間は,ICaが閾値以下になった時間すなわち繊毛逆転時間に対応しており,Figure 2aに示されるようにfast-Ca2+チャネルのみが働く場合に0.1秒以下,Figure 2bに示されるようにslow-Ca2+チャネルが働く場合には1秒程度で完了する後退遊泳を繰り返し示した.
これらの結果は,実験でゾウリムシが障壁に衝突した時に生じる後退遊泳と類似していた.したがって,ゾウリムシの遊泳を生じる物理的なメカニズムに基づいて,細胞内外の化学勾配の状態を運動に変換する運動モデルが機能していることが示された.
4.2.2 細胞外カリウムイオン濃度の後退距離への影響Figure
3は,細胞外カリウムイオン濃度
Dependency of backward swimming behavior on extracellular potassium ion concentration. Shaded gray areas indicate periods when the Ca2+ current ICa is below the threshold ĪCa = −0.005, thus resulting in ciliary reversal.
我々のこれまでの論文 [31]の実験結果において,
この結果は,静止膜電位が低いほどICaが大きくなり後退遊泳が起こりやすいこと,膜電位が高いほどCa2+チャネルの不活性化が早まって後退遊泳が早く収束することによって生じると考えられる.
K+の平衡電位は
Ca2+チャネルの不活性化は,イオンチャネルの開閉に関するパラメータhの働きで生じる.hの時定数τhは,
このように,細胞内外の化学勾配の大きさが,イオンチャネルの働きに直接的に影響を及ぼし,それがゾウリムシの運動を制御していることが示された.
4.2.3 後退遊泳をスイッチするカルシウム電流の閾値設定の影響Figure 4は,繊毛打方向の逆転をスイッチする閾値ĪCaが定数の場合に,その大きさがゾウリムシの後退距離に与える影響を示している.ĪCa = −0.001の場合,障壁衝突後すぐにICaがĪCa以下になって一定距離を後退した.ICaがĪCa以上になった時に前進遊泳にスイッチし,再び障壁に衝突する行動を繰り返した.ĪCa = −0.005以下の場合には,障壁付近での衝突と0.1 mm以下のごく短距離の後退を数回繰り返した後で0.3-0.8 mmの後退行動を繰り返した.ごく短距離の後退は,衝突直後のfast-Ca2+チャネルの働きでICaが急速に変化し,その過程でICaがĪCa以上になるために生じたと考えられる.それに続く0.3-0.8 mmの後退行動は,slow-Ca2+チャネルの働きでICaがゆっくりと変化することで生じたと考えられる.
Effect of the constant ĪCa on backward swimming behavior. Red line represents the threshold of the Ca2+ current ĪCa. Shaded gray areas indicate periods when the ICa is below the threshold ĪCa, thus resulting in ciliary reversal.
Figure
5は,ĪCaがPに依存して変化する場合の後退遊泳行動を示している.
Backward swimming behavior when ĪCa changes with P. Red line represents the threshold of the Ca2+ current ĪCa. Shaded gray areas indicate periods when the ICa is below the threshold ĪCa, thus resulting in ciliary reversal.
これらの結果に示されるように,ĪCaがPに依存して変化する場合に,実際の現象で観察された0.2-0.4 mm程度の短距離の後退遊泳の繰り返しから,後退遊泳距離が長くなる現象を再現できた.後退遊泳距離が3-4 mmに長くなる現象は再現できなかった.
膜電位モデルのみの検証では,Pの減衰プロセスで外部刺激電流を与えることで,Pを畳み込み的に増大させ,ĪCaが定数であってもICaがĪCa以下になる時間が長くなる現象,すなわち長距離後退遊泳の発現を再現できた.しかしながら,運動モデルを付加すると,ĪCaが定数の場合にはPが減衰しなければ次の刺激を受けることができず,結果的に後退距離を長くできないことが明らかになった.Brehmらは,脱分極に伴うfast-Ca2+チャネルの不活性化がK+電流の活性化で説明できず,膜電位とは独立にCa2+の正味の流入量に依存している可能性を指摘している [37].また,Hennesseyらは,slow-Ca2+チャネルの不活性化がfast-Ca2+チャネルの不活性化とはメカニズム的に異なる現象であることを指摘している [38].これらは,ゾウリムシに対するH-H方程式のCa2+チャネルの不活性化がイカの神経軸索に対するH-H方程式のナトリウムチャネルの不活性化とは質的に異なる可能性を示唆している.したがって,我々の実験で観察された3-4 mmスケールの長距離後退遊泳を再現するには,K+電流の活性化とは異なるメカニズムを組み込む必要性があると考えられる.
ĪCaがPに依存して変化する仕組みの妥当性を検討する.ゾウリムシの繊毛運動では,メタクローナル波と呼ばれる繊毛打の協調的伝播が見られる [34, 39].これによりゾウリムシは繊毛が多数あっても推進力を打ち消し合わずに特定の方向に移動できる.つまり,slow-Ca2+チャネルが存在する場合でも,繊毛逆転のメタクローナル波が発生しなければ後退遊泳は起こらない.PはCa2+チャネルのうちslow-Ca2+チャネルの割合を示している.細胞表面にCa2+チャネルが一様に分布していると仮定すると,slow-Ca2+チャネルの割合が小さければ,繊毛逆転は局所的に発生することになる.slow-Ca2+チャネルの割合が増加することで,繊毛逆転領域が広がりメタクローナル波が発生しやすくなると予想できる.したがって,Pが低い時には後退遊泳をスイッチする閾値が低く,Pが高くなるについて閾値が大きくなることは妥当であると考えられる.
これらのゾウリムシの行動に動的な閾値設定が影響する結果は,繊毛逆転に必要な閾値が環境刺激に応じて変化する可能性を示唆している.このような動的応答性は,生物が複雑な環境に適応する能力の一端を示しており,特に細胞内外の化学勾配の微細な調節が行動制御に寄与していることを示している.
ゾウリムシの繊毛運動と膜電位変化が直接的に対応づくことから [40],これまで膜電位モデルでゾウリムシの行動を再現してきた.本研究では,新たに膜電位を運動へと変換するモデルを構成し,障壁付近での短距離後退遊泳の繰り返しが長距離後退遊泳へと移行する現象の一部を再現した.これは,膜電位モデルのみでは再現されてこなかった現象である.この現象の再現においては,運動モデルによる物理的制約を生じたことで,カルシウムイオンチャネルの応答に時定数の遅い応答を付加するのみならず,後退遊泳のスイッチとなる閾値が動的に変化する仕組みが影響していることがわかった.このような動的閾値の存在は,ゾウリムシが単に化学勾配に対して受動的に応答するだけでなく,膜電位と繊毛運動のダイナミクスを通じた内因的な制御メカニズムを備えた適応能を持つことを示唆している.