日本金属学会誌
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特集「貴金属のリサイクル関連技術の最前線II」
貴金属の溶解及び溶存錯体の同定に関する研究動向
鈴木 智也粕谷 亮成田 弘一
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2021 年 85 巻 8 号 p. 305-315

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Abstract

Highly effective refining of precious metals requires detailed knowledge of the chemical properties of their complexes in leaching solutions. Speciation studies on precious metal ions in solution have been performed for about a century. Early studies have mainly provided stability constants between precious metal ions and their ligands. Recently, improvement of analytical technologies has facilitated advanced speciation including determination of the information on detailed structure for the metal complexes. This review presents the dominant species of precious metal complexes in cyanogen, hydrochloric acid, and nitric acid solutions, and their leaching systems. In addition, conventional and current speciation methods are discussed.

1. はじめに

近年の貴金属の工業的用途の多様化や価格の高騰は,その安定供給の必要性を高めており,鉱石など1次資源及び廃製品など2次資源に対する貴金属精錬技術の向上がますます重要になってきている.貴金属の分離精製は,水溶液に貴金属をイオンとして溶解させるプロセスを経由することが多く,沈殿晶析,イオン交換樹脂や活性炭による吸着,電解採取,セメンテーション,溶媒抽出法などの分離法が溶液組成によって選択される1

貴金属は化学的に非常に安定であるため,概してその溶解は極めて困難である.溶解後,貴金属イオンは,水分子や対イオンなどの溶媒に含まれる配位子を伴い錯体として安定化するが,ほとんどの貴金属イオンは,この配位子交換反応の化学平衡への到達が他の遷移金属イオンと比べて非常に遅い.ゆえに,貴金属の種類によっては,平衡状態での分析結果が極めて少ないものがある.

貴金属イオンの相互分離に関しては,溶媒抽出法やイオン交換樹脂による吸着法が主要な白金族金属精錬所において導入されている2.これらの溶媒和反応やイオン交換反応を利用した分離方法においては,分離剤(抽出剤/吸着剤)または共存するイオンにより,いかに貴金属錯イオンの電荷を中和するかを考慮する必要がある3.そのためには,貴金属イオンの溶存状態の正確な把握が必須である.しかしながら,貴金属錯体の同定の困難さに加え,それらの平衡定数などが求められた系が低金属濃度且つ低酸濃度の条件で得られたケースが多く,必ずしも実際の分離系を反映しているとは言い難かった.一方,近年の分光学的手法の発展により,金属濃度や酸濃度が高い条件におけるデータも解析ができるようになり,溶液中の主要な貴金属錯体の化学形態のみならず,配位構造に関する情報も得られるようになっている.また,計算化学的手法の導入が,貴金属錯体の外圏(第二配位圏)における水和など,より詳細な錯体の構造や反応などの特性把握も可能にしつつある.

本総説では,従来の貴金属溶解及び溶存錯体の同定法に関する情報に加え,新規溶解法や水溶液中の貴金属錯体に関する最近の研究を中心に述べる.

2. 貴金属の溶解

貴金属は高い酸化還元電位を有することから,その溶解は困難であり,強い酸化力を有する物質が必要となる.Table 1に一般的な貴金属の浸出液とそれによる各貴金属の溶解性を示す1.浸出液によって各貴金属の溶解性が異なるが,王水または塩酸(HCl)+塩素(Cl2)ガスを用いると,Agを除くすべての貴金属を溶解することが可能である(極少量のAgはアニオン性の錯体として溶解).以下に溶解に関する各論を述べる.

Table 1 Solubility of precious metals in each leaching solution1).

硝酸(HNO3)を使用すると,特にAg及びPdを容易に溶解できる.ゆえにAgの含有量が多い材料への浸出にHNO3が用いられることが多い.金属状態のAgをHNO3に溶解する場合は,NO3が酸化剤として作用する4.このとき,NO3の還元で生じる亜硝酸イオン(NO2)が触媒として働くことで,溶解反応はさらに効率的に進む.しかし,HNO3濃度が5 mol/L以上になると,HNO3と亜硝酸(HNO2)が反応し,NO2濃度が低下することで,溶解速度の減少が起こる.

王水は,HNO3とHClの混酸であり,古くから知られる貴金属の浸出媒体である.王水では,HNO3とHClの反応により生じる塩化ニトロシル(NOCl)が酸化剤として働くことで貴金属を溶解する1,5.Rh, Ru, Irに関しては,微細な粉末や合金化を行うことで,溶解が容易になる1.しかし,HNO3や王水の使用は,後段の分離精製工程で使用する抽出剤の分解や6,我が国においては硝酸性窒素の厳しい排出規制への対応といった問題を生じさせる7.このことから,王水中のHNO3のCl28,9や過酸化水素(H2O210,11への代替が進められている.主要な白金族金属精錬所ではHCl-Cl2を用いる手法が採用されており2,8,この方法では,Cl2ガスが酸化剤として作用し,貴金属の酸化及び溶解を進める.

塩化物系の媒体による溶解は,これまでにNaCl-HCl-NaOCl12,AlCl3-NaOCl13,NaCl-H2SO414,CuCl2-HCl15,及びHCl-CuCl2-NaCl16など,様々な系が研究されている.塩化物溶液への次亜塩素酸塩の添加により,酸化剤であるCl2をその場(in-situ)生成させることが可能となる17.電気化学的に発生させたCl2による,PtのHClへの溶解促進も報告されている17.電気化学セルのカソード側には,電解質としてFeCl3を溶解させたHCl溶液,アノード側にはHCl溶液がそれぞれ用いられている.電流印加によってカソード側ではFeCl3がFeCl2へと還元される.一方,アノード側では電解液由来のCl2が生成する.溶解反応後,余剰となったCl2はカソード側に送られてFe2+と反応し,塩化物イオン(Cl)へと還元される.H2O2も強力な酸化剤であり,HClに添加することで貴金属の酸化,溶解が可能である18.また,Cl濃度が高い場合では,Cu2+イオンが貴金属に対する酸化剤として働くことが報告されている15.これは,[Cu2+][Cl]2/[CuCl2]が大きくなるとCu2+/CuCl2の電位差が増大するためと考えられている.なお,CuCl2は,反応後のCu+がClと形成する錯体である.Caoらは,NaClO-HCl-H2O2及びHCl-H2O2溶液を用いて自動車触媒中のPt,Pd及びRhを溶解させるとともに,いくつかの理論式をあてはめることで白金族金属の溶解挙動を速度論的に解析している19

シアン化物を用いる溶解法は青化法と呼ばれ,他の溶解方法と比べてAu20,21とAg22の選択性に優れるという利点がある.このことから,長らくAuの溶解法として利用されている23.青化法による鉱石中のAu溶解速度は,鉱石の粒径やシアン化物イオン(CN),及び溶存酸素の濃度に依存する24.回転ディスク電極を用いた速度論的解析 によれば,Au表面でのシアン化反応が主な律速段階となる25.一方,オゾン(O3)を用いて鉱石を酸化処理することで,青化法によるAu及びAgの溶解効率を向上させることができる26.白金族金属をシアン化することも可能ではあるが,高温(120-180℃)での反応が要求されることから圧力容器が必要となる27.これは,白金族金属がAuやAgよりも金属の結合強度が高いこと及び表面を不動態化する酸化物層を形成しやすいなどが原因と考えられている.バイオリーチングにおいてもCNの生成を伴うプロセスが検討されており,例えば廃プリント基板中のAgを溶解できることが報告されている28.シアン化物溶液は,塩化物系溶液に比べて,装置に使用されるステンレス(Table 1を参照)やゴムなどを腐食し難いという利点がある5.その反面,CNの毒性の高さが大きな問題となる.例えば,青化法に由来する金属シアン化物などが排水中に残存した場合は,地下水の汚染,さらには生物への有害性といった環境問題はより深刻なものとなる.このような背景から,チオ硫酸塩を用いる方法など,鉱石中のAuを抽出可能な代替プロセスが検討されている29

3. 貴金属錯体の同定に用いられる分析方法

初期の貴金属錯体の同定に関する研究では,クロマトグラフィーや溶媒抽出法などの間接的手法により,貴金属イオンと対イオンとの平衡定数を求めることが多かった30,31.また,紫外可視(Ultraviolet Visible, UV-Vis)分光法とクロマトグラフィーを組み合わせることで,錯体毎のスペクトルを決定するという試みもなされてきた32,33.これは溶液内で同時に複数の貴金属錯体が存在するためである.しかし,これらの分析方法では,溶液内に形成した貴金属錯体を異なる溶媒(抽出相や溶離液)に移行させる必要があるため,媒体によっては錯体の形態が変化する可能性がある.分析技術の発展に伴い,最近では貴金属錯体を含む溶液を上記の分離操作なしに直接分析する方法が報告されるようになっている.

UV-Vis分光法は古くから知られている代表的な溶液中の金属錯体の分析方法である.HCl系では沈殿を生じるAg以外のすべての貴金属イオンで吸収スペクトルが測定可能である33-36.吸収スペクトルの形状(吸収波長やモル吸光係数)は,金属錯体の電子状態や配位子との結合状態,さらには外圏における溶媒和に依存する.このことから,溶液中の貴金属錯体の酸化数や構造情報を得ることができる.例えば,HCl溶液中のIrやRuでは,いずれも3価の状態に比べ,4価のモル吸光係数が大きく,金属濃度と吸光度の関係から経験的に,酸化数の判定ができる32-40.最近では,分光滴定測定により得た複数のUV-Visスペクトルからフィッティングにより溶存錯体毎のモル吸光係数と平衡定数を決定するプログラムがいくつか登場している41-43.一例として,HCl濃度を変化させたRu(III)溶液のUV-Visスペクトル(Fig. 1)から評価した[RuCln(H2O)6−n]3−nn = 3-6)の系について紹介する37.この系でのフィッティングは下記の式(1)-式(3)に基づき行われた.   

\begin{equation} \mathit{Abs} = l\mathop \sum \nolimits_{i}\varepsilon_{i}y_{n}[\text{RuCl$_{n}$(H$_{2}$O)}_{6-n}]^{3-n} \end{equation} (1)
  
\begin{equation} K = \frac{y_{n}[\text{RuCl$_{n}$(H$_{2}$O)}_{6-n}]}{y_{n-1}[\text{RuCl$_{n-1}$(H$_{2}$O)}_{7-n}]y_{\text{Cl}}[\text{Cl}^{-}]} \end{equation} (2)
  
\begin{equation} S = \mathop \sum \nolimits_{k}\left(\frac{(\mathit{Abs}_{k}^{\textit{calc}} - \mathit{Abs}_{k}^{\textit{obs}})}{\mathit{Abs}_{k}^{\textit{obs}}}\right)^{2} \end{equation} (3)
Abs:吸光度,ε:モル吸光係数(L·mol−1·cm−1),l:光路長(cm),y:活量係数,K:平衡定数,S:最小二乗法により決定する各波長における吸光度の計算値と分析値の差

通常,平衡定数を決定する際は,金属イオンや配位子の活量係数の変化を防ぐために,イオン強度を一定にする.このとき,金属イオンに対し配位性の低い過塩素酸塩がしばしば用いられる.しかし,上記のRu(III)のHCl溶液では,過塩素酸イオン(ClO4)によりRu(III)が酸化するため,イオン強度の調整が困難であった44.そこで,著者らの研究では式(4)で表されるPartanenらによって提案されたPitzer and Hückel equationを用いて45,[RuCln(H2O)6−n]3−nn = 4-6)とClの活量係数を算出した.   

\begin{equation} \log y_{n} = -\frac{Az_{n}^{2}\sqrt{I}}{1 + B\mathring{a}\sqrt{I}} + b_{1}I + b_{2}I^{2} + b_{3}I^{\frac{7}{2}} \end{equation} (4)
Zn:金属錯体の形式電荷,I:イオン強度(mol·kg−1),å:イオン間の最近接距離(10−1 nm),b1, b2, b3:溶媒との相互作用に関するパラメータ,A, B:溶媒に関するパラメータ

イオン強度を調整して平衡定数を決定した場合,溶液内の貴金属錯体の濃度分布を精度よく予測できるのは,対象とする溶液のイオン強度が同じ条件に限られる.一方,本法のような活量係数を考慮した平衡定数については,イオン強度を変数として扱っていることから,式(4)の有効範囲内であらゆる溶液への適用が可能である.例えば,イオン強度がわかれば分離精製工程液中の溶存貴金属錯体の種類及びそれらの濃度分布も予測可能である.

Fig. 1

UV-Vis spectral changes of HCl solutions (0.5-10 mol/L) containing 0.9 mmol/L Ru(III)37).

多核種の核磁気共鳴(Nuclear Magnetic Resonance, NMR)分光法は,中心金属に基づく情報が得られることから,貴金属イオンの価数や化学形態の詳細な同定を可能にする.しかし,Au,Pd,Ir,Osに関しては測定核(197Au,105Pd,191Ir,193Ir,187Os,189Os)の感度やピークの線幅の問題から分析精度に課題がある46.各測定核種の13Cに対する相対感度をFig. 2に示す46.測定可能な貴金属の核種としては,99Ru,101Ru,103Rh,195Pt,107Ag,109Agがある.107Agと109Agに関しては,溶液中の金属濃度を高くすること(0.1 mol/L程度)や同位体濃縮を行ったAgを用いることで測定が可能になる46.HCl溶液における103Rh NMRスペクトルでは,0.4-0.8 mol/LのRh(III)濃度に調製したサンプルを用い,溶液内におけるRh(III)の塩化物錯体の同定に用いた報告がある47,48.この方法では,trans-[RhCl4(H2O)2]cis-[RhCl4(H2O)2]が異なるケミカルシフトを示すことから構造異性体の区別も可能である.また,貴金属イオンだけでなく,NO3,Clのような対イオンに含まれる核種(15N,35Clなど)を用いて分析することもできる49,50

Fig. 2

Relative sensitivities of NMR spectra for multinuclear species46).

上記のUV-Vis分光法や多核NMR分光法によって,主として溶液内の主要な金属錯体の化学形態に関する情報を得ることができるが,貴金属イオンと配位元素との結合距離に関する情報は得られない.一方,X線を用いた構造解析では,原子間距離などの構造パラメータを得ることが可能である.溶液X線回折からは,比較的単純な系に限られるが,金属イオンの内圏(第一配位圏)及び外圏における配位数,原子間距離に関する情報が得られる51.また,X線吸収微細構造(X-ray Absorption Fine Structure, XAFS)法を用いると,他の金属錯体が共存していても,測定金属イオンの酸化数や主に内圏の構造に関する詳細な知見が得られることから,溶液中の主要金属錯体の同定には,極めて有用である.一例として,Ru化合物(Ru金属,RuCl3,RuO2)のRu K-edge XAFSスペクトルをFig. 3に示す37Fig. 3に示すようにXAFSスペクトルは,エネルギー領域によってX線吸収端近傍構造(X-ray Absorption Near Edge Structure, XANES)と広域X線吸収微細構造(Extended X-ray Absorption Fine Structure, EXAFS)に分けられる.XANESスペクトルの形状は,金属イオンに結合した元素の種類や数,特に金属イオンの酸化数に影響し変化する52.ゆえに,酸化数が既知の化合物を基準物質に用いることで,任意の貴金属イオンの主要な酸化数を判断できる.異なる酸化数の錯体がサンプル内に存在する場合に,それぞれの特徴を持ったXANESスペクトルが得られる.このとき,波形分離を行うことで,サンプル中の錯体の成分比を評価することも可能である.鷹尾らはこの方法をPt LII及びLIII-edge XANESスペクトルに適用することで,HCl溶液中の[PtCl4]2−を[PtCl6]2−へ電解酸化した際の経時的な反応率を求めている53.X線を用いた金属イオンの酸化数の評価法としてX線光電子分光(X-ray Photoelectron Spectroscopy, XPS)があるが,真空下での測定が必要であるため溶液系の分析は困難である.

Fig. 3

XAFS spectra for Ru metal, Ru(III)Cl3, and Ru(IV)O237).

EXAFSスペクトルからは,測定対象の貴金属イオンの主に内圏構造に関する情報を得ることができる.溶液中の貴金属イオンへの配位原子の種類,数,結合距離などのパラメータが得られる点で,主要な錯体の同定に関して,最も有用な手法の1つといえる.しかしながら,構造パラメータを得る際のフィッティングにおいては,配位数,結合距離以外にも,振幅減衰因子,Debye-Waller因子,吸収端エネルギーシフトといった多くの変数が存在する.このことから,構造評価の任意性が若干高いといった問題がある.ゆえに,基準となる物質の測定により,いくつかのパラメータを固定することが望ましい.また,単一の金属イオンが複数の錯体を形成している場合は,それらの構造が存在比によって平均化され,スペクトルが得られることも注意が必要である.

計算化学的手法は,溶液内の貴金属錯体の特性を直接明らかにするものではないが,分光スペクトルの分析結果及び水分子や対イオンといった溶液内の配位子との錯形成反応を解釈するための強力なツールとなる.計算方法は,大きく2つに分けられる.1つは錯体の性質を評価する量子化学計算であり,もう1つは溶液を分子集団として扱う分子シミュレーションである.前者は第一原理計算(Hartree-Fock(HF)法,Møller-Plesset(MP)法,Coupled-cluster singles-and-doubles(CCSD)法など)や密度汎関数(density functional theory,DFT)法と呼ばれる手法であり,溶液中の金属錯体の分子構造(原子間距離や角度など)やFT-IR(Fourier Transform Infrared Spectroscopy),ラマン,UV-Vis,NMRスペクトルなどの予測が可能である54.また,反応前後の金属錯体の構造をそれぞれ最適化することで,反応性の評価も可能である.溶液内における反応の計算も,PCM(連続分極体モデル)法などにより溶媒を考慮することで可能になる.Vasilchenkoらの研究では,DFT計算を用いて,HNO3溶液中の白金族錯体の15N NMRスペクトルを予測し,その帰属に役立てている49.PodborskaらやSamuelsらは,それぞれ溶液内のPd(II)やRh(III)錯体のモル吸光係数をDFT計算により評価している55,56.一方,反応のGibbs自由エネルギー変化(ΔG)の評価については,上記のPCM法などによる溶媒の考慮だけでは,実験値との差異が大きくなる.この差を縮小するために,PCMなどの間接的な溶媒和だけでなく,外圏の溶媒和分子における直接的な相互作用を考慮する方法が検討されている57-59

溶液系における分子シミュレーションは,分子動力学(Molecular Dynamics, MD)法がしばしば利用される.MD計算では,シュレディンガー方程式で記述する量子力学計算と異なり,古典力学を基礎としていることから,1分子あたりの計算コストが低くなり,数百から数万原子程度からなる大規模な分子系を扱うことが可能になる54.したがって,溶液内の貴金属イオンと水分子や対イオンなどとの動的な相互作用を評価できる.例えばNaidooらは,[PtCl6]2−と[RhCl6]3−の外圏における水和殻のサイズをMD計算により評価し,[RhCl6]3−の水和殻が[PtCl6]2−に比べ,密な(強く相互作用した)水和構造を作ることを明らかにしている60

ここで紹介したいずれの手法においても,一長一短があることには注意しなければならない.初期の間接的手法やUV-Vis分光法,多核NMR分光法は,測定時の条件が限定される(金属濃度,貴金属イオンの種類によっては分析が困難など).溶液X線回折では複雑系は対応できず,XAFS法は平均化した情報しか得られないことに加えフィッティング時に任意のパラメータが多い.量子力学計算については,計算コストの高さから,大規模な分子系が扱えず,実際よりも単純化した系が用いられることが多い.他方,分子シミュレーションについては,大規模な分子系を扱うことができるが,金属錯体と溶媒間の外圏における精度の高い相互作用の考慮が難しいという問題がある.よって,これらの短所を認識して分析を行う必要があり,さらには相補的に複数の手法を利用することがより好ましい.

4. 溶液中の主要な貴金属錯体

貴金属イオンのうち白金族イオンは,溶液中での化学平衡が他の遷移金属イオンと比べて,非常に遅い.Fig. 4は,2価の金属イオン(M2+)及び3価の金属イオン(M3+)の水和錯体([M(H2O)n]m+)に関する水の交換反応速度の関係を示しているが61,62,白金族イオンの水の配位子交換速度は,Cu2+やNi2+といったベースメタルイオンのそれに比べて極めて遅いことがわかる.3価の白金族イオンであるRh3+やIr3+の交換速度の遅さは特に顕著である.また,貴金属の塩化物錯体へのCNの置換速度を基に,Ag(I), Au(I) ≫ Pd(II) > Au(III) > Pt(II) > Ru(III) ≫ Rh(III) > Ir(III) > Os(III) ≫ Ir(IV), Pt(IV)といった配位子交換における反応性の序列も報告されている63.一方,貴金属錯体の化学形態やそれらの形成条件については,共存する対イオンの種類によって異なる.ゆえに,本章ではシアン化物,塩化物,硝酸の各対イオンによる貴金属錯体の挙動及び特性について紹介する.

Fig. 4

Water exchange rate constants for a water molecule in [M(H2O)n]m+ at 25℃61,62). Filled circles: platinum group metal ions and open circles: the other metal ions. [M(H2O)4]2+: Pd2+ and Pt2+. [M(H2O)6]2+: Ru2+, Cu2+, Fe2+, Co2+, and Ni2+. [M(H2O)6]3+: Ru3+, Rh3+, Ir3+, Fe3+, Al3+, and Cr3+.

4.1 シアン化物系

シアン化物溶液中のAu及びAgは1価の金属イオンとしてシアン化物錯体を形成する64,65.シアン化物溶液中のAu+は,[Au(CN)2]を安定に形成する66.一方,Ag+については不溶性のAgCNが安定であるため大部分が沈殿するが,CN濃度の上昇に伴い水溶性の[Ag(CN)n]1−nn = 2-4)へと変化する65.1 mmol/LのAg+を含む溶液において,[CN] < 20 mmol/Lでは[Ag(CN)2]が主要な錯体であり,20 mmol/L < [CN] < 100 mmol/Lで[Ag(CN)3]2−が優勢になる66.これらのCN濃度においては,少量の[Ag(CN)4]3−が共存する.さらに,シアン化物溶液のpHがアルカリ領域になると[AgOH(CN)]を生じる65,67

[Au(CN)2],[Ag(CN)2],[Cu(CN)2]は,類似の化学形態であるが,その生成定数は,[Au(CN)2]の値がその他のものに比べ20桁も大きく,最も安定である66,68.第一原理計算を用いた金属イオンとCN間の結合性の比較によると,[Au(CN)2] > [Ag(CN)2] > [Cu(CN)2]の序列でAu錯体の共有結合性が最も強くなるため,[Au(CN)2]の安定性が高くなると結論付けられている69

AuCNはAgCNと同様に難溶性の塩であるため,pH 2-3程度に調整することで,式(5)のようにAu及びAgを沈殿物として回収可能である66,70.   

\begin{equation} \text{M(CN)}_{2}^{-} + \text{H}^{+} \to \text{M(CN)}\ {\downarrow} + \text{HCN}\quad \text{(M: Au or Ag)} \end{equation} (5)
この反応はCNの水素付加しやすい性質(pKa(HCN) = 9.48,71)を利用している.

白金族イオンに関する溶液中のシアン化物錯体に関する情報は少ないが,Pd(II)に関してはCNとの反応性は高く,シアン化物溶液中では[Pd(CN)4]2−を安定に形成する67.この[Pd(CN)4]2−を希塩酸溶液に加えることで,PdCN2の沈殿物として回収できる72

4.2 塩化物系

Clを含む溶液系において,Ag(I)はAgClとして沈殿する73.このAgClは難溶性の塩であるが,Cl濃度の上昇とともに徐々に溶解が起こる73-75.例えば,25℃の0.1 mol/LのHCl溶液へのAgClの溶解度は10−6 mol/Lであるが,5 mol/LのHCl溶液では10−3 mol/Lに増加する.HCl溶液中の主要な錯体は[AgCl3]2−である73-75.[AgCl2]と[AgCl4]3−は,それぞれ低濃度で[AgCl3]2−と共存する.3 mol/LのHCl溶液中の[AgCl4]3−の存在比は20%程度であり,8 mol/L HCl中では40%まで上昇する.

AuはHCl溶液中で,[AuCl4]を主要な錯体として形成する76,77.DFTの計算によると78,気相中ではAu3+の塩化物錯体([AuCl4])は不安定であり,自発的にAu+の錯体([AuCl2])に還元される.一方,PCMにより外圏の水和を考慮した計算では,この[AuCl2]から[AuCl4]への酸化反応が自発的に進む.この結果は,外圏での水和が[AuCl4]の形成に重要であることを示唆している.[AuCl4]はHCl溶液中で安定であるが,pH 2以上ではClが解離し,[AuCln(OH)4−n]n = 0-3)を形成する77,79-81

PtはHCl溶液に溶解すると[PtCl6]2−を主に形成する82-85.この塩化物錯体は0.1 mol/L程度のClが溶液中に存在すれば,pH9でも安定に存在する84.一方,H2PtCl6の塩を水に溶解した系では,水分子とClの配位子交換が生じる.EXAFSと電位差滴定を用いた分析によると,H2PtCl6を純水に溶解し調製した1 mmol/LのPt(IV)溶液では[PtCl3(H2O)3]+,5 mmol/Lの溶液では[PtCl4(H2O)2]が主要な錯体としてそれぞれ同定されている84.同様の方法でH2PtCl6と純水を用い調製したPt(IV)濃度のさらに高い溶液(0.48 mol/L)では,[PtCl6]2−の約20%が[PtCl5(H2O)]に変化する85.本章の初めに述べた貴金属イオンの反応性の序列から分かるように,Pt(IV)の内圏における配位子交換反応は,貴金属イオンの中でも特に遅い.したがって,上記の水和反応が平衡に達するまでに長期間を要する.ただし,Pt(IV)に光照射をした場合に限っては,迅速に配位子交換反応が進む86,87

Pd(II)は,1 mol/L以上のHCl溶液において[PdCl4]2−を主要錯体として形成する55,82,83,88-90.一方,0.1 mol/LのHCl溶液では水が配位した塩化物錯体([PdCl3(H2O)]と[PdCl2(H2O)2])を一部形成することが報告されている55

3価の白金族イオン(Rh(III), Ir(III), Ru(III))は,1 mol/L以上のHCl溶液中で,複数の塩化物錯体を形成する.これは,その他の白金族イオンには見られない大きな特徴である.また,3価の白金族イオンの低い配位子交換速度は,HCl溶液中の錯形成挙動の解明を難しくしている.H3[RhCl6]の塩を溶解した0.01 mol/LのHCl溶液では,溶解後から3ヶ月間,経時的にRh(III)錯体の構造が変化し続けることが報告されている91.Gerberらは,化学平衡に達したRh(III)を含む溶液(HCl: 9.5 mol/L)を希釈し,1.0 mol/LのHCl溶液中の[RhCln(H2O)6−n]3−nn = 3-6)濃度の経時変化を液体クロマトグラフィー質量分析計(LC-MS)により評価した92.その結果,[RhCl6]3− ⇒ [RhCl5(H2O)]2−cis-[RhCl4(H2O)2]fac-[RhCl3(H2O)3]への連続的な水和反応が希釈後に起こること,さらにこの反応が平衡に達するまでに8000 min(約5.5日)もの時間を要することを明らかにした.また,1 mol/L以上のHCl溶液中の主要錯体は,Cl濃度が2-4 mol/Lを境界に[RhCl5(H2O)]2−から[RhCl6]3−に変化する48,56,82,83,90-94.例えば,0.2 mol/LのRh(III)を含む1-7 mol/LのHCl溶液中のRh塩化物錯体の挙動を分析した103Rh NMRの結果では,Cl濃度が3 mol/L程度で[RhCl5(H2O)]2−と[RhCl6]3−の濃度が等しくなる48.さらに,同様の103Rh NMR分析はAnglo Platinum社のRh精製工程液([Rh] = 0.2 mol/L,[Cl] = 2 mol/L,292 K)にも適用され,cis-[RhCl4(H2O)2](47%),trans-[RhCl4(H2O)2](10%),[RhCl5(H2O)]2−(42%)が含まれることが示されている48

Ru(III)の塩化物錯体の形成もRh(III)と同様に非常に遅い反応である.ConnickとFineは,K2RuCl5(H2O)を用い,0.1 mmol/LのRu(III)を含むHCl溶液を調製し,そのUV-Visスペクトルの経時変化を調べた32.その結果,溶液内のRu(III)の錯形成が平衡に達するまでに0.05 mol/LのHCl溶液では67日,0.1 mol/Lの溶液では74日を要することを明らかにした.さらに,[RuCln(H2O)6−n]3−nn = 1-6)をイオン交換樹脂を用いて分離し,ポーラログラフィー及びUV-Vis分光法により,それらの塩化物錯体の平衡定数を決定した95.しかしながら,これらのRu(III)錯体に関する平衡定数は,値にバラつきが大きく,活量が考慮されていないことがその原因と考えられている95.最近,著者らは,Ru(III)を含むHCl溶液のEXAFSとUV-Vis分光滴定の分析を行い,活量係数を考慮した[RuCln(H2O)6−n]3−nn = 4-6)の平衡定数を求めRu(III)錯体の濃度分布を明らかにした(Fig. 537

Fig. 5

Speciation diagram of [RuCln(H2O)6−n]3−n (n = 3-6) in HCl solution37).

Ruに関しては,多くの精錬プロセスでRuO4の蒸留後,HClへの溶解を経て回収されることから,RuO4のHCl溶解後の錯体の挙動も重要である.しかし,この錯形成挙動は複雑であり,Fig. 6のような逐次的な反応が起こる44,95.0.5 mol/L以上のHCl溶液において,初めに[RuO2Cl4]2−を形成する.その後,3 mol/L以上のHCl溶液中では[RuCl6]2−に変化する.一方,0.5-3 mol/LのHCl濃度では,[Ru2O2Cl4(H2O)4]を介して,最終的に[Ru2OCl8(H2O)2]2−を形成する.Os(IV)でもRuと類似の錯体がHCl溶液中のUV-Vis分光法及びクロマトグラフィーによって同定されている([Os2OCl8(H2O)2]2−及び[OsCl6]2−96

Fig. 6

Reaction scheme of RuO4 with dissolution into a HCl solution44,95).

HCl溶液中のIr(III)の錯形成挙動についてはあまり多くの報告はないが,[IrCl6]3−中のClと水分子の交換反応は[RhCl6]3−のそれに比べ100倍程度遅い34.Du Preezらは,0.1 mol/LのHCl溶液中で平衡化させた[IrCl3(H2O)3]を1.4-8.0 mol/LのHCl溶液に溶解し,Ir(III)錯体の構造変化と保持温度(室温,70℃,還流反応下)の関係をUV-Visスペクトルにより調べた38.1.4 mol/LのHCl溶液では,還流条件下で30 h経過後,平衡に到達し,[IrCl5(H2O)]2−を形成する.還流条件下における4 mol/L, 6 mol/L及び8 mol/LのHCl溶液では,45 minから6 hの保持後に[IrCl6]3−を主要な錯体として形成する.一方,室温及び70℃では,長時間保持しても,Ir(III)へのClの配位は進まない.

Ir(III), Ru(III)及びRh(III)は,酸濃度の減少とともに多核錯体や水酸化物錯体を形成するといった報告もある(Ir,Ru: pH >1,Rh: pH >3)93,97,98

Ir(IV)に関しては,1 mol/L以上のHCl溶液中で[IrCl5(H2O)]及び[IrCl6]2−を形成する39,40.しかし,一部のIr(IV)の錯体が[IrCl5(H2O)]2−及び[IrCl6]3−のようにIr(III)に還元されることがSanchezらの研究によって明らかになっている99

ここで紹介した塩化物溶液系における貴金属錯体をTable 2にまとめる.

Table 2 Major precious metal complexes with >1 mol/L chloride solutions.

本節の最後にHCl溶液中の白金族イオンに対し,2価の塩化スズ(SnCl2)を添加した系について紹介する.白金族金属精錬の分野では,HCl溶液系の3価の白金族錯体([MCln(H2O)n−6]3−n)の低い抽出性を改善する方法として研究されている100,101.添加されたSnCl2は還元剤として働き,5 mol/L以上のHCl溶液中のRh(III)の場合は,下記の反応式のようにRh(I)に還元される101.   

\begin{align} &\text{[RhCl$_{5}$(H$_{2}$O)]}^{2-} + 12\text{[SnCl$_{3}$]}^{-} \notag\\ &\quad \rightleftarrows \text{[Rh(SnCl$_{3}$)$_{5}$]}^{4-} + \text{[SnCl$_{6}$]}^{2-} + 6\text{[SnCl$_{3}$]}^{-} + 2\text{Cl}^{-} + \text{H$_{2}$O} \end{align} (6)
この[Rh(SnCl3)5]4−の形成により,Rhの抽出率は,劇的に上昇する100.10 g/LのRh(III)を含む3 mol/LのHCl溶液の場合では,SnCl2の添加量の増加により,SnCl3のRh(III)への配位が進み,さらにRh(I)への還元が起こることがEXAFSスペクトルによって明らかになっている102.[Sn(II)]/[Rh(III)] < 2の濃度比では,水が配位した[RhClm(H2O)n(SnCl3)6−mn]m−3を,2 < [Sn(II)]/[Rh(III)] < 6では,[RhClm (SnCl3)6−m]m−3を形成する.119Sn NMRを用いた研究においても,[RhClm(SnCl3)6−m]m−3の形成が確認されている103.抽出が容易な錯体である[Rh(SnCl3)5]4−に関しては,SnCl2を過剰に加えた条件([Sn(II)]/[Rh(III)] = ~12)において主要な錯体となる102,104.3 mol/LのHCl中では,酸化されたSn(IV)やRh(I)への結合に関与していないフリーのSn(II)は,それぞれ[SnCl4(H2O)2]と[SnCl3(H2O)]として溶存する102.また,Rhの内圏における配位構造は,3価の[RhCl5(H2O)]2−の場合は,6配位の八面体構造であるのに対し,1価に還元されることで,5配位の三方両錐形構造に変化する(Fig. 7105

Fig. 7

Reduction of [RhCl5(H2O)]2− by SnCl2.

HCl溶液中のRu(IIIまたはIV)にSnCl2を添加すると,Ru(II)へと還元される.Sn(II)/Ru ≒ 150の濃度比で,HCl濃度5 mol/Lでは[RuCl2(SnCl3)2]2−を形成する106.Sn(II)/Ru = 約50で,HCl濃度2-3 mol/Lでは[RuCl(SnCl3)5]4−を形成する107.Osについては,Sn(II)/Os(IV) > 1000,HCl濃度2 mol/Lの溶液から,[OsCl2(SnCl3)2]2−が同定されている106.HCl溶液中のPt(IV)については,SnCl2の添加量によってPt(II)の[PtCl2(SnCl3)2]2−(Sn/Pt = 2-3)及び[Pt(SnCl3)5]3− (Sn/Pt = 5)を形成する108.これらの錯体中の白金族イオンは,いずれも2価であるが,内圏における配位数はそれぞれ異なる(Ru(II):4,6,Os(II):4,Pt(II):4,5).

上述のように3価の白金族イオンを還元し抽出の容易な錯体を形成するには,多量のSnCl2の添加が必要となる.還元された白金族イオンの抽出性が向上する反面,白金族イオンだけでなく錯体中のSnCl3や,さらには溶液内に共存するSn(II)及びSn(IV)についても定量的に抽出されることから104,白金族イオンとSnの分離が必要となるといった問題がある.

4.3 硝酸系

Agを主成分として含む材料の処理では,HNO3溶液中でAg+及び白金族イオンの分離が行われる109,110.また原子力分野において,使用済核燃料の再処理により生じる高レベル放射性廃液はHNO3溶液であり,この溶液中の白金族イオン(主にPd,Rh,Ru)の分離の研究も行われている111.よって,ここではHNO3溶液中での錯形成挙動の報告のあるAg,Pd,Rh,Ru,Ptについて紹介する.

Ag+は,ハロゲン化物イオンと難溶解性の塩を形成し沈殿を生じる.しかし,HNO3に関しては高い溶解性を示す.HNO3溶液中のAg+に関するEXAFSスペクトルによると,Ag+へのNO3の配位は見られず,Ag+は水和錯体([Ag(H2O)4]+)として存在することが示唆されている112,113.[AgNO3]の平衡定数は複数の報告がなされているが,その値は小さく,硝酸錯体を形成し難いことがわかる71

HNO3溶液中のPdに関しては,電位差滴定,UV-Visスペクトル,またはEXAFS分析から,pH 2以上で水酸化パラジウム(Pd(OH)2)として沈殿し,HNO3濃度の増加に伴い,0.1-1 mol/L HNO3で[Pd(NO3)(H2O)3]+を,1 mol/L以上で,[Pd(NO3)2(H2O)2]を主要な錯体として形成すると報告されている114-116.一方,溶媒抽出やイオン交換樹脂による吸着からは,HNO3溶液中の[Pd(NO3)3(H2O)]や[Pd(NO3)4]2−との陰イオン交換反応により起こることが推測されている117,118.最近,Vasilchenkoらは,HNO3中におけるPd錯体の同定を15N-NMRとDFT計算により行った.その結果,6 mol/L以上のHNO3濃度において[Pd(NO3)3(H2O)]や[Pd(NO3)4]2−のアニオン性錯体が[Pd(NO3)(H2O)3]+や[Pd(NO3)2(H2O)2]と共存すると報告しており49,上記の抽出・吸着試験において示唆された陰イオン交換による反応メカニズムを支持する結果となっている.

HNO3溶液系におけるRh(III)錯体の配位子交換の遅さは,HCl溶液系に比べさらに顕著になる.Samuelsらは,1 m mol/LのRh(III)を含むHNO3溶液(0-12 mol/L)のUV-Visスペクトルを経時的に測定し,溶液中のRh(III)錯体が平衡に達するまでに,3週間程度を要することを報告している56.Vasilchenkoらも,保存期間と保持温度の異なるRh(III)を含む12 mol/LのHNO3溶液を調製し,それらの103Rh及び15N-NMR分析から,Rh(III)錯体の平衡到達時間を評価した119.室温で保持した溶液では,2週間の保存期間でも,RhとNO3の錯形成は平衡に達しない.一方,80℃に加熱した場合は,5 h程度の保持で溶液内のRh(III)錯体の反応は平衡に達する.この80℃に加熱した溶液と室温で平衡化させた溶液(保存期間:4年)のNMRスペクトルは同様である.このことから,溶液の加熱はRh(III)硝酸錯体の平衡化を加速するのみで,その化学形態を大きく変えないことがわかる.

溶液中の主要なRh(III)錯体は,HNO3濃度1 mol/Lでは,[Rh(H2O)6]3+と[Rh(NO3)(H2O)5]2+であり120,3.5-15 mol/LのHNO3濃度では,[Rh(NO3)n(H2O)6−n]3−nn = 1-4)となる119.さらに5 mol/L以下のHNO3濃度では,溶液中のRh濃度が高くなると(0.1 mol/L以上),これらの錯体が二核または三核錯体に変化する121,122

RuはHNO3に溶解した際に,3価のニトロシル硝酸錯体[RuNO(NO3)n(H2O)5−n]3−nn = 0-5)を形成すると考えられている123.さらに,溶液中のpHやNO2濃度によっては,[RuNO(NO3)x(NO2)y(OH)z(H2O)t](3−xyz)として存在する30,123-125.この[RuNO]3+中のニトロシル基(-NO)は,NO3,OH,NO2,H2OなどのHNO3溶液中に存在する配位子に比べ,Ruと強い結合を形成する126

DFT計算を用いた研究によると,[RuIIINO(L)5](L = Br,Cl,NH3,CN)よりも[RuIINO+(L)5]の方が,実験値(単結晶X線構造解析によって決定された分子構造やFT-IRスペクトル)をよく再現することを明らかにしている127.さらに,[Ru(NO)(NO3)n(H2O)5−n]3−nに関する下記の逐次反応(式(7))のΔGをDFT計算により算出している57.   

\begin{align} &\text{[Ru(NO)(NO$_{3}$)$_{n}$(H$_{2}$O)$_{5-n}$]}^{3-n} + \text{NO}_{3}^{-} \notag\\ &\quad \rightleftarrows \text{[Ru(NO)(NO$_{3}$)$_{n + 1}$(H$_{2}$O)$_{4-n}$]}^{2-n} + n\text{H$_{2}$O} \quad \text{($n = 0$-$4$)} \end{align} (7)
式(7)に基づくRu錯体の分子構造から計算したΔGは,実験的に決定された値に比べ,6倍程度大きくなる.これに対して,式(8)及びFig. 8に示す配位子交換時の会合状態を考慮する反応モデルでは実験値をよく再現すると報告されている.   
\begin{align} &\{\text{[Ru(NO)(NO$_{3}$)$_{n}$(H$_{2}$O)$_{5-n}$](NO$_{3}$)}\}^{2-n} \notag\\ &\quad \rightleftarrows \{\text{[Ru(NO)(NO$_{3}$)$_{n+1}$(H$_{2}$O)$_{4-n}$](H$_{2}$O)}\}^{2-n} \quad \text{($n = 0$-$4$)} \end{align} (8)

Fig. 8

Ligand exchange reactions between [RuNO(NO3)(H2O)4]2+ and [RuNO(NO3)2(H2O)3]+ 57).

Ru(III)を含む溶液では高濃度硝酸において加熱されると,RuO4ガスを生成する123.これは,HNO3の分解によって生じる二酸化窒素(NO2)や酸素(O2)が溶液中のRuイオンに対し酸化剤として働き,低沸点のRuO4を生成するためである.

Impala社における白金族金属精錬プロセスでは2,蒸留されたRuO4は一旦HClに溶解し,HNO3と塩化アンモニウム(NH4Cl)を用いることで沈殿させる.この際に,RuはClが配位したニトロシル錯体([NH4]2[RuNOCl5])を形成する2

HNO3溶液中のPt(IV)は,Rh(III)と比べてもさらに配位子交換反応が遅い63.したがってPt(IV)錯体の平衡化はRh(III)よりさらに長期間を要する.H2Pt(OH)6の濃硝酸へ溶解後,まずPt(IV)へのNO3の置換が徐々に起こり,[Pt(NO3)n(H2O)6−n]4−nを形成する128.溶解から3-14日経過の時点では,[Pt(NO3)n(H2O)6−n]4−nに加え,少量の二核錯体や,さらに大きな多核錯体(金属核数>4)の形成が起こる128,129.91日経過した時点では,四核錯体が主要な錯体として同定されている130.この溶液系で主に形成される多核錯体はFig. 9に示す構造であると推定されている128,129,131.しかしながら,HNO3溶液中でPt(IV)が最終的に錯形成平衡に達するまでに必要な時間は,明らかになっていない.Pt(II)については,Pd(II)と類似した平面四配位構造を有し,1 mol/L以上のHNO3溶液では[PtNO3(H2O)3]+や[Pt(NO3)2(H2O)2]を主要な錯体として形成し,HNO3濃度が増加すると,さらに[Pt(NO3)3(H2O)]も形成する49.しかし,Pd(II)と異なり,−2価の硝酸錯体([Pt(NO3)4]2−)の存在は確認されていない.

Fig. 9

Possible structures of Pt(IV) polynuclear complexes in a concentrated HNO3 solution. L = H2O, OH, or NO3128,129,131).

以上のように,貴金属イオンは,Clに比べ,NO3に対し低い親和性を示す.また,NO3だけでなく酸化性や配位性を持つNO2やニトロソニウムイオン(NO+)がHNO3溶液中に共存することで,貴金属イオンに対し極めて複雑な錯形成挙動をもたらす.

5. おわりに

水溶液中の貴金属錯体の把握は,高効率の貴金属精錬を行う際に必要不可欠である.特に精密分離においては,その化学組成のみならず構造情報も非常に有益になる.従来の平衡定数に基づいた主要な錯体の推定に代わり,近年EXAFS法等の溶液中の構造情報が直接得られる手法や計算化学的手法により,詳細な同定が行われるようになってきた.一方で,白金族イオンに関しては,系によっては溶液内で形成される主要な錯体や平衡時間などが未だに議論の途中であり,未確定のものがある.また,最近では製品中の含有貴金属濃度の低下及び共存元素の多様化が進んでおり,今後のリサイクルにおける分離精製は,さらに高度な技術が必要になることは間違いない.ゆえに,水溶液中の主要な貴金属錯体の同定に関する研究は,その重要性が一層増すであろう.

著者らによる研究は,科研費(23656566,17H01925,19K05116,20H02497)によって行われた研究の一部である.また,国立研究開発法人産業技術総合研究所つくば西事業所 田中幹也事業所長には本稿をまとめるにあたって懇切な助言を頂いた.ここに感謝の意を表する.

文献
 
© 2021 (公社)日本金属学会
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