行動医学研究
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第19回日本行動医学会総会シンポジウム企画
高齢者の健康増進
—日本の公衆衛生における健康増進行政の展開と超高齢社会における専門家—
井原 一成
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2013 年 19 巻 2 号 p. 52-58

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抄録

WHOの健康憲章において健康は、「身体的、精神的ならびに社会的に完全に良好な状態をいうのであって単に病気や虚弱でないことをいうのではない」と定義される。Downieは、この定義から、健康は積極的健康と消極的健康の2面から定義されると指摘した。消極的健康とは疾病や障害をなくすという意味であり、積極的健康とは単に疾病をなくすだけではなく、良い状態に向かうという意味となる。Downieは、消極的健康と積極的健康の関係について、両者を直線の両端におく1次元的モデルや、消極的健康を横軸、積極的健康を縦軸におく2次元的モデルなどを示している。Downieにおいて、消極的健康と積極的健康の探求はともにヘルスプロモーション(健康増進)の目的であり、消極的健康と積極的健康推進とのいずれか一方を達成しようとする時、他方の達成も同時に探求すべきものである。健康増進が日本の公衆衛生のキーワードとなったのは1960年代前半である。公衆衛生行政における健康増進は、積極的健康であったり、消極的健康であったり、あるいはその両者を包含するヘルスプロモーションであったりと多義的であったが、1970年代後半には消極的健康に重心を置いた1次元的健康増進モデルへと収斂したように見える。健康増進は、良い状態への方向性を含意するものだが、高齢期には、身体健康や精神健康の向上が現実的な目標ではなくなる時がやがておとずれる。1次元的健康モデルにこれを当てはめれば、正の方向への向上がストップし、その後は不健康の方向に進むだけとなってしまう。高齢期の健康増進が可能となるのは、Downieの2次元的モデルである。消極的健康の方向への向上が不可能になった者も、積極的健康を向上させることは可能であるからである。老年学の観点から野尻雅美は、Downieの2次元的モデルを高齢者向けに発展させ、QOL座標を提案している。縦軸のウエルビーイングと横軸の生活機能(身体健康や精神健康)とのベクトルの和がQOLとなる。高齢者はある時期になれば、横軸方向の増進から縦軸方向への増進にシフトすることが重要であると野尻は主張しているように見える。この20年余り老年学は、高齢者の自立と生産性の維持という目標を掲げて発展してきた。しかし、後期高齢者の急増は、自立が困難であり生産性を維持できない高齢者あるいは超高齢者が地域に出現することを意味する。そうした者達への健康増進を考えるにあたって我々は彼らの特徴を改めて吟味する必要がある。心理学者のEriksonがライフサイクルの最終段階として提示した第9段階は、我々が超高齢者を理解するのに有用である。エリクソンは、脆弱ではあるけれども失われていく能力をたぐり寄せて統合し、衰えた能力のため完璧はめざせなくとも、それでもなお前進しようとする高齢者を描出した。自立が困難になっても、本能的に自律的であろうとする高齢者には尊厳という言葉が相応しいように思われる。エリクソンは、超高齢者は、失調要素と同調要素のせめぎ合いの中にあると言うが、同時に彼らは積極的健康と消極的健康のせめぎ合いの中にもある。専門家は、こうした高齢者への健康増進のあり方を実践の中で探ることになる。その中で、専門家は自らの在り方を問うことになるが、それは特別なことではない。日本の健康増進の歴史は、消極的健康と積極的健康とのせめぎあいの歴史であり、その中にあって、専門家は常に自らのあり方を問い続けてきたからである。

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