2014 年 20 巻 2 号 p. 52-57
米国Educational Commission for Foreign Medical Graduates(ECFMG)は、2023年以降、国際的認証評価を受けた医科大学、医学部の卒業生を米国で医業を行う資格審査の対象にすると発表した。ECFMGの要請に応えるためには、医科大学、医学部は米国医学教育連絡委員会が米国医学校向けに設けた基準、もしくは世界医学教育連盟が設けた基準のように他の国々で受け入れられている基準を用いた公的手続きを経て認証されなければならない。このECFMGの発表を受けて、我々は次の項目を満たす行動医学コアカリキュラム提案に取り組まなければならない。それは、1)医学教育の国際基準に到達する、2)行動科学・医学の国際動向に合致する、3)日本独自の行動科学・医学を内包するという三項目である。これらの項目を満たす適切なコアカリキュラムを作成するためには、行動科学の枠組みについて定義する必要がある。そこで本稿では、日本行動科学学会(Japanese Association of Behavioral Science、JABS)の歴史、会員の学術的背景および活動内容の紹介を通じて、行動科学の枠組み、さらには、コアカリキュラム作成にJABSが果たすべき役割について提案する。
現在、日本の医学教育関係者は2023年問題に直面し、頭を悩ましている。この問題は、米国Educational Commission for Foreign Medical Graduates(ECFMG)が、2023年以降、国際的認証評価を受けた医科大学、医学部の卒業生のみを米国で医業を行う資格審査の対象と決めたことに端を発する。これを契機として、日本では医学教育の質的保証について議論が巻き起こり、医学教育の各分野、各大学単位でカリキュラム改革の動きが生じた。カリキュラム作成のもととなるのは、世界医学教育連盟の提案する「医学教育の国際基準2012年版」に準拠した「医学教育分野別評価基準日本版」である1)。この日本版の序文でも述べられているように、日本の医学教育が国際認証を受けるべきという気運の高まりの背景には、単にECFMGの発表を受けたという理由の他に、メディカルツーリズム(医療観光)やフィジシャンマイグレーション(医師の国際間移動)といった国際社会の動向、さらには、医学教育は医療の実践を教育成果におくべきであるとの考えが国内的にも広がったという理由がある。2023年問題に直面し、日本の医学教育は現在大きな転換点を迎えており、今後更なる発展を遂げるためには国際基準に到達する新しいカリキュラムを速やかに作成する必要がある。しかし、国際的に画一化されたカリキュラムの作成は日本独自のこれまでの取り組みを排除するとの懸念も一方であり、全ての医学教育関係者が足並みを揃えているとは言い難い。この点について、日本医学教育学会医学教育分野別評価基準策定委員会は、このカリキュラム改革は日本の文化や伝統に根を下ろした独自の取り組みを奨励するものだと説明している。今回の特集のテーマである「行動医学のコアカリキュラム」においても、先述の三点、すなわち、1)医学教育の国際基準に到達すること、2)行動医学・医療の国際動向に合致すること、3)日本の独自性を考慮することを、コアカリキュラム作成の主軸にしなくてはならない。1と2の主軸は同じことを指示すると考えられがちだが、国際基準が必ずしも最新の国際動向に合致しているとは限らない。そのため、提示された国際基準に到達するだけでなく、各国の視点で最新の国際動向を把握し、これを組み入れる必要がある。そして、これら3つの主軸に基づいてカリキュラムを作成するためには、その基礎として、コンセンサスが得難い「行動科学」という用語の意味について再考する必要がある。そうでなければ、何の医学教育の国際基準に到達し、何の国際動向を把握し、何における日本の独自性を考慮しなければならないのかが解らなくなり、カリキュラム作成は初めから暗礁に乗り上げることになる。そこで本稿では、著者が所属する日本行動科学学会(Japanese Association of Behavioral Science、JABS)の歴史、会員の学術的背景および活動内容の紹介を通じて、行動科学という用語が指示する意味について改めて考察したい。そして、規定された行動科学の枠組みの中で、JABSが行動医学コアカリキュラム作成にどのように貢献可能かを述べたい。
JABSは行動の総合的な科学を構築するための学際的な研究交流の場として1993年に設立され、1995年より日本学術会議の活動に参加している学術団体である。その前身は1960年に設立された異常行動研究会(Personality and Behavioral Disorder、PBD)であり、動物の行動をモデルとしつつ、その臨床的応用を模索していた心理学者たちによって設立された。現在のJABSの会員は、PBD時代の実験心理学者、臨床心理学者のみならず、脳神経科学者、精神薬理学者、動物行動学者、行動分析学者など、さまざまな背景を持つ会員が行動の総合科学を目指して活発な活動を行っている(Fig. 1)。主な活動として、夏から秋にかけて行われる年次大会と、冬に合宿形式で議論と交流を深めるウィンターカンファレンスの2つの大会を開催している。年次大会のテーマは多岐にわたり、行動科学の体験を主としたものから、行動科学の歴史を振り返るもの、さらに老化などの特定の現象に着目したものから、古典的条件づけなどの特定の行動に着目したものまで様々である(Table 1)。また、機関誌「行動科学」(英文名:Behavioral Science Research)を年2回発行している。論文種別は原著、総説、短報があり、Peer Review 制度を採用して、他の学問領域ならびに社会への情報発信手段としている。
(A) JABSの歴史。設立当初は実験心理学者と臨床心理学者の会員が多数を占めた。(B) 現在のJABS会員の学術的背景。さまざまな背景を持つ会員が、基礎と応用の相互作用に重点を置き、行動の総合科学を目指して活発な活動を行っている。
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JABSの歴史および会員の学術的背景を鑑みると、行動科学は特定の学範、個別科学を指示する言葉ではなく、これら複数を包括する上位概念であることがわかる。そしてその中には心理学、動物行動学、神経科学、工学、精神医学、薬理学など多岐にわたる学問が含まれている。では、このJABSが示す行動科学の範囲は医学教育の国際基準と合致しているのであろうか。それを検討するために、次に「医学教育分野別評価基準日本版」1)において行動科学という言葉がどのような文脈で使用されているかを見ていきたい。この中で行動科学は、基礎医学、臨床医学と並ぶ大きな枠組みを示す言葉として使用され、さらに社会医学と併記して用いられている。つまり、JABSで使用される「行動科学」と同様に、特定の個別学問を指す用語ではなく、複数の学問を包括する枠組みとして行動科学は用いられている。さらに、当該文書では、『行動科学、社会医学は、地域の必要性、関心および歴史的経緯により生物統計、地域医療、疫学、国際保健、衛生学、医療人類学、医療心理学、医療社会学、公衆衛生などを含む』と書かれている。このことから、医学教育分野別評価基準日本版が想定する行動科学は、複数の学問を包括する枠組みという点で、これまで日本で培われてきた行動科学の概念と重なる部分もあるが、どの学問を内包するのかという点で異にする部分があることが示唆された。これは先述の主軸1、3間に生じた埋めるべき溝であり、行動医学のコアカリキュラム作成において国際基準に到達し、かつ日本の独自性を考慮するためには、行動科学の範囲を1と3の折衷に基礎づけなくてはならない。
前節では、JABSの歴史および会員の学術的背景という視点から行動科学という用語の意味を検討した。次にJABSの行動科学普及に向けた対外的取り組みの紹介を通じて、同様の検討を行っていきたい。JABSは行動科学普及に向けて、これまで様々な形の対外的な取り組みを行ってきた。具体的な取り組みの一例として、はじめに、JABS会員である著者が医学教育において行った行動科学の講義を紹介する。
著者が以前に在籍した大学医学部では、学生が選択科目を複数受講するシステムを採用している。開講する選択科目の内容は担当教員の裁量に委ねられており、著者は、自分が行動科学を専門とし、かつ解剖学講座に所属していたという理由で、行動科学と神経解剖学を合わせた行動神経解剖学という科目を開講した。その講義概要は以下のようなものであった。
講義概要脳神経系は内分泌系とともに身体全体を統御する器官として位置づけられる。一方、行動は脳神経系機能の最終表現型であり、個体の心を推察するための重要な指標となる。この行動の表出に関わる脳神経系の形態学的知見を理解することは、すなわち心の構造を理解することに他ならない。本講義では、主に、ヒトのモデルとして広く用いられているげっ歯類(マウス、ラットなど)の様々な行動に関わる神経回路について学び、「心」の構造を理解する。また、精神疾患様行動を呈するげっ歯類の脳神経系の形態学的所見に触れ、心の病と脳神経系の形態学的異常との関わりを学ぶ。
そして著者はこの講義の到達目標を、A)ヒトのモデルとしてのげっ歯類(マウス、ラットなど)の特長を説明できる、B)げっ歯類を対象とした各行動課題で測定可能な心的過程を説明できる、C)げっ歯類の各心的過程の基盤となる神経回路を説明できる、と設定した。この講義を開講した理由は、行動科学の範囲をいたずらに広げることになく、行動医学・医療の国際動向に合致する講義を医学部の学生に提供することにあった。とりわけA、Bの目標を重視し、これらの知識を医学生に教授したいと考え、開講した。では、なぜげっ歯類の行動に関する知識の教授が、行動科学、行動医学・医療の国際動向に合致することにつながるのであろうか。
現在、全ての遺伝子のノックアウトマウスを作製する国際プロジェクトが立ち上がり2,3)、それらを包括したInternational Knockout Mouse Consortium(IKMC)が設立されている。そしてこのノックアウトマウスの行動表現型を網羅的に解析し、遺伝子と行動の関係性を明らかにして、医療に役立てようとする動きが行動遺伝学の分野で起きている。この時代的潮流のなかで、遺伝子改変マウスの網羅的表現型解析の国際コンソーシアム(International Mouse Phenotyping Consortium、IMPC)が設立され、精力的に研究が進められている。
遺伝子に人為的に変異を引き起こす遺伝子改変技術は1980年代から1990年代中頃にかけて始まり4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15)、酵母やミバエの遺伝子改変技術を応用して、遺伝子改変マウスが造られた。この作製方法については他書で詳しく紹介されているので参照されたい16,17,18)。当初、遺伝子改変技術は組織特異性、時期特異性を備えていなかったが、その後に開発された誘導可能遺伝子改変技術の発展により、組織特異性、時期特異性が備わった19,20,21,22)。近年では、ウイルスベクター(ウイルスが持つ病原性に関する遺伝子を取り除き、外来の目的遺伝子を組み込んだベクター)を用いた遺伝子導入や、RNA干渉を応用した技術の利用により、遺伝子改変の組織特異性、時期特異性が向上している23,24,25)。
マウスを対象とした遺伝子改変技術の発達は、分子生物学と行動科学の学際領域を生みだし、正常または異常な行動様式を制御する遺伝子の発見を目的とした研究領域を切り開いた。最近では、霊長類の真猿類に属するコモンマーモセットでも遺伝子改変動物の作成に成功し、注目を集めている26)。マウスと異なり、コモンマーモセットは霊長類であるため、ヒトとの類似点も多い。また、扱いが容易で飼育スペースも小さくて済む。しかし、ライフスパンが長く、一産あたりの仔の数も少ないため、遺伝子改変コモンマーモセットの作製は容易ではない。一方、マウスでは、霊長類が示す高度な行動様式を再現することは難しいが、遺伝子改変技術が確立されており、ライフスパンも短く、一産あたりの仔の数も多いため、遺伝子改変動物を用いた研究遂行が比較的容易である。さらに、マウスの持つ遺伝子の約99%がヒトにおいて相同遺伝子として存在していることから27)、遺伝子が行動表現型に与える影響を検討する実験動物として優れている。同様の特長を備えたラットは、つい最近ES細胞の樹立に成功したばかりであり、遺伝子改変技術のラットへの応用は現時点では限られている。また、生物学研究で頻繁に用いられるWistar系ラットやSprague-Dawley系ラットは非近交系であるため、腹の違いが行動表現型に与える影響(litter effects)や、生産所の違いが行動表現型に与える影響(line differences)が懸念され28)、遺伝子が行動表現型に与える影響を検討することが難しい。一方、マウスでは遺伝子改変動物の作製に用いられる129系統およびC57BL/6系統はいずれも近交系であり、これらの問題は起こらない。一連の知見は、遺伝子が行動表現型に与える影響を検討する実験動物として、現状ではマウスが最良であることを示している。このような理由から、全ての遺伝子のノックアウトマウスを作製する国際プロジェクトも立ち上がり2,3)、先述のIKMC、IMPC設立に至った。この国際動向を踏まえると、げっ歯類の行動理解を主目的とする行動神経解剖学という科目は行動医学・医療の国際動向に合致している。これはコアカリキュラム作成の主軸2に対応し、コアカリキュラムに組み入れる内容として望ましい。
以上、JABS会員が医学教育において行った行動科学講義の一例を紹介した。次に、学会全体として取り組んだ行動科学ブックレット出版、そして行動科学事典出版に向けた議論について紹介する。JABSでは「覚える」、「飲む」、「生まれる」などの特定の行動に焦点をあてた一般向けの啓蒙書、行動科学ブックレットを執筆、出版している(Table 2)。これらは主に心理学の専門家が執筆しており、特定の行動に焦点を当てた書籍として、出版までの作業は比較的スムーズに行われた。しかし、行動科学事典の出版はブックレットの出版とは異なり、出版に向けた話し合いが進められては議論が物別れに終わるという過程を繰り返している。その理由は、執筆に携わる専門家が心理学を中心に据え、さらに心理学の中でも行動的枠組みの領域を行動科学と考え(「心理学に包括される行動科学」という考え方)、事典を構成する意見が絶えないことにある。本来、行動科学は複数の個別科学を包括する概念である。そして科学哲学の専門書は、この個別科学に心理学、人類学、地理学、歴史学等を挙げている29)。行動科学事典の出版に関する話し合いでは、まず、「心理学に包括される行動科学」という考え方と、「心理学を包括する行動科学」という考え方で対立が生じ、次に、心理学を包括する行動科学という考え方の中で、心理学以外にどの個別科学が含まれるのかという点で意見が分かれる。そのため、行動科学の出版に向けた話し合いでは行動科学が指示する意味について意見が分かれ、結果として出版まで漕ぎ着けることができない。だが、現在では「心理学を包括する行動科学」という考え方にまとまりつつあり、行動科学に含まれる個別学問の選択も徐々に定まりつつある。このように、他の行動関連学会と比較した際のJABSの大きな特長に、学会の守備範囲の広さと、行動科学の学問体系について議論を重ねた経験が挙げられる。行動科学が包括する範囲についてコンセンサスを得ることは容易ではないが、JABSのこの特長は、行動医学のコアカリキュラム提案に際して、行動医学の輪郭を浮き彫りにすることに役立つと考えられる。実際、JABSの歴史、会員の学術的背景および活動内容の紹介を通じて、行動科学という用語が指示する意味に、単に医学教育の国際基準に到達する以上に、行動医学・医療の国際動向に合致し、かつ、日本の独自性を考慮するまでの広がりを本稿で持たせることができたことは、その証左である。
タイトル | 著者名 |
覚える−覚えたことがなぜ思い出せなくなるのだろう− | 岡市 広成 |
飲む−あなたは何をどのように飲んでいますか?− | 磯 博行 |
やせる−肥満とダイエットの心理− | 今田 純雄 |
元気に老いる−実験心理学の立場から− | 岡市 洋子 |
生まれる−発生生物学から見る胎児の世界− | 杉岡 幸三 |
決める−意思決定の心理学− | 中西 大輔 |
吸う−喫煙の行動科学− | 島井 哲志 |
2023年問題に直面し、日本の医学教育は現在大きな転換点を迎えている。今後更なる発展を遂げるためには、医学教育の国際基準に到達し、行動医学・医療の国際動向に合致し、さらに日本の独自性を考慮したコアカリキュラムを作成しなくてはならない。そして、この主軸に基づいたカリキュラム作成には、「行動科学」という用語の意味についてコンセンサスを得る必要がある。JABSの歴史、会員の学術的背景および活動内容が示す行動科学の枠組みには自然科学に近い学問が含まれている。一方、医学教育分野別評価基準日本版が示す行動科学の枠組みには社会科学に近い学問が含まれている。医学教育の国際基準に到達し、さらに日本の独自性を考慮した行動科学コアカリキュラムを作成するためには、これらをバランスよく内包する必要がある。また、行動医学・医療の国際動向に合致したカリキュラムを作成するためには、近年発展が目覚ましい行動遺伝学分野の知見を組み入れる必要がある。
では、このようなカリキュラム作成の過程でJABSはどのような貢献ができるのであろうか。先述のようにJABSは行動科学事典の作成過程で、行動科学とは何かについて議論した歴史を持つ。行動科学の範囲について完全なコンセンサスを得ることはできていないが、これまでの議論を通じておぼろげながらにその輪郭をつかむことができた。この知見をコアカリキュラム作成に生かすことはJABSの役割の一つだと考えられる。また、学会名称に「行動」を冠する他の学会が社会科学に近い内容を扱っているのに対し、JABSは自然科学に近い内容をこれまで扱ってきた。そのため、行動遺伝学分野の最新知見をフォローすることも可能であり、これは行動諸学会におけるJABSの際立った特長と考えることができる。その他の特長として、JABSはその前身であるPBD時代から基礎と応用の相互作用に重点を置いて活動した歴史を持つ。行動医療の現場で得られた臨床知を行動医学、行動科学に基礎づけること、さらには行動科学で得られた知見を行動医学・医療に昇華することもJABSが果たす大きな役割だと考えられる。今後、行動医学コアカリキュラムは、その作成過程で様々な局面を迎えることが予想されるが、他の行動諸学会と連携しつつ、上記に示すJABSの特長を生かしてカリキュラム作成に貢献することが求められる。