2024 年 89 巻 3 号 p. 388-408
大量死を経験した「途上国」のフィールドを調査する民族誌家が、不均衡なポジショナリティの中で、残された人々の傷みと彼らの死者を記憶する作業とは一体何か。2009年に内戦終結と前後して最後の戦場となったスリランカ北部に赴き、被調査者の傷みを前に「困惑する私」を書く。爆弾によって家族8人を失ったバーランの傷みを私が感知したとき。投下されていた爆弾が「日本爆弾」という名で呼ばれ、「日本人」でもあるこの「私」が名指しされたと動揺したとき。これらの「解釈する私」の裂開のモメントに焦点を当てる。A. ガルシアは、民族誌家がフィールドの人々の傷みに圧倒され麻痺してしまう現象を「実存的なかすみ」と呼び、そこには親密さと依存関係と非対称性があるのだから、それらに気づき、それらを分節化することが、このかすみ(murk)から抜け出る道であると同時に「倫理的要請」としてあるという。ガルシアに倣い「他者を語る私」を見ることで、バーランの傷だけでなく関係する調査者の傷も見えてきた。そのような民族誌は、継続する植民地主義という意味でのポストコロニアル状況への応答であると同時に、「他者を語る私」の傷みを自分で見て、自分を知って、ゆるす(release)作業でもあった。アーレントの言葉で言えば、民族誌の作者(author)であった私が、その「主体」——行為主体(actor)であり受難者(sufferer)でもある主体(subject)という語の二重の意味——に変わることであった。