文化人類学
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表紙等
原著論文
  • 米国黒人教会のエコロジカル・ミュージッキング
    野澤 豊一
    2024 年 89 巻 3 号 p. 335-354
    発行日: 2024/12/31
    公開日: 2025/03/28
    ジャーナル 認証あり

    人類学的記述の目標は、「現実の生の不可量部分」を含む出来事の〈全体〉に迫ることである。こう考えるとき、音楽パフォーマンスの研究ほど挑戦しがいのあるテーマもない。というのも、人類学者のほとんどが、全体的出来事としてのミュージッキング(=音楽すること)から「音楽」を抽出し客体化するという音楽学的前提を暗黙裡に受け入れてしまっているからである。本稿ではアフォーダンス理論を手掛かりに、この前提から離れた記述を試みる。研究対象となる米国の黒人ペンテコステ/カリスマ派キリスト教会の礼拝儀礼は、音楽の演奏や歌唱だけでなく、「音楽」の枠に入りきらない音や信者たちの振る舞いに満ちている。本稿では、信者らが音に働きかけられる様子、音のなかで信者同士がやりとりする様子を、文字的記述、継時的行動を表した図、映像データから分析し、社会的な音=身体のアフォーダンスを取り出す。そこから浮かび上がるのは、意識によって必ずしもコントロールされない次元の振る舞いであり、個々人のあいだを流れる運動としての「ノリ(=グルーヴ)」である。音楽をめぐる客体主義を超えた先に構想される音楽人類学は、調査者がフィールドのミュージッキングに共振しつつ、「音楽以前のミュージッキング」を研究する地平に我々を誘う。

  • フランスのジプシー・ペンテコステ運動の事例から
    左地 亮子
    2024 年 89 巻 3 号 p. 355-375
    発行日: 2024/12/31
    公開日: 2025/03/28
    ジャーナル 認証あり

    ペンテコステ派キリスト教は、20世紀後半に世界中で信徒数を増大させた。カトリックを信仰していたフランスの「ジプシー」の間でも「ジプシー福音宣教会」主導のもと、大規模な改宗が進む。ジプシー・ペンテコステ運動は、世俗化が進むフランス社会にあって独自の宗教に閉じこもるセクトといった汚名がきせられ、人類学・社会学の研究においても、「ジプシーの民」を「選ばれた民」として提示する教会のエスニック・ポピュリズムや宗教的な汎ロマ主義が強調されてきた。本稿では、この宗教運動と民族主義との繋がりを再考すべく、信徒が生きる神学的世界に注目しながら、個人主義などの西洋近代的概念を問い直してきた「キリスト教の人類学」の議論を採りいれ、信徒の神との関係をめぐる語り、及び祈りの場面での個的かつ集合的な実践を検討する。神との直接的な対話や無媒介的な祝福を促す宗教実践が、旧来の親族的紐帯をも揺さぶる新たな個の感覚を立ち上げると同時に、祈る身体の共振や情動の発生を導き、民族の境界にとらわれない共同性を生成するさまを描きだすことで、民族主義をめぐる道具論的理解やキリスト教の個人主義概念には汲みつくされないペンテコステ派ジプシーの宗教体験の具体的諸相を明らかにする。

特集 とらわれて書く——エスノグラファーの悼み/傷みと喪をめぐる民族誌に向けて
  • 閉回路(loop)から外へ出る
    中村 沙絵
    2024 年 89 巻 3 号 p. 376-387
    発行日: 2024/12/31
    公開日: 2025/03/28
    ジャーナル 認証あり

    Can ethnography become a site for mourning where we, as writers or readers, are allowed to dwell with loss, attempt to share with people in pain of grief, and seek the presence of those absent? What are the ways of writing ethnography if its purpose is not merely to represent and understand the cultural Other but to revisit the moments of perplexion, regret, or longing for others encountered during fieldwork? What are the possibilities of such affective knowing and "vulnerable writing," and what are its limitations? This special issue on "Ethnography of Mourning and the Pain of Ethnographer" attempts to expand the contours of ethnographic writing by addressing these questions. Each essay performatively poses a question of whether there is any sense in bringing back the "pain" of the ethnographer themselves in touch with those of the interlocutors, and how, if ever, that could be achieved. This introductory article sets the context for subsequent essays and envisions their potential to challenge conventional academic practices.

  • スリランカ内戦と最大ドナー日本、とらわれと応答可能性(responsibility)
    初見 かおり
    2024 年 89 巻 3 号 p. 388-408
    発行日: 2024/12/31
    公開日: 2025/03/28
    ジャーナル 認証あり

    大量死を経験した「途上国」のフィールドを調査する民族誌家が、不均衡なポジショナリティの中で、残された人々の傷みと彼らの死者を記憶する作業とは一体何か。2009年に内戦終結と前後して最後の戦場となったスリランカ北部に赴き、被調査者の傷みを前に「困惑する私」を書く。爆弾によって家族8人を失ったバーランの傷みを私が感知したとき。投下されていた爆弾が「日本爆弾」という名で呼ばれ、「日本人」でもあるこの「私」が名指しされたと動揺したとき。これらの「解釈する私」の裂開のモメントに焦点を当てる。A. ガルシアは、民族誌家がフィールドの人々の傷みに圧倒され麻痺してしまう現象を「実存的なかすみ」と呼び、そこには親密さと依存関係と非対称性があるのだから、それらに気づき、それらを分節化することが、このかすみ(murk)から抜け出る道であると同時に「倫理的要請」としてあるという。ガルシアに倣い「他者を語る私」を見ることで、バーランの傷だけでなく関係する調査者の傷も見えてきた。そのような民族誌は、継続する植民地主義という意味でのポストコロニアル状況への応答であると同時に、「他者を語る私」の傷みを自分で見て、自分を知って、ゆるす(release)作業でもあった。アーレントの言葉で言えば、民族誌の作者(author)であった私が、その「主体」——行為主体(actor)であり受難者(sufferer)でもある主体(subject)という語の二重の意味——に変わることであった。

  • 《妊娠期の喪失》をめぐる「こぼれ落ちるもの」の民族誌
    久保 裕子
    2024 年 89 巻 3 号 p. 409-428
    発行日: 2024/12/31
    公開日: 2025/03/28
    ジャーナル 認証あり

    本稿は、2017年から2019年にかけて実施したフィリピン・メトロマニラにおけるフィールド調査をもとに「発露されることのない沈黙の悲嘆」を記述する民族誌的試みである。カトリックを信仰する人々が国民全体の約75%であるフィリピンでは、憲法で中絶は禁止されている。スティグマ化された中絶は、非常に罪深い行為であるため、表立って発露されることのない経験である。この沈黙に呼応するように流産や死産の経験もまた、「神の御意思」であり、語るに値するものとされない。流産と中絶は、自己決定という点において決定的に明確な違いがある。また法律の観点からも、中絶が違法と定められているフィリピンでは、流産と中絶には明確な境界がある。しかし、流産と中絶を複数回繰り返し経験した女性たちの、即座には流産か中絶か、峻別が不可能な経験の語りは、その境界を曖昧にする実践があることを示唆していた。スクウォッターエリアの女性たちの流産・中絶による妊娠期の喪失は、カトリシズムをはじめとするさまざまな文化的、社会的要因から権利を剥奪された悲嘆の経験であった。そのことは、正期産で死産を経験した筆者に心身を通しての葛藤を生じさせた。いくらあがいても女性たちの語りの意味を見いだせない「わからなさ」と葛藤は、残響として筆者の記憶の断片に残り、スクウォッターエリアでの出来事全般に澱みのイメージをもたらした。この澱みのイメージをもたらす残響を解体し、悲嘆を開かなくてはいけない。スクウォッターエリアでの妊娠期の喪失とはどのように経験され、そして女性たちの悲嘆はどのようなものであるのか。悲嘆を開くことは、同一化や共感を問い直し、それらを超えた別様の共感の可能性を示唆するものである。

  • 内なる傷みを看て、何者で在る/り得るかを知る
    菊池 真理
    2024 年 89 巻 3 号 p. 429-448
    発行日: 2024/12/31
    公開日: 2025/03/28
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    人は、生き延びるために麻痺させざるを得なかった己の傷みを看て、それを悼む時、自分は何者で在る/り得るのかを知るのかもしれない。宿主にこそ看てもらいたがっているこの傷みは、他者にうつし出されることでその存在に気づかせようとする。また、この傷みを看ることの怖れは、他者に対して抱く怖れとうつし合う。私たちが他者を怖れるのは、愛されたいが故に、あるがままの在りようを否定せざるを得なかったという傷みを、他者がうつし出すからではないだろうか。スリランカ内戦の傷みと向き合う映画Demons in Paradise(2017)の監督ジュード・ラトナム氏は、「pain(demons)が僕らを残酷にした。painをみる怖れを振り払い、それをみて抱擁する時、怖れはもはや自分に力を及ぼさなくなる」と語る。その傷みと怖れは、私たちのそれらとどうつながっているのだろう。また、調査者自身が「とらわれている」人々の傷みによって震わされることで、自らの傷みに気づかされ、それに向き合うという経験を、歓待の概念を用いて理解するならば、フィールドワークはいかなる経験であり得るか。そして、民族誌を書くことは、人類学者をどのように存在の根源的次元にある在りようへと還るよう導き、〈わたし/たち〉の顕れを促すのか。筆者自身のフィールドワークと民族誌を書くという「人生に突き刺さる経験」から考える。

  • 映画『楽園の悪鬼たち(Demons in Paradise)』と自己変容について
    清水 加奈子
    2024 年 89 巻 3 号 p. 449-460
    発行日: 2024/12/31
    公開日: 2025/03/28
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    In 2023, Jude Ratnam made his first visit to Japan from Sri Lanka to screen his film Demons in Paradise. This essay describes the transformation I underwent as I accompanied Ratnam across Japan for the film's four screenings. The journey opened my "eyes" and gave me a new way of seeing the world as I, through "belly" and not by way of "head," retraced the rebirth that Ratnam experienced through his filmmaking. Just as the film's content and form were inseparable for Ratnam, my new perspective has inseparably influenced my way of writing. By presenting my experience in this new way and appealing to the reader's gut ("belly") and not to the reader's mind ("head"), this essay aims to effect transformation in the reader.

萌芽論文
  • モノたちの蜂起に寄せて
    ケイ 光大
    2024 年 89 巻 3 号 p. 461-472
    発行日: 2024/12/31
    公開日: 2025/03/28
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    Previous studies have commonly depicted cynicism as a mentality that both perpetuates existing power structures and undermines them from within. However, perspectives on cynicism's material and bodily aspects have been largely overlooked. This paper addresses this gap through the lens of Marxism's concept of false consciousness, material religion theory, and Foucault's analysis of kynicism (the etymology of cynicism). It explores how authority projects its order and intention and how cynicism affects people's bodies by employing two terms "Material Semiotics System" and "Cynical Body." Finally, it proposes a new approach to resistance against cynicism, which is to embrace things beyond the power's grasp.

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