Japanese Journal of Pharmaceutical Education
Online ISSN : 2433-4774
Print ISSN : 2432-4124
ISSN-L : 2433-4774
Review Article
The necessity of vocational education in healthcare professional education for workplace preparedness
Osamu Fukushima
Author information
JOURNAL FREE ACCESS FULL-TEXT HTML

2020 Volume 4 Article ID: 2020-013

Details
抄録

卒前医療者教育に職業教育の視点が含まれているだろうか.学生は卒前教育を受け,その知識と技能と倫理観を卒後のトレーニングで職場の中で学び続け,専門職業職者としてその役割を患者さんや地域住民という人たちに貢献していくことで,自分の幸せを得ていく.そのために,卒前教育では,学生が卒後のトレーニングとそのあとの生涯学習で学び続ける資質と能力を育てていかなければならない.人は,職業を通じ,自分の能力を他者貢献・社会貢献のために発揮し,他者や社会の役に立つことで生計を立てていく.自分の持っている知識と技能を何の目的に,どのように使うかという職業倫理が重要となる.人が社会とどのようにかかわり,社会に貢献するとはどのようなことかを卒前教育は教えていく必要がある.

Abstract

Vocational education in undergraduate healthcare programs is inadequate, and students are not educated about work ethics and responsibility. After students graduate and enter the workforce, they are expected to learn new knowledge, skills, and ethics to fit the workplace. They begin to understand unfairness and injustice in society for the first time as they are working in their professional roles with patients in the community. They need to find meaning and purpose after graduating, and they face an expectation to develop ethical competence in the postgraduate training while performing their professional duties to others and society. It is essential to pursue professional ethics and critical thinking about the purpose and application of the attained medical knowledge and skills. Vocational education connects undergraduate learning to the workplace through postgraduate training, using interactions with other professionals and patients and contributions to society.

はじめに―本論考の流れ―

日本の大学における職業教育はヨーロッパとは異なった成立過程を踏んでいる.ヨーロッパの大学とそれに影響を受けて成立したアメリカの大学は,職業とその卒前教育の連続性が保たれた形で大学(高等教育)における職業教育が成立していったが,日本は帝国大学(明治30年に京都帝国大学ができるまでは,東京帝国大学とは呼ばれていない)は,医科大学,工部大学校,法科大学,農科大学などで形成されていったが,それぞれの学部は,それ以前の日本にはなかった職業職者の養成を目指した.例えば,医師養成で言えば,帝国大学でのドイツ医学の教育の開始に伴い,それ以前に存在した東洋医学の医師や伝統医学の医師たちは,医師としての職業から追い出されることになった.医科大学は全く新しい職業,今までなかった職業を行う人を育てることになる.従って,従前の職能団体(ギルド)とは全く関係を持たないことになるだけでなく,医科大学卒業後の訓練についても従前の職能団体(ギルド)は関与しないことになった.一方,ヨーロッパの大学は,職能団体であるギルドと職業教育が強い連携を持って職業教育機関を作ってきたので,その延長線上で大学という高等教育での職業教育が組み立てられた.ヨーロッパの大学は法学,医学,神学という専門職業職者を育成するために作られ,大学などの高等教育機関での職業教育は,職能団体であるギルドが深く関与していたので,卒前教育と卒後の修練(医学の言葉で言えば,臨床研修・専門医修練)とが連続していた.このような職業教育の成立過程を踏んだヨーロッパでは,大学(高等教育)や職業訓練学校が卒後の職能集団と連携をとり,職業職者を卒前,卒後のスムーズな移行の中で育てていったと考えられる.しかし,日本では,大学や専門学校という高等教育機関と職能団体(ギルド)との連携が作られなかったので,大学や専門学校が職業教育として十分な機能を果たしていない,しかもそのことが現在までも続いているといえる.

本論考では,医療系大学に焦点を当て,医療系大学に職業教育の視点が不十分であること,労働と職業の意味について大学が教育していないこと,それなのに職業職者教育には多くの社会資源を使っていること,職業職者が職業という仕事を通じて社会貢献(他者貢献)していること,そしてその仕事を通じて,人は生涯にわたり,人間として成長し続けていること,そのためには仕事の中で学ぶという資質と能力を身に付けなければならないし,職場の中で学ぶには職場に居続ける(ドロップアウトしない)という能力が不可欠であることを論じたい.

医療系大学では学生が卒業後に職場の中で働くための資質と能力を育てているだろうか

日本の大学(医療系に限らず)は,高等学校と職場とを繋げる機能を果たしていないと,本田由紀は述べている.「『新規学卒一括採用』という,教育機関から企業への組織間移行のルートが社会に定着したことと表裏一体の現象として,実質的な職業能力形成については,移行後の企業内部で主に行われるようになったからである.職業人としてはきわめて未熟な状態の新規学卒者が,教育機関と企業との間で受け渡され,彼らの育成については企業が責任を持つというしくみを筆者は『赤ちゃん受け渡しモデル』と呼んでいる」1).ヨーロッパや米国では「新規学卒一括採用」という就職方式は存在しない.被雇用者は,雇用者が求めている能力を自分が持っていることを示し,雇用者により一人ひとり採用される.自分の能力を高めるために,大学などの教育を受けたり,新たな技術を身に付けるためにJunior Collegeの講座でCertificationを取ったりして,能力のあるものとして雇用者の評価を受けることになる.しかし日本の「新規学卒一括採用」では,被雇用者一人ずつの能力は重要視されてこなかった.従って,日本の大学教育で学生が得られる知識や技能は,職場でそれが活かされる訳ではないので,大学教育はますます社会とは隔絶し,「赤ちゃん受け渡しモデル」を継続することになった.日本の企業は,大学教育には期待せず,被雇用者の能力を客観的に測定できるのは学歴と考え,学歴による採用基準が横行することとなった(入学試験結果しか,被雇用者の能力を客観的に測定するものがない,という考え方).企業は入社後に,企業が求める資質と能力を新入社員に身に付けさせるために,新人研修に力を入れていたが,高度経済成長時代はその新人教育の資金は確保できたが,現在はそのゆとりはすでに企業にはない.そこで文部科学省は,「学修成果」,卒業時に示すことのできる資質と能力をディプロマ・ポリシーとして明示し,学生が卒業時に何ができるかを保障することを求めた.このことは卒業生が企業に就職したときにemployabilityを獲得していることの保証を大学に求めたのである.

教養教育の定義

昭和21年にアメリカの教育使節団が来て,日本の大学教育を以下のように評価した.「日本の高等教育機関のカリキュラムには,概して普通教育(general education)を受ける機会が乏しく,早くから狭い専門化(specialization)が進められ,また職業的(vocational or professional)な面が強調され過ぎているように思われる.自由な思考のための基盤を作り,専門的訓練のためのより良い基礎を与えるためには,幅広い人文主義的な態度を育成する必要がある.それによって学生の将来の人生はより豊かなものになり,自分の職業的活動が,人間社会全般の中で,どのような位置を占めているかを理解できるようになるだろう.」2) もっとも当時の日本の大学教育は,医学部は4年制であったが,他の学部は3年制であり,教養教育は旧制高等学校(3年制)で学んでいたので,このアメリカ視察団の評価は納得できるものではないが,大学教育と社会との接続性,特に,職業を通じての社会活動についてはアメリカ使節団の批判は受け入れざるを得ない.その状況は今も変わらない.

教育と社会との関連については,上記の反省もあり,教育基本法第14条に「良識ある公民として必要な政治的教養は,教育上尊重されなければならない」と定められた(昭和22年).政治とは広辞苑によれば,「人間集団における秩序の形成と解体をめぐって,人が他者に対して,また他者と共に行う営み.権力・政策・支配・自治にかかわる現象.主として国家の統治作用を指すが,それ以外の社会集団および集団間にもこの概念は適用できる.」3) とある.人間集団における自分と他者との繋がり,及びその中で生じる社会規範について学校教育は教えなければならないと規定されている.大学を含め,学校教育の中で自分が社会にどのようなかかわりを持つか,そのかかわりの正しいあり方について「政治的素養」として良識ある公民として学ぶ権利を我々は有しているのである.しかしこの教育基本法第14条は守られているのだろうか.

中島さおりの「哲学する子どもたち」4) という本がある.フランス人と結婚し,子どもたちをフランスで育てた日本人の著書である.フランス共和国の学校教育には「ライシテ」(政教分離・非宗教性)という原則がある.フランス共和制以前は,学校教育はカソリックにより支配されていた.また,フランスはジプシーの問題もあり,また英国とは異なり地続きで多くの民族,国と接しているし,交通もある.従ってフランス人のアイデンティティーは「フランスで生まれたこと」となる.このような状況で君主制,教育でのカソリック支配から逃れ,「自由,平等,博愛」で,フランスに生まれた人をフランス人としてまとめ上げ,フランスという国家体制を維持するために,人種や宗教には基づかない個人を基盤にした価値体系を作るためにライシテの原則が作られた.すなわち,教育の学校という場から一切の宗教色を取り除くという原則である5).1989年にイスラームの「スカーフ事件」が起こった.イスラームの女子中学生がスカーフをして学校に来たので,校長が彼女たちにスカーフをとるように命じた出来事である.当時日本の新聞はこの中学校の校長に対して宗教差別・人権侵害だと書き立てた.しかし,この事件についてフランス政府は以下のようなスタジ報告を出している.「学校は自由と解放の場,社会化の第一の場であり,共和国のなかで共に生きる明日の市民を準備することが使命である.共和国の学校は,単なる施設利用者を受け入れているのではなく,教養ある市民になるべき生徒を受け入れているのであり,彼らの違いを乗り越えた共生をもたらそうとするものである.このような使命を果たすためには,共通の生活の規則を定めることが必要である.今日の問題は,もはや良心の自由の問題ではなく,公的秩序の問題である.禁止事項を設定することが問題なのではなく,共通の生活の規則を定めることが問題なのである.また,このような立法化,すなわち公権力によってイスラームという集団に差し向けられる強い指示は,スカーフの着用を強要する信仰篤きイスラームの家族や地域による圧力の犠牲となっているサイレント・マジョリティーとしての彼女たちを保護することになる.」ここで,学校は,「社会化の第一の場」,「共に生きる明日の市民を準備する」,「共通の生活の規則を定めることが必要」などと書かれている.学校はまさに子どもたちが社会のなかで生きていくこと,自分で考えていくこと(哲学)を教える場であることが強調されている.このなかには自分が職業を通じて社会に何をしていくのかも含まれている.教養教育とは,自分と社会との繋がりを知り,自分の生き方,価値観を作っていくものである.

働くこと,職業とは

「働く」を広辞苑で引くと,「①うごく.②精神が活動する.③精出してしごとをする.④他人のために奔走する.⑤効果をあらわす.⑥(他動詞的に)(悪いことを)する.⑦(文法で)語尾などの語形が変化する.」3) と出てくる.「他人のために奔走する」に注目して欲しい.

職業の三要素として,①個性の発揮,②生計の維持,③社会的貢献が挙げられている6).この「働く」と「職業」の2つの言葉の意味から,職業を通じて働くということを考えてみる.

ヒトはその進化の中で,集団を形成してきた.狩猟採取社会から農耕社会,産業社会,脱産業化社会へと.狩猟採取社会では,狩りができる能力のあるメンバーが狩りに行き,植物などの知識があるメンバーが山などに果実,木の実やキノコなどを採取しに行き,メンバーが狩猟や採取に出ているときに家を守るメンバーがいた.それぞれのメンバーがそれぞれの能力を発揮し,社会集団のメンバーを支えあったので,狩りに行ったメンバーは家を守ってくれていたメンバーに,家を守ってくれてありがとうと言って肉を分け,果実,木の実やキノコをくれたメンバーに肉を分けた.このような社会では障害のあるメンバーもその人の能力にあった仕事を行い,社会(他者)に貢献したので,障害者差別はなかったと言われている.原始的な狩猟採取社会をモデルに考えると,人は自分の能力を発揮し(①個性の発揮),社会集団の役に立つ(③社会貢献)ことで,狩りの獲物や採取したものをメンバーが分けてもらって生活していた(②生計の維持)のであろう.生計の維持は社会貢献・他者貢献により可能となり,そのために個人の能力を育てて仕事ができるようにした,その仕事をすることが職業の始まりだと考えられる.このように考えると職業を通じて他者貢献すること,すなわち他者のために奔走することが仕事をする,働くの意味となる.

職業倫理の教育

「精力善用」,「自他共栄」という嘉納治五郎師範の教えがある7).この言葉を次のように解釈したい.自分の力を磨き上げ(精力),それを良き方向に使えば(善用),他者を幸せにすることができ,それによって自分も幸せになれる(自他共栄),と.自他共栄こそが職業の目的であり,働くの意味であろう.それを行うために重要なのは磨き上げた自分の力を良い方向で使うこと.この言葉の中には職業倫理が含まれていると解釈している.自分の持っている力を良くない方向に使った例がある.Harold Shipman事件である.2000年に英国のGeneral Practitioner,ハロルド・シップマンは1975年から1998年にかけて麻薬(モルヒネ)を用い15名を殺害していた罪により,終身刑が言い渡された.殺害した患者数は218人とも,450人とも言われている.2004年に獄中で自殺した.英国ではDr. Deathと呼ばれた.同じ時期に米国では,Michael Swango事件が起こった.Swangoは,1983年南イリノイ大学医学部卒業,オハイオ州立大学でインターンを終了しオハイオ州で医師免許を獲得した.医学生時代から病棟で入院患者の点滴に薬物を混入させたり,バイトの救急救命士の仕事では同僚にヒ素入り甘い毒をドーナッツに塗って食べさせたり,医師になってからも患者を殺害した疑いがある.2000年に3名の殺害を自供し終身刑に服している.FBIはSwangoは,60名は殺害したと推測している.自分の持っている力,強力な力の使い方を間違った方向に使っている例である.

医療系の教育を受けた人は,解剖学で「体表から脈が触れる場所と,その動脈名を列記しなさい」という試験問題を出されたことがあるであろう.答えは,①頸動脈三角:総頚動脈,②大腿三角:大腿動脈,とこの順番で書き,あとは,③浅側頭動脈,④後頭動脈,⑤顔面動脈,⑥上腕動脈,⑦橈骨動脈,⑧腹大動脈(簡単に触れます,仰臥位に寝て,股関節と膝関節を曲げ,臍のところから椎骨方向に手を当てれば触れますが,動脈硬化のある人はやらないでください,腹大動脈破裂を誘発するので),⑨後脛骨動脈,⑩足背動脈となるでしょうが,③以下はどうでもいいです.この問題をちょっと書き換えてみましょう.「あなたはカッターナイフしか持っていません,人を殺せる場所と出血死を起こす動脈名を述べなさい」と同じ答えになります.医療者教育では,「a patient care」のための知識と技能を教えます,しかし,その同じ知識と技能は人を殺せる知識と技能でもある.だから,医療系教育では,その知識と技能の「正しい使い方」,すなわち職業倫理をしっかりと教えなければならない.

平成27年の医師国家試験改善検討部会報告書を引用する8).「医師国家試験を受験する者には医師としての人間性・倫理性の評価が適切に行われることが前提であり,今回の見直しにあたり,各医学部においては6年間の卒前教育の中で医師としての人間性・倫理性を適切に評価するよう努め,医師として求められる基本的資質の向上が図られるよう,より一層の教育内容の充実を強く希望する.」これは何を意味するのでしょうか.厚生労働省は,医師国家試験では受験者の医師になる適格性は測れない.医師国家試験では知識と問題解決能力は測ることができるが,医師になる人間性や倫理性は測れない.この学生が医師になっても患者安全を守れるかどうか,すなわち医師になる資質があるかどうかを判断できるのは,6年間その学生を観察し,評価し続けている医学部にしかない.医学部はその社会的責任として,その学生が医師になる適格性を持っていることを国民・市民に保証しなければならない.その保証があるから,医師国家試験合格者に医師資格を国が与える.もしこの責任を放棄するなら,その医学部は国民に対し責任を果たしていないことになる.そしてその学部の名称は,殺人兵器製造学部となるであろう.

医療系教育の資源

私立大学医学部での医師養成課程を例にとって教育の資源について考えてみる.医学生が医師になるために,経常費補助金を国から頂き,本人とご家族の了解を頂いて人体解剖を行い,臨床の場で患者さんを診させていただいている(乳房診,内診,直腸診だけでなく,患者さんのプライバシーも医療面接で聞き取る).国立,公立であろうが私立であろうが医師養成には多大な税金が投入されている.例えば東京慈恵会医科大学では平成30年度に,経常費等補助金として3,844,673,768円を国から支給されている9).経常費補助金は毎年,国から支給されている.このほとんど医師養成のために使われている.医学科の定員学生数は660名なので,38億円を660人で割れば,576万円となる.医学科の6年間の授業料と入学金合計は2,250万円なので6年で割れば1年間に375万円を保護者から受け取っていることになる.ということは,たとえ私立医大であろうとも,医師養成の最大出資者は国ということになる.さらに学校法人が運営する病院で医療収入が得られた場合の税率は0%,医療法人の場合は税率30%,社会福祉法人の場合は22%である.これも医学部に対する優遇税制であり,この優遇税制によるお金も,医師養成のための経費となっている.医学教育のために,見も知らぬ医学生のために死後,体をくださる方がいる.自分の母親や父親の体を,医師養成のために解剖させてくださる方がいる.そして外来や病棟には,医学生の学修のために,裸になって下さり,自分のプライバシーを話してくださる方がいて,医学生は初めて医者になれる.これだけの尊い資源を使って医学生は医師になる,そして医学部の教員は医学生を教えることができる.「屍は師なり」,「患者こそ最高の師」と私は学生時代に教えられた.患者さんから,ご遺体から学ぶのである.この尊い資源に対し,医学生も医学部の教員も果たすべき責任がある.医学部以外の医療系大学や専門学校でも患者さんという尊い資源がなければ,医療者は育てられない.学生は一人勝手に医療者になったわけではない.だからこそ,医療者となってからすべき仕事があり,責任がある.

医療者はこの資源を使い医療者になり,医療という仕事を通じて患者さんや国民に何をするのであろうか.もちろん,求められている医療を,正しい方法で行う患者貢献である.患者さんのために自分の持っている力(知識と技能)を使い,患者中心の医療を実践する.この実践の対象は「他者」である.医療の場における研究も,患者さんのための研究である.しかし,患者さんのためにという目的が,「自分」に向くとどうなるのであろうか.患者さんのためではなく,自分のための研究になった時に,データ捏造などの研究不正が起こるのではないだろうか.研究でも,医療でも,その目的は「患者中心」である.自己中心的な考え方や行動は患者さんを害することになる.自分の持っている力(知識と技能)を患者さんのため,他者のため,すなわち社会貢献するために使ったときに,職業の三要素(①個性の発揮,②生計の維持,③社会的貢献)を満たしたことになる.医療者教育の目的は,患者安全にある.

医療者養成課程での学び―卒前教育から卒後研修,そして生涯学習へ―

卒前教育,卒後のトレーニングという流れの中で,職業教育という形が出来上がっているものとして,芸妓舞妓の教育を見てみよう10).中学校を出た若い女の子は,置屋に住み込む.プリセプターとしての先輩,「お姉さん」に付く.夕方からは,お姉さんに連れられ,お座敷という「仕事場」に出て,そこで座持たせという「実践知」を学ぶ.もし新人の女の子が現場でしくじっても決して怒られない.怒られるのはプリセプターのお姉さんである.午前中から夕方にかけては,「女紅場(にょこうば)」という学校に通う.ここで学ぶのは「学校知」である.女紅場では,芸舞妓の基本技能の日本舞踊,お座敷芸で披露する三味線・大鼓(おおかわ)・小鼓(こつづみ)・笛などの邦楽器の演奏,立ち居振る舞いの訓練にもなる茶道が必須科目となっている.華道や絵画,俳諧などの伝統文化などもある.女紅場の中には学校法人が設置しているものもある.集合教育で効率的に教えることが可能なことは学校で行い,それと同時に現場での「仕事の中で学ぶ」という学修をわざと並立している.これにより,「学校知」と「実践知」とを学習者が文脈を持って学修するデュアルシステムとなっている.現場を知りつつ,学校で学ぶので,学校でなぜこんな知識を覚えなければならないのか,どうしてこんな技術を身に付けなければならないかのかについて動機づけられている.モティベーションのない学生を教えるような悲しい教育現場にはなっていない.また現場では学修者である女の子には,プリセプターとしてのお姉さん以外に,スーパーバイザーとして置屋のおかみ,お茶屋のおかみ,そして,「一見の客お断り」のお客さんが学修者を支援する.一見のお客お断りというのは,大事な将来の芸妓である舞妓を育てる力のない客はお断り,という意味である.この「実践知」と「学校知」を並行させて学修するデュアルシステムはドイツの職業教育として有名である.ドイツでは職業教育をギルド(職能団体)が作ったので,卒前教育と卒後教育とが円滑に連携され効果的な職業教育となっている.

現場で学修者は何を学ぶのであろうか.Zuckerman(1977)の研究が有名である11).Zuckermanは92名のノーベル賞受賞者に,どうしてあなたはノーベル賞を受賞できたのかについてインタビュー調査を行った.受賞者たちは全員,ノーベル賞受賞者または受賞者級の優れた研究者のもとで学んでいた.受賞者たちはこの師匠たちから,彼らの優れた眼力(何が重要であるのかについての的確な判断,将来重要になるだろう問題領域を見つけ出す能力),考えの進め方,研究に対する態度,研究に対する評価基準の厳しさ,を学んだと証言している.決して知識を学んだとは言っていない.熟達者である師匠から,研究する態度,なぜこのテーマの研究をするのかの価値判断,そして倫理を含めた研究の進め方を熟達者である師匠と一緒に仕事,研究をすることで,師匠たちの持つ「行為の中の知識」を学んでいった.まさに「Knowing in action」である.

医学部での臨床実習を考えてみよう.医学部では臨床実習前教育(1年生から4年生)の後,臨床実習に入っていく.臨床実習には①ローテーションと②クラークシップとがある12).見学型臨床実習と診療参加型臨床実習である.診療参加型臨床実習とは,「診療参加型臨床実習は,学生が診療チームに参加し,その一員として診療業務を分担しながら,医師としての職業的な知識・思考法・技能・態度の基本的な内容を学ぶことを目的としている」13) と定義されている.卒前教育と卒後研修の流れで示せば,見学型臨床実習→診療参加型臨床実習→免許を持ち,お給金を貰いながら,仕事としての卒後臨床研修となる.診療参加型臨床実習とは,卒後の仕事としての卒後臨床研修の中で学べる力をつけるための準備教育とならなければならない.孟子は「親方は弟子に規矩(きく)や定規の使い方をおしえられるが,弟子の腕前を上達させることはできない.」と述べ,それを田中萬年6) は,「実習とは,五体と五感を使って,現実の物事に働きかけ,その反応を感じ取り,働きかけている過程で自然や人間の諸関係に関する知識,技能,態度を総合的に習得する学習である」と定義している.診療参加型臨床実習や卒後臨床研修では学修者は職場の中で先輩を「まねること」で学ぶ.「『学ぶ』とは,『まねる』が発達した言葉だったのである.『まねる』が『まなぶ』となり,中国から来た『学』が当てられ,『学ぶ』となったのである.大和言葉としての「真似る」とは何だったのか,ということになる.文字が生まれていなければ,今日のような知識の学習ではないことになる.それは人としての生命を維持するための労働をまねることであったはずである.」6) と田中萬年は述べている.職場の中で学ぶ,仕事の中で学ぶには,「適応」と「抵抗」する能力が必要だと本田由紀は述べている1).「適応」とは,働く人が自分の仕事を遂行するために知っていなければならない知識と技能のことであり,「抵抗」とは仕事に就く者が身を守るために,そして職場に居続けて学び続けることができるために求められる知識と技能のことを言う.職場には必ずや理不尽が存在する.また不正義も存在する.職場の中の先輩の不正義をそのまま,継承してはならない.しかし,今の自分には正せない職場の中の理不尽に,真っ向から戦ってもそれは職場の中で学び続けることにはならない.自分を守り,不正義はせずに,理不尽を一つずつ改善し,他者のために,社会のために自分の力を発揮し,その力をさらに増強させ,自他共栄を目指すという資質と能力を卒前の最後の段階と,卒後の最初の段階で身に付けてもらわなければこの職業は継承できない.この職業を守るのは同業者の先輩の仕事ぶりである.誇りある仕事を,正しく継承するために,卒前教育と卒後研修は連携し,職業教育の視点で人を育てるという視点を持つべきである.

最後に

旋盤工(NC旋盤)である小関智弘の言葉で締めくくりたい.「人は働きながら,その人となっていく.人格を形成すると言っては大げさだけれども,その人がどんな仕事をして働いてきたかと,その人がどんな人であるのかを,切り離して考えることができない.」14)

米国の卒後研修の機関(ACGME)から医師の資質と能力としてsix competenciesが挙げられている15) :①Medical knowledge,②Patient care,③Practice-based learning and improvement,④Systems-based practice,⑤Interpersonal and communications skills,⑥Professionalism

このなかで③に注目して欲しい.医療に限らず,職業をもつ者は仕事を通じて自分自身の学習課題を見つけ,それを学び自分の能力を高めることでもっと良い仕事をするようになる.この職場の中に居続けて,仕事の中で学び続ける,そして自分の能力を発揮することで他者貢献・社会貢献することで生計を立て,自分の人生の意味を見つけ出す,この能力を卒前教育で始め,卒後研修で育てていく教育プロセスを作っていかなければならない.

私事で申し訳ないが,私の亡くなった父(開業医)が,私が医学部を卒業する時に,耳に胼胝ができるほど繰り返し言っていたことがある.「いいな,統(私の名前).卒後の5年だ.医師になる者として最も重要なのが卒直後の5年間だ.この時期に楽を決め込み,バイトに明け暮れ,ちゃんとした勉強や経験を積まなかったら,そんな医者にしかならないのだ.この時期に汗水流し,一人ひとりの患者さんに向かい合い,一生懸命勉強するのだ.そうしたらいい医者になる.卒後の5年だ!」私は卒後,臨床にはいかず,解剖学の大学院に進み研究者の道に進んだが,父が言っていたことは研究者を目指すものにも通用することだった.

卒前と卒後を繋げていかなければならない,職業教育として.

本論考は科研・基盤(A)「第三段階教育における往還的コンピテンシー形成と学位・資格枠組みの研究(JP19H00622)」の支援を受けた.

発表内容に関連し,開示すべき利益相反はない.

文献
 
© 2020 Japan Society for Pharmaceutical Education
feedback
Top