2021 Volume 5 Article ID: 2020-030
手話を母語とする聴覚障害者(以下,ろう者)と医療者との間のコミュニケーションはほとんど成立していない.医療者は通じたと思っていても,実際は違うケースが多数存在する.そのため服薬アドヒアランスの低いろう者の患者さんは多い.彼らの多くは,医療者側への疑問や不安を抱えたままである.そして,ろう者の患者さん本人を置き去りにし家族や通訳者らとだけで話を進めてしまうケースも多い.障害者をどこか劣った者と見なし,本人との意思疎通は難しいと決めつけ放棄してしまうのではなく,障害者の「障害」は「社会的障壁」であることを踏まえて,どんな人とでも直接,意思疎通をもつことは可能と考え,実践してゆかねばならない.国連から提示された障害の「社会モデル」と合理的配慮を念頭に,その視点を持つ薬剤師を育成してゆく中で,障害当事者の話を聞き,かつ,ろう学生が共に学べる大学のバリアフリーを徹底させてゆくことが求められているだろう.
Communication between those with hearing disabilities for whom sign language is their first language (hereafter referred to as Deaf) and medical professionals is all but nonexistent. While medical professionals may think their words are being understood, in fact there are many cases in which this is not true. Because of this, low adherence to treatment regimen is common among Deaf patients. Many Deaf people have doubts and concerns about medical professionals. What’s more, in many cases, medical professionals ignore the patient and speak only to family members or interpreters. Rather than seeing those with disabilities as somehow flawed and assuming that communication with them is too difficult, we must recognize that their disability is a social barrier, and act on the assumption that it is possible to directly communicate with anyone. Keeping in mind the social model of disability put forth by the United Nations and the concept of reasonable accomodation, in our training of pharmacists who share this way of thinking, we are challenged to listen to the voices of persons with disabilities, and furthermore to create truly barrier free universities where Deaf students can study alongside hearing students.
著者が勤務する保険薬局(以下,「薬局」と略)にも,手話を第一言語とする《ろう者》の患者さんが数名来局されている.あるとき,著者が手話で対応していたろう者の患者さんと,新しく追加処方された薬の話題になった時に,「(新しい薬は)必要ない.飲んでいない.いっぱい溜まっている」という内容のことが出てきた.新しい薬が追加された時,及びその後十数回にわたって対応してきたのは著者でなく他の薬剤師であった.対応した薬剤師の一人は,マスクをはずして口の形が見えるようにするなど,工夫して対応した時もあったようだが,その患者さんが著者に訴えたような問題は認識されておらず,薬歴を数か月たどっても「Do.特変なし,コンプライアンス良好」との記載が続いていた.何故こうした問題が起こるのかを検討した.
1.【ろう者の患者さん-医療従事者】間の大きなギャップ著者は2013年から,ろう者の医師や薬剤師,また手話に長けている薬剤師や看護師らと共に,《ろう者向けのお薬相談会》の一端を担ってきている.
その中で,多くのろう者の『服薬状況や体調,気持ち』が,医療者側にほとんど伝わっていないこと,また,医療者側からの「説明」がほとんど伝わっていない現実を感じてきた.「1日2回/1回1錠」などの意味などがつかめず誤った用法用量で続けていたり,頓服の用法を誤って解釈し副作用が生じていた例もある.また,手話ができない医師や薬剤師に,気楽に相談することができず,自己判断で服薬を止めてしまったろう者も多数いる.
2013–2017年の5年間に,《ろう者向けのお薬相談会》に訪れたろう者のデータをまとめてみると,実に全体の90%以上の人々が「手話で訴える」,「手話で尋ねる」,「手話で説明をもらう」などができないために,「自分がどういう病気か,自分がもらった薬がどういう薬かわからないまま」,そして「私たち医療者側への疑問や不安を抱えたままでいる」,という現実が浮き彫りにされた1) (図1).
ろう者向けお薬相談会のまとめ(2013–17年)
また,2002年に滋賀医科大学で,ろう者と医療従事者,手話通訳者などとのコミュニケーションに関連する調査が行われた.それによると,90%を超える医師が「ろう者の患者さんに十分対応できている,十分伝わっている」と受け止めている.その一方で,その場に立ち会っていた手話通訳者のほぼ90%が,「ろう者の患者さんに対する『医師の対応が不十分』だ」と回答している2–4) (図2).
医療現場における手話通訳を介したコミュニケーション問題 滋賀医科大学医学部(2002年)
医療者側の「思い込み」とは逆に,実際に,ろう者の患者さんに病気や薬の説明がほとんど伝わっていないという現実がある.そして,そのためにろう者の患者さんが生命を落とすまでに至った例も,現実に何例もあるのである.
2.ろう者のコミュニケーションこのような問題を解決してゆくためには,なによりも,ろう者のコミュニケーションの実態を知らなければならない.まず,唇の動きで内容を読み取る〈口話(こうわ)〉は,大変難しいものである.かつて日本では手話に対して「劣ったもの」だという認識が広く浸透していたため,ろうの子どもへの教育は,長い間手話を禁止し,発声訓練や「口話」に力を入れようとしてきた.だが,生まれつき耳の聞こえないろう者に,聴者(聞こえる人々)の使う音声での会話に合わせられるようになれということは,果てしなく困難なことであった.
日本語の場合,母音(a, i, u, e, o)は口の動きははっきり異なっているので区別しやすい.ところが,子音(k, s, t, n, h, m, y, r…)の口の動きは大変区別しにくい.
たとえば鏡に向かって「タバコ」と「タマゴ」,「白(シロ)」と「黄色(キイロ)」,あるいは「おにいさん」と「おじいさん」と,声を出さずに口だけ動かしてみると,口の動きがほぼ同じであり,区別しにくく,口話だけで読み取ることの困難さの一部を理解できる.上記のように口の動きが区別できない単語は無数にあるために,ろう者と聴者との口話によるコミュニケーションは,会話の内容を把握する上でたいへん難しい.この事実について,ほとんどの医療者が今も知る機会を持たないままなのであることも大きな問題である.
また,筆談が苦手なろう者は多い.その原因の一つに,《日本手話》と《書記日本語》の“文法上の違い”がある.
その一例を挙げると,「AがBに電話した」と「AにBが電話した」の違いは,日本語では助詞(が,に)で区別する.だが,《日本手話》ではこうした形の助詞はない.〈電話〉という手話を,「A→B」と動かすか,「A←B」と動かすか,その空間を使った動きの違いで区別する(図3).
手話の文法の一例
故に,《日本手話》を第一言語とするろう者にとって,日本語の助詞は非常に把握しにくいのだ.これは一例である.文法上の違いは,他にも多くある.
また,そうした,言語の文法上の問題だけにとどまらず,聴者が普段何気なく使っている「言い回し」がろう者には伝わらないという問題もある.
例えば,医療現場で患者さんに対してよく出る質問に「お変わりないですか」といった問いかけがある.この日本語は実に幅広い意味に使われる.手紙の中で使われる時は,あなたの生活や周囲の人々の状況に大きな変化はないでしょうかといったニュアンスが強い.
一方,医療現場で問われる時は,体の状況や病気の症状に何か変化はありませんかといったニュアンスが中心だろうが,その他にもさまざまな意味を含んでいる.薬はきちんと服用しているか,副作用は出ていないか,気持ちの波は大きく揺れたりしていないか,また更には生活状況に何か変化はあったかなど,実に幅広い意味を含んだ大雑把な「問いかけ」なのである.
日本に暮らすおとなの聴者にとっては,この大雑把さはお互いに周知している約束事であり,わざわざ何について聞いているのかと聞き返したりしない.だがそうした日本の〈聴者文化〉に馴染みのない外国人は,こうした問いかけに直面すると,多くは戸惑う.体温の変化を聞いているのか,腹痛や頭痛の状態を聞いているのか,何の変化について尋ねられているのかがつかめない.手話という〈視覚言語〉と外国語〈音声言語〉では異なる部分もあるが,聴者の会話に馴染みの少ないろう者も,外国人に近い状況にある.変わりはないかと尋ねられ,その言葉自体はかろうじて読み取れたとしても,質問の趣旨がつかめず,どう答えたらよいか戸惑ってしまう.
また,聴者の場合は,他の患者さんが待合室や薬局のカウンターなどで,医療者とどのようなやり取りをしているのか自然に耳に入り,それが暗黙の了解としてのいわゆる「常識」を形成してゆく.しかし,それが〈音声日本語〉のみで構築されている中ではろう者はそうした経験を持てず,「常識」を共有することが困難である.
ろう者は上記のような「言い回し」の問題だけでなく,何をどこまで話したらよいのかつかめず,聴者と深いコミュニケーションを持ち得ないといった問題もある.言語は,意思疎通手段にとどまらず,それを使う人々の立ち居振る舞いや常識など文化様式を形成する基礎でもある.上述のようなろう者と聴者との“ギャップ”は,言語・文化の異なりに基づく“ギャップ”でもあるのである5).《日本手話》は独自の文法を持つ一つの「言語」であり,多くのろう者にとって「第一言語」である.〈音声日本語〉や〈書記日本語〉は第二言語にすぎず,それらでは十分な意思疎通はできないという現実を医療者側が認識する必要がある.
3.ろう者の患者さんらの苦闘口話や筆談ではなく「手話でないと意味がつかめない」「手話でこそいろいろな訴えができる」というろう者は多い.これはろう者の努力不足ではなく,言語の違うろう者に対応してこなかった医療者側の問題である.冒頭のような「打ち明け話」も,《手話》という同じ言語での会話だからこそ,その相手の薬剤師を信用して話そうと思えるのであり,薬剤師の側としても会話の中で必要な情報が得られるのである.
だが,医療者の中で十分会話できる手話力を有している人はまだ大変少なく,その手話の必要性を学ぶ場がほぼ無い状況である.そうした中,ろう者はやむを得ず,マジョリティ側の医療者の〈筆談〉,〈口話〉及び〈聴者の文化〉に,無理にでも合わせざるを得ない状況にある.
前述したように,ろう者は,〈筆談〉も〈口話〉も意味がつかみにくい.懸命に意味をつかもうとしても,「白い錠剤」を「黄色い錠剤」と間違って読み取っているかもしれない.「AがBに」ではなく,「AにBが」と間違えて把握しているかもしれない.
わからなければ聞き返せばよい,確認すればよい,と思われるかもしれない.だが,聴者に合わせて一生懸命声を出しても,なかなか聞いてもらえない.必死に書いても,日本語ではなく“日本手話の文法”に合わせた文章になっており,聴者には読みにくい.
そして,かろうじて質問を伝えられたとしても,それに対する医療者側からの返事は,またしても,ろう者にわかりにくい〈筆談〉や〈口話〉が繰り返されるだけである.
わからないことが多くあっても「聞き返す」ことは心理的にも困難で,あきらめて,そのままにするしかない.ろう者の患者さんとしての“訴え”が医療者側にはほとんど伝わってきていない.一方,医療者側は,質問がないことから「十分伝わった」と思い込んでしまうため,医療側の伝えたい内容がろう者にほとんど伝わっていない.
この問題を指摘する声は以前からあったにもかかわらず,それに対応してきたのはごく一部の人々にとどまり,全体の状況はあまり変わっていない.その重要な原因の一つに,過去から現在にいたるまで,医療現場だけではなく,社会全体に障害者を無視/軽視する傾向が存在することが考えられる.
国際的な人権水準で言えば,聞こえる聞こえないに関係なく,誰でも同じ情報を得ること,誰もが “真の意味で「平等」に扱われること”をめざす方向に向かっている.
しかし過去から現在にわたり,医療界は障害者を平等に扱わず,時には結果的に排除してきた事実がある.そのことをはっきりと認識しなくては,本論文の冒頭で示したような問題は解消されてゆかない.以下に述べることはいずれも,医療者側がろう者の背景を知り,ろう者の患者さんとのコミュニケーションのズレの背景・原因を踏まえて,そのズレを解決してゆく上で不可欠なことがらである.
1.新型コロナウイルス感染症(COVID-19)対応とろう者2020年4月新型コロナウイルス感染症(以下,「新型コロナ」と略)の対応の中で,各都道府県の知事会見で知事自身も口の動きが見えるようにと,記者会見の時はマスクをはずして臨むようになっている.さらに,知事会見に手話通訳がつくようになった.
これは「健康や命に関わる情報を,誰もが同時に受け取れるようにしなければいけない」(福岡県),「会見内容は文書化して県のホームページに掲載するが,時間差がある.知事が県民にお願い事をすることもあり,全ての人にすぐに伝えることを考えた」(兵庫県)6) など,命に関わる日々の感染関連の情報をろう者に迅速に届けるために実施されるようになったのである.2020年5月25日には,全国47都道府県のすべての知事会見に手話通訳が設置されるようになった.
ところが,放送されるテレビに手話通訳はほとんど映されていない.新型コロナ問題で諸外国のテレビニュースではどのように扱われているかを見ると,多くの国がテレビ画面の半分を手話通訳者が占めるような構図で放送している.ドイツやオランダ,デンマークなどでは手話通訳者が画面の半分以上を占め,発言者(知事あるいは政府関係者等)の方が小さく映されている7,8) (図4).
新型コロナウイルス感染症(COVID-19)関連記者会見での諸外国の手話通訳実施例
この構図であれば,ろうの当事者から手話通訳が非常に見やすくなる.ろう者(障害者)をも健常者等と同じように尊重しているかどうかが,こうした手話通訳の扱いにも表れている.医療界におけるろう者・障害者軽視の傾向も,そうした背景の下にあるのである.
2.医療関係の「欠格条項」とろう者医師法,薬剤師法などには,2000年まで「ろう者などは医師や薬剤師にはなれない」とする条項があった.厚生省(当時)は,この条項について「人の大切な命を預かる仕事なのだから,患者さんと直接のコミュニケーションが持てない人は,医師などの資格は持てない」と説明していた9) (図5).
ろう者の患者さんの訴えを聴けない医療従事者
この「患者さんとの直接のコミュニケーションが持てない」ということの意味を考えてみる.
〈聴者の医師・薬剤師〉の場合,すべての患者さんと「直接のコミュニケーション」を持てるのかというと,そうではない.ろう者の患者さんに対するときは,手話通訳などを介してコミュニケーションをとらざるをえない時もある.
だが,聴者が医師・薬剤師(または,医師・薬剤師志望者)である場合,「患者さんと直接のコミュニケーションを持てるかどうか」は問題にされない.患者さんがろう者で手話通訳を頼むとしても,それで医師・薬剤師としての能力が疑われることはない.
では,〈ろう者の医師・薬剤師(または,医師・薬剤師志望者)〉の場合はどうなのか.いうまでもないが,同じ〈ろう者の患者さん〉とは「直接のコミュニケーション」はとれる.聴者の患者さんの対応をするときには,手話通訳などを介してのコミュニケーションとなる.そして,ろう者が医師・薬剤師を希望する場合だけ「(すべての)患者さんと直接のコミュニケーションを持てなければ医師や薬剤師の資格は得られない」という理由で資格から排除されていたのである.
まとめると,「患者さんと直接コミュニケーションがとれない」状況は,聴者にもろう者にも生じるにもかかわらず,また「〈患者がろう者〉なら,〈ろう者の薬剤師〉が直接コミュニケーションをとれる」にもかかわらず,〈ろう者の医師・薬剤師〉にだけ「患者さんと直接コミュニケーションがとれない者」というレッテルが貼られ,医師や薬剤師の資格から排除されてきたのである.(その結果,ろう者の患者さんが長年的確な服薬指導を受けられないという悪影響まであったことに,長年気づかれないできた.)
こうして欠格条項の問題を通して提起されたことは,医療者側としても,患者側としても,“ろう者の存在”はほぼ考慮されず,“聴者(健常者)のことしか想定してこなかった視点”の問題である.そして,その視点は欠格条項撤廃後も医療界に広く残されている.そのことは,あくまでも〈音声日本語〉を中心として〈日本手話〉を軽視する傾向として続いているのである.それが医療側とろう者の患者さんの,今も続くズレの背景の一つとなっている.
3.旧優生保護法の下でろう者に行われてきたこと旧優生保護法とは,ろう者をはじめとする障害者に対し,本人の意思を無視して不妊・断種手術をしてもよいとする法律である.本人の知らない間に他の手術と偽って,あるいは麻酔で眠らせて手術してしまったケースも多い.厚生省(当時)はこうしたやり方を認める通知まで出していた.まさに人権を無視したこの法律は,1996年まで存続した.旧優生保護法の最大の問題は多くのろう者から「子どもをもつ権利」を奪ったことであるが,「本人の意思」をまるごと無視して医療が行われていたことを示すものでもある.
全日本ろうあ連盟が,2018年から行った実態調査では,判明しただけで168名ものろう者(2020年3月31日時点)がこの強制不妊手術を受けさせられている10).
家族のみの合意によって手術が行われ,ろう者本人は自分が不妊手術を受けさせられた事実をその後も長い間知らされなかったケースも少なくない.これは,“ろう者の患者さん本人”ではなくその家族や通訳者とだけ話して医療を行うことが常態化していたことを示すものでもある.
2020年6月25日,日本医学会連合の旧法検証のための検討会が,「医学・医療関係者が旧法の制定に関与し,運用に携わり,人権思想浸透後も法律の問題性を放置してきたことは誠に遺憾」であり,「深い反省と被害者らへの心からのおわびの表明」を提言する報告書を公表した.
「法律の問題性」という時,不妊/断種の問題がまずあるが,対象者本人の意思を無視して強制不妊手術を施行した問題も大きい.本人無視の医療行為は,どのような場面であっても極力排除してゆく必要がある.
4.今も続く優生思想旧優生保護法は,ろう者・障害者の存在価値を法律上も否定するものであった.2018年になって厚生労働省が謝罪し,救済法(一時金支給法)も作られているが,今もまだいくつもの裁判が係争中である.その一方で2016年には,障害者施設で元職員が「意思疎通のできない障害者はいない方がよい」として19人もの障害者を惨殺した相模原事件が起こっている11).相模原事件の被害者は知的障害者であったが,(健常者が)「意思疎通できる」ことをもって命の価値を定めるような価値観がいまだ存在することは,ろう者にとって無縁ではありえない.
2020年のコロナ禍でも,「命の選別」という問題が浮かび上がった.アメリカのアラバマ州などの一部の州では,「重度または最重度の知的障害,中等度から重度の認知症,または持続的な植物状態といった重度の精神的合併症の人々は人工呼吸器の補助の対象になる可能性が低い」とするガイドラインが作られた12).また,イタリアのロンバルディア州の地元の新聞では,一部の病院で,「70歳以上の患者さんに対しては,大量のモルヒネを投与して安らかに逝っていただく」措置を取っているという内容を報じている13).
現場では「命の選別」を迫られる場面はあるだろうが,その優先順位を前もって“他者”が決めてしまうことで良いのか,患者さん本人の自己決定権はどうなるのかを,我々も真摯に考えてゆかねばならない.
ここまでの記述で,過去から現在まで,社会の中で障害者の“尊厳”が認められてこず,医療界の中でも,ろう者・障害者と直接のコミュニケーションを持つことに消極的な状況があったことが明らかになったであろう.
これを改善するためには,薬剤師界の中でも薬剤師養成の課程から「社会モデル」(後述)の視点をもって合理的配慮を行える薬学生を育成してゆく必要がある.そして,それは障害学生の抱える問題を解決してゆくこととも深く結びついている.
1.「障害の社会モデル」の意味するもの2014年に日本も批准した,国連の障害者権利条約14) は,障害者が困難に直面するのは「社会的障壁」が原因であり,それを除去するのは社会全体の義務であるという「障害の社会モデル」の考え方に基づいている.
高い場所に行くのに階段だけしかなくスロープなどが設置されていない場所で,行動を制約されてしまう人々がいる.それは車椅子を使っている肢体障害者だけではない.足腰の弱っている高齢者,ベビーカーを押している人等々も含まれている(図6).これを「その人“個体”が障害を持っている」と捉えるのではなく,「“社会や街の構造”によって行動を制約されてしまう人々」がいる,と捉えるのが「障害の社会モデル」である.言い換えると,社会や街の構造により行動を制約される人が「障害者」なのである.
障害の社会モデル(新しい障害者観)
そうした物理的なバリアだけではなく,法や制度,慣習なども含めて,ハード面/ソフト面合わせたバリアが「社会的障壁」である.こうした社会的障壁は,社会全体の責任において取り除かなければならないと考えるのが「社会モデル」である15,16).
この「社会モデル」の考え方は,1970年代から世界各地の障害当事者運動の中で徐々に形成されてきたものであり,今では世界的に主流となっている.
2.「社会モデル」はみんなのもの障害者に限定せず,さまざまな人々の行動を制限する障壁が取り除かれ,権利が平等になることが,障害者権利条約の目的であり,本当の意味の「バリアフリー」(社会的障壁の除去)であると考えられている.
著者は,手話にしても,最初は「ろう者と話すため」に覚えはじめたが,ろう者以外の人々との関係においても,自身の大きなプラスになっている.それは,コミュニケーション「手段」を一つに限定してしまうのではなく,時には身振り・表情,時には絵,時には文字盤…等々,相手に応じてさまざまな方法で向き合ってゆく重要さに気づかされたからだ.
薬局にはさまざまな人が来局される.ろう者の患者さんだけではなく,知的障害者や高齢者などの患者さんも含めて,どうすれば相手の伝えたいことを自分が受け止められるのか,またどうすれば相手に伝わるのかを鍛えられ,考え実践する幅が広がってきたと思う.
聞こえる人も含めて,もっと多くの人が当たり前に手話でも話せる環境が実現すれば,ろう者が直面する困難は大きく減少するはずである17).
「障害の社会モデル」に基づいて障壁を除去するのは,特定の人のためだけではない.エレベーターが車椅子ユーザーだけのためではなく,他の多くの人々にとっても助かるものであるように,テレビの字幕などや,病院などの呼び出し番号の表示などが,「聞こえない人のためだけ」ではなく,「他の多くの人々にとっても必要なもの」であるように,「『障害をもつ患者さんのため』に『特別なこと』をやってあげる」ということではなく,“どんな患者さんでも安心して受けられる医療”を考えることが重要なのだ.
そのためには,階段だけではなくスロープも作る,音声だけではなく目で見ることもできる表示をつける,あるいは逆に,視覚情報だけでなく音声情報も用意すること,ひたすら早く進めることだけが必要なのではなく,それぞれのペースに合わせて進めることが大切なのだと,そうした人々の多様な在り方を柔軟に受け入れてゆく,そうした姿勢を持ち実践してゆくことが,求められている.
3.聴覚障害学生と障害の「社会モデル」聴覚障害の学生が大学の講義を受けることについて考えてみよう.前述の「社会・環境が障害を作っている」とする「障害の社会モデル」に対して,「不利益の原因は個体が有する障害(impairment)にある」とする見方を「医学モデル」と呼ぶ(図7).
障害の医学モデル(今までの障害者観)
例えば,「ろう学生が講義に出たいが手話通訳がない」という状況で考えてみると,「耳が聞こえないから参加できない」と考えるのが「医学モデル」であり,その場合,ノートテイカーを用意することは,その聞こえない学生だけのための「例外的で,恩恵的な,特別措置」とされる.
「社会モデル」の考え方では,多様な参加者が誰でも参加できるよう,ノートテイクや手話通訳は講義の時間帯だけでなく「本来用意すべきこと」となる.それをしないことで誰かを排除することは許されないと考えるのだ.今の社会が作り出している「バリア」を少しでも緩和するための「一手段」にすぎないという認識が大切なのである.
どんな障害のある学生も,「社会的障壁」にさえぎられたり,必要以上の負担を担わされたり,周囲に合わせることを強いられることなく,有意義な学生生活を送れるような大学やキャンパスを考える時,こうした「社会モデル」に基づく合理的配慮を徹底させてゆくことをもっと真摯に,積極的に考える必要がある.
4.薬学部の障害学生と「障害」のある患者さん最後に,なぜ薬学を学ぶ学生が「障害の社会モデル」の考え方を学ぶ必要があるのかをまとめたい.
2014年の薬機法等改正の中で「調剤時のみならず,薬剤の服用期間を通じて,必要な服薬状況の把握や薬学的知見に基づく指導を行う」旨を薬剤師法上で義務化することが決められた.つまり,患者さんが適切な服薬を続けられるように指導することは薬剤師の重要な責務であるが,その患者さんの中には,障害のある人々も当然含まれている.
手話のできない薬剤師が,手話を必要とする「ろう者の患者さん」に対応しても,その患者さんの状況の把握ができず,患者さんの背景に合わせた適切な指導をすることができない.そのため,間違った服薬を続けてしまい,手話のできる薬剤師が対応するお薬相談会に足を運んで初めてそのことを知るろう者の患者さんが多くいる.すなわち,ろう者の患者さんは「調剤時のみならず,薬剤の服用期間を通じて」状況の把握や指導を受けることができていないと考えられる.
薬学生が,そうした障害者の患者さんと出会ったこともなく,対応の仕方などを現場に出てから個々の努力によって身につけてゆこうとしても大きな困難がある.まず,教育の中で学生も教員も一人一人が「社会モデル」の視点を身につけられるよう,薬学教育のあり方そのものを考える必要があると思われる.
多様な人々と出会わないまま,障害者のことを〈医学モデル的な視点〉でしか学ばないまま現場に出て,そこで初めて,障害者の患者さんや障害者のスタッフなどと出会ったとしても,どう接すればよいのかわからないだろう.おざなりになってしまったり,自分だけを基準にコミュニケーションをとって「伝わったつもり」になってしまうことにならないだろうか.患者さん本人とではなく,通訳者や介助者,あるいは付き添いの家族とだけ話してしまう事例が多いが,それで満足してしまっていないだろうか.
患者さん本人の状況や気持ちを把握して適切な指導を進めるためには,通訳者・介助者・家族と話すのでなく,あくまでも本人と直接話すことが望ましい.しかし教育の場でその必要性や具体的な方法を学んでいなければ,どうしてよいかわからない.著者個人の経験になるが,大学時代は障害者の人々と出会い,きちんと向き合う経験はまだ少なく,第1,2章に述べた内容を大学時代はほとんど知らなかった.卒業後にろう者,障害者と向き合う経験を重ねる中でようやく知ることができ,さらにろう者,障害者とのかかわりを深めてゆくこととなったのである.大学時代にそうした機会があればと悔やまれる.
薬剤師養成教育において障害当事者の人々を招き,その訴えと向き合い,少しでも接する時間を作ることも含めて,障害者の現状,障害者の訴え(特に医療との関わりなど)をきちんと受け止め認識し,学生が自らに何が必要なのか(欠けているのか)を考えてゆくことが,薬剤師を育ててゆく上でこれから更に必要であると考える.
すでに,鳥取大学医学部では,障害者とのコミュニケーションを重視しており,2008年度より「基礎手話」が医学科の必修科目となり,さらに翌年からは「医療手話」が選択科目に組み込まれている18,19).
障害者権利条約において手話は正式に「言語」であること,また「情報アクセシビリティ」が重要な人権であることも明記されている.
対象とする患者さんの中にその「言語」を必要とする人々(ろう者)も存在する以上,鳥取大学医学部と同じように医療系の大学で必須科目として学ぶ場が必要であり,薬学部でもそうした取り組みを全体で広げてゆくことが必要であると考えられる.
2000年に絶対的欠格条項が撤廃されてから20年が経ち,薬学部に進学する聴覚障害学生は増えてきている.2016年には障害者差別解消法が施行され,学習の場でも合理的配慮は原則として義務となっている.だが,未だに大学の障害者への理解は十分ではなく,聴覚障害学生は十分な情報保障を受けられずにいる.
筆談,ノートテイク,手話などを,「障害学生のため」に「特別なことをやってあげる」と考えるのではなく,誰もが平等に大学教育を受けるために,全体にとっても必要なことなのだという認識を,大学または薬学部全体としてもつことが重要である(図8).
公正な医療にむけて必要な教育
そのためにも,①障害者の患者さんにもきちんと向き合える薬剤師を育てるための教育内容と体制を構築し,そして同時に,②障害学生に対する理解を“全体”が持ってゆくこと.この二つは別々のことではなく,密接に結びついた課題だと思われる(図9).
これからの教育・医療に必要なこと
ここでは「障害者(主にろう者)」のことを中心に述べてきた.だが,「障害者」の枠にとどまらず,外国人や性的少数者など,さまざまに制約を受けている人たちのことも含め,普遍的な人権学習を行うことが,薬学生の質を高めてゆくだろう.ユニバーサルに対応ができる薬剤師を育てる理念とカリキュラムが,薬剤師養成のスタンダードとなり,今後の「本当の医療」に不可欠になることを,期待している.
発表内容に関連し,開示すべき利益相反はない.