「転倒で仕事を失った」,「腰を痛めて現役を引退した」,産業保健分野で活動する理学療法士として,こうした声を何度耳にしてきたでしょうか.ある工場での事例では,わずかな段差での転倒,ある介護施設ではムリな抱え上げ介護が,そうした悲劇を生み出していました.加齢に伴う身体機能の低下は誰にも訪れるもの.しかし,それが労働災害に直結するのは,決して「年のせい」だけではなく,対策されてこなかった職場環境や作業管理の課題であることもしばしばです.
厚生労働省の統計によれば,60歳以上の高年齢労働者における労働災害件数は,ここ数年増加傾向にあります.転倒や腰痛といった災害は,一度発生すると,その労働者の人生を大きく変えてしまいます.「まだ働きたい」という想いが,たった一度の事故で失われる現実を,見過ごすことができません.
転機は,2026年4月に訪れました.改正労働安全衛生法により,高年齢労働者の労働災害防止が事業者の努力義務として法制化されたのです.これまで,高年齢労働者の安全対策は事業者の自主的取り組みに委ねられてきましたが,人口減少と労働力不足が深刻化する中,「働き続けられる職場環境」の整備が社会的急務となったのです.これは単なる努力義務化ではなく,社会全体が「生涯現役社会」の実現に向け,本気で動き始めるシグナルなのです.
ここで問われるのは,理学療法士の役割です.これまで,多くの職場では「注意喚起」や「体操指導」にとどまってきました.しかし,それだけでは不十分です.厚生労働省の指針が掲げるのは,身体機能の評価に基づく具体的な対策,個々の労働者の体力測定,危険要因の特定,環境改善(照度・段差・滑りやすさ等),作業管理の見直しといった複合的なアプローチです.これらは理学療法士の専門性が活かせる領域なのです.
身体機能の低下を正しく評価し,危険因子を特定し,職場環境を改善する.体力測定から作業管理の見直しまで,複合的かつ継続的な支援を行う.その先に,労働者が安心して働き続けられる職場が生まれます.注意喚起ではなく,科学的な根拠に基づいた実践的な対策,それが理学療法士にできる役割です.
私たちが目指すべきビジョンは明確です.年齢に関わらず,すべての労働者が自分の身体機能を理解し,それに見合った環境で安全に働き続けることができる職場.そして,最後まで「現役」でいることを実現できる社会.
2026年4月の法改正は,その実現へ向けた大きなチャンスであると同時に,理学療法士に課せられた重要な責任でもあります.産業保健分野で活動する理学療法士は,単なる「運動指導者」ではなく,職場全体を俯瞰し,多職種と連携しながら,労働者の人生を守る「労働衛生のプロフェッショナル」である時代が来たのです.
いつまでも働ける環境づくり,いつまでも働ける身体づくり,その両輪を私たちの専門性で実現しましょう.
(日産保理誌,4(1):1‒1,2026)