抄録
本研究において、“翻訳”という言葉は、次に挙げる、関連するがしかし個々別々の三つの出来事を指している。すなわち、1) 明治以降、英国パブリック・スクールに端を発しアマチュアリズムを精神的支柱とした近代スポーツが輸入される中で、各種武術が、学校式教育法を基盤とし武士道を精神的支柱とした武道として再構築されたが、この過程において、段級制度が、以前より日本の身体文化を支えて来た家元制度から切り離され、武道という近代スポーツを支える装置として〈再定義〉されたこと。2) この段級制度が、スキーのような純然たる外来スポーツの〈輸入〉に転用されたこと。そして、3) この段級制度の活用によって、ブルジョワ・スポーツの最たるものであったスキーが大衆スポーツとして〈読み替え〉られて行ったこと。この三つである。
これら三つの“翻訳”を通じて、私は、スポーツと社会の関係に対するジョン・ハーグリーヴズの見解を裏付ける事例を見いだしたと信じている。彼のヘゲモニー理論は、上部構造/下部構造の図式に捕らわれ硬直したマルクス主義イデオロギー理論の批判から生まれたものだが、スポーツを、宗教や政治や、果ては経済とも同等の社会実践と解釈することで、それを資本主義社会における大衆のアヘンとして見下す態度や、反対に普遍的な人間形成の一助として手放しで評価する態度の両方から我々を解放するものである。
なお、本論文はスポーツの脱・進化論的な歴史記述としても読み取れるが、そのある種弁証法的な配列の中で、自民族中心主義の温床である「日本特殊論」の一神話が脱構築されているとしても、それは偶然ではない。