本論文は、プロセスと関係性の哲学と呼ばれるA. N. ホワイトヘッドの有機体の哲学の観点から、経営哲学とは何かを考察した試みである。この論文は、2023年に名桜大学において開催された経営哲学学会の統一論題「『生命の尊厳』―ぬちどぅ宝(命は宝)と経営哲学―」のセッション「生命の尊厳と経営哲学―沖縄で考える経営哲学―」の提題を基にしている。この統一論題の主題は、経営哲学を人間の営みについて根源的に問う学問と理解し、人間の営みを「生命の尊厳」まで立ち返って問い直すことであった。本論文ではまず、ホワイトヘッド哲学における「生命」概念を、メスリや山本誠作らの議論を踏まえて「自己創造的な被造物(self-creating creature)」と捉え、自らの環境世界によって作られながらその環境世界を作り出すことが有機体ないしは生命の特徴であることを示した。自己の住む世界を作り出していく生命の営みのうちに、島袋嘉昌が重視した経営における価値認識の問題があることを指摘し、人間存在における価値や創造性の問題を「私たちは何ものでどこから来てどこに行くのか」というパスカルやゴーギャン、ベルクソンの問いに沿って考えながら、生命の尊厳に根ざして文明社会を作り出していく価値創造活動として経営を捉えようと試みた。環境世界と有機体のあいだの価値創造的な関係性を人間存在にあてはめると、村田晴夫の提唱する階層システム性が浮かび上がり、人間による創造プロセスを環境世界における有機体的な組織の価値の実現と享受と理解すると、村田晴夫の組織倫理学の主題が浮かび上がるということを示した。そして、現代の企業文明の根底にある人間の価値実現の営みや、さらにその根底にある生命の尊厳まで射程に入れつつ経営を論じるところに、深い意味での経営哲学の必要性があると結論づけた。
はじめに、統一論題テーマ「「生命の尊厳」と経営哲学」について本論文の立場を述べておきたい。「生命の尊厳」とは何か、そして経営哲学とは何か、ということを哲学の立場から考えてみることが、2023年に名桜大学において開催された経営哲学学会の統一論題「『生命の尊厳』―ぬちどぅ宝(命は宝)と経営哲学―」のセッション「生命の尊厳と経営哲学―沖縄で考える経営哲学―」に招かれた筆者の位置づけだと思われる。また、経営哲学を「広い意味での人間の営みを根源的に問う学問」と理解したうえで、人間の営みとは何かということを「生命の尊厳」まで立ち返って問い直すことが、この統一論題のテーマの主旨と捉えれば、まず明確にしておきたいのは、これらの問いが問われる「場」である。それをビジネスや生産・流通・消費の現場で問うのではなく、一歩引いてアカデミズムの場で問うということが研究者の立場であるとして、ここではさらに、この問いを哲学の思考の中で問い返してみることが求められていると考えられる。具体的には、筆者はホワイトヘッドの哲学を研究してきたので、ホワイトヘッドの有機体の哲学の立場から考えてみたい。ただし、ホワイトヘッドの有機体の哲学は非常に難解だと言われるので、それをメスリらがより自由に読み解いた「プロセス・関係性の哲学」という立場から考えることにしたい。
まず、この統一論題の主題となっている「生命の尊厳」とは何かについて考えておきたい。そもそも「生命」とは何か。
ホワイトヘッドの有機体の哲学において、生命とは何かということはさまざまな議論を通して考察されているが、一つの典型的な捉え方として「自己創造的な被造物(self-creating creature)」という生命理解を挙げることができる。山本誠作はこのホワイトヘッドの「自己創造的被造物」という生命理解を西田幾多郎や田辺元らの京都学派の哲学を手掛かりにしながら、「プロセス」、「場」、「関係性」、「我と世界」といった観点から解釈して、ホワイトヘッド哲学の核心を端的に「それ自身の世界におかれて被限定即能限定的に自らを作っていく」(山本, 1991, p.146)というプロセスとして一切の事物や出来事を考える立場だと言っている。つまり、作られつつ作ることを通してそれ自身を作るのが生命・有機体だということである。
さらに山本は付言して、このように個々の生命・有機体は、それ自身の世界に置かれその世界によって作られつつそれ自身を作ることを通して、それが置かれた世界を作っていく、と言っている。この付言は重要である。山本によるホワイトヘッド解釈の要点は、自らの環境世界の中に置かれてその世界の中の諸事物や諸出来事との関係性の中で作られつつそれ自身を作っていき、その営みを通してそれ自身が置かれた世界を新たに作っていくのが生命・有機体だ、ということにある。
生命とは、関係性の中に限定され作られつつ自己を実現していくことを通して、それ自身が生きる関係性を改善し作り直していくという営みをなすものだということであり、ホワイトヘッドはそのような生命の営みを人間や動植物などの生物だけでなく、一般的には生物と見なされていないような無機物やそれらの複合体である組織や社会まで含む、この世界に生起し存在する一切をこのような生命の営みをなす有機体と捉えている。このような汎生命主義的な宇宙観に基づいて有機体の営みをプロセスと関係性という観点から考察する哲学を提唱したのがホワイトヘッドであり、彼はそれを「有機体の哲学」と称した。
山本は、作られたものが作るものを作るという西田の言葉を手掛かりにしながら、西谷啓治が「ある」-「なす」-「なる」の体系において歴史的世界を捉える論理を示したのに対してホワイトヘッドは「なる」-「なす」-「ある」のプロセスにおいて現実世界とわれわれの自己を捉える論理を提示したと言っている。つまり、自己が自己になっていくプロセスの中に行為や活動や創造性があり、その産物として存在があるというプロセスの哲学の立場を山本は「なる」-「なす」-「ある」と表現する。山本と同様に、メスリは、ホワイトヘッドの有機体の哲学を、自己が世界の中に置かれて他者との関係性の中で自己自身となっていくという、関係性の中での自己実現のプロセスを強調する「プロセス・関係性の哲学」として理解している。つまり、一切が関係性の中で生成するプロセスであり、それこそが生命の本質だという立場である。メスリは、このような観点に立つ哲学を「プロセス・関係性の哲学」と呼んで次のように述べている。「私はプロセス・関係性の哲学者だ、なぜなら私が気にかけている一切がプロセスと関係性の中にあるのだから」(Mesle, 2008, p.x)
2.2 「生命の尊厳」とは?この「プロセス・関係性の哲学」という立場から、「生命の尊厳」を考えることができる。山本やメスリが示したように、ホワイトヘッドの有機体の哲学における生命とは、(1)関係性の中で自己を実現し享受するプロセスであり、(2)価値を実現し享受するプロセスであって、したがって(1)+(2)生命とは関係性の中で実現された価値を享受しつつ、他との関係性の中で自己の固有の価値を実現するプロセスだといえる。
ホワイトヘッドの基本的な立場は、価値を実現し享受するプロセスそのものに唯一的でかけがえのない価値があることを前提としながら、そのような唯一的で代替不可能な価値実現のプロセスを論究する彼自身の哲学が「現在の瞬間における独我論」に陥らないために、そのプロセス自体が他のプロセスとの関係性の中で生じているという「関係性の具体的事実」に迫ろうとする立場である。彼の見解によれば生命が実現し享受する価値とは、その生命自体に固有の個別的な価値であるとともに、その自己を生みだす他との関係性の中で生起する価値であり、その関係性の全体(その個にとっての現実世界の全体)がもっている価値を焦点的に具現している価値である。たとえば、一輪の野の花が、天地万有の美を焦点的に具現しつつ、天地のはざまに受容されてその美を完結している様をホワイトヘッドは次のように描いている。
「宇宙には価値を享受し、そして(その内在性によって)価値を分有している統一体がある。例えば、原生林の中のある人里離れた沼地に咲く花の玄妙な美しさをとりあげてみよう。どんな動物といえども、その美しさ全体を享受する玄妙な経験をもつものはいなかったはずである。それでも、この美しさは宇宙における荘厳な事実である。」(Whitehead, 1938/1968, pp. 119-120)
1つの個物の実現している価値のうちにその個物が置かれた宇宙全体がその個物のパースペクティブにおいて映っているという感覚は、「全体にとっての細部の価値感覚」(Whitehead, 1938/1968, pp. 120)と呼ばれ、また「歴史的事実の全体性の価値感覚」(Whitehead, 1938/1968, pp. 199)とも呼ばれる。たとえどのような細部の一契機であっても、それはその有限の直接性を超えて全体的なものとの歴史的な関連性の中でその固有の価値を実現しているのである。一輪の花には、その花に固有の美しさがあるとともに、その美しさは、その花をそのように咲かせている世界全体のさまざまな因果関係や出来事の連鎖や経緯の中で実現された美しさであり、その花が咲く人里離れた水辺の光景の中で、その世界全体の美しさを焦点的に具現している。「生命の尊厳」という言葉は定義することが難しいが、ホワイトヘッドの哲学に照らせば、これ自身に固有の価値を実現する生命の営みそのものがもっているかけがえのない価値が「生命の尊厳」を示しているといえるだろう。
次に「人間の営み」とは何かという経営哲学の根幹にかかわる問いを考えてみたい。ホワイトヘッド哲学を山本やメスリが示した方向で解釈しながら経営哲学の根幹をなす「人間の営み」について考えるとき、キーワードとなるのは、「精神性と身体性の統合」、「観念の着想と展開(思考・思弁)」および「観念の実現(制作・創造活動)」、「観念の実現を通しての価値の実現」、「価値を実現する関係性の構築とコントロール(協働)」、「効率化・習慣・自動化をベースにしたより上位の創造活動(組織・共同体)」、そして「自分たちの住まう世界の創造(社会の文明化)」である。
ホワイトヘッドを西田、田辺、西谷に拠りながら解釈した山本は被限定即能限定のプロセスとして人間の営みを捉えるホワイトヘッドのプロセス哲学の立場を示したが、彼のこの解釈に則れば、人間の営みも作られつつ作ることを通してそれ自身を作る価値実現と価値享受の生命のプロセスの1つだといえる。それは、精神性と身体性の統合によって観念を着想し実現してく活動性であり、そのようにして観念を吟味しそれを個人生活や社会活動において実現することがその人の生涯において固有の価値を実現することであり、そのような個別的な価値を焦点にしてその人を成員とする組織や社会の価値がさまざまな要因を統合しつつ実現されていく。そこで大きな問題となるのが、価値を実現する関係性の構築とコントロール、つまり協働である。協働をうまく成立させながら価値実現の活動を効率化・習慣・自動化していき、それをベースにしてより大規模な、あるいはより高度な価値実現の創造活動を展開するべく組織体や共同体を組織化し、そのような諸組織を集約しながら自分たちの住まう世界を創造していくことが、社会の文明化のプロセスである。
3.2 ホワイトヘッドの文明論における「悪」と「悲劇」の概念ホワイトヘッドの文明論はそのように文明化されていく社会における価値実現のあり方を主題にしている。そこで大きな問題となるのがホワイトヘッドが文明社会における「悪」と「悲劇」という概念で示そうとしたことである。
『科学と近代世界』においてホワイトヘッドが提起した問題が、文明社会における「悪」である。それは、一言でいえば、関係性の中で実現され享受される価値が破壊されることである。文明社会における「悪」としての価値破壊には、2つの形態がある。1つは実現され享受される価値を具現している事物の破壊であり、もう1つは価値を実現する関係性(価値実現の場)の破壊である(Whitehead, 1925/1967, p. 196)。
また、『観念の冒険』においてホワイトヘッドが提示したのが、文明社会における「悲劇」である(Whitehead, 1933/1967, pp. 285-296)。「悲劇」とは、この世界において実現され享受される価値が失われ崩壊していくということであるが、この価値喪失・価値崩壊にも主に2つの鋭く対立する形態がある。1つは新しい価値を実現しようとする営みによって、それまで実現され享受されてきた旧来の価値が否定され、破壊されていくことである。これは、実現している1つ1つの価値をまさに高く価値評価している立場、つまり価値の永続をのぞむ「保守の精神」(the spirit of conservation) (Whitehead, 1925/1967, p. 201)にとっての「悲劇」である。これに対して、実現され享受されてきた価値が永続してマンネリ化し、その固有の価値を喪失して陳腐化し、創造活動を窒息させるというかたちでの価値喪失の「悲劇」がある。これは、新しい価値をのぞむ「変化の精神」 (the spirit of change)にとっては牢獄に置かれたように抑圧された状態である。世界が創造的で人間の活動が新しさを生み出していく活力に満ちているとき、なじみの価値が新しい価値に代わっていくことは「悲劇」であり、また、世界が創造性を減衰させ人間社会に活気がなくなっていったとき、同じ価値がひたすらに反復される中でかつて光り輝いていた価値がマンネリ化してその輝きを失い無価値なものへと頽落していくという「悲劇」がある。
ここでホワイトヘッド哲学は、この2つの「悲劇」のうち、新しさへと創造的に前進していく活力の方を積極的に選ぶ。変化は必然であり、保守性は、宇宙にとって非本質的である。「<前進>か<頽廃>か(Advance or Decadence)が、人類に与えられた唯一の選択である。純粋に保守的なものは、宇宙の本質にさからっている。」(Whitehead, 1933/1967, p. 274)しかし創造的前進を目指す「変化の精神」は、なじみの愛着ある価値の喪失という「悲劇」がつきまとうことを理解し保持する精神性が必要だとホワイトヘッドは言う。ここに、創造性を核にしながら諸要素が調和しつつ新しさを実現していくプロセスを論究するホワイトヘッドの文明論の最大の論点が表明されている。「保守の精神」が何よりも重要視するなじみの価値が創造的前進において頽落し喪失していくという「悲劇」を「変化の精神」は理解し抱懐しつつ、同一の価値のひたすらな反復が招く価値低下という「悲劇」を脱して新しさを目指すところに、より深い価値が実現する。そのような、保守的な価値の重要性を理解しつつ革新を目指す変化の精神に組織や社会の協働的な営みの根幹をゆだねるがことが、新しさへと創造的に前進していく世界における文明化のプロセスだということが、ホワイトヘッドの文明論哲学の立場だといえるだろう。
3.3 人間の価値実現と享受、価値破壊と喪失の営みへの問い「世界の創造的前進」を価値実現の世界の基本的なあり方とし、社会のあり方においても人間の営みにおいても創造性が核になるとするホワイトヘッド哲学においては、創造的な活動に不可避的にともなう旧来の価値の破壊あるいは喪失という悲劇をめぐって、人間の営みや社会のあり方に対する深い文明論的な問いが向けられる。文明社会においては、個々の人間の生活においても社会の活動においても価値の実現と享受には価値の破壊と喪失が不可避的に伴うこと、その中で、どのような破壊や悲劇は避けねばならないかを問うことが、ホワイトヘッドの文明論の主題となる問いであり、それはまた、経営哲学あるいは組織倫理学にとっても避けて通ることのできない文明論的な問いとなるだろう。
つまり、経営哲学は、企業文明が台頭する現代の文明社会において、私たち人間がいかなる価値を実現し享受するべきなのか、いかなる価値破壊と喪失を避けるべく知恵を絞り実行していかなければならないかを問うことを学問の本領とするような文明の学としての経営哲学という使命と可能性をもっているということである。山本が指摘したように、ホワイトヘッドは、作られつつ作っていくという創造の営みを生命の本質とし、そのような生命の個別的な創造活動を可能にするような相互の関係性を作ることが社会や自然の営みであるということを「有機体と環境」という主題で論究し、個々の価値実現の営みを有機的に結びつけながら全体的な価値を実現する場あるいは環境として有機体的な組織のあり方を論究した。このように多様な要素が統合されて価値を実現していくプロセスを主題として文明論的な展望を示したホワイトヘッドの有機体の哲学が直面した問題は、現代にの経営哲学においても基本的な問いとして真摯に向き合い問われなければならない。
人間は。新しさへと創造的に前進する現実世界の創造活動の焦点であるはずだが、他方で私たち人間は、
これらが、私たちが問うべき経営哲学の文明論的な問いのリストの中に、最重要の問いとして含まれるだろう。
3.4 プロセスと関係性の哲学の問いとしてのゴーギャンの3つの問いホワイトヘッド哲学に依拠する議論の難解さを緩和して見通しをよくするために、ここで、経営哲学の文明論的な問いをより一般的に言い表してみたい。たとえばそれは、フランスの画家ポール・ゴーギャンが生命をかけて取り組んだ1897年の大作に記した3つの問いのうちに表明されていると思われる。それは、次のような問いである。
われわれはどこから来たのか D'où Venons Nous
われわれは何ものか Que Sommes Nous
われわれはどこに行くのか Où Allons Nous
フランスでは、アンリ・ベルクソンや、さらに以前にはパスカルがすでに、「私たちは何ものでどこから来てどこに行くのか」というこの3つの問いこそ哲学が真剣に問うてきた、また問うべき問いであり、私たちが健康とか名誉とか財産とか仕事とかビジネスマターとかいった世間的な気がかりをいったんカッコに入れたときに、真に問いかけるべき問いとして浮かび上がってくるだろうと言っている(ベルクソン、「意識と生命」、『精神のエネルギー』所収、原章二訳、平凡社ライブラリー、p.12。宇波彰訳、レグルス文庫、p.10。パスカル『パンセ』B.143, L.139)。
経営哲学も、具体的な個々のさまざまなビジネスマターや個別的案件といった気がかりなことをいったん取り除いてみれば、企業文明における組織化された協働活動における価値実現を問う問いとして、「私たちは何もので、どこから来て、どこに行くのか」という問いが、そのつどの文脈の中でそのつどの語彙や主題を使いながら、浮かび上がってくるはずだろう。私たち自身が関係性の中で自己を実現していくプロセス的で関係的な存在だということを、個々のレベルにおいて考えるだけではなく、個を包摂するような社会全体のレベルで見るような観点に立てば、社会全体が関係性の中で生成していくプロセスとはどのようなものなのかという問いが出てくるにちがいない。その大きなプロセスに対する問いは、ホワイトヘッド哲学の文脈でいえば文明論的な問いということになるが、身近な言葉で言えば、私たちはいったい何もので、どこから来てどこに行くのかというゴーギャンやパスカル、ベルクソンらの問いがまさしくこの文明論的な社会の生成・発展・没落・崩壊のプロセスへの問いということになる。また、私たち個々の人間もそのように生成・発展・没落する社会の中に生まれて、その社会によって育まれながら自己自身へと生成していくのだが、山本の言葉を使えばそれは、それ自身諸々の要因からなる関係性のなかで生成・発展・没落・崩壊していく生成消滅のプロセスのなかにある社会という大きな有機体の中に私たち個々の人間も置かれて、この社会によって作られつつ自己自身を作っていき、そのような営みを通してこの社会を作っていくというプロセス的な存在だということになるだろう。
経営哲学におけるゴーギャンの3つの問い
経営哲学におけるゴーギャンの3つの問いは、20世紀の哲学において主題の1つとなった実存哲学・実存主義的な思索の場から出てくるような問い、つまり私たちの個々の存在のプロセスと関係性において私たちが何ものでどこから来てどこに向かうのかを問うだけでなく、グローバル化しつつ私たち個々人の生活にも社会全体にも浸透していく私たちの企業文明のあり方を問うような社会哲学・文明論哲学の問い、つまり私たちの社会の関係性とプロセスにおいて私たちの存在とその由来や行く末を問う問いにもなるだろう。経営哲学の問いもここにある。つまり経営哲学とは、ゴーギャンの問いを組織あるいは人間協働の場において問うということを核にした文明論哲学だといえる。この問いが問われる人間協働の場、人間の組織は、現代社会では家族、地域、宗教団体、学校、企業、政府・自治体、NPOなどなど、ICTの発展とネット空間の出現によって多様化しつつあるが、多彩で複雑化する社会の中で、ゴーギャンの3つの問いを人間存在におけるプロセスと関係性への問いとして、人間協働の場において問うことが、経営哲学の問いであろう。またそうであるなら、ホワイトヘッドのプロセスと関係性の哲学の文明論や宇宙論に、私たちは多くのことを学べるのではないだろうか。
現代の課題は、工業化社会をベースにグローバルな情報化の進展の中で、自然と人為の乖離が加速しているという点にある。産業化・情報化は社会を大きく変化させた。その変化のプロセスのなかで、さまざまな要因が関係しあって社会を新たなかたちへと生成させている。私たち自身もそのような社会の中に生まれ、まさしくそのような社会変化の中でその社会から物的恩恵もうけ、社会的な価値規範を共有し、精神的な影響を受けて育ちつつ、この社会変化を進めようとする(あるいは押しとどめようとする)諸要因の一員として、社会を創造的に作っていく営みに参与している。この社会変化における大きな課題が、自然と人為の乖離の加速であり、それは文明論的な課題だといえる。
その要因の1つは、ホワイトヘッドも批判したアカデミズムの中での知の専門化・細分化が進み、学知から哲学的総合性と一般性が奪われていく傾向である。それは、一言でいえば、哲学の貧困が加速しているという時代の趨勢である。こうした社会変化の中で、学問をする私たちの課題は、この哲学の貧困化という傾向にどう向き合うかということと、この課題をより大きな問いの中で問うということ、すなわち、私たちは何ものでどこから来てどこに行くのかを問う文明論的・実存論的な問いにおいて学問のあり方を問うことだろう。
100年前のゴーギャンやベルクソン、ホワイトヘッドの時代の問いと現代の問いは基本的には同質だが、文明社会において実現される価値の多様さと価値を実現する組織の複雑化、つまり価値の多元化した社会が、問いをより困難なものにしている。本来、人間が実現し享受する価値は、関係性の中で実現されるプロセスとして捉えるべきだが、その関係性が何層にも何重にも複雑化し、グローバルな規模で拡大し、価値を実現するプロセスも要所要所が専門化されブラックボックス化されて、全容を見通すことが困難になり、実現された価値もある観点からは有用であったり重要性の高いものであったりする一方、他の観点からは有害であったり別の価値を破壊するものであったりするという価値の多元化が問題となっている。そのような中で、ホワイトヘッドが前世紀に問うた文明社会における「悪」と「悲劇」は現代社会においても課題だといえるだろう。つまり、自然と人為の乖離や、専門化と対立が進み知が細分化される中で、価値実現と価値享受の場としての関係性が見失われ、価値が実現と享受のプロセスであることが見失われつつあるという、ニヒリズム・末人的状況は、現代社会において加速している。
現代社会の複雑化、社会における諸組織そのものの複雑化、そして価値の実現形態と価値基準の多様化、さらには伝統的な地域社会などの弱体化・消滅といった傾向のなかで、私たちは価値多元的社会の到来をより積極的・創造的な方向で迎えるべく、ホワイトヘッドが示唆したように、この社会に置かれ、この社会によって作られながら自己自身を作っていき、その営みを通してこの社会を作っていく存在として、自分たちの置かれた社会や組織に向き合うべきだろう。そのとき、自分たち自身の立場や価値基準からものごとを見たり考えたりするだけでなく、より広い観点に立つことが重要になる。そのために求められるのが、生きるため、また生かすための知恵として働くような哲学であり、それは、専門的な学問に根ざしつつも、哲学の貧困化に抗してより広い観点から複雑化した事象を見通せるような知恵であろう。そのような「知恵(wisdom)」をホワイトヘッドは「生命のアート(art of life)」と呼び、「実際、生命のアートとは、第一に生きていくことであり、第二に満足のいく仕方で生きていくことであり、第三に満足を一層高めていくことである」(Whitehead, 1929/1958, p. 8)と言っている。つまり、「生命のアート」には、「生きること(to live)」、「よく生きること(to live well)」、「よりよく生きること(to live better)」という3つの相があり、それらの相違はいかなる価値を実現し享受しているかという点にあるのだ。同時期の『過程と実在』では、「生存(survival)」が「存在すること(being)」に、「享受(enjoyment)」が「よく存在すること(well-being)」に言い換えられている(Whitehead, 1929/1978, p. 9)。ホワイトヘッドは、「享受」という語が同時代の哲学者アレグザンダーに由来することを指摘しながらこの語が価値経験を指すことを暗示している。単に存在しているだけであればそれは価値的というよりも事実的であるのに対し、よく生きることは価値を経験することとしての享受であり、さらに、よりよく生きるということは価値を実現することとしての創造である。個々の生命の自己享受と自己実現において、その個物が生きている世界全体の価値が焦点的に実現されていくということが、ホワイトヘッドのプロセスと関係性の哲学の議論の核だといえるだろう。
4.1 経営における価値認識と経営哲学における価値の探究‐島袋嘉昌の経営哲学現代社会の複雑化する価値実現の形態と追求される価値の多様化の中で、経営哲学の課題は、組織の活動において追求され実現し享受される価値とは何かという、経営における価値認識の問題である。人間が実現し享受する価値には、(1)個々人によって目指され努力され実現され享受され愛される私的側面と、(2)社会や組織において実現され評価され共有される公的側面とがあるが、経営における価値の実現は、この両側面を含み統合するものである。そこで、個々の立場や価値基準を踏まえつつ、より広い観点に立つような生きた哲学の観点が求められる。言い換えると、私的な価値と公的な価値を折り合わせていくことであり、それが経営における価値認識の課題だといえる。
私的な価値を取り込みつつ公的な価値を実現していく方途を問いのが、経営哲学における価値探求の課題である。つまり、経営哲学が問うのは、(1)価値の私的側面のうちに(2)価値の公的側面を含ませ、(2)価値の公的側面の中で(1)価値の私的側面を実現していく経営者の心性を現代社会においていかに実現するか、という複合的な問いである。現代の企業文明においては、この問いが、自然と人為の乖離を調停しつつ実現可能な価値をいかに探求するか、といった問いとして表れている。
島袋嘉昌は、「本質的な価値認識の不足した経営者」(島袋, 1985, p.5)がはびこることを憂い、「近代組織やその関連の基礎にある価値を熟慮して、もっと知らなければならない人びと(たとえば経営学者)がそういう気にならない」(島袋, 1985, p.6)という現代の状況を批判して、「生命の尊厳」を最高の価値基準とし、人間性に基づいた「企業の指導原理を確立するための経営哲学の研究」(経営哲学学会会則第2条)の重要性を訴えている。島袋によれば、経営者には近代組織の基礎にある本質的な価値の認識・熟慮が必要であり、経営における価値の探求を主題とするのが経営哲学である。そこから島袋は「生命の尊厳」を最高の価値基準とし、人間性に基づいた「企業の指導原理を確立するための経営哲学の研究」(経営哲学学会会則第2条)の重要性を強調して、経営哲学は経営における価値の探求だということをはっきり示して「経営者こそ哲学者たれ」(島袋, 1985, p.6)と訴えた。私的な利害を超えた価値の追求という経営者のあり方から、フォレットのリーダーシップ論への共感も表明している。
4.2 経営の根源にある価値を問う経営哲学‐村田晴夫の経営哲学文明社会における経営を問い、人間の営みとしての人間協働の根源にある価値を問うということを経営哲学の主題としたのが、村田晴夫の経営哲学である。現代文明の最大の特徴は企業が主導する人間協働の活動が文明社会を牽引していることであり、現代文明は企業文明であるという洞察が、村田の経営哲学の出発点である。一般的な観点から見て経営学が企業のあり方を問う学だとすれば、村田の経営哲学は企業文明のあり方を問う学の提唱だといえるだろう。村田は、「経営哲学の意義を問うとき、初めに問われるべきことは、哲学としての経営である」(村田, 2003, p.3)と村田は言い、経営するということは哲学するということだという立場を示している。広い視座から見ると、人間が現実の世界に住みこむ仕方、この世界を自分たちの生きる世界として作っていく仕方とはどのようなものなのか、そしてそのような営みを通して、どのような価値が実現され享受されているのか、またそのような価値実現と享受の営みの根底にはいかなる価値基準・価値観があるのか、という問いは、経営学、経済学、ホワイトヘッドの有機体の哲学の共通の関心事である。この問いを学者だけでなく、実業家も経営者も通常のビジネスパーソンも問うように促していくことが、経営哲学の課題だということになる。文明を牽引する企業の諸活動を人間協働の組織化という観点から論究する経営哲学は、そのような組織化された協働の根底にある価値を問うがゆえに、価値の哲学としての倫理学、すなわち組織倫理学になるということが、村田の経営哲学の基本的な主張である。
村田の言う「哲学としての経営」が直接的に主題とするのは、人間の協働と知の営みを統合しながら、その協働的な営みを私たちが私たち自身の生きる世界に住まう営みとなるよう調整していく仕方を効率や合理性や利益の拡大といった観点だけでなく、私たちの満足や平安、希望や美的ないしは宗教的な感動や洞察などのさまざまな価値の観点から考察することである。言い換えると、「哲学としての経営」は、私たちが私たち自身の住まう世界を整え、そこにさまざまな価値を実現していけるようにする実践が、いかなる価値を実現し享受するのかを問う学である。元来、そのような価値探求の実践を体系化し理論化する学知は、オイコス(住みか)を知の出立点におくオイコスのノモスあるいはオイコスのロゴスとしての経済学、経営学、家政学、エコロジーであったことを振り返れば、経営哲学が企業文明において実現される諸価値を問う学であることも納得できるだろう。
経営学をはじめとする社会諸科学が問うのは、私たちがこの世界に住む仕方、この世界を私たちが住まう世界として切り盛りしていく仕方である。そして、そのような統合的な実践を価値実現と価値享受の営みと捉えて、その根底でいかなる価値を実現し享受するべきかを問うのが経営哲学あるいは組織倫理学だといえる。つまり、経営哲学は、人がどのようにして自分たちが生きる世界に住んでいるのか、どのようにしてこの世界を自分たちの生きる場として切り盛りしているのかを問う。
私たちがこの世界に住まい価値を実現し享受する仕方を哲学的宇宙論・文明論として思索し体系化したのが、ホワイトヘッドである。山本の解釈を踏まえれば、ホワイトヘッドは、私たちがこの世界に置かれて、世界によって作られながら世界を作っていき、その営みを通して自己自身を作っていく自己創造的被造物であるということを、生成のプロセスとして論究したということである。ホワイトヘッドのプロセスと関係性の哲学が提示したのは、私たちが世界に住まう仕方と、私たち自身のうちに世界を宿す仕方とが相即して、私たち自身という経験の契機が生成するという洞察である。
ホワイトヘッドに深い示唆と影響を受けながら、私たちが自分の住まう世界によって作られつつこの世界を作っていき、この世界を切り盛りしていく経営の根底にある価値を人間協働の場としての「組織」において問うたのが、村田の経営哲学である。哲学の歴史においては人間、社会、自然、宇宙ということが哲学的考察の対象だったが、20世紀にはそこに組織が加わった、と村田は述べている(村田, 2003, p. 10)。そして、組織と人間の関りへの哲学的問いには人間疎外の問題が伴い、ジェンダーの問題など、「人間の幸福をめぐる新しい問題」があると指摘される(村田, 2003, p.10)。
そのために村田が構想したのが、宇宙から人間に至る階層システム性の中での人間のありようを問う経営哲学である。「人間が置かれている世界は階層性をなしていると見ることができる」と村田は言い、次のように述べている。
自然という宇宙とそこに含まれるわれわれの地球、そこに生まれた人類社会とそれぞれの地域社会、そしてさまざまな組織体とそこに生きるわれわれ人間自身、こういう階層システム性が見てとれる。そのように見るとき、人間の営みの意味もまた階層性をなしていると考えられる。すなわち、人間の営みである「経営」のもつ意味は、宇宙自然という広大なシステムにおける意味と、人類社会における意味、そして地域社会における意味、組織体における意味があるであろう。(村田, 2003, p. 10)
村田によれば、経営哲学は、宇宙から人間に至る階層システム性の中で、企業文明という特質をもってさまざまな価値を実現しつつ大きな問題も生んでしまっている現代文明のあり方を、特に「組織」あるいは人間協働の場において問う学問である。この階層性の中で、人間の営みの根源にある価値を探究するとすれば、その経営哲学の探求する価値の1つは、間違いなく「生命の価値」ないしは「生命の尊厳」であろう。このとき経営哲学とは、私たちが自分たちの住まう世界を作り、この世界を切り盛りしていく営みを階層システム性の中に適切に位置づけつつ、このような世界創造の営みの根底にある価値を人間協働の場において問うことだといえる。
ここまで述べてきたことをまとめると、現代文明の課題は、自然と人為が乖離し、知がアカデミズムの中で専門化・細分化されていく中で人間の協働的な営みの根源にある価値を問うことである。それはまさに経営哲学の問いだということが、この論稿の主旨である。こうした経営哲学の課題に対して深い示唆を与えると期待されるのが、プロセス・関係性および有機体とその環境のような階層システム性を主題とするホワイトヘッドの有機体の哲学とそれを継承するプロセスと関係性の哲学である。この哲学が示すのは、人間が実現し享受する価値は、関係性の中で実現されるプロセスだということである。言い換えると、ホワイトヘッドが『観念の冒険』で指摘した人間と人為の乖離、『科学と近代世界』で批判したアカデミズムにおける知の専門化・細分化という状況の中で、組織における人間の協働的な営みの根源にある「価値」を問うのが、経営哲学の問いである。
ホワイトヘッドのプロセスと関係性の哲学に照らせば、その価値はこの協働的な関係性の中で実現され享受されるプロセスである。このような人間相互の関係性はその背後に社会、自然、そして世界全体に広がるようなより広範な関係性によって支えられているが、こうした関係性とプロセスが見失われつつある。それは、ニーチェが批判しマックス・ウェーバーが指摘したような近視眼的なニヒリズム的状況・末人的状況だといえる。
人間が価値を実現する場を関係性の階層性として示した村田は、私たち現代人の価値実現のあり方を1つの階層システムの層の中に限定する「水平同型性」の視座だけでなく、個々の人間の実存から組織、社会、自然、宇宙までを貫いて見通す「垂直同型性」の視座に立つ実業家やビジネスマンのものの見方と学的な論理が必要だと提唱している(村田, 1984. 村田, 1990)。人間が住まう世界の階層システム性の中に、組織体や企業を位置づけつつ、組織体や企業を価値実現と享受の場として生きるわれわれ現代人の価値実現のあり方を1つの階層システムの層の中に限定する視座だけでなく(「水平同型性」の視座)、宇宙自然から個々の人間の実存までを貫いて見通す視座(「垂直同型性」の視座)から経営の哲学を探究することが、現代文明の課題となる。
現代の文明は、村田によれば企業文明である。現代の問題は自然と人為の乖離が進行していることだが、企業文明の問題は、この乖離が「グローバル企業+AI」によって加速・拡大し、複雑化しているということにあるといえるだろう。情報がマッシブなものになり情報処理も高速化・大規模化されるにつれて、グローバルな規模で情報が自己組織化していく事態が発生している。人間が作り出したものがそれ自身を作り出すようになっていき、それによって逆に人間が支配されるような社会も迫っているかもしれない。そのような状況だからこそ、経営哲学と組織論理学の課題として、個々の人間の自己の根底にあり、また自然の営み全体の底流となっている「生命の尊厳」を企業文明の進展の中で理解し保持することが大事になってくるだろう。
AIを装備したグローバル企業には、ここで島袋や村田が提唱してきたような、企業活動、組織活動の根底にある人間の価値、生命の尊厳、自然と人為の相互性の中で実現し保持される価値を認識するということが求められている。それこそ、来るべき時代の経営哲学ではないだろうか。AIを装備したグローバル企業による人間を凌駕した地球規模の情報組織化の問題も懸念される。情報通信技術がオートポイエーシス的な自己組織化の能力をもち生成・発展してゆくことを、ここで「巨大な情報の自己組織化」(self-organization of massive information)、簡略化して「情報組織化」と呼びたい。情報化社会の趨勢を見ると、情報とその処理プロセスがそれ自身をコントロールしながら維持・拡大・発展させていく自律的なシステムになりつつある。この巨大な情報組織化とわれわれ人間との違いは、はっきりと定義できない概念ではあるが、「生命の尊厳」というところにあるのではないか。そして、個々の人間の自己の根底にあり、また自然の営み全体の底流となっている「生命の尊厳」を企業文明の進展の中で理解し保持することが、組織倫理学の課題ではないだろうか。