気候変動により大規模化する災害、廃棄物の大量発生による生態破壊と、地球環境問題は深刻化しつつある。本稿は、木田元が唱える「つくられてあるもの(哲学、超自然的原理)」と「なりいでてあるもの(反哲学、自然的原理)」を足掛かりとしながら、自然そして自然と人間の関係をいくつかの思想(哲学)を拠り所に整理する。その際、4つの提起を積み上げて今日の地球環境問題の本質に迫ることを目的としている。このため本稿は、問題提起そのものを主眼とする。そこでは、私を含めた日本人の自然のとらえ方を概観し、思想史上の自然と人間の関係を考察する。そしてこのことをもとに今日の現実と未来の自然と人間、経営体の方向性を仮定する。
一つ目の提起では、木田(2000)が唱える「つくられてあるもの(哲学、超自然的原理)」と「なりいでてあるもの(反哲学、自然的原理)」という二つの思考の軸を基礎としつつ、「現代の日本人は超自然的思考を基盤とし自然を無機的、経済的消費財としてながめる」姿勢にあると示唆している。二つ目の提起は、なぜそのような超自然的原理が日本のみならず現代社会を支配しているのか、その根源についてであり、これは、「人間は精神の力によって環世界に繋縛されず自然を対象化する術を手にし現在、過去、未来の時空を、主題を自由に切り替えて行き来するシンボル化能力をつうじてより高次の開かれた世界に生き、自然を超えでるようになった」ためであると措定した。シェーラー(1927;1977)等を基礎とした。これらを踏まえて本稿は、科学技術とこれを基礎とする人工システムが織りなす世界に現代のわれわれはともすれば忘我的に縛り付けられているのではないだろうか、との三つ目の提起を示したのち、「人間は自然の一部である」という二人の文言――哲学者としてのK. マルクスと生態学者のC. D. トーマス――を対比し特にマルクスの「類的存在」の概念に焦点をあてて自然と人間、経営体の折り合う可能性を示唆している。
表題の「自然と折り合いをつける」という文言は、亡き立花隆の処女作『思考の技術』から拝借している。彼はかつての公害をはじめとする環境問題の発生を「エコシステムがうまくはたらかなくなりだしたこと」にあると解し、人体システムが動作不能になるように「自然の病気」が生じていると分析しながら、「人間と自然の間に折り合いをつけること」こそ、その解決策であると述べた(立花, 1971;2020:143-144)。彼は、人間が創り上げた人工的なシステムが自然の生態系(エコシステム)以上のものになってしまったことに環境問題は起因するので、「人工システムをエコシステムのサブシステムにもどしてやること」(立花, 1971;2020:146-147)にその解決の糸口を見出すべきと説いている。そして、人間の創り出した巨大な文明のあり方を危惧し生態学的(自然の全体性を考慮し自然に沿ったかたちでの)思考による修正を提言した。もともと文明(civilization)の語源は人為化(civilize)であり、人間の都合の良いように自然を改変すること(村上,1994)、つまり人工システムを構築し推し進めていくことである。いわば、その進み具合を抑制すること、巻き戻すことが必要ということととらえられる。
この処女作が公開された時代は、深刻な大気汚染や土壌汚染、オイルショックなどが相まって、主に欧米で多彩な環境保護主義が展開された(e.g., Carson, 1962; Ehrlich, 1968; White, 1968; Hardin, 1968; Commoner, 1971; Meadows et.al., 1972)。そこには、現代の温暖化をはじめとする急速な気候変動や大量の廃棄物発生などの環境問題を予測し鋭く批判するメッセージを読み取ることができる。たとえば立花(1971;2020)でも引用されているボールディング(Kenneth. E. Boulding)は、宇宙船地球号(spaceship earth)の概念(Fuller, 1969: 49)およびBertalanffy(1968)の一般システム理論を援用しながら、宇宙船というメタファーで地球の乗組員である人類に資源の有限性を説いた。Boulding(1966: 9-10)は、大量採取・大量生産・大量消費・大量廃棄を善とする一方向的な社会経済システム(カウボーイ経済: cowboy economy)から、人間が物質の再生力をもつ生態系システムのなかに自らを見出すような物質とエネルギー、情報からなるスループットを最小化するシステム(宇宙人経済: spaceman economy)への移行を唱えた。こうした経済学者の言説にも、文明を巻き戻すことの方向性が読み取れる。
それにしても、「自然と折り合いをつける」と言うときの「自然」とは、そもそもどのような意味合いとしてとらえることができるのか。そして、ほんとうに文明の進み具合を多少なりとも巻き戻す(人工システムを自然のサブシステムに戻してやる)ことができるのだろうか、また、生態系システムのなかに自らを見出すシステムへの移行とは何か――地球環境に配慮した企業経営の在り方について、ただがむしゃらに調査・研究を25年余重ねてきた私は、何とも、もやもやとした気持ちでいっぱいになる。これは、元をただせば2つの多義性に起因する。1)「自然」を扱う書を含めた言説がこの世にあまたあり、「自然」という文言そのものが多義的であること、2)「自然」と「人間」の関係、いかなる社会、政治、経済、思想の立場を選択するか、という意味での多義性である。本稿はこうした筆者の「もやもやとした気持ち」を端緒とし、自然、そして自然と人間の関係を限られた範囲にすぎないけれどもいくつかの思想(哲学)を拠り所に整理しながら4つの提起(proposition)を積み上げ、今日の地球環境問題の本質に迫ることを目的とする。このため本稿は、問題提起そのものを主眼とする。おそらく私が属するスクール――なかでも(人間協働の学に対する)営利追及の学としての経営学、あるいは(解釈主義的アプローチに対する)機能主義的アプローチによる組織論――には、残念ながら貢献をもたらし得ない問題設定なのかもしれない。4つの提起の流れは以下のとおりである。
本稿はまず私を含めた日本人の自然のとらえ方を概観し、思想史上の自然と人間の関係を考察する。そしてこのことを足掛かりにし今日の現実と未来の方向性を仮定するという構成である。
ここではProposition 1:「今日の日本人の自然観」の流れを追う。
“Nature”を辞書で引くと、①自然・天然、②(文明にゆがめられない)人間の自然の姿、③本質・気性、④種類、⑤活力・肉体的要求、とある(『新英和中辞典(第4版)』研究社, 1977年)。ざっくりと、2つの意味合いに分けて考えることができそうである。
1)われわれが一般に「自然が豊かだ」といったりするときの「自然」は①の意味で用いているようであり、人間の外にある自然という側面といえそうである。
2)一方で②および③、④、⑤となると、①とはかなり意味合いが異なる。例えば②は、われわれが「気持ちに素直に(感性・感情に沿って)」物事を考えたり行為したりするというときの用法に近いようだ。人間の内なる自然の側面としておく。
前節の立花(1971;2020)で人工システムと対置されている自然は1)の「人間の外にある自然」と考えて良いだろう。しかし「人間と自然の間に折り合いをつける」と彼が言うとき、果たしてその理解だけで充分なのだろうか。2)の「人間の内なる自然」、その他の意味合い(「本質」など)を考えあわせなくともよいのだろうか。本稿では、この「自然」という言葉をめぐる居心地の悪さを整理する足掛かりを、現象学に関する著書などで知られる哲学者の木田元の言説に求める。ここでは彼の「反哲学」、いわば一般に言う哲学史(思想史)を不連続なものとしてとらえる認識図式をまず参照する。
もともと「哲学」とは、「超自然的な原理を立てて、それを参照しながら自然をみるという特殊な見方、考え方」(木田, 2007:23-24)であり、木田(2007:28)は「超自然的原理・思考」と呼ぶ1)。「超自然的原理・思考(哲学)」は、ソクラテス(Sokrates)に始まりプラトン(Platon)の「イデア」、アリストテレス(Aristoteles)の「純粋形相」、中世キリスト教神学の「人格神」、デカルト(Rene Descartes)の「神的理性」(神によって与えられた「出張所」(木田, 2007:134)としての理性)、カント(Immanuel Kant)の「(人間)理性」、ヘーゲル(Friedrich Hegel)の「(絶対)精神」までを貫く西洋以外の文化圏には生まれなかった思考法なのだという。このような自然(ありとしあらゆるもの)を超えた思考をするには、そもそも「全体を見渡すことができる特別な位置に立つことができる」と人間が思わなければならない(木田, 2007:24)。「存在するものの全体とは何か」という問いそのものを立てられないからである。
この「超自然的原理・思考(哲学)」の特徴は、自然を生きたものではなく「制作」のための無機的な材料・質料にすぎない物質として扱ってしまうところにあり、言葉を換えれば、自然(ありとしあらゆるもの)を「制作されたもの」、つまり「つくられてある」という意味で問うものという(木田, 2007:50)。ここで整理すると、哲学(超自然的原理・思考)は自然を精神・社会・歴史などと対概念として区別し、「存在者の特定領域、外的物質的な存在者の領域」(木田, 2004b:147)として扱い、「つくられてあるもの」と捉える認識図式ということである。先の“Nature”の2つの意味合いのうち、主に1)に相当する傾向をもつものと考えてよいだろう。科学技術の母胎となった原理・思考であり、自然を外から見渡すので客観化、対象化が伴うということである。もともと哲学というのは「自然に生きたり、考えたりすることを否定している」、そして「自然を限定し否定して見る、反自然的で不自然なものの考え方」(木田, 2007:24)なのだと木田元は断じる。
これに対して「反哲学」とは、時間軸でみると紀元前6-4世紀あたりのフォアゾクラティカー(Vorsokratiker、ソクラテス以前の古代ギリシアの思想家たち、例えばアナクシマンドロス(Anaximandros)やタレース(Thales)など)を起源としながら、18-19世紀のシェリング(Friedrich W. J. Schelling)、マルクス(Karl Marx)、ニーチェ(Friedrich W. Nitze)以降の現代思想にみられ、とりわけニーチェが素描しハイデガー(Martin Heidegger)が継承したもので、西洋2500年の文化形成を導いた「哲学」という西洋に特有な知の在り方を単にありがたいものと崇めたてまつるのをやめて、批判的視点から相対化し解体し乗り越えようという企てなのだという(木田, 2000,2007)。例えばハイデガーの「存在の回想」、メルロ=ポンティ(Maurice Merleau-Ponty)の「否定哲学」、デリダ(Jacques Derrida)の「哲学の解体」に色濃く表れているという。このようにしてみると、反哲学(フォアゾクラティカー)―哲学(ソクラテスからヘーゲル)―反哲学(ニーチェ以降)という思想史の不連続性が露になる。もっとも哲学には多様な振れ幅がありうることからすると、両者は思想史のなかで折り重なりあいながら蓄積されてきたものと理解すべきであろう。
この「反哲学」で扱われる「自然」とは、哲学で扱われる精神・歴史・社会などと対置された「存在者の特定領域」でなく、「万物(ありとしあらゆるもの)」の「本来あるべきあり方、その本性、真のあり方」を意味するのだという(木田, 2004b:147)。先の“Nature”の2つの意味合いからすると、主に2)に相当するようだが、そもそも自然を人間の内と外との二項対立で扱うのではないことがわかる。木田(2004b)はハイデガーによるアリストテレスの古典解釈を慎重に引きながら、フォアゾクラティカーの考えた「自然」とは、運動する存在者そのものに内在しているその「運動の原因」、たとえば「生命のようなもの」であったと説明する。そしてフォアゾクラティカーは、万物がそれぞれ何らかの「生命的原理」、「自然的運動の原理」を内蔵していると考え、その原理を「自ずから発現する」こと、「『自ずから然ある』状態」と捉えた(木田, 2004b:150)。この自然的運動の原理とは、昼夜の交代や四季の移り変わり、海の浪のうねり、植物の生長枯衰、人間を含めた動物の生死などのすべてを包含しつつ、これらを支配し秩序立てているものである(木田, 2000:71-72)。このように反哲学では自然を、「おのれのうちに内蔵する運動の原理に従って運動(生成消滅)するもの」(木田, 2004a:19)と捉え、「ある」(存在する)ということを植物が生成する、生えるがごとく「なりいでてある」という意味で問うものという(木田, 2007:50)。
上記の認識図式を拝借するなら、「自然と折り合いをつける」というとき、大別すると2つの解釈の道筋が開けてくる。ひとつは、「つくられてあるもの=哲学=超自然的原理・思考」を拠りどころとし、「人間の外にある自然」を無機質な物質(物質的自然観)ととらえ、いかに支配するかという視点に立って折り合う道である。もう一つは、「なりいでてあるもの=反哲学=自然的原理・思考」に基づき、自然を人間の内、外にあるものと弁別するのではなく、いわば万物を生きたエネルギーのようなものととらえ、人間はそこに含まれている、一体化しているととらえる視点に立って折り合う道である。もっとも哲学と反哲学は前述のとおり衝突しあうものというよりも折り重なりながら蓄積されてきたもの、たとえるなら、人間に離れがたく結びついている「たましいとからだ」の関係(ハイネ, 1951: 66)のようでもあり、どの程度のバランスで折り合うかという問題のように思われる。そもそも、日本人はいずれの立場で時を重ねてきたのだろうか。
木田(2007)は、「なりいでてあるもの=反哲学=自然的原理・思考」は古事記など古代日本のアニミズムの洗練された自然観、あるいは芭蕉の「造化」(自然)に通ずるものと説明する。自然(ありとしあらゆるもの)のなかにすっぽりと包まれて生きていると信じ切っていた当時の日本人――「自然的原理・思考」を基盤としていた日本人――には、すべてを見渡すことができる特別な位置に立つ「超自然的原理(哲学)」のような問いは立てられなかったであろうし、そもそも西欧流の哲学がなかったのは「とてもいいこと」と肯定的に捉えられている(木田, 2007:22-23)。
もっとも日本人の自然的原理・思考を基盤とする傾向は、現代人には既に失われてしまっているという見方のほうが強いようである。宗教とエコロジーの関係を洞察した哲学者の間瀬啓允によると、日本人は「明治以降もっとも甚だしい自然破壊者」となり「自然破壊を糾弾する思想は育ってはこなかった」と断じている(間瀬,1996:15-16)。その原因を彼は、「日本人の自然愛がかえって自然に対する甘えを助長し、ついには自然破壊にまでいたらせたのではないか」と、たとえば梅原猛を引きながら投げかけ、また、「わが家の朝顔を大切に育て公共の自然のことはあまり考えないのではないか」「金もうけのためならば緑の山も森も容赦なく裸にむいて荒らしてしまう人間と、それをよそごとに無関係でいる人々が多いのである」と大仏次郎を引きながら糾弾する。そして地球環境問題が日本人にとっての生き方やモラルの問題にきっちりと結びついて来なかった原因を、「美しき日本」というような「感性的な自然の把握のしかた」にあるとみている。一般に都市生活者は日常を人工物のなかで過ごし自然を経済的消費財として利用する一方で、たとえば休日のドライブというように限定されたハレのなかでのみ「外にある」自然を愛でる。このような生活から分離した非日常としての、慰みものとしての自然との関係が再生産され、現実の諸問題から遊離した感性的自然への傾斜が強化されたのかもしれない2)。かつての日本人が木田元の言う「反哲学(自然的原理・思考)」をもともと基盤としていたにせよ、現代の日本人はむしろ「哲学(超自然的原理・思考)」に傾斜した立ち位置から「自然」を多くの場面で無機的な物質と捉え、「自然破壊者」として君臨しているというのが実情のようである。そこには明治の文明開化以降、西洋から流入した「哲学(超自然的原理・思考)」への急速な傾倒があったといえる。今日のわれわれは一般に、自然を精神・社会・歴史などとの対概念として「外から」捉えていることもその証左であろう。これらのことから次の提起(proposition)を示すことができよう。
Proposition 1: 現代の日本人は「つくられてあるもの」を基盤とし多くの場面で自然を無機的、経済的消費財としてながめている。
思想(哲学)を拠り所とする本稿は、さらに「自然と折り合いをつける」うえでの根源へと遡っていきたい。次節では、なぜメインシステムとしてのエコシステムを超え出てしまうほどの人工システムを人間は造り出し得たのかをみる。というのも、なぜ人間がメインシステムを超え出られたのかを知ることによって、「人工システムをサブシステムにもどしてやる」「文明の進み具合を巻き戻してやる」うえでの方途に近づけるかもしれないからである。
ここではProposition 2: 「自然と人間の関係についての思想(哲学)」について限られた範囲にすぎないけれども議論する。なぜ、人間は自然から解き放たれ、自然と対峙するようになったのだろうか。立花隆の文言を用いるなら、なぜメインシステムとしてのエコシステムを超え出てしまうほどの人工システムを人間は造り出し得たのだろうか。これを紐解くうえで、人間と他の生きものとの相違をみることが肝要であろう。
19-20世紀に活躍したエストニアの生物学者ユスクキュル(Jakob von Uexküll)は、多くの動物行動学者や生理学者によって否定されていた「主体」としての生きものの世界を「環世界(Umwelt)」と名付け、主体の外にあるものとしての「環境」(Umgebung)と識別する。当時の機械論者は、動物の知覚器官と行動器官を機械の部品のようにつなぎ合わせ、たとえば知覚器官を様々な特殊な知覚記号の担い手である「細胞機械操作係の集団が働いたり休んだりする場」(ユクスキュル, 1934; 2005:7)ととらえたばかりでなく、人間をも機械化するにおよびいかなる生きものをも「自分の人間世界にある客体」にすぎないとみていた。確かに知覚(感覚)器官と行動(運動)器官からなる「機能環」を通じて環境適応している限り、生きものは生存することができる。ただし、果たして生きものは、機械なのか、機械操作係なのか、単なる客体なのか、あるいは主体なのか――。ユクスキュル(1934; 2005:7-8, 13)の提示した「環世界」は主体が知覚したものすべてによってなる「知覚世界」と、作用するものすべてからなる「作用世界」が構成する「一つの完結した全体」とされ、いかなる生きものも「それ自身が中心をなす独自の世界に生きる一つの主体である」と捉えられている。そして、時間や空間は客観的に固定されているのではなく、「生きた主体なしに空間も時間もありえない」(ユクスキュル, 1934; 2005:24)。たとえば18年間絶食していたダニが生きたまま保存されていたことを挙げながら、人間が同じように「待つ」ことは不可能であることに彼は主体性の証左を求める。また、映画のフィルムよろしく人間の一瞬は18分の1秒だが3)、ベタ(闘魚)のそれは30分の1秒を超え、逆にカタツムリの一瞬は4分の1秒程度といったように、生きもののそれぞれの環世界の時間も多様であることを例示する。このようにユスクキュルの「環世界」という認識図式によると、すべての生きものは環境の諸対象に「意味」を与え世界を構築しているといえ、自らの時間と空間を支配しながら「主観的現実だけが存在する世界に生きている」(ユクスキュル, 1934; 2005:143)。このことは、人間のみならずすべての生きものに生命があることの所以でもある。ユスクキュルの環世界の概念を拠り所に、同じような視点から人間の在り方をみる「哲学的人類学」を構想したのがシェーラー(Max Scheler)である4)。
哲学的人類学は、どのように人間とそのほかの生きものとの差異を捉えているのだろうか。亡くなる数週間前に書かれた『宇宙における人間の地位』の前書きでは、「人間とは何か、存在のうちに占める人間の地位はどのようなものか」とまず問いながら、いつの時代にもましてこのことについて「厳密な知識を人間は持っていない」と断じる(シェーラー, 1927; 1977:11-13)。そして神学・哲学・自然科学のそれまでの伝統との結びつきを断ちつつ、「人間の自己意識と自己観察の新たな形式」として、そこに人間の特殊な地位を提起しなおす「哲学的人類学」の意義を認める。
すべての生きものは外部観察者にとっての対象であると同時に対自的、内的な存在でもあって「自己自身を認知する事実」にある(シェーラー, 1927; 1977:18)。この前提は、先のユスクキュルの環世界論に寄り沿うものといえる。そして、生きもののもつ心的なるものの生成プロセスを植物、動物、人間という形態(種)の変容にしたがって解き明かそうとし、そこに下位から上位への階層性と相互の結びつきを仮定した。その際、心的なるものの発達は植物―動物―人間の進化にしたがって新たに付け加わるのでなく、もともとの部分の「創造的分離」(シェーラー, 1927; 1977:31)によるのだという。そこで基底にすえられるのが「(感情)衝迫」である。これは人間の通常の意識や感覚ではなく、植物がそなえる感情と衝動の未分化で「忘我的」な、心的なるものであり、たとえば食物摂取や性充足などに向かう「方向性や目標性」を意味し、「植物の場合には成長および生殖への一般的衝迫だけがその感情衝迫に含まれる」(シェーラー, 1927; 1977:20)。そもそも「生は本質的に『権力への意志』ではなくて、生殖および死への衝迫がすべての生の原衝迫である」と、シェーラーはニーチェへの揶揄と思われる主張を述べる。この「生の原衝迫(生殖と死への衝迫)」が生きものの心的なるものの原型といえ、前述の反哲学でとらえられた自然、つまり人間のみならず生きものに共通する「おのれのうちに内蔵する運動の原理に従って運動(生成消滅)するもの」の基盤といえる。そこから植物―動物―人間という進化にしたがって「本能」―「連合的記憶」―「(有機体に結びついた)実践的知識」という心的形式が「創造的分離」を繰り返すことになる。その際、動物がそなえる「本能」は、生得的かつ遺伝的で環世界の構造に「アプリオリに支配され規定されている」(シェーラー, 1927; 1977:28)。これは「種の生それ自体にとって有意義なのであって個体の個別の経験にとっては意義がない」もの、「本能はたえず種に仕える」ものという(シェーラー, 1927; 1977:24-27)。つまり「本能」とはあらかじめ生きものにビルトインされ「種属の保存」のために主に機能することを意味する。さらに本能的行動から枝分かれする二つの行動様式と心的形式――1)「習慣的行動」から「連合的記憶」、2)「知能的行動」から「実践的知識」――が出現する。そして、これら知能や選択能力が人間のみならず動物にもそなわることをゲシュタルト心理学者のケーラー(Wolfgang Köhler)による類人猿実験などをもとに積み上げる。では、人間を人間たらしめる唯一のものとは何か。
シェーラーは人間の「特殊地位」と称しうるものを「精神」といい、これは「(ギリシア人の)理性」や「(本質内容の)直観」といった伝統的概念を含むがその限りではなく、好意、愛、悔恨、畏敬、感嘆、浄福と絶望、自由な決断などの意志的、情緒的なるもろもろの作用をも含むものと措定する(シェーラー, 1927; 1977:46-48)。もっとも精神は、「自然な生進化」に還元されるものではない。つまり前述の「創造的分離」による新たな段階でもなければ「心」という生の一つの表示形態でもない。精神がもたらす決定的原理とは、「現存在(人間)の中心が自由になり、解放されうること」(シェーラー, 1927;1977:48,カッコ内は筆者が記した)にあるのだという。どういうことか。
シェーラー(1927; 1977:47-51)によると、そもそも動物は自らの「生現実」にあまりに本質的に固着し巻き込まれてしまっているので環世界のなかに忘我的に没入し「繋縛」されている。つまり環世界に「閉鎖的」に適合しておりその限りにおいて生きていくことができる。もちろん人間も動物と同じように特有の環世界のなかに生きてはいるのだけれど、人間という「精神的存在者」のみ、環世界の実践的な日々の営みにとっての「抵抗」中心、反応中心を「対象」にまで高め、独自の仕方で環世界を遠ざけ距離をとり、「衝動インパルス」や「感覚器官」によってもたらされる「制限」から独立することができるのだという。言葉を換えれば、精神の力によって環世界を破棄したり無効化したりするのである。このようにして人間は動物と異なり、「もはや衝動や環世界に繋縛されない」(シェーラー, 1927; 1977:48)。人間が精神のもたらす原理によって「解放されうる」というのは、このような意味で用いられている。人間は「環世界から自由」なのである。そして人間は「精神」の力によって「衝迫」をおさえこみながら環世界を対象化し、より広い「世界」の次元へと超え出てもろもろの「抵抗」中心をも対象的に把握する。それだけではない。「動物は聞いたり見たりする――しかし自分が聞いたり見たりしているのだということは知らない」(シェーラー, 1927; 1977:52)。これに対し、自らの「心的諸性質」や「心的体験」さえも対象化すること、そこに最も注目に値する人間の精神の特徴があるとシェーラーは力をこめる。これらの関係は以下のように表されている(1,2式)。
A (animal) ⇆ W (world) 1式
M (man) ➝ W (world) ➝ ➝ 2式
このようなシェーラーの認識図式によると、動物と人間の差異は狭さ広さの違いこそあれ「環世界」に繋縛されているか、あるいは解放されているか、というところにありそうである。そして人間は環世界とその諸々の事象のみならず自らの心的なるものをも精神の力によって対象化し、諸事象の「世界」が及ぶ限りにおいて「世界開在的」である、つまり無制限に開かれている(2式)。言葉を換えれば、人間は「環世界」を超え出てすべてを「対象化」せずにはいられなくなったこと、より高次の開かれた「世界」に現存在として――自らの内部から自分を経験する人間として――生きることができること、そこにシェーラーの認識図式の特徴を見いだせそうである。ただし彼の言う「精神」は、「それ自身は対象となりえない唯一の存在」であって「諸作用の秩序構造」と位置づけられる(シェーラー, 1927; 1977:59)。精神の中心には「人格」が据えられ、この人格は自己を含めて他者のそれを客体化することはできない。あらゆる対象化作用と対極の働き、他者の人格の自由な諸作用に「遂行をともにするかまたは追遂行する」ことによって、言葉を換えれば自らを「同一化する」ことによってのみ関与が可能とする(シェーラー, 1927; 1977:60)。しかしながら、この哲学的人類学を今日の地球環境問題に適用した場合、一つの疑問が浮かぶ。それは、人間以外の生きものに固有の環世界を措定し主体性を仮定するのであれば、倫理的意味で、どこまで人間による生きものへの対象化が許されるのか、あるいは同一化ができるのか、ということである。これについては本論の主旨から外れるので、更なる議論をここでは行わない。
いずれにせよ、シェーラーの言う「世界開在性」は人間と他の生きものの差異を明示するうえでの認識図式として有用にほかならない。こうした差異をより深く理解するうえで、木田(2004b)はメルロ=ポンティを参照しながら、環世界とシグナル、世界開在性(および世界内存在)とシンボルを対としてとらえる視点5)、そして人間のもつシンボル化能力とハイデガーの「時間性」という概念を接合させてみせる。端的にいえば、シグナルとは「行動を命ずる手段」でありシンボルは「思考の道具」であって、前者は「事物を指示する」もの、後者はここにないものを「思い起こさせる」「引き合いに出す」際に機能するものである(Langer, 1942: 1976, 31、63)。
いわばシグナルを足場にしてさらに高次な記号であるシンボルを形成することが可能になるのは、人間が他の動物のように現在与えられている環境世界(環世界;Umwelt)にのみ生きることをやめ、そこにあるズレを生じさせ、過去とか未来と呼んでよい新たな次元を開くことによってである。ハイデガーは、現存在がこのように〈現在〉のうちにあるズレを生じさせ、〈過去〉と〈未来〉という次元を開き、そこに生きることを〈おのれを時間化する〉と呼び、そうした人間特有の在り方を〈時間性〉と呼んでいる。(木田, 2004b:82, カッコ内は筆者が記した)
ここで本節の冒頭で示した問い――なぜ、人間は自然から解き放たれ、自然と対峙するようになったのだろうか――に立ち戻るなら、二つの側面が浮かびあがる。一つは、人間は精神の力によって「世界開在的」に、つまり眼前の「環世界」に繋縛されず自然(ありとしあらゆるもの)を対象化する術を手にしたこと、そしてもう一つは、現在のうちに「ズレを生じさせる」ことにより過去、未来の時空を、主題を自由に切り替えて(心的経験として)行き来する力、つまり「時間化」を基礎とする「シンボル化能力」をつうじてより高次の開かれた「世界」に現存在として――自らの内部から自分を経験する人間として――生きること、これらにより自然から解き放たれ自然を超えでるようになったと理解できそうである。そこで次の提起(proposition)を示す。
Proposition 2: 人間は精神の力によって環世界に繋縛されず自然(ありとしあらゆるもの)を対象化する術を手にし現在、過去、未来の時空を、主題を自由に切り替えて行き来するシンボル化能力をつうじてより高次の開かれた世界に生き、自然を超えでるようになった。
それにしても、人類誕生からおよそ200万年、農耕・牧畜の開始から1万年余の歳月が経過したなかで、なぜ20世紀にいたって人間が「自然を超えでる」ことが意味をもつようになったのだろうか。そこで、次節では思想(哲学)と自然、科学技術との関係をみる。
ここでは前半でProposition 3:「自然と人間の関係の現状」について、後半でProposition 4:「自然と人間の関係の未来」について、本稿の仮定を示す。
科学哲学者の村上(1986:134)によれば、たとえばガリレオ(Galileo Galilei)、デカルト(Rene Descartes)、ニュートン(Isaac Newton)などの自然科学の基礎を築いた人々の仕事を調べてみると、「自然科学的な知識はそのまま哲学的知識なのであり、哲学的知識はそのまま神学的知識であった」。自然現象の背後の秩序や法則を読み取ることは神の人間に対するメッセージを受け取ることであり、ひいては神の計画に人間がふれることというように、科学と哲学、神学はもともと一体化していたが、産業革命の終息(19世紀後半)以降、自然科学の制度化による独立、自立が現れたという。超自然的原理・思考(哲学、「つくられてあるもの」)を母胎として産声をあげた科学技術はその手を離れ、自己目的化への傾斜が産業革命を機に生じたことになる。科学技術に基づく人工システムの方向性と進度、そしてわれわれ一人一人が眼の前にある人工システムを利活用する度合いについて、いわばかつて哲学や神学が果たしていた「目安」を失っているなかで科学技術は産業革命以降、20世紀に入って急速に進展してきたということであろう。
では、20世紀の先進国における科学技術の「目安」に代わるものとは何であろうか。多様な見解がありうるなかでも、産業革命とともに進展した資本主義が担ってきたといえるだろう。そして今日、欧米なかでも米国の主導する新自由主義、市場原理主義6)を思想(哲学)に代わる「目安」としてきたようにみえる(e.g. , 伊丹, 2008; 宇沢, 2017)。ここで前述のシェーラーの「世界開在性」に重ね合わせるなら、今日の自然を超え出たはずの人間は、動物が自らの「生現実」にあまりに固着し巻き込まれているために環世界の内に忘我的に没入し「繋縛」されているように7)、市場原理主義の基底にある消費(欲望)という生現実のもと、自己目的化した科学技術が織りなす人工システムという「環世界」のうちに「繋縛」されているといえるのではないだろうか。端的に言えば、自然と人間との関係を修復するための脱炭素という課題への対処が、長期的関係よりも短期的な利益を生む機会の新たな探索と、最新の科学技術への置換として現れていることが一つの証左である8)。このことは、かつてサイモン(Herbert Simon)が提唱したように価値前提を捨象したもとで経営体の事実前提のみに注目する意思決定――手段としての効率性・合理性から目的を導く――を満たすよう科学技術、それを基礎とする人工システムと市場原理主義が織りなす「閉じた世界」のなかで、今日の多くの経営体は「閉鎖的」に適合し環世界を再生産・強化しているようにみえる。一消費者の日常からすれば、「カンタン、ベンリ、オトク」という手段選択のうちに無意識的、忘我的に行為を拘束される、このような私を含めた現代人の心的状態は次の図式によって「提起」される(3式)。
Proposition 3: M (man) ⇆ W (world≒artificial system) 3式
ところで、文明を多少なりとも巻き戻すことを考えたとき、われわれを既に覆いつくし支配している人工システムを、そもそも部分的にせよ放棄することは可能なのだろうか、という疑問が頭をもたげる。たとえば、倫理的是非を問う声は上がりながらもAIをはじめとするDXを喧伝する現代の科学技術および政策、高度な情報通信インフラストラクチャーについて、その方向性と進度、そしてわれわれ一人一人が眼の前にある人工システムを利活用してきた経験・知識をリセットすることはそもそも可能なのだろうか。既に動き出してしまっている科学技術の「進歩」のベクトルに制約を課すことは現代のわれわれにとって、そもそも善き選択なのだろうか、と9)。このような現代の人工システムの不可逆性という制約を考慮するなら、いかなる未来が描けるのだろうか。英国の生態学者、トーマス(Chris D. Thomas)は科学技術の不可逆性をポジティブにとらえながら、自然と人間を次のような関係においている。
ヒトという種は自然に進化したのだから、人間は自然なもののはずだということを私たちは知っている。私たちは
自 然 の 一 部 で あ る 。これを受け入れると、「人間は自然を自然でなくしている」という見方は、「自然は自然を自然でなくしている」といっているのと同じである。これは意味をなさない。(Thomas, 2017:206, 訳267.傍点は筆者が記した)
そして、こうも言い換える。
人類は地球のシステム内で自然なものであり、そのため私たちが行うこと(行ってきたこと)も生命の進化の歴史の自然な部分10)であるということだ(Thomas, 2017:230, 訳299, カッコ内は筆者が加筆)…世界を自然でないものにするかもしれないと恐れることなく、機能する地球を未来の世代に確実に渡すために大胆になって利用できる技術やそのほかの戦略を何でも用いればよい…哲学的4原則――「よい」変化を受け入れ広める、柔軟性を維持する、人間の行動は自然なものであるから利用できる手段は何でも使う、この惑星の範囲内で生きる――を合意された現実的な戦略と行動に代えること…(Thomas, 2017:230, 訳299)
トーマスの認識図式からすると、そもそも人間の造り出した人工システムも生態系システムの一部ということになる。つまり人工システムはいかに巨大化、肥大化し自然を凌駕し敵対し破壊しているとしても自然、すなわち地球という惑星の生態系システムにあくまで包摂されているというのである。このようなトーマスのとらえる未来は、科学技術とこれによって下支えされる人工システムを「この惑星の範囲内で生きる」という限界内(sup (world))という注釈付きで、無限大に活用すべきというとらえかたである(4式)。
M (man) ➝ W (world ≒ artificial system) ➝ ➝ sup (world) 4式
確かに彼の言説のとおり、人間がどのような選択によって自然を利用するかという問題も地球46億年の歴史のなかで、自然のうちに内蔵する運動の原理にしたがって生成・消滅するプロセスの一つにすぎなのかも知れない。したがって本稿の扱う超自然的原理・思考(「つくられてあるもの」)と自然的原理・思考(「なりいでてあるもの」)という二つの自然観に照らし合わせるなら、一見すると彼の認識図式は後者に近似するようにみえる。なぜなら、人工システムを含めた自然をあるがままに受け入れようとするからである。しかしながらThomas(2017:219)は、「人間は新しい自然界の秩序の一部である」ことを強調しながら人工システムの限界(sup (world))を人間が設定しうる(予測しうる)と仮定しているようである。このことは、世界は人間によってコントロール可能なもの、鳥瞰できるもの、ととらえている点でむしろ超自然的原理・思考の極に立つものと思われる。その際、人工システムの進度と利活用を制御する、いかなる科学技術の「目安」、つまり思想(哲学)あるいはそれに代わるものが担保されるのだろうか。現行の市場原理主義のもとで地球環境問題は深刻化しつつある(宇沢, 2017)。いささか人間の生現実としての消費(欲望)を甘く見てはいまいか。科学技術によって下支えされた人工システムについて楽観主義的ではないだろうか。
ところで、20世紀のハイデガーやメルロ=ポンティなどに受け継がれた「反哲学」(自然的原理・思考)の源流の一つとして木田(2000)は19世紀のマルクスによる『経済学・哲学草(手)稿』を挙げている。同書は主としてアダム・スミス(Adam Smith)に代表されるイギリス古典経済学とヘーゲル哲学を批判的に取り込みつつ、唯物論と観念論を統合する自然主義(人間主義)を提唱するものであり、1920年代まで遺品とともに陽の目をみずエンゲルス(Friedrich Engels)やレーニン(Vladimir Lenin)によって「歪められることもなかった」若きマルクスの独自思想を読み取ることができるのだという(木田, 2000:198-199)11)。そこでは「人間は自然の一部である」という先のトーマスが借用した文言の原意がみてとれる。
人間は自然を原材料にして生きている――つまり自然が彼の身体である――そして死にたくなければ、自然とのたえざる対話を維持しなければならない。人間の物質的生活と精神的生活が自然と結びつけられているということは、たんに自然が自然自身に結び付けられているということを意味するにすぎない。なぜなら、
人 間 は 自 然 の 一 部 で あ る から(Smith, 2001:115, 訳225.傍点は筆者による)12)
マルクスは「人間は自然の一部である」という人間と自然との関係を「類的存在」(Gattungswesen)とも換言する(木田, 2000:206)。ここでの「類的存在」「類」とはどのような意味をもつのか。マルクス研究を基礎とする哲学者の解釈をここで参照する。
そもそもマルクスが当初用いた「類的存在」という文言はフォイエルンバッハ(Ludwig A. Feuerbach)から「借りてきたもの」(城塚, 1970: 111)であって類的本質(人間性)が「類」としての人間に存すること、さらには、個人として有限の人間も「類」として無限であり完全となる、そうした文脈で用いられていたという。つまり、あくまで人間同士が織りなす協働の普遍化に焦点が当てられていたようである。ところがマルクスはそうしたフォイエルンバッハの非歴史的で抽象化された類的存在(本質)を足掛かりとしながらヘーゲルの「類」概念を引き継ぎ、歴史を背負い実存する人間と歴史をもった全自然13)との関係として、つまり人間のみならず人間と全自然の「種属」との関係、さらに「種属全体」の生命が「個」へと分裂しその個々の形態が再び「種属全体」に統合されるという「全体と個との統一」という「運動(活動)」(城塚, 1970: 311)そのものを意味する概念へと拡大していく。このことは、自然と人間は不断の動的関係において結びついていることを示すものである。
また「人間は類的存在である」こととは、フランクフルト学派のマルクーゼ(1968: 30-32)によると、「かれ」は自身の「類」つまり人類を対象としてもつのみならず、人間以外のすべて(全自然)を「類」として、つまりそれぞれの「血統や起源にのっとった形で存在する」ものをその「一般的本質」にかなったものとして手に入れ受け入れることができる、対象としてもつことができることを意味するという。このことは、「かれ」があらゆる全自然のなかに潜む「可能性と本質」をつかみ、その「固有の尺度」にあわせて生産することができること、対象の可能性と本質に対して自らの態度をとりうる能力を前提としていること、その能力のなかに「人間特有の自由の基礎」、「自己実現の基礎」があることにつながる。「類的存在」とはマルクスの言う「労働」の基礎となるとともに、全自然が対象化されうるという意味で人間の生産活動の「普遍性」をも示す。そして動物が特定の欲求と対象に制約されているのに対し、人間は「直接的な欲求の対象として」のみならず人間の労働という「生命活動の環境として」全自然を手に入れ再生産しうるという点で普遍的という。そこでは、自然と人間の関係は次のように「統一」される(マルクーゼ, 1968: 34)。
…人間が自然の
な か に 存在するわけでもなければ、また自然が人間の外 的 世界であって、人間は自己の内面性のなかからぬけでなければならないときはじめてそれに接するというわけでもなく、むしろ人間が自然なのであ る 。自然は人間の「発現」であり、「かれの制作物であり、かれの現実」である。自然が人間の歴史のなかでみいだされるときつねに、それは「人 間 的 な 自然」であり、また人間の側からみれば、かれはたしかに「人間的な自 然 」だといえよう。
ここでマルクスの自然主義は重要な示唆を与える。本稿で注目する自然は彼の言う人間を除く「全自然」に含まれるものといえるが、あくまで抽象化された人間一般ではなく実存としての「かれ」との関係にあること、そして「自然と人間と歴史」は複雑に絡み合い不可分であること、対象化活動(労働)としての人間の能力の普遍性と連結していることを前提としているからである。本稿で扱ってきた超自然的原理・思考(「つくられてあるもの」)と自然的原理・思考(「なりいでてあるもの」)という二つの自然と人間との関係に照らし合わせると、マルクスの自然主義は一見すると前者に近似するようにもみえる14)。しかしながら木田(2000:210-211)は、「マルクスの言う「自然主義」も「唯物論」も「生きた自然」の概念の復権による形而上学克服の一つの試み」という反哲学(自然的原理・思考、なりいでてあるもの)の思想史の一部を成すものとし、そこに現れる自然は「(哲学が前提とする)無機的物質などではありえず、(反哲学が前提とする)生きた自然と考えざるをえない」(カッコ内は筆者が記した)と断じている。このことは既にみたように、全自然は人間と切り離されたものではなく実存としてのいまここにある「かれ」にとって歴史としての自然であって、人間と全自然は不可分の関係にあることに木田元は「生きた自然」、反哲学の源泉をみているということかも知れない。
マルクスの言う全自然は人間と切り離された単なる対象物ではなく、人間の本源的生である「労働」15)「生産すること」と不可分の関係にある。その際、「かれ」という実存としての人間は全自然という対象物のなかに潜在的な「可能性と本質」をつかみ、全自然の本質に「かなったものとして」、その「固有の尺度」に応じて働きかけ、自らの態度を選択する。もっとも物質面での人間と精神面での人間を、労働をつうじて結びつける役割を果たすはずの「生きた自然」も、「疎外」によって人間との「類的」関係が崩れ人間と衝突する。特定の歴史的社会的条件(私有財産制度・資本主義社会)のなかでは人間の「対象化の活動」が「外化=疎外」の活動へと変質する、つまり「対象の産出が対象の喪失となる事態である疎外」(城塚, 1970: 315)に陥る。マルクスがとらえる疎外には生産物や労働行為に加え、全自然を含めた「類的存在」からの疎外が挙げられている。このような「疎外された労働」は全自然を人間の「個人的生存の手段」(マルクス, 1963:108)、つまり木田(2000)の言う「無機的物質」に貶めてしまう。もっとも、疎外論から社会体制の変革へとマルクスの議論が展開されるものの現実へと結実しないことは周知のとおりである。
このようにしてみると、自然と人間との関係の変容とは「疎外(外化)」に起因するもの、自然と人間との「類的」関係の喪失にあるとみることができるのではないだろうか。そして「文明の進み具合を巻き戻してやる」こととは、両者の「類的」関係を取り戻すことといえる。したがって、今日の深刻な地球環境問題に対峙するには、生態系システムと人工システムを含めた全自然の「可能性と本質をつかみ」、その「本質にかなったものとして」、全自然の「固有の尺度に応じて」、人間は態度を選択すべきということである。このことは、冒頭での立花(1971;2020)の言う生態学的(自然の全体性を考慮し自然に沿ったかたちでの)思考と重なるようにみえる。そして、これらを満たすような思想(哲学)によって「自然と折り合いをつける」可能性は見出しうる。ここでマルクスの認識図式をもとに人間と全自然(∀)の相互関係を、先のトーマスの言う地球の限界(sup (world))を考慮しつつ提起するなら(5式)として表すことができる。
Proposition 4: M (man) ⇆ W (world =∀) ➝ ➝ sup (world) 5式
ここで、本稿の「自然と折り合いをつける
経営学理の方向性として木田(2007:53)は、丸山眞男の日本の社会思想の変遷を引きながら、経営体と自然との関係について、「つくられてある」こととゲゼルシャフト(作為的集団)、「なりいでてある」こととゲマインシャフト(自然的感情に基づく共同体)をそれぞれパラレルなものととらえる視点を残している。このことは、もともとゲゼルシャフトとして立ち上がり発展してきた「経営体」にゲマインシャフトとしての「自然的共同体」の要素を注入する(両者の要素の配合の度合いを調整する)ことによって、それぞれの経営体が自然と折り合う道筋を見出せるのかも知れない16)。共同体としての企業経営については、言うまでもなく日本的経営論で豊富な蓄積があり(たとえば間(1986)の人間主義)、周知のように日本の経営学の「骨」として位置付けられるドイツ経営学、たとえばニクリッシュ(Heinrich Nicklisch)の共同体論がある。アメリカ経営管理学全盛の今日にあって懐古主義とのそしりを受けるのかも知れないけれども、伝統的、古典的経営学は今日の自然と人間の関係ひいては自然と折り合いをつける経営の基礎となりうるのではないか。
本稿は、自然および自然と人間との関係を、限られた範囲にすぎないけれどもいくつかの思想を拠り所にし4つの提起(proposition)を積み上げつつ整理した。本稿の経営学への極めて小さな貢献として挙げるとすれば、「人新世」「資本新世」17)といった地質学的時代区分が取りざたされる今日にあって、生態系システムの損傷は経営体にとっての収益性を左右したり資源調達に影響を及ぼしたりするといった近視眼的な経済合理性への影響のみならず、経営体そのものの存続を左右する巨視的な課題となりつつあるとの問題を提起した点にある。そして今日の地球環境問題の本質には、哲学を母胎としながら自己目的化した科学技術、これを基礎とする人工システムの方向性と進度の「目安」を失っていることが仮定されること、人間の造り出した人工システムも「全自然」であって生態系を含め、それぞれの「固有の尺度にあわせて」実存としての「かれ」として人間は「類的」関係を取り戻すべく態度を選択すべきこと、その際、哲学(超自然的原理・思考(「つくられてあるもの」)と反哲学(自然的原理・思考(「なりいでてあるもの」)との調和を図ることの重要性を示唆した。
CSR論あるいはサステナビリティ論では、既に社会と経営体との関係を取り扱う研究が学理としても実践論としても豊富に蓄積されている。そこでは、地球環境問題(地球温暖化、廃棄物、生態系の多様性、化学物質管理などの諸問題)について幅広い議論と解決策の提示もみられる。しかしながら、多大な影響力を社会のみならず自然に対してもち、現行の社会経済システムを再生産する経営体を扱う学理では、さらなる領域横断的に自然をとらえる視点が求められているのではないだろうか。本稿はこうした期待に応えるものである。しかしながら限られた範囲での思想(哲学)に焦点をあてた規範論であることから、科学的実践の期待に応えられていない、あるいは重要な自然に関係する思想を取りこぼし、焦点をあてた思想そのものも深さに欠けているかも知れない。これらに今後の課題がある。
本稿の構成にあたっては2名の匿名レフェリーの先生方にたいへん建設的なコメントを多々頂戴した。そして本稿の原点については東京大学名誉教授の塚本明子先生から貴重な示唆を頂いた。ここに記して、心より感謝申し上げる。なお、本研究は科学研究費補助金(24K05064)の成果の一部である。